コンテンツにスキップ

池田慶徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。NEON (会話 | 投稿記録) による 2019年10月23日 (水) 16:23個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (106.133.179.115 (会話) による ID:74736527 の版を取り消し)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
池田 慶徳
池田 慶徳
時代 江戸時代末期(幕末
生誕 天保8年7月13日1837年8月13日
死没 明治10年(1877年8月2日
改名 五郎麿(幼名)、昭徳(初名)→慶徳
別名 子明()、省山(
神号 池田慶德命
墓所 鳥取県鳥取市 大雲院
官位 従四位上相模守因幡守左近衛中将
従一位
幕府 江戸幕府
因幡鳥取藩
氏族 水戸徳川家池田氏
父母 父:徳川斉昭、母:松波春子
兄弟 徳川慶篤慶徳徳川慶喜松平直侯池田茂政松平武聰喜連川縄氏松平昭訓松平忠和土屋挙直徳川昭武松平喜徳松平頼之、他
正室寛子池田定保五女・池田清直養女)
輝知
テンプレートを表示

池田 慶徳(いけだ よしのり)は、幕末大名因幡国鳥取藩12代(最後)の藩主、のち鳥取知藩事。鳥取藩池田家宗家14代。

常陸水戸藩主・徳川斉昭の五男で、母は側室の松波春子。15代将軍徳川慶喜の異母兄にあたる。

生涯

斉昭の五男として生まれる。幼名は五郎麿元服して父より偏諱を受け昭徳(あきのり)と名乗る。幼少期の五郎麿(昭徳)について、実父斉昭は「堂上風にて御美男、御品よく、少しく御柔和に過ぎ、俗に申養子向」と評したようである。1850年嘉永3年)10月29日、鳥取藩主池田慶栄が嗣子なくして急死したことから、幕命によりその養子となる。長兄の慶篤(と弟の慶喜)同様、将軍徳川家慶より偏諱を受けて慶徳に改名の上で藩主に就任すると、藩政の改革をするとともに学問の奨励、民意を聞くことに努めた。また、軍制の改革にも力を入れた。水戸思想の元、幕末尊皇攘夷を主張した。1863年2月28日、朝廷から摂海守備総督を命じられて、6月14日に英国船に発砲し、攘夷実行の姿勢を示した。

1868年慶応4年)2月3日、新政府の議定に就任する。翌年5月15日、議定から麝香間祗候にまわされる。また、戊辰戦争では東北地方に出兵している。1869年(明治2年)6月2日、戊辰戦争の戦功賞典として3万石を賜った。同年6月19日、版籍奉還により鳥取藩知事に就任した。1874年(明治7年)7月14日、廃藩置県により免職となった。藩の財政難などのこともあり、藩主の立場にありながら廃藩置県を自ら明治政府に提案した。1875年(明治8年)5月27日、隠居し、次男の輝知家督を譲った。

1877年(明治10年)、肺炎のため神戸で死去した。墓所は弘福寺、1925年(大正14年)に多磨霊園2003年平成15年)鳥取市内の大雲院に移転改葬された。

1907年(明治40年)5月10日、特旨をもって位階追昇される。贈従一位[1]

偏諱を受けた人物

以下は「昭徳」だった時から生涯に使用した「」の字を偏諱として受けた者たちである。うち池田仲諟(清直の兄)の息子2人(徳定と徳澄)に関しては、慶徳の養女を妻としている。

脚注

  1. ^ 『官報』第7157号「叙任及辞令」1907年5月11日。

参考文献

  • 財団法人史跡鳥取藩主池田家墓所保存会/作成『史跡 鳥取藩主池田家墓所』(2006年3月31日刊行)

外部リンク