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旅順虐殺事件

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旅順虐殺事件(りょじゅんぎゃくさつじけん)は、1894年明治27年)11月日清戦争旅順攻略戦の際、市内及び近郊で日本軍清国軍敗残兵掃討中に発生したとされる事件で、ピューリツァーのニューヨークワールド紙特派員ジェイムズ・クリールマンなどがセンセーショナルに報道した[1][2]。この事件の報道に関するアメリカのジャーナリズム史研究では、クリールマンはこの報道で扇情主義報道(イエロー・ジャーナリズム)のやり方を身につけて、4年後の1898年米西戦争でスペインとの開戦世論誘導で活躍したため、「虐殺」と呼ぶことに疑義がだされている[1][2]

遼東半島

概要

1894年明治27年)より朝鮮半島の覇権をめぐり日清戦争が勃発したが、軍備の優位など諸要因によって日本軍が戦況を有利に進めた。黄海の海戦勝利の後、10月に入るといよいよ清朝の国内に攻め入り、当初は旅順の攻略にすら五十以上の軍艦と十数万以上の軍人が必要だと言われていた旅順を11月に攻略しようとした[3]。当時遼東半島の先端に位置する旅順は、対岸の威海衛とならんで 北洋海軍李鴻章の実質私兵)の基地となっており、それに加え清朝の海上輸送ににらみをきかすためには是非とも落とさねばならない要衝であった。旅順攻略にあたったのは、大山巌率いる第二軍であった。11月18日、土城子という旅順近郊での戦闘では、秋山好古少佐の騎兵第一大隊が清軍と遭遇し、死者11名・負傷者37名を出すなど苦戦を強いられた。しかし11月21日の攻撃では旅順の大部分を占拠するに至った[4]。日本は当初から諸外国との不平等条約改正を悲願として国力強化に邁進していたが欧米には敗北してもアジアでは最強とされていた清の東洋のジブラルタルといわれた旅順の攻略は、大変な困難を極めるだろうという欧米側の予想を裏切る迅速さであった[5]。なお、この第二軍には幾人か著名人も参加していた。たとえば軍医として派遣された森鷗外。そして事件直後には記者として国木田独歩が旅順の土を踏んでいる。西洋画家として著名な浅井忠も新聞画家(新聞の挿絵を描く)として参加している。後に袁世凱の顧問となる有賀長雄は国際法顧問として参加し、活与している。編成・装備・訓練が統一されておらず、動員兵站指揮のシステムも近代軍として体をなしていなかった清軍に対し、近代化された日本軍は基本的に終始優勢に戦局を進めて遼東半島を占領した[4][6]

報道の経緯

9月16日に母港威海衛から出てきていた戦艦14隻と水雷艇4隻の北洋艦隊は陸兵4,000人が分乗する輸送船5隻を護衛するため、大連湾を離れた。同日大狐山での陸兵上陸を支援した北洋艦隊は、翌17日午前から大狐山沖合で訓練をしていた。索敵中の日本海軍の連合艦隊は午前10時過ぎに互いに発見した。連合艦隊は、第一遊撃隊司令官坪井航三海軍少将率いる4隻を前に、連合艦隊司令長官伊東祐亨海軍中将率いる本隊6隻を後ろにする単縦陣をとっていた。12時50分には樺山軍令部長を乗せた西京丸と「赤城」の二隻も、予定と異なり戦闘に巻き込んで、横陣の隊形をとる30.5センチ砲を持つ北洋艦隊の旗艦「定遠」と距離6,000m離れた日本の連合艦隊との戦端が開かれた[4]。海戦の結果、無装甲艦の多かった連合艦隊は全艦で134発被弾したものの、船体を貫通しただけの命中弾が多かったために旗艦「松島」など4隻の大・中破と戦死90人、負傷197人にとどまった。それに対して、装甲艦を主力とする北洋艦隊は、連合艦隊の6倍以上被弾したと見られ、「超勇」「致遠」「経遠」など5隻が沈没し、6隻が大・中破、「揚威」「広甲」が擱座した[5]。なお海戦後、北洋艦隊の残存艦艇が戦力温存のために威海衛に閉じこもったため、制海権を完全掌握のために威海衛攻略を目指す日本が旅順のある遼東半島付近の制海権をほぼ掌握した[5]。9月21日、海戦勝利の報に接した大本営は、「冬季作戦大方針」の1)旅順半島攻略戦を実施できると判断し、第二軍の編成に着手した。その後、まず第一師団と混成第十二旅団(第六師団の半分)を上陸させ(海上輸送量の上限)、次に旅順要塞の規模などを偵察してから第二師団の出動を判断することにした。10月8日、「第一軍と互いに気脈を通し、連合艦隊と相協力し、旅順半島を占領すること」を第二軍に命じた。21日、第二軍は、海軍と調整した結果、上陸地点を金州城の東・約100kmの花園口に決定した。第一軍が鴨緑江を渡河して清の領土に入った24日、第二軍は、第一師団の第一波を花園口に上陸させた。その後、良港を求め、西に30km離れた港で糧食・弾薬を揚陸した。11月6日に第一師団が金州城の攻略に成功した。14日には第二軍は、金州城の西南50km旅順を目指して前進し、18日に偵察部隊等が遭遇戦を行った[4]。この事件発生は大きく分けて二段階ある。すなわち占領直後とそれ以降である。

第一段階(11月21日午後〜夕刻)

午後二時、第二軍司令部は旅順陥落と判断し、これを受けて第一師団師団長である山地元治中将が市内掃討を歩兵第二連隊連隊長の伊瀬知好成大佐に命じた。伊瀬知好成大佐は歩兵第一師団配下の歩兵第二連隊と同十五連隊第三大隊を率いて任務を遂行した。この部隊は、土城子戦後に日本軍死傷者に加えられた陵辱行為であった鼻や耳をそがれた生首が道路脇の柳や民家の軒先に吊されているのを、二つの部隊が掃討の際に目撃していた。大山巌は「我軍は仁義を以て動き文明に由て戦ふものなり」という訓令を発している[5]。これ以後旅順の日本軍は文明とは反する敵討ち的感情にとらわれたのだろうなど戦後に推測している者もいる[7]。旅順市内に入り掃討作戦に二つの部隊は従事したが、このとき日本軍側は清兵が軍服を捨てたゲリラの掃討作戦を行った[4]。ただこの掃討戦は同じ日に行われた旅順要塞(市街の背面に位置)への攻撃と連動した作戦であり、清兵も全く戦意喪失していたわけではなく、市街でも激しい抵抗が試みられていた点は考慮を要する。そのため事件第一段階が戦時国際法に明確に悖る行為がどの程度あったかについては、研究者の間でも分かれている[6]。特に報道にて問題とされたのは以下に述べる第二段階である。

第二段階(11月22日以降)

事件の第二段階は第一段階の翌日から数日間にかけて起こった。この時旅順市内および近郊は、「旅順市街は昨夜(21日夜)既に攻略し了(おわ)り」というように、すでに清兵の組織的な抵抗はなくなってきており、そのような中で発生した事件第二段階は第一段階よりもいわれる状況に近づいている。この段階で掃討任務を引き継いだのは歩兵第十四連隊及び第二十四連隊(両部隊とも混成第十二旅団所属)という九州で徴兵された部隊であった。こうした残存する抵抗する兵士を伴う掃討作戦によって、市内には清国軍兵士らがまばらに退却したため民間人に危険性が起きかねない状況となり、第二軍司令部は各人・各家の安全を保証する措置を講じることとなった[4]。すなわち紙あるいは布に「此者殺すべからず、何 々 隊」、「此家男子六人あるも殺すべからず」といった文もまちまちな書き付けを中国人に与えたて民衆の落ち着きを取り戻させようとしたのである。ただこうした措置は新嘗祭にあたる11月24日以降に出されたため、その遅さが民間人を巻き込みかねない不作為だったとして、後に一部の外国人従軍記者に弾劾されることになる[6]。そしてこのことは、このような書き付けがなければ、清国軍残党が身をひそめる市街が非常に危険であったことを示している。総攻撃後での日本軍の勝利後は、約12,000人のうち約9,000人が新募兵の清軍の士気などが低いこともあり、22日の堅固な旅順要塞を占領し後の両軍の損害は、日本軍が戦死40人、戦傷241人、行方不明7人に対し、清軍が戦死4,500人、捕虜600人だった[4]。第二軍の第一波が遼東半島に上陸した24日には、陽動部隊が安平河口から、21時30分に架橋援護部隊が義州の北方4km地点から、鴨緑江の渡河を始めた。翌25日6時頃には予定より2時間遅れで、本隊通過用の第一・第二軍橋が脆弱で、臼砲6門と糧食の通行が後回しにされたものの完成させた。6時20分には九連城から4.5kmの地点に野砲4門が虎山砲台を設置して砲撃を開始し、歩兵の渡河が続いた。清軍の反撃で日本軍の戦死34人、負傷者115人が発生するような抵抗されたものの、虎山周辺の抵抗拠点を占領した。翌26日早朝、第一軍は、九連城を総攻撃するため、露営地を出発した。しかし、清軍が撤退しており、無血入城となった[5]。その後、第三師団は、鴨緑江の下流にそって進み、27日に河口の大東溝を占領し、30日には兵站司令部を開設した[4]11月5日には補給線確保のために黄海沿岸の大狐山を占領し、11日に兵站支部を開設している。第五師団は、糧食の確保後に内陸部に進み、要衝鳳凰城攻略戦を開始した。10月29日、騎兵ニ箇小隊が鳳凰城に接近すると、城内から火が上がっていた。14時50分に騎兵は城内に突入し、清軍撤退を確認した。このため、主力部隊による攻撃が中止された[5]

死傷者数について

旅順陥落後の基本的に民間人及び戦闘終了後の捕虜、戦闘放棄した者の死傷者の数については諸説ある。死傷者は後に墓碑にて葬られ、その碑には「一万八百余名」と記されているが、他の中国側の主張ではこれは「一万八千余名」とし、大陸の諸研究でもこの数を支持している。これは事件を生き残って死体処理に当たったという中国人の証言に基づいている。

一方その他の証言は大きくそれを下回る。

  • 有賀長雄『日清戦役国際法論』・・・・500名
  • タイムズ』(1894.11.28)・・・・200名
  • 『ニューヨーク・ワールド』(1894.12.20)・・・・2000名
  • フランス人サブアージュ大尉『日清戦史』(1901年)・・・・1500名
  • 日本占領後の清国人の旅順行政長官から大山巌第二軍司令官への報告・・・・1600名

以上は事件発生当時からさして年数が経過していない期間の証言であるが、現代の中国側の研究では2万名弱という数との主張が定説となっている。一方で、日本の研究では200名弱から最大6000名という風にかなり人数にばらつきがある。被害者数の認定に大きな差異が生じているのは、いつ亡くなった者が不明の者や誰に殺傷された人か不明瞭な者、さらには証拠のなしの証言での人数までも認定するかについて大きな懸隔があるからである[4]

欧米メディアの報道

最初の報道

旅順での事件を目撃した外国人ジャーナリストたちは、記事を打電するために日本に引き揚げていた。彼らは第二軍に従軍し取材していた記者達で、『タイムズ』の特派員トーマス・コーウェン、『ニューヨーク・ワールド』のクリールマン(James Creelman)、『スタンダード』及び『ブラック・アンド・ホワイト』のヴィリアースの3人である。11月26日以降、旅順占領が報じられるようになる。タイムズはイギリス極東艦隊のフリーマントル中将に同行して旅順に上陸した将校の目撃談や、旅順から戻ったコーウェン記者の記事を発表し、事件が海外に知られることとなった。しかし注目を集めるようになったのは12月12日の新聞『ニューヨーク・ワールド』のクリールマンの記事によってであった。「日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷にほとんど全ての住民を虐殺した。無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた」と扇情的な報道がされている。その後も彼は旅順占領後の報道を続けた。彼の扇情的な報道にその他の新聞・雑誌も追随し、日本政府は苦境に立たされることになる。また、フレデリック・ヴィリアース(ウィリアース)は『ノース・アメリカン・レヴュー1895年3月号における「旅順の真実」の記事で、「三日間の虐殺によって僅か36人の中国人だけが生き残った」と書いている[8]


反対証言

ゲルヴィルによる証言

ニューヨークヘラルド特派員のアメデ・バイロ・ド・ゲルヴィルは、1895年1月3日のレズリーウィークリーで、クリールマンの報道するような虐殺は発生していないと証言し[9]、さらにゲルヴィルは1904年の著書『Au Japon』で虐殺は捏造されたものであったと論じた[10][2]

ダネタン報告

また、ベルギー公使アルベール・ダネタンの本国への報告調査では、事件は「ニューヨーク・ワールド紙の記者によって多分に誇張されたもの」で、フランス武官ラブリ子爵は、殺された者は軍服を脱いだ中国兵(便衣兵)であり、婦女子は殺されていないし、旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであったと述べている[11][12][13]

明治政府の対応

明治政府首脳陣の伊藤博文陸奥宗光が頭を悩ませたのは、事件そのものの有無と実際の差よりも当時進行中であったアメリカとの不平等条約改正交渉への影響で、アメリカで躓けば他国との条約交渉にも影響を与えかねなかったことだった[14]。事件の報道後、アメリカやロシアの駐日公使が陸奥を訪ね善後策を問い質し、アメリカの上院では調印された日米新条約の批准に反対する声が少し上がり始めた。明治政府は事前の清国の実情から勝つのは確実だとして、圧倒的に勝った時に起こる日本に批判的な国際世論対策を戦争当初から想定しており、陸奥宗光と各国公使も外国の新聞の報道を報告していた[4]。日本についての情報対応は明治政府に雇われていた欧米人が担っていたのであるが、旅順での事件の対応についても日本はマスコミ対策を積極的に活用しようとした[15]。欧州における対外情報収集活動を担ったのは、青木周蔵公使とお雇い外国人のシーボルトであったとされる。『タイムズ』の報道以後、日本政府は情報収集に努めつつ、報道に対し逐一反駁を行い、反論に努めた。口火をきった『タイムズ』の報道に対し、11月29日付けの『セントラル・ニュース』は正当な戦闘以外での殺傷はなかったと報道した。これも陸奥の意を受けた内田康哉(駐英臨時代理公使)が工作した結果であったと推測している[16]

しかし、当初はマスコミ対策は功を奏せず、アメリカの新聞の中には不平等な条約改正延期もやむなしという論調が出てくる。これに対し、伊藤博文は政府として正式な弁明をすることを以下の通り決定した。

  1. 清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡
  2. 旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった
  3. 住民は交戦前に逃亡していた。
  4. 逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令されていた。
  5. 日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。
  6. 日本側は軍紀を守っていた。
  7. クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容に驚いている。
  8. 旅順が陥落した際捕らえた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、二三日のうちに東京へ連れてこられることになっている。

この伊藤らが作成した弁明書は、第七項を省いたものが12月の17日・18日の両日にアメリカの各新聞に掲載された。陸奥が直接アメリカの新聞に弁明するというやり方は、アメリカ側から好感を以て迎えられた。一方の疑惑がかかった第二軍への処分であるが、やはり海外マスコミ対策に動いていた伊東巳代治井上馨に書き送ったものには「戦捷の後とて何となく逡巡の色相見え候」とあるように、難攻不落と見られていた旅順を落とし意気軒昂な軍隊をこの事件で処分することは不可能と政府首脳は判断した。伊藤博文も「取糺すことは危険多くして不得策なれば此儘不問に付し専ら弁護の方便を執るの外なきが如し」との断を下している。結果、欧米諸国は自国の過去の疑惑と比較して非難を継続することに自国に逆に跳ね返ってくる恐れがあり、予測を覆して清国を圧倒するなど着実に国力を高めてきている日本批判に国益はないとして騒動は収まった[6]

事件の終息

海外の論調は次第にこの旅順での事件のようなものは戦争ではつきものであって、欧米でも例がないわけではないという風に変化していったと、対応に当たった伊東巳代治は報告している。ただ事件が殺傷そのものがあったことが「虐殺」ではないことは認められ、アメリカにおける報道は無くなっていった[6][17]。最大の懸案であったアメリカとの条約改正は、1895年2月5日にアメリカ上院で批准された。これは同時に明治政府首脳にとっての旅順事件の騒動の終焉を意味するものであった。4月17日には下関条約が締結されると有賀長雄はフランスに飛び、著作‘La Guerre Sino-Japonaise au point de vue du droit international.1886,Paris’(和名『日清戦役国際法論』)を刊行し、日清戦争及びこの事件が正当なものであると論じた[6]

評価と研究

報道は真実であったとする見解

便衣兵以外が殺害されたのは0ではないから、虐殺だとして史実であると主張する研究者もいる[18][19][20]

大江志乃夫は「(死者の)過半数約六〇〇〇以上が戦闘と関係がない無辜の住民であることは絶対に動かしようがない事実である」と主張している[21]

一ノ瀬俊也『旅順と南京』や原田敬一『日清戦争』(吉川弘文館、2008)は、『征清従軍日記』の「山地将軍より左の命令あり。・・・今よりは土民といえども我軍に妨害する者は不残殺すべしとの令あり」との証言を引用して虐殺であったとする[22]菊池秀明は日本軍は多数の市民を「虐殺」したとする[23]

イエロー・ジャーナリズムと扇情主義報道

一方、欧米でのジャーナリズム史研究では、旅順の「虐殺」を報道したクリールマンや、掲載された新聞ニューヨークワールド紙がライバル紙と競い合って、イエロー・ジャーナリズムと呼ばれた扇情主義報道を行っていたことが定説となっている[24][25][1]

ニューヨークワールド紙はピューリツァーによって経営され、ハーストのニューヨーク・ジャーナル(ニューヨーク・モーニング・ジャーナル)紙との扇情主義報道で競争し、両紙はイエロー・ジャーナリズムと呼ばれていた[24][25][26][1]。ニューヨーク・モーニング・ジャーナルやニューヨークワールドの戦争特派員はギリシア、東南アジア、キューバ、南アフリカに派遣され、センセーショナルな報道を互いに競い合った[1]。またハーストは特に日本に対する戦争ヒステリー(War Histeria)を盛り上げるのに精力を傾け、ファシズムや人種的憎悪を育成させ、殺人や婦女誘拐や酔っぱらいの喧嘩や全ての不道徳な行為に対する病的な好奇心を激励させていると非難された[27]

ニューヨークワールド紙でのクリールマンの毒々しい旅順での報道は、グアムフィリピンをスペインから戦勝で獲得することになる4年後の1898年米西戦争でのスペインへの国民の敵意と国際世論を煽る扇情主義報道の先駆であり、旅順の「虐殺」報道でクリールマンは扇情主義報道のやり方を身につけることとなったと述べている[1][2]。クリールマンの、毎日のように中国人の男、女、子供の人肉は切り刻まれ、ほとんどの住民は虐殺され尽くされた、とのセンセーショナルな報道は、ゲルヴィルによってそのような虐殺は一切なかったとの反論を受けている[2]。ゲルヴィルはニューヨーク・タイムズで「私は現地にいたが、女性や子供の遺体は一切見なかった。したがってクリールマンたちのいうような虐殺があったことを信じることはできない」と述べた[2]。クリールマンの報道を耳にしたベルギー公使が現地にいたフランスの武官に尋ねたところ、「女子供の死傷者はいない。住民はほとんど避難しており、軍服を脱いだ兵士らがいた」と否定した。ベルギー公使のその後の「虐殺」の否定で日本への誹謗に反論していることから扇動報道だったと指摘されている[28]

簡易年表

1894年 7月25日 日本軍と清朝軍が戦端を開く。
8月1日 日本、清に対し宣戦布告。
11月18日 旅順近郊の土城子で秋山好古らと清朝軍が戦闘。
11月21日 旅順制圧。歩兵第二連隊及び第十五連隊第三大隊が市街掃討。事件の第一段階
11月22日以降数日間 歩兵第十四連隊及び第二十四連隊が市街を再度掃討。事件の第二段階
11月24日 大将大山巌からの電文にて旅順陥落の報が日本にもたらされる。市街の中国人に対し安全保障を通達。
11月25日 日本の新聞各社が旅順陥落を報道し、各地で戦勝祝いが催される。国木田独歩、旅順に上陸。
11月26日 『タイムズ』、旅順で「殺傷事件が起きた」との一行記事を掲載。
11月28日 『タイムズ』、日本兵が清国人民を二百名ほど殺傷したとの記事を載せる。
11月29日 イギリスの『セントラル・ニューズ』が『タイムズ』の記事を否定する記事(戦闘以外での殺害は無かった)を報道。
11月30日 外務大臣陸奥宗光、コーウェンと会見。事件の状況を知らされる。これをうけて陸奥は、各国の欧州公使に滞在国の世論調査を命ずる。
12月1日 各国公使より報告電報届き始める。駐英臨時代理公使内田康哉は、『タイムズ』(11月28日付け)の報道に対し、『セントラル・ニューズ』が否定の報道したことを報告。電文最後にマスコミ対策用の経費を以下のように要求。‘Cannot you grant money I have requested. I have no money from the beginning for press purpose.’
12月3日 11月30日の陸奥・コーウェン会談が『タイムズ』にて報じられる。
12月7日 横浜で発行されていた英字の新聞『ジャパン・メール』がクリールマンから取材して報道。翌日には『神戸クロニクル』(神戸の英字新聞)も事件を取り上げる。事件報道の日本上陸
12月12日 『ワールド』にクリールマンの記事が掲載される。「日本軍が大量虐殺」、「ワールドの戦争特派員、旅順での虐殺を報告す」、「三日間にわたる殺人、無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた。恐ろしい残虐行為に戦(おのの)き外国特派員、全員一団となって日本軍を離脱す」という文句が紙面に踊る。
12月13日 『ワールド』、社説において日本軍の残虐行為が事実だとし、このような国との不平等改正のための新条約を締結することに反対を唱える。また『サンフランシスコ・クロニクル』も不平等条約改正延期やむなしとの論調で報道。
12月15日 内閣総理大臣伊藤博文より事件処理の方針が打ち出されたが、積極的な報道介入は日本にとって得策ではないとの判断から、弁明に終始することとした。また大山巌率いる第二軍もさしたる懲罰を与えないとした。
12月17日 『ワールド』に陸奥宗光の弁明が掲載される。この他『ワシントン・ポスト』や『サンフランシスコ・クロニクル』も掲載。一方『ニューヨーク・タイムズ』が「旅順での虐殺は虚報」との記事を掲載する。
12月20日 『ワールド』一面と二面に挿絵つきで、クリールマンによる事件詳細を「旅順での大虐殺」との見出しで報道。この記事は『デイリー・ワールド』(ヴァンクーバーの新聞)にも節録転載された。一方で日本政府は同時期に対応に動き、『ジャパン・メール』が日本政府の反論した記事を掲載。
12月25日 日本政府が報道への公式の弁明。上記の八ヶ条。
1895年 1月2日 クリールマンの記事(『ワールド』12月20日付)に反論する記事を、『ヘラルド』の特派員ガーヴィルが寄稿。
1月5日 『タイムズ』のコーウェンは「旅順陥落」という長文の記事を掲載。
1月7日 『スタンダード』のヴィリアース、旅順の陥落と「虐殺」について報道。
1月8日 『タイムズ』、再び旅順が陥落した後の残虐行為の有無の報道。おなじイギリスの新聞『グローブ』は『ワールド』(1月7日付)の記事を転載。この中において『タイムズ』特派員コーウェンが再び旅順が陥落した後の残虐行為があっとたして報道。
1月17日 外務省事務次官林董、五日目の殺傷の報道についてのみ「無かった」と弁明すれば、それまでの四日間の殺傷の有無へのについて逆に批判報道が有利することになるため、自然に立ち消えとなるのを待った方がよいとする暗号電報を陸奥に打つ。以後これが対海外マスコミの基本方針となる。
2月5日 事件による影響が心配されていた日米新条約が米国上院にて批准される。
3月 「『ノース・アメリカン・レビュー』3月号にヴィリアースの「旅順の真実」が掲載される。
4月17日 下関講和条約締結。

参考文献

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  • Campbell, W. Joseph. Yellow Journalism: Puncturing the Myths, Defining the Legacies . Westport, Conn.: Praeger, 2001.
  • De Guerville, A.B. “In Defense of Japan. The Alleged Atrocities at Port Arthur Denied,” Leslie’s Weekly (3 January 1895).
  • De Guerville, A.B. Au Japon. Paris: Alphonse Lemerre, 1904.
    • A.B. de Guerville, Au Japon: The Memoirs of a Foreign Correspondent in Japan, Korea, and China, 1892–1894 (translated and with an introduction by Daniel C. Kane). West Lafayette, IN: Parlor Press, 2009.
  • Dorwart, Jeffrey M. “James Creelman, the New York World and the Port Arthur Massacre,” Journalism Quarterly, 50 (4) (1973),pp.697-701.
  • Kane, Daniel.C, "Each of Us in His Own Way: Factors Behind Conflicting Accounts of the Massacre at Port Arthur," Journalism History, vol. 31 (1) (Spring 2005):23-33.
  • メアリー・ウッド、Selling the Kid:The Role of Yellow Journalism,2004,ヴァージニア大学アメリカ研究所
  • Richard L. Kaplan,Yellow Journalism,in W.Donsbach(ed.) The international encyclopedia of communication (2008) ,Wiley Blackwell.
  • Villiers, Frederic,"The Truth about Port Arthur",The North American Review, vol. 160, no. 460 (March 1895):325-331
  • 有賀長雄‘La Guerre Sino-Japonaise au point de vue du droit international.1986,Paris’(和名『日清戦役国際法論』)
  • 磯見辰典・黒沢文責・桜井良樹著『日本・ベルギー関係史』白水社 (1989)
  • 井上晴樹『旅順虐殺事件』筑摩書房、1995、ISBN 4480857222
  • 占部賢志『私の日本史教室』明成社
  • 大谷正『近代日本の対外宣伝』研文社、1994年、ISBN 487636124X
  • 参謀本部編纂『明治二十七八年日清戦史』第3巻、東京印刷、1907
  • デュラン・れい子『外国語には訳せない うつくしい日本の言葉』あさ出版 (2015)
  • 秦郁彦「旅順虐殺事件-南京虐殺と対比しつつ」(『日清戦争と東アジア世界の変容』下巻、ゆまに書房、1997所収、ISBN 4897140366
  • 藤村道生『日清戦争』岩波新書、1979、ISBN 4004131278
  • 大江志乃夫『東アジア史としての日清戦争』立風書房、1998、ISBN 4651700764
  • 一之瀬俊也『旅順と南京-日中五十年戦争の起源-』文藝春秋、2007、ISBN 4166606050
  • 原田敬一『日清戦争』吉川弘文館、2008年、ISBN 4642063293
  • 陸奥宗光著、中塚明校注『蹇蹇録-日清戦争外交秘録』岩波文庫ISBN 4003311418

関連文献

  • 大谷正「旅順虐殺事件と国際世論をめぐって」『歴史評論 』532 ,1994/08
  • 長谷川伸『日本捕虜志(上)』時事通信社、昭和37年4月
  • 三輪公忠「「文明の日本」と「野蛮の中国」---日清戦争時「平壌攻略」と「旅順虐殺」のジェイムス・クリールマン報道を巡る日本の評判」軍事史学45-1・通巻177、2009年6月。
  • Hardin, Thomas L. “American Press and Public Opinion in the First Sino-Japanese War,” Journalism Quarterly, 50 (1) (1973):53-59.
  • Milton, Joyce. (1989). The Yellow Kids: Foreign Correspondents in the Heyday of Yellow Journalism. Harper. ISBN 0-06-092015-7.

脚注

  1. ^ a b c d e f Dorwart, Jeffrey M. “James Creelman, the New York World and the Port Arthur Massacre,” Journalism Quarterly, 50 (4) (1973),pp.697-701.
  2. ^ a b c d e f ダニエル・C・ケイン(Kane, Daniel C), "Each of Us in His Own Way: Factors Behind Conflicting Accounts of the Massacre at Port Arthur," Journalism History, vol. 31 (1) (Spring 2005):23-33.
  3. ^ 遼寧省004旅順 ~「203高地」と難攻不落の要塞  p50
  4. ^ a b c d e f g h i j 『日清戦争』大谷正,中央公論新社,2014年
  5. ^ a b c d e f 『日清戦争の軍事戦略』斎藤聖二,芙蓉書房出版,2003年
  6. ^ a b c d e f 『日本近代経済発達史 第一巻』高橋亀吉,東洋経済新報社,1973年
  7. ^ 井上晴樹『旅順虐殺事件』筑摩書房、1995、p147。
  8. ^ 『ノース・アメリカン・レヴュー』 1895年3月号:Villiers, Frederic, "The Truth about Port Arthur,"(The North American Review, vol. 160, no. 460 (March 1895):325-331)
  9. ^ De Guerville, A.B. “In Defense of Japan. The Alleged Atrocities at Port Arthur Denied,” Leslie’s Weekly (3 January 1895).
  10. ^ De Guerville, A.B. Au Japon. Paris: Alphonse Lemerre, 1904.,A.B. de Guerville, Au Japon: The Memoirs of a Foreign Correspondent in Japan, Korea, and China, 1892–1894 (translated and with an introduction by Daniel C. Kane). West Lafayette, IN: Parlor Press, 2009, x-xxxi.
  11. ^ 磯見辰典・黒沢文責・桜井良樹著『日本・ベルギー関係史』白水社 (1989)
  12. ^ 占部賢志『私の日本史教室』明成社
  13. ^ デュラン・れい子『外国語には訳せない うつくしい日本の言葉』あさ出版 (2015)
  14. ^ 『蹇蹇録』ではこの事件に触れた冒頭に「日清交戦中に起こりたる一事件が、復(また)如何に日米条約改正の問題に対し防障を及ぼしたるかを略述すべし」と述べている
  15. ^ 大谷正「日清戦争時の対外宣伝活動と旅順虐殺事件」(『近代日本の対外宣伝』研文出版、1994、PP168-178)
  16. ^ 大谷正前掲論文、PP190-178。
  17. ^ 大谷正前掲論文、PP208-209。
  18. ^ 一ノ瀬俊也『旅順と南京』。原田敬一『日清戦争』(吉川弘文館、2008)
  19. ^ 大江志乃夫『東アジア史としての日清戦争』立風書房、1998, P444
  20. ^ 菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』講談社、2005、P91
  21. ^ 大江志乃夫『東アジア史としての日清戦争』立風書房、1998, P444
  22. ^ 一ノ瀬俊也『旅順と南京』。原田敬一『日清戦争』(吉川弘文館、2008)
  23. ^ 菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』講談社、2005、P91
  24. ^ a b Richard L. Kaplan,Yellow Journalism,in W.Donsbach(ed.) The international encyclopedia of communication (2008) ,Wiley Blackwell.
  25. ^ a b Campbell, W. Joseph. Yellow Journalism: Puncturing the Myths, Defining the Legacies . Westport, Conn.: Praeger, 2001. p32.
  26. ^ メアリー・ウッド、Selling the Kid:The Role of Yellow Journalism,2004,ヴァージニア大学アメリカ研究所
  27. ^ W. Joseph Campbell,Yellow Journalism: Puncturing the Myths, Defining the Legacies,p.40
  28. ^ Voice 平成26年3月号,PHP出版

外部リンク

関連項目