コンテンツにスキップ

保科正敬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。ヘイホークリボー (会話 | 投稿記録) による 2020年1月27日 (月) 03:37個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

保科 正敬(ほしな まさたか、生年不明-明治16年(1883年6月29日)は幕末旗本寄合席幕府陸軍所属。横浜仏語伝習所第1期生。パリ万国博覧会使節団の1人。明治時代大日本帝国陸軍軍人熊本鎮台小倉営所歩兵第14連隊所属。は正敬。通称は俊太郎。父は保科栄次郎。実家は飯野藩主家分家の旗本保科家元禄時代から幕末までの実家の石高上野国群馬郡吾妻郡[1]のうち2500石。屋敷は虎ノ門新道

幕末は保科 俊太郎、明治以降は保科 正敬で知られる。『保科主税』と称したかは不明。

生涯

父・栄次郎は保科正棟の子孫であるが具体的な続柄は不明で、江戸城多門櫓文書での幕職歴は小姓組番士のみしか記載されていないとされる。

明治維新前は「保科俊太郎」と称した正敬は多門櫓文書では「年 二十五」と表記され、家督相続年について記載がなく、父も生存扱いである。元治元年(1864年)に別手組出役となり、慶応元年(1865年)に仏蘭西伝習館御用となり、横浜仏語伝習所の第1期生となる。なお、『新訂増補 海を越えた日本人名事典』では伝習生となったのは23歳としている。

慶応2年1月25日1866年2月11日)に仏蘭西伝習は継続のまま歩兵差図役頭取(400石高)に就任し、同年12月30日1867年2月4日)には歩兵頭並(1000石高)に転じ、布衣を許可される。

また、留学生として徳川昭武のパリ万国博覧会派遣使節団の随行員となり、昭武とフランス皇帝ナポレオン3世との謁見の際にはメルメ・カションがナポレオン3世の通訳、正敬が昭武の通訳を担当した。フランス留学中に明治維新により江戸幕府が終焉となったので帰国する。

慶応4年(1868年)の武鑑では歩兵頭において「(並) 保科俊太郎」とあるが前年から更新されていない可能性がある。また、「群馬県の地名 日本歴史地名大系10」では、同じく慶応4年(1868年)に「保科主税」が知行地に対して、フランス出張費として年貢400両の繰上納入を命じ、これに対して吾妻郡、群馬郡の知行地10村が月々30両宛て納入として「繰上納入免除願」を出したとの記載があり、この「保科主税」が父の栄次郎または正敬が改名した人物である可能性がある。

明治維新後

明治維新以降は元禄10年(1697年)に先祖の保科正静が拝領して以来の知行地2500石を失う。ちなみに吾妻郡伊勢町(現在の中之条町)に旗本保科家が置いた役所の代官を勤めた根岸家の一族の根岸善作は後に旧群馬県中之条町の初代町長となっている。

一方で正敬は明治政府の陸軍に所属し、陸軍兵学兵学寮大教授、兵学中教授、兵学権頭人員局長を歴任し、熊本鎮台小倉営所歩兵第14連隊の歩兵大佐となる。明治16年(1883年)6月29日に死去。『新訂増補 海を越えた日本人名事典』や『幕末維新大人名事典 下巻』などで自殺とされている。

参考文献

  1. ^ 寛政重修諸家譜の旗本保科氏系図