内藤忠勝
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内藤 忠勝(ないとう ただかつ、1655年(明暦元年)-1680年7月22日(延宝8年6月27日))は、志摩国鳥羽藩の第3代藩主。第2代藩主・内藤忠政の子。官位は従五位下。和泉守。
兄に内藤忠次がいたが、その兄が後を継ぐことを固辞したため、1673年の父の死去により後を継いだ。1680年、第4代将軍・徳川家綱が死去したとき、芝増上寺の葬儀に参加し、警備を命じられたが、普段から仲の悪かった永井尚長が共に警備を務めていた。この葬儀のとき、仲の悪かった永井は連絡を怠って結果として忠勝に恥をかかせたということがあったため、忠勝はこれを恨んで尚長を殺害した。勿論、幕府の裁定により6月27日に忠勝も切腹を命じられ、御家も断絶とされた(芝増上寺の刃傷事件)。享年26。
ちなみに忠勝の死から21年後に同じような死に方を遂げる浅野長矩は、彼の縁者でもあった。