ふそう銀行
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場 |
本社所在地 |
![]() 鳥取県鳥取市栄町403番地 |
設立 | 1942年 |
業種 | 銀行業 |
金融機関コード | 0563 |
事業内容 | 普通銀行業務 |
資本金 | 24億円 |
決算期 | 3月31日 |
ふそう銀行のデータ | |
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店舗数 | 57店 |
貸出金残高 | 3,776億52百万円 |
預金残高 | 4,147億28百万円 |
特記事項: 1990年3月31日時点での指標。 |
ふそう銀行(ふそうぎんこう)は、鳥取県鳥取市に本店を置いていた第二地方銀行である。 1991年4月に山陰合同銀行に吸収合併された。
旧住友銀行の親密第二地銀であった。
概要
1942年、共済無尽と相愛無尽の合併によって鳥取無尽として発足。県当局や社内では鳥取市に本店を設ける声が大勢を占めたが、当初本店は倉吉町(現:倉吉市)に置き、1944年に鳥取市に移転した。1951年10月、相互銀行法の施行に伴い扶桑相互銀行に商号を変更した。
1958年頃、機械メーカーに対する融資が不良債権化したことや本店の新築移転に伴う過剰投資から経営危機に陥った。そこで関西相互銀行協会において再建策が検討されるが、同協会内での議論がまとまらず、住友銀行へ処理が持ち込まれ、同年11月、同行元本店支配人古田四郎が社長に就任した[1]。
住友銀行の支援を受けて経営を再建した経緯から、以後の社長の柴田太郎、柏瀬宏はいずれも住友銀行出身、その他代表権を持つ役員も住友銀行から派遣されていた。筆頭株主は住友銀行が主取引銀行の三洋電機、第2位も同様の松下興産。
同行は柴田太郎社長時代に店舗の広域展開を進めた結果、預貸金の多くが本店所在地の鳥取県外に占められ、岡山県、兵庫県での融資を拡大して収益を上げてきた。しかし、資金調達では定期預金の割合が高かったため、他行よりも調達コストが高く、金利自由化の影響を受けた自由金利預金の増大で調達コストが上昇し、収益を減少させる原因となった。特徴である店舗の広域展開も他行との競争の間で採算が合わなくなりつつあった。また、1987年1月に融資先の日本フエラス工業が倒産するなど不良債権が増加した。
1989年4月に普通銀行に転換し、商号をふそう銀行に変更。柏瀬宏社長の下で負の遺産の整理を進めたが、将来性が乏しく、いずれ負担になるとの住友銀行の経営判断により、1990年9月下旬、ふそう銀行側から山陰合同銀行に合併を打診し、11月18日に1991年4月1日に合併すると発表された。柏瀬社長は「広域的な店舗展開を図ってきたが、収益を上げるのは難しかった。将来を展望するとふそうに力のあるうちに合併することがプラスと判断した」と述べている。
合併後
公正取引委員会は、地方銀行の山陰合同銀行とふそう銀行が店舗網の統合による合理化等を通じた経営体質の強化等を図ることを目的として合併するものであり、合併後の会社は、全金融機関に占めるシェアが、島根県では預金残高で第1位32.8%(シェアの増加は1.5%)、貸出金残高で第1位49.4%(シェアの増加は2.8%)、鳥取県では預金残高で第1位30.6%(シェアの増加は6.6%)、貸出金残高で第1位47.8%(シェアの増加は11.5%)であるほか13市町村において合併によりシェアが大幅に上昇することとなるものの、合併後の会社のシェアが大幅に上昇する市町村の店舗が合併当事行から他の金融機関に譲渡される予定であること、大蔵省において合併当事行以外の金融機関の新規出店を弾力的に扱う措置が採られることとなったこと、本件は、金融自由化が進む中で将来の経営の見通しが難しくなったふそう銀行を救済するという性格が強く、山陰合同銀行以外に適当な相手方を見いだしがたいこと等の事情を考慮して、直ちに一定の取引分野における競争を実質的に制限することとなるとは言えないと判断した。
合併比率は、山陰合同銀行1株に対して、ふそう銀行3株と完全な吸収合併で、柏瀬宏社長は専務取締役に降格した。
57店舗(鳥取県27店舗、岡山県12店舗、島根県9店舗、兵庫県7店舗、大阪府、広島県各1店舗)が継承され、店名変更は29店舗。
合併後、旧ふそう銀行店舗の営業譲渡が行われた。鳥取銀行に1991年9月24日に田園町、御来屋支店、11月5日に三朝東支店の3店舗の営業を譲渡し、同行は田園町、名和、三朝支店として譲り受けた。住友銀行に1991年2月24日に鳥取駅前、パープルタウン、日野橋東、安来中央支店、6月8日に郡家駅前、智頭東、境中央、安来中央支店、10月12日に青谷駅前、江府本町、平田中央支店の11店舗の営業を譲渡し、同行は岡山支店の出張所として譲り受け、約半年間営業した後、首都圏への店舗設置のための配置転換の代替として廃止した。住友銀行出張所の廃止後、郡家駅前支店の土地・建物は鳥取信用金庫に、日野橋東支店の土地・建物は米子信用金庫にそれぞれ売却された。
ふそうの名称は、旧本店営業部が店名変更されたふそう営業部に残されたが、1994年4月1日に鳥取中央営業部に店名変更され消滅した。
1995年から2001年頃まで市街地に設置された大型スペースの店舗外ATMについてアミィの愛称が付けられた。そのうちのアミィ御弓町、アミィ行徳、アミィ湖山北、アミィ倉吉シティ、アミィ米子シティ、アミィ松江中央は、旧ふそう銀行店舗跡地に設置されたものであった。アミィの愛称はその後有人出張所の愛称に変更されたため、店舗外ATMの名称からは削除されている。
情報処理システム
1988年10月、関西相互銀行(現:関西みらい銀行)と共に日本情報サービス(現:日本総合研究所)へ運営を委託の上で新大阪に共同センターを設置し、総合オンラインシステムを稼働した。このシステムは住友銀が開発したものに改良を加えたもので、開発工期の短縮やコストの低減が可能となったため、中小金融機関における新しいシステム開発方法として注目を集めた[2]。
山陰合銀とのシステム統合
吸収合併後の1992年1月6日、日本総研に委託処理していた旧ふそう銀の電算データを山陰合銀のホストコンピュータに移し替え、情報処理システムの統合は実現した。これによって勘定系や情報系も一本化され、山陰合銀における業務の合理化も進んだ[3]。
沿革
- 1913年- 共済無尽の前身となる共済金融が設立。
- 1914年- 相愛無尽の前身となる雲拍無尽として島根県に設立。
- 1921年 - 雲拍無尽が鳥取県内に移転し山陰共栄無尽と改称。
- 1926年 - 山陰共栄無尽が相愛無尽に改称。
- 1942年 - 共済無尽と相愛無尽が合併し、鳥取無尽を設立。本店は倉吉町(現:倉吉市)に置く。
- 1951年10月 - 相互銀行転換に伴い扶桑相互銀行に改称。
- 1954年6月 - 本店を鳥取駅前から鳥取市東品治町122番地1(のちの栄町403番地)に新築移転。
- 1970年8月 - 鳥取県収納代理店の認可を受ける。
- 1989年4月 - 普通銀行転換に伴いふそう銀行に改称。
- 1991年4月 - 山陰合同銀行に吸収合併。
脚注
参考文献
- 山陰合同銀行五十年史編纂室編 『山陰合同銀行五十年史』山陰合同銀行、1992年。
- 日経金融新聞編 地方金融史研究会著『日本地方金融史』日本経済新聞社、2003年。ISBN 4532350514