ハインリヒ・シュリーマン
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/15/Heinrich_Schliemann.jpg/200px-Heinrich_Schliemann.jpg)
ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ1世・シュリーマン(ドイツ語: Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann, 1822年1月6日 - 1890年12月26日)は、ドイツの考古学者、実業家。ギリシア神話に登場する伝説の都市トロイアを発掘した。
来歴
生い立ち
メクレンブルク=シュヴェリーン大公国(現メクレンブルク=フォアポンメルン州)ノイブーコウ生まれ。9人兄弟で6番目の子であった。父エルンストはプロテスタントの説教師で、母はシュリーマンが9歳のときに死去し、叔父の家に預けられた。13歳でギムナジウムに入学するが、貧しかったため1836年に退学して食品会社の徒弟になった。自伝では仕事の合間の勉強で15ヶ国語を完全にマスターした[1]とされるがその可能性は低いとされている[2][3]。
貧困から脱するため1841年にベネズエラに移住を志したものの、船が難破してオランダ領の島に流れ着き、オランダの貿易商社に入社した。1846年にサンクトペテルブルクに商社を設立し、翌年ロシア国籍を取得。この時期に成功し、30歳(1852年)の時にロシア女性と結婚したが、後に離婚。さらにゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州サクラメントにも商社を設立して成功を収める。クリミア戦争に際してロシアに武器を密輸して巨万の富を得た。
トロイア
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/39/Schliemann_Trojanische_Altert%C3%BCmer_EA.jpg/220px-Schliemann_Trojanische_Altert%C3%BCmer_EA.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d9/Lion_Gate_Mykene_with_Wilhelm_D%C3%B6rpfeld_1891.jpg/220px-Lion_Gate_Mykene_with_Wilhelm_D%C3%B6rpfeld_1891.jpg)
自身の著作では、幼少のころにホメーロスの『イーリアス』に感動したのがトロイア発掘を志したきっかけであるとしているが、これは功名心の高かった彼による後付けの創作である可能性が高い[3]。発掘当時は「トロイア戦争はホメロスの創作」と言われ、トロイアの実在も疑問視されていた、というのもシュリーマンの著作に見られる記述であるが、実際には当時もトロイアの遺跡発掘は行われていた[3]。
彼は発掘調査費を自弁するために、貿易などの事業に奔走しつつ、『イーリアス』の研究と語学にいそしんだと、自身の著作に何度も書き、講演でもそれを繰り返した。実際には発掘調査に必要な費用が用意できたので事業をたたんだのではなく、事業をたたんでから遺跡発掘を思いついたのである。また彼は世界旅行に出て清(当時の中国)に続き、幕末・慶応元年(1865年)には日本を訪れ、自著 La Chine et le Japon au temps présent (石井和子訳『シュリーマン旅行記清国・日本』講談社学術文庫)にて、当時の東アジアを描写している。その後ソルボンヌ大学やロストック大学に学んだのち、ギリシアに移住して17歳のギリシア人女性ソフィアと再婚、トルコに発掘調査の旅に出た。発掘においてはオリンピア調査隊も協力に加わっていた。
1870年に無許可でこの丘の発掘に着手し、翌年正式な許可を得て発掘調査を開始した。1873年にいわゆる「プリアモスの財宝」を発見し、伝説のトロイアを発見したと喧伝した。この発見により、古代ギリシアの先史時代の研究は大いに進むこととなった。
「プリアモスの財宝」はオスマン帝国政府に無断でシュリーマンによってギリシアのアテネに持ちだされ、1881年に「ベルリン名誉市民」の栄誉と引き換えにドイツに寄贈された。第二次世界大戦争中にモスクワのプーシキン美術館の地下倉庫に移送され、現在は同美術館で公開展示されているが、トルコ、ドイツ、ロシアがそれぞれ自国の所有権を主張し、決着がついていない。
彼は発掘の専門家ではなく、当時は現代的な意味での考古学は整備されておらず、発掘技術にも限界があった。発掘にあたって、シュリーマンはオスマン帝国政府との協定を無視し出土品を国外に持ち出したり私蔵するなどした。発見の重大性に気づいたオスマン帝国政府が発掘の中止を命じたのに対し、イスタンブールに駐在する西欧列強の外交官を動かして再度発掘許可を出させ、トロイアの発掘を続けた。こうした不適切な発掘作業のため遺跡にはかなりの損傷がみられ、これらは現在に至っても考古学者による再発掘・再考証を難しい物にしている。
ギリシア考古学
シュリーマンは、発掘した遺跡のうち下から2番目(現在、第2市と呼ばれる)がトロイア戦争時代のものだと推測したが、後の発掘で実際のトロイア戦争時代の遺跡は第7層A(下から7番目の層)であることが判明した。第2層は実際にはトロイア戦争時代より約1000年ほど前の時代の遺跡だった。これにより、古代ギリシア以前に遡る文明が、エーゲ海の各地に存在していたということをも証明した。
また彼は、1876年にミケーネで「アガメムノンのマスク」のような豪奢な黄金を蔵した竪穴墓(竪穴式石室)を発見している。1881年にトロイアの黄金をドイツ国民に寄贈してベルリンの名誉市民となった。建築家ヴィルヘルム・デルプフェルトの助力を得てトロイア発掘を継続する傍ら、1884年にはティリンスの発掘に着手。1890年、旅行先のナポリの路上で急死し、自宅のあったアテネの第一墓地に葬られた。
人物
職を転々としながらも商才を発揮した
自伝では18ヶ国語を話せたという[1]が可能性は低いとされている[2][3]。
著書
- 『古代への情熱 シュリーマン自伝』
- La Chine et le Japon au temps présent, Paris: Librairie centrale, 1867.
- 藤川徹訳『日本中国旅行記』雄松堂書店〈新異国叢書 第2輯6〉、1982年、ISBN 4841902074
- 石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫、1998年、ISBN 4061593250
伝記
- エミール・ルートヴィヒ『シュリーマン トロイア発掘者の生涯』秋山英夫訳 白水社
- エルヴェ・デュシエーヌ『シュリーマン・黄金発掘の夢』「知の再発見」双書:創元社、1998年
- キャロライン・ムアヘッド『トロイアの秘宝 その運命とシュリーマンの生涯』芝優子訳 角川書店 1997年
- デイヴィッド・トレイル『シュリーマン 黄金と偽りのトロイ』周藤芳幸ほか訳 青木書店 1999年
参考文献
- エーベルハルト・ツァンガー著、和泉雅人訳 『甦るトロイア戦争』 大修館書店、1997年 ISBN 4-469-21213-X P113-P138。
関連項目
外部リンク
- Heinrich-Schliemann-Museum - (ドイツ語)シュリーマン博物館。シュリーマンが育ったアンカースハーゲン(Ankershagen)にある。