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奥山玲子

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おくやま れいこ
奥山 玲子
生年月日 (1936-10-26) 1936年10月26日
没年月日 (2007-05-06) 2007年5月6日(70歳没)
別名 おくやま れいこ
出身地 日本の旗 日本 宮城県仙台市
国籍 日本の旗 日本
学歴 東北大学教育学部
職業 アニメーター
版画作家
ジャンル アニメーション
活動期間 1957年 - 2007年
配偶者 小田部羊一1963年 - 2007年
受賞歴
東京アニメアワード 第6回 功労賞

奥山 玲子(おくやま れいこ、1936年[1][注 1]10月26日 - 2007年5月6日[4])は、日本のアニメーター版画作家として活躍した人物である。別名、おくやま れいこ

経歴・人物

宮城県仙台市にて出生[5]。小学生高学年ですでに大人の文学を読み、中学生にかけての時期には兄弟を役者にして、ストーリーと衣装を自作した舞台を毎年2回自宅で開いていた[5]

宮城学院高等学校から東北大学教育学部に進学[4]日本の敗戦で社会の価値観が変わったことから大人に対して反抗的な態度を取るようになり、高校でも変わらなかったという[6]。東北大学への進学は父親の意向だった[6]

大学卒業[4][注 2]後、上京。上京の経緯については、「外国語大学への入学を目指した」という説[要出典]もあるが、叶精二は「どうしても教員になる気にはなれず、家出同然」だったと著述している[6]東映動画への入社の経緯については「もともと絵を描くのが好きだったことから受験までのアルバイトとして新聞の募集広告に応募した」とする説もあるが[要出典]、叶は勤務先のデザイン会社の給与遅配に困っていた折に叔父から紹介された東映動画の募集を「童画」と勘違いして応募したという本人の述懐を自著に収録している[8]。技術を身に着けて面白くなったことで受験を取りやめ[3]、1957年[注 3]に東映動画に入社。叶の著書では、1957年11月16日に「臨時採用」で入社したとしている[8]。奥山の後年の回想では、当時臨時採用者は定期採用者に対して大きな給与格差を付けられ、定期採用者が軽いノルマで定時で帰る傍で臨時採用者は残業を重ねる日常だった[8]。さらに女性に対しては原画への昇格や結婚後の勤務を認めないような風潮があり、奥山は結婚出産後も仕事をすることを決意したという[8]

長編第1作目となる『白蛇伝』に動画として参加[4][9][10]。これ以後東映動画制作の数々のアニメーション映画作品に携わる[11]。『少年猿飛佐助』で第二原画、『安寿と厨子王丸』で原画補を務め、『シンドバッドの冒険』で原画に昇格した[10]

この間の1963年7月7日には同僚だった小田部羊一と結婚(挙式は同年7月7日に国際基督教大学で開催[12])。労働組合結成に際しては、「差別と闘う」ことを目標としていた奥山は積極的に関与し、結成後は執行委員となった[13]

テレビアニメーション作品にも草創期から積極的に関わり、『狼少年ケン』、『魔法使いサリー』、『ひみつのアッコちゃん』(いずれも日本教育テレビ)で作画監督を務めた[11]。この時期、出産休暇を取って復帰した奥山に、会社は契約社員となる提案をしたが奥山が拒否したところ、夫の小田部が(保育所送迎に使う運転免許取得のため)勤務時間中に自動車運転教習所に通ったことを問題視し、解雇通告する事態に発展した[14]。奥山は組合の支援も求め、最終的に降格減給処分で決着した[14]。組合ではこの事件を「小田部問題」と呼んだ[14]

奥山が在籍した東映動画は創立初期から労働争議が絶えず[15]、東映本社では社長の大川博が1971年に逝去し、岡田茂が大川の後任として社長に就任すると[16][17]赤字の膨らむ東映動画は激しい合理化にさらされた[15][17][18]。奥山は従業員の先頭に立って経営陣と激しく対立し、合理化阻止で戦いを挑んだ剛の人でもあった[11][15]。争議に関して和解が成立し、指名解雇者が復帰したことで「区切りが付いた」と、1976年3月31日付で東映動画を退職した[19]

この間の1973年、「北川玲子」の名義で旧虫プロダクション最後の劇場アニメとなった『哀しみのベラドンナ』に原画として参加している[20]。その理由について、自身の志向と東映の作風にずっと違和感を覚えており、虫プロの「大人向けの作品」に羨望を覚え「大人っぽくて毛色の違う作品だから、やってもいいかなと思った」と述べている[20]

東映動画を退職した後、日本アニメーションへ移り、『世界名作劇場』(フジテレビジョン)第2作の『母をたずねて三千里』で作画監督補佐を担当[4]。作画監督補佐に入ったのは、登場人物の多さと主人公・マルコの「悲惨な状況」に肉体的・精神的な限界を感じた小田部(作画監督・キャラクターデザイン)からの要請であった[21]。職場の多忙さから、奥山は子どもの面倒を見られるよう、自動車運転免許を取得している[19]。このあと、日本アニメーションを退き、フリーとなる[19]

フリーとなった後は、小田部と共同の筆名「あんていろーぷ」名義で『龍の子太郎』(東映)などを手掛けた[22]

1985年からは東京デザイナー学院アニメーション科の講師を務める[4][11]

1990年代以後は銅版画作家としても活動し、銅版画によるアニメーション映画『連句アニメーション 冬の日 松尾芭蕉七部集より』(2003年 IMAGICAエンタテインメント)では絵コンテとアニメーション銅版画を担当した[23]

2007年5月6日肺炎により死去[9]。70歳没。訃報は本人の希望により約半年後に伝えられた[4][11][24][25]

2010年3月には、日本のアニメ史において1960年代から1970年代初頭を彩った東映動画の長編劇場アニメにて作画の中心的な役割を担った功績に対し、小田部とともに「東京国際アニメフェア2010」にて東京アニメアワード第6回功労賞が贈られた[26]

銅版画作品を含む『奥山玲子画集 アニメーションと銅版画』がアニドウ・フィルムより2019年8月に刊行予定[9]

夫の小田部羊一がアニメーション時代考証を担当する2019年度上半期放送のNHK連続テレビ小説なつぞら』のヒロイン奥原なつは、亡妻の奥山がヒントになったと小田部は語っている[2]

作品

劇場アニメ

テレビアニメ

出演

映画

著書

画集

  • 奥山玲子画集 アニメーションと銅版画(2019年8月20日発売予定、アニドウ・フィルム)[9]

児童書

紙芝居

共著

刊行文献

  • 『漫画映画漂流記 おしどりアニメーター奥山玲子と小田部羊一 』(講談社、2019年)

脚注

注釈

  1. ^ 1935年昭和10年)生まれとする記述もある[2][3]
  2. ^ 「中退」とする記述もある[2][3][7]
  3. ^ 1958年とする記述もある[2][3]
  4. ^ 喜多真佐武、菊池貞雄、金山通弘との共同ペンネーム・奥多貞弘名義。
  5. ^ 連句アニメーション 冬の日 松尾芭蕉七部集より』と併映された長編ドキュメンタリー。
  6. ^ a b c d e f g h i j k おくやま れいこ名義。
  7. ^ 2001年11月再刊 (ISBN 978-4-8355-2707-9)。

出典

  1. ^ 墓標 : 詩画集 国立国会図書館
  2. ^ a b c d 小田部羊一 (31 March 2019). "朝ドラ『なつぞら』のモデル「奥山玲子さん」を知ってますか?" (Interview). Interviewed by 藤田健次. 講談社. 2019年4月6日閲覧 {{cite interview}}: 不明な引数|program=は無視されます。 (説明); 不明な引数|subjectlink=は無視されます。(もしかして:|subject-link=) (説明)
  3. ^ a b c d 「週刊文春」編集部 (2019年4月7日). “『なつぞら』のモデル・奥山玲子が語った「女性はアニメーターに向いている理由」”. 文春アーカイブス (文藝春秋). https://bunshun.jp/articles/-/11322 2019年4月9日閲覧。 
  4. ^ a b c d e f g 「奥山玲子展“ロンド”〜アニメーションと版画の世界〜」終了 ANIDO
  5. ^ a b 叶 (2004), pp. 89–90.
  6. ^ a b c 叶 (2004), pp. 90–91.
  7. ^ 大山くまお (2019年4月16日). “奥山玲子を通して見るアニメーション業界の黎明期 『なつぞら』奥原なつとの共通点は?”. リアルサウンド 映画部 (blueprint). https://realsound.jp/movie/2019/04/post-348440.html 2019年4月17日閲覧。 
  8. ^ a b c d 叶 (2004), pp. 92–93.
  9. ^ a b c d 「奥山玲子画集 アニメーションと銅版画」出版決定!”. アニドウ. 2019年4月26日閲覧。
  10. ^ a b 叶 (2004), pp. 95–96.
  11. ^ a b c d e 叶精二. “追悼・奥山玲子さん”. 高畑勲・宮崎駿研究所. 2019年3月28日閲覧。
  12. ^ 「週刊文春」編集部. “(4ページ目)『なつぞら』のモデル・奥山玲子が語った「女性はアニメーターに向いている理由」 | 文春アーカイブス”. 文春オンライン. p. 4. 2019年4月8日閲覧。
  13. ^ 叶 (2004), pp. 96–98.
  14. ^ a b c 叶 (2004), pp. 98–100.
  15. ^ a b c WEBアニメスタイル | アニメーション思い出がたり「五味洋子」その42 労働争議の中で - Style.fm
  16. ^ 『クロニクル東映 1947-1991』 II、東映、1992年、54頁。 岡田茂氏死去 東映名誉会長 東映アニメ取締役
  17. ^ a b 氷川竜介; 叶精二 (2017年6月17日). “東映動画の傑作『どうぶつ宝島』を語りつくすトークイベント「このアニメはすごい!」レポート”. 練馬アニメーションサイト (練馬区商工観光課アニメ産業振興係). オリジナルの2017年7月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170702140339/http://animation-nerima.jp/topics/topic-news/4436/ 2019年4月19日閲覧。 
  18. ^ 渡辺泰・山口且訓『日本アニメーション映画史』有文社、1978年、131-132頁。 昭和47年 - WEBアニメスタイル〜歴史からビジネスまで 講演記録テキストシリーズ 歴史編① なぜアニメ産業は今の形になったのか 〜アニメ産業史における東映動画の位置付け〜 山口康男(アニメーション史家) (PDF) 文部科学省 アニメ人材養成セミナー アニメ・マンガ人材養成産官学連携コンソーシアム アニメを教える教員とアニメを学ぶ学生のためのアニメ人材養成セミナー 「日本のアニメを学び尽くす」16-17頁。残された人びと : 「それ以降」の東映動画 千葉大学学術情報リポジトリ CHIBA UNIVERSITY - 千葉大学、154-155頁。文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、24、28-31、156頁頁。ISBN 9784636885194 「映画界東西南北談議 不安定な社会状況に楽観許されず 各社に漂う上昇ムードに全体が活気 新しい企画路線が軌道に乗った東映」『映画時報』1975年4月号、映画時報社、33頁。 岡本明久「東映東京撮影所の血と骨 泣く 笑う 握る」『映画論叢』第36巻、国書刊行会、2014年7月号、69頁。 
  19. ^ a b c 叶 (2004), pp. 110–111.
  20. ^ a b 叶 (2004), pp. 105–106.
  21. ^ 叶 (2004), p. 74.
  22. ^ アニメ様365日 小黒祐一郎 第28回『龍の子太郎』 WEBアニメスタイル
  23. ^ 連句アニメーション 冬の日 松尾芭蕉七部集より - MOVIE WALKER PRESS
  24. ^ Reiko Okuyama Has Passed Away Stadio GHIBLI Official Blog 2017-9-17
  25. ^ Reiko Okuyama passes away Anipages Friday, September 14, 2007
  26. ^ “アニメフェア 功労賞に高畑監督、サンライズ創設者ら”. アニメ!アニメ!ビズ (イード). (2009年12月10日). http://www.animeanime.biz/archives/2400 2019年4月18日閲覧。 
  27. ^ a b 赤星 (1998), p. 222.
  28. ^ 赤星 (1998), p. 223.

参考文献

外部リンク