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栗山久次郎

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栗山 久次郎(くりやま きゅうじろう、1853年3月16日嘉永6年) - 没年不明)は、日本篤農家[1]政治家東京府荏原郡碑衾村[2][3]地主[4][5]

人物

武蔵国出身。栗山家の長男として誕生した[3]農業を営んだ[2][6][7]。34歳の若さで衾村戸長となり、町村制施行後、碑衾村村長に任命された[3]

自由が丘学園の創立者手塚岸衛の意見に共鳴して自分の土地を貸し、町名も「自由が丘」に決断した[3]。住所は目黒区自由が丘[4]

脚注

  1. ^ 『大日本篤農家名鑑』280頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月29日閲覧。
  2. ^ a b 『日本紳士録 第7版』東京、横浜、神奈川、横須賀等くの部430頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月30日閲覧。
  3. ^ a b c d 熊野神社大祭9月6日にむけて 自由が丘誕生の祖・栗山久次郎翁 遺徳顕彰の碑設立準備すすむ、自由が丘新聞(昭和62年8月5日)。
  4. ^ a b 『日本紳士録 第38版』東京クの部293頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月29日閲覧。
  5. ^ 『日本紳士録 第34版』東京クの部283頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月30日閲覧。
  6. ^ 『日本紳士録 第36版』東京クの部284頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月29日閲覧。
  7. ^ 『日本紳士録 第32版』東京クの部286頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月30日閲覧。

参考文献

  • 『日本紳士録 第7版』交詢社、1901年。
  • 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第32版』交詢社、1928年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第34版』交詢社、1930年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第36版』交詢社、1932年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第38版』交詢社、1934年。

関連項目