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大乃国康

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大乃国康(おおのくに やすし、1962年10月9日~)は、大相撲の第62代横綱。本名、青木 康(あおき やすし)。北海道河西郡芽室町出身。天秤座、A型。身長189cm。

中学時代は柔道部に所属。地元に巡業が来た際に土俵に上がったのをきっかけに、当時現役だった魁傑に誘われ花籠部屋に入門(1981年に引退した魁傑改め放駒親方が興した放駒部屋に移籍)し、1978年3月場所で初土俵を踏んだ。1982年3月場所で十両昇進、翌年3月場所で新入幕と順調に出世した。

最も重いときには200kgを超えた雄大な体格で、相手を寄りで圧倒する取り口。189cmという上背を生かした上手投げも武器だった。しかし得意の右四つに組止められないと下位相手に取りこぼすもろい面もあった。

前頭3枚目の1983年11月場所では北の湖千代の富士隆の里の3横綱を破る活躍を見せ、翌年3月場所では3横綱3大関を破った。東関脇で迎えた1985年7月場所で12勝を挙げ大関に昇進。その後しばらく低迷していたが、1987年5月場所に全勝優勝すると、7月場所12勝、9月場所13勝と順調に星を重ねて横綱昇進を果たした。新横綱の場所は極度の緊張からか8勝止まりだったが、横綱3場所目の1988年3月場所で本割と決定戦で横綱北勝海を倒して、2度目の優勝を果たした。しかし千代の富士・北勝海の九重部屋勢の活躍に押され以降の優勝はなかった。この間の大乃国の最大の見せ場は1988年11月場所千秋楽、昭和最後となった一番で53連勝中の千代の富士に土をつけ、歴史的な場面を演出したことだろう。

平成に入ってからは睡眠時無呼吸症候群や、それに伴って体重が増加したことによる脚の故障に苦しんだ。体重の増加は大関小錦に対抗して自ら増やしたらしいが逆効果であった。その為に今度は体重を200㎏台から約20㎏落としたのだが、その方法が稽古ではなく減食によるものであった為に力まで落ちてしまった。1989年前半の5月場所迄は終盤まで優勝を争う活躍ぶりを見せたが、その後又低迷する。翌7月場所で右膝を痛め途中休場、9月場所は千秋楽の北勝海戦で敗れ7勝8敗と負け越してしまった。横綱が皆勤して負け越すのは史上5人目(6例目)、しかも15日制が定着してからは初めての不名誉な記録(その丁度10年後の1999年9月場所で3代目若乃花も負け越した)で、一旦は引退届を提出するも当時の二子山理事長(元横綱初代若乃花)に慰留されて現役を続行する。

一場所休場後1990年1月場所で復帰し、どうにか勝ち越すことは出来た。しかし8勝3敗から終盤4連敗し、しかも千秋楽の千代の富士戦で足首を骨折するという悲惨な結末となり、その後4場所連続休場する羽目になる。同年11月場所で復帰、千秋楽に前日優勝を決めた千代の富士に土をつけ10勝して復活を印象付ける。翌1991年1月場所も10勝、そして3月場所では、12勝を上げて久々に千秋楽まで優勝を争ったが、またしてもあと一歩で北勝海に優勝をさらわれた。復活の兆しを見せたかに思えたが、今度は蜂窩織炎による高熱と右膝関節を痛めて5月場所休場。翌7月場所に再び進退を掛けて土俵に上がったものの、初日にはに吹っ飛ばされたり、最後の相撲となった8日目には安芸ノ島に一方的に押し出されたりと散々な内容で、この場所限りで引退を表明した。横綱の28歳9か月での引退は、廃業や死亡を除けば栃ノ海の28歳8か月に次ぐ若さであった。

引退後は年寄・芝田山を襲名し、1999年6月に芝田山部屋を開いた。

大の甘党で、自ら部屋でケーキ作りをするほか、テレビ東京の『元祖!でぶや』等にも出演している。(ケーキ2ホールは軽くいけるという)。

主な成績

  • 通算成績 560勝319敗107休
  • 幕内成績 426勝228敗105休
  • 幕内最高優勝 2回
  • 幕内在位 51場所
  • 殊勲賞 5回
  • 敢闘賞 2回
  • 金星 4個(北の湖1・千代の富士1・隆の里2)
  • 金星配給

関連項目

外部リンク


先代
北勝海信芳
第62代横綱
(在位:1987年11月 - 1991年7月)
次代
旭富士正也