コンテンツにスキップ

プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。男梅 (会話 | 投稿記録) による 2018年12月9日 (日) 16:01個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (独自研究的な記述を削除、文章を整理。)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

プリンス・オブ・ウェールズ
艦歴
建造 キャメル・レアード社
起工 1937年1月1日
進水 1939年5月3日
就役 1941年1月19日
その後 1941年12月10日戦没
除籍 1941年12月10日
性能諸元
排水量: 基準:36,727トン 満載:43,786トン
全長 227.1m 225.6m(水線長)
全幅 31.4m
吃水 10.8m
機関 蒸気タービン4基4軸 125,000馬力
最大速 28ノット(1941年公試時)
航続距離 3,100カイリ(27ノット時)
乗員 1,521名
兵装 竣工時:
35.6cm4連装砲塔2基
同連装砲塔1基
13.3cm連装両用砲8基
40mm8連装ポムポム砲4基
40mm単装機銃1基
17.8cm20連装UP発射機3基
カタパルト1基

~1941年:
35.6cm4連装砲塔2基
同連装砲塔1基
40mm8連装ポムポム砲4基
40mm4連装ポムポム砲2基
40mm単装機銃1基
20mm単装機銃7基
カタパルト1基
レーダー 竣工時:
281型 1基
279型 2基 (対空警戒)
284型 1基 (射撃管制)

~1941年:
271型 1基 (水上警戒)
279型 2基 (対空警戒)
282型 4基
284型 1基 (射撃管制)
285型 4基 (対空射撃管制)

プリンス・オブ・ウェールズ (HMS Prince of Wales) は、イギリス海軍戦艦キング・ジョージ5世級の2番艦。35.56 cm(14インチ)砲を4連装2基(前部、後部に各一基)連装1基(前部に配置)の10門装備が特徴。艦名は当時の国王ジョージ6世の兄王であるエドワード8世の即位前の称号、王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)に由来する。ビスマルク迎撃作戦や地中海輸送掩護で活躍した後、マレー沖海戦で沈没した。

艦名の由来

イングランドには伝統的に国王が即位後の最初の戦艦には、国王の名前を付ける慣習があった。当時の国王はジョージ6世であったために、当然同級の1番艦はキング・ジョージ6世となるべきであった。しかし父のジョージ5世の治世の間はワシントン軍縮条約によって戦艦が建造されなかった。また先王である兄エドワード8世は世紀のスキャンダルといわれた王冠を賭けた恋により自ら退位しており、短い治世の間にその名を付けた戦艦は建造されなかった。そこで、父王の名前が1番艦に名づけられキング・ジョージ5世となり、兄王はジョージ5世時代の称号である王太子プリンス・オブ・ウェールズとして2番艦に命名された。ジョージ6世自らの名前は、即位前の称号であるヨーク公爵として3番艦デューク・オブ・ヨークに残されている。

艦歴

プリンス・オブ・ウェールズはキャメル・レアード社バーケンヘッド造船所にてワシントン海軍軍縮条約明け直後の1937年1月2日に建造を開始し1939年5月3日に進水、艤装途中の1940年8月にはドイツ空軍の攻撃を受けた。1941年1月19日にジョン・リーチen:John Leach (Royal Navy officer))艦長の指揮下就役したが、3月31日まで完成しなかった。

プリンス・オブ・ウェールズはチャーチル首相のお気に入りであり、就役直後は「世界最強」とチャーチル首相に言わせた戦艦であった。完成が遅れ十分な訓練が出来ないまま第二次世界大戦に投入されることになる。

1941年5月24日に最初の戦闘に遭遇した。通商破壊を目論んでライン演習作戦大西洋に進出してきたドイツ海軍戦艦ビスマルク重巡洋艦プリンツ・オイゲンを、デンマーク海峡で巡洋戦艦フッドとともに迎え撃ち、砲撃戦を行った。この海戦でフッドがビスマルクの砲撃を受け、轟沈してしまった。プリンス・オブ・ウェールズも最初の斉射を放った直後にA(1番)砲塔が故障したが、第3射がビスマルクの燃料タンクとボイラー室に損害を与えた[1]。しかし、操舵艦橋に被弾したため退避した。リーチ艦長は無事であったものの航海長が戦死した[2]。司令官のホランド中将が戦死したためウォーカー少将の指揮下に入ったが、5月25日に燃料不足のためビスマルク追跡を打ち切った[3]。その後、本国のロサイスに戻ったプリンス・オブ・ウェールズは6週間に渡る修理を行った。

プリンス・オブ・ウェールズは大西洋を渡り、チャーチル首相ら一行を乗せてニューファンドランド・ラブラドール州アルゼンチン沖に到着、8月10日からアメリカルーズベルト大統領との会談が始まり、12日にプリンス・オブ・ウェールズの艦上で大西洋憲章が締結された。9月、プリンス・オブ・ウェールズは地中海で、マルタへの船団を護衛するハルバード作戦に参加した[4]。この作戦中、プリンス・オブ・ウェールズは味方のフルマー戦闘機を2機撃墜してしまっている[4]

東洋艦隊派遣

シンガポールに到着したプリンス・オブ・ウェールズ

10月25日にチャーチル首相の強い要請で、今後予想される日本軍南下の抑止力として、プリンス・オブ・ウェールズの派遣が決定された。11月28日にはコロンボに到着し、12月2日にはレパルスと共にイギリスの植民地であり、海軍の拠点であるシンガポールへ到着した。東洋艦隊の旗艦としてトーマス・フィリップス中将の指揮下に入った。空母インドミタブルが合流する予定であったが、ジャマイカを出港直後に座礁したため合流できなかった[5]。それに代わる空母ハーミーズも速力が足らず配備されなかった[6]

東洋艦隊がこのような最新戦艦を持つことは前例がなく、ドイツとヨーロッパで戦争遂行中に、開戦間近と見られていたとはいえ主力艦を東洋に回航したのは相当な意味があった。チャーチル首相とイギリス軍は同艦及びレパルスにより、イギリスの植民地であるマレー半島やオーストラリア、さらには当時イギリス軍が制海権を持っていたインド洋への日本軍の侵攻を阻止または断念させる事を目的としていたのである。その観測の根拠はそれほど的外れなものではなかった。チャーチル首相はビスマルク1隻でイギリス海軍が翻弄され、さらにティルピッツ1隻が大きな戦略上の障害になっていることを説いた[7]

開戦直前の時点で英国側は、プリンス・オブ・ウェールズの性能は、日本海軍が有する長門級を除いた全ての戦艦に対して(大和は英国側は未確認だった)明らかに優越しており、長門型や伊勢型はアメリカの太平洋艦隊の主力戦艦部隊に対抗させるため分離派遣が出来ず、対抗できる日本側の戦艦戦力は存在しないと考えていた。また日本海軍の重巡洋艦程度の砲撃力では、プリンス・オブ・ウェールズに対抗出来ないと想定され、日本軍の陸上部隊の輸送には対抗上、戦艦の護衛が必須と思われ、これを調達出来ない日本軍はマレー半島での作戦遂行が著しく困難になる筈と考えられていた。

何よりも当時の常識では行動中の新式戦艦が航空機に撃沈された事例は無かったのである(山本五十六でさえ「レパルスはやれるがプリンス・オブ・ウェールズは無理だろう」とマレー沖海戦時に語っている[8])。

一方で、この方面の攻略を担当した近藤艦隊(第二艦隊)は金剛級高速戦艦2隻(金剛榛名)を中心としていたが、昼間砲撃力ではイギリス東洋艦隊に明らかに劣り、夜戦に活路を見出すしかないと思われていた。ただし、日本軍が特に警戒していたのはプリンス・オブ・ウェールズよりもむしろ38cmをもつレパルスによるアウト・レンジ砲撃であった。(実際には仰角の違いから主砲の最大射程はレパルスより金剛型戦艦の方が大きい。) また宇垣纏連合艦隊参謀長は『吾人の眼よりせば茲に飛び込むは我潜あり、機雷あり、大巡数隻水戦あり、加ふるに高速戦艦二隻ある上、南部佛印に我攻撃機隊の相當優勢なるものあるを知るや知らずや、無謀と云はざれば其の傍若無人振りを賞すべきなり』と余裕を持っている[9]。英戦艦2隻は、まさに『鴨がねぎを負って現れたる海戦を何と命名するや』という馬来沖海戦に臨むことになった[10]

最期

マレー沖海戦で日本軍機の攻撃を受け回避行動を行うプリンス・オブ・ウェールズ(画面左前方)とレパルス(画面左後方)。

太平洋戦争開戦直後の1941年12月10日、日本軍の上陸を阻止するため出撃したプリンス・オブ・ウェールズは日本海軍航空機(九六式陸攻一式陸攻)の雷撃及び爆撃により、僚艦のレパルスと共にマレー沖にて沈没した。

第2波空襲開始早々に推進軸付近に命中した魚雷により推進軸が捩れ曲がり、回転するタービン・シャフトの先端が隔壁を連打して破壊した[11]。プリンス・オブ・ウェールズはこの致命的な損傷により大浸水を生じ、同時に操舵不能となり、冠水により発電機が故障したため電力も落ちて後部にある4基の13.3cm連装両用砲と舵機が使用不能になった。速力が低下し、傾斜して両用砲の運用が困難になり、舵も効かなくなった同艦は第3次空襲で相次いで魚雷を受け、回避運動も対空射撃もままならなくなった状態で水平爆撃を受け500キロ爆弾が命中、合計6本の魚雷と1発の爆弾を喫した。13時15分に総員退去が命じられ、13時20分に転覆、沈没した[11]。フィリップス中将とプリンス・オブ・ウェールズのリーチ艦長を含む数百人が艦と運命を共にした。

これ以前の空母艦載機によるタラント空襲や、3日前に同じ日本軍の航空機によって行われた真珠湾攻撃では、「停泊中」の戦艦が航空攻撃により沈められ、サラミス湾空襲では作戦行動中の戦艦が航空攻撃で沈められたりしているが、これらは港に停泊中を奇襲され充分な対応ができないうちに被害を受けたり、旧式化した練習戦艦が被害を受けた結果であった。だが、マレー沖では充分な装備を持ち、万全の準備を行っていた「行動中」の新式戦艦が航空機の攻撃だけで撃沈された。対空砲多数を装備した新式戦艦でも航空機の攻撃には勝てない事が明らかとなった。

宇垣連合艦隊参謀長は『極東艦隊司令長官旗艦として急遽回航せる計りの最新鋭艦も其の無暴なる行動に依り脆くも飛行機の為に海底の藻屑となる』『昨日来の経過は確に航空機の威力を確認せざるを得ず。嘗てはビスマークを葬るに参加せる新鋭の本戦艦も案外防禦力薄弱にして、獨の復讐江戸の讐を長崎にて打ちたる格好となれり』と感想を述べている[10]

戦略的には、最大の障害と見られた東洋艦隊主力が壊滅したことは、日本軍のこの方面における作戦展開に非常に大きな意味があった[12]。 プリンス・オブ・ウェールズの撃沈の報告を聞いたイギリスのチャーチル首相は絶句し「戦争全体でその報告以上に私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」と著書の第二次世界大戦回顧録で語っている。一方、参謀総長杉山元陸軍大将)から報告を受けた昭和天皇は「ソレハヨカッタ」と喜んでいる[12]軍令部でもシャンパンで祝杯を挙げたという[12]。また翌日、プリンス・オブ・ウェールズを撃沈した航空隊員の1人である壱岐春記大尉は搭乗機で現場を訪れ、命を落とした乗組員の鎮魂のために花束を投下した。

海底のプリンス・オブ・ウェールズと違法サルベージ

沈没地点 北緯3度33分36秒 東経104度28分42秒 / 北緯3.56000度 東経104.47833度 / 3.56000; 104.47833は比較的浅い海(水深68m)であり、レパルスほどではないにしてもプリンス・オブ・ウェールズも比較的到達容易な水深に沈んでおり、晴天時には海面から船体が確認できるほどである。プリンス・オブ・ウェールズを海の藻屑とした宇垣参謀長は『否水深三〇米引揚は極めて容易、我戦艦籍に二隻を加ふるも近き事なるべく藻屑とならざるべし』として、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの浮揚および日本戦艦籍編入をねらっていたが、結局は実現しなかった[10]軍令部でも引き揚げを狙い、サルベージの派遣手続きを取っている[12]

船体は完全に転覆した状態で沈んでおり、舷側には大小4箇所の破損穴が海底調査で発見されている。船首部の破損穴は完全に貫通している。また右舷外側スクリューシャフト基部の破損穴は500キロ爆弾の爆発によって生じた可能性があると海底調査では記載されている。海底調査は2回実施されており、最近の調査では破損穴の1つが土砂で埋まっており観察できない状態になっていることが報告された。沈没時に弾薬庫の誘爆がなかったので、船体には大きな損傷は認められていない。

日本軍の戦闘報告では魚雷命中数は6本以上となっているが、海底調査での破孔の数との乖離は、爆弾の至近弾の見間違えや同一命中を複数カウントされているためで、ドイツの戦艦ビスマルクの船体調査でも同じ事が報告されている。

2014年5月26日に何者かによる違法サルベージにより破壊行為を受けていることが報じられた。爆発物を船体に取り付けて破壊し、破片をクレーン船で引き上げるという手法で鉄屑が回収されていた。

ギャラリー

脚注

  1. ^ Garzke, p. 179
  2. ^ Garzke, p. 180
  3. ^ Barnett, p. 297-299
  4. ^ a b Jack Greene and Alessandro, pp.181-191
  5. ^ Chesneau, p. 12
  6. ^ HMS Hermes, British aircraft carrier, WW2, Naval-History.Net, http://www.naval-history.net/xGM-Chrono-04CV-Hermes.htm 2010年1月27日閲覧。 
  7. ^ M.ミドルブルック「戦艦」早川書房 1979
  8. ^ 阿川弘之「山本五十六(下)」新潮文庫 ISBN 978-4-10-111004-2
  9. ^ #戦藻録(1968)39頁
  10. ^ a b c #戦藻録(1968)42-46頁『十二月十日 水曜日 雨 (X-2) アバリ、ビカン上陸成功。馬来沖海戦。特別攻撃隊。ギルバート占領』
  11. ^ a b Chesneau, p. 13
  12. ^ a b c d #高松宮日記3巻333-334頁

参考文献

  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年1月。 
  • 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第3巻 昭和十五年~十六年』中央公論社、1995年11月。ISBN 4-12-403393-1 
  • Barnett, Correlli. Engage the enemy more closely: the Royal Navy in the Second World War. New York: W.W. Norton, 1991. ISBN 0-39302-918-2
  • Chesneau, Roger, ed (1980). Conway's All the World's Fighting Ships 1922-1946. Greenwhich: Conway Maritime Press. ISBN 0-85177-146-7.
  • Garzke, William H., Jr.; Dulin, Robert O., Jr. (1980). British, Soviet, French, and Dutch Battleships of World War II. London: Jane's. ISBN 1-7106-0078-X.
  • Jack Greene and Alessandro, The Naval War in the Miditerranean 1940-1943, Chatham Publishing, 1998, ISBN 1-86176-190-2
  • 世界の艦船増刊第67集

関連項目

外部リンク