桂小文吾
桂 小文吾(かつら こぶんご)は、上方落語の名跡。当代は6代目。
なお、4代目(高田卯之助)と5代目(坂田種造)の間に小文吾になった人物がいる。当代が7代目と呼ばれることがあるのは、この小文吾を代々に勘定しているためと思われる。
- 初代桂小文吾 - 3代目桂文吾の実子で、その門下。活躍時期は明治中期。
- 2代目桂小文吾 - 後の2代目桂文三。
- 3代目桂小文吾 - 後の4代目桂文吾。
- 4代目桂小文吾 - 後の4代目桂文三。
- 代外桂小文吾 - 初め2代目桂梅枝の門下で桂梅之助。次に初代桂扇枝門下で扇之助を経て、小文吾となった。
5代目
5代目 | |
本名 | 坂田種造 |
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生年月日 | 1872年 |
没年月日 | 1914年10月 |
出身地 | 日本・大阪 |
師匠 | 3代目桂文三 他 |
名跡 | 5代目桂小文吾 他 |
活動期間 | 明治20年代 - 1914年? |
所属 | 桂派 大正派 |
5代目 桂小文吾(1872年 - 1914年10月)は、本名: 坂田種造。享年不詳。
元は大阪北堀江の貸座敷「播卯樓」の主人。鼻が高かったため「天狗」とあだ名された。何不自由ない結構な身分だったが、芸事に熱中し、明治20年代に錦影絵師の4代目富士川都正の門下で富士川都若を名乗る。独学で稽古を積み、奇術師の初代歸天齋正一が経営する余興屋に出入りしたり、1902年に桂家都若の名で半玄人として端席や余興屋で活動した後、1903年12月に3代目桂文三の門下で5代目小文吾を名乗った。
後に初代桂枝雀が大正派を結成してからは幹部となり、得意の絶頂であったが、最後に脳を病み、治療の甲斐なくそのまま引退した。
1910年に『食道楽』『絵葉書屋・鰻屋』の2枚のSPレコードを出している。
6代目
6代目(7代目) | |
1955年正月、「宝塚若手落語会」 後列左から4人目が小文吾[1] | |
本名 | 寺田 成行 |
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生年月日 | 1937年7月24日(87歳) |
出身地 | 日本・京都 |
師匠 | 2代目文の家かしく 5代目桂文吾 |
弟子 | 桂吾空 |
活動期間 | 1952年 - 1956年 1995年 - |
所属 | 宝塚新芸座 フリー |
備考 | |
上方落語協会会友 | |
6代目 桂小文吾(1940年7月24日 - )は、本名: 寺田 成行。 京都市生まれ。子供の時にラジオから流れてくる落語に興味を持ち、落語の創作も行っていた。12歳の時、2代目文の家かしくに入門するが、父の反対により挫折。14歳の時、5代目桂文吾に再入門。少年落語家として宝塚落語会、三越落語会、京都の小屋などの高座に上がっていたが、1956年、21歳の時、宝塚新芸座に役者として参加。1965年に鳥取県米子市にある皆生温泉ヘルスランドに就職し、定年まで勤務。
定年後、1995年より桂米朝の励ましを受けて再び落語家に正式に復帰した。戦後間もなくの京都落語界で修業を積んだこともあり、現在の上方ではあまり高座に掛からない貴重なネタを多く引き継いでいる。現在は地元のテレビ局への出演、落語会の開催、米子市児童文化センターにて子供向け落語教室の開講、NPO法人ひまわり倶楽部の理事など、さまざまな活動をしている。
2009年9月29日、「枝三郎百席 ~幻の噺家小文吾を迎えて~」において天満天神繁昌亭に初めて登場、「二日酔い」を披露し、若々しい高座姿を見せた。
主な創作落語に、地元の昔話を取り入れた『日野川の河童取り』などがある。
入門の経緯などは、瀧口雅仁の著書『噺家根問』(ISBN 978-4779112973)に詳しく書かれている。
弟子
出典
- 『落語系圖』(月亭春松編)
- 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年) - 4代目の本名を坂田種造としているのは誤り。
- 『ご存じ古今東西噺家紳士録』(CD-ROM、APP、2005年)
- 瀧口雅仁『噺家根問』(彩流社、2007年)
脚注
- ^ 前列左より桂春坊(2代目露の五郎兵衛)、笑福亭松之助、橘家圓二郎、4代目桂文枝、3代目桂米朝、笑福亭小つる(和多田勝)、3代目桂米之助。後列左より、見浪よし(5代目笑福亭松鶴夫人)、桂あやめ(5代目桂文枝)、旭堂小南陵(3代目旭堂南陵)、6代目桂小文吾、桂麦團治、奥野しげる(宝塚若手落語会世話人)。(桂米朝『桂米朝 私の履歴書』日経ビジネス人文庫、2007年、p.93)