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二・二八事件

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ファイル:228 memorial.jpg
二・二八事件紀念碑

二・二八事件ににはちじけん)は、1947年2月28日台湾台北市で発生した後、台湾全土に広がり、40年間かけて終結した事件である。この事件を台湾大虐殺と呼ぶ人もいる。

1947年2月27日、台湾の台北市で闇市のタバコ売りの女性を密売取締員が殺傷する事件が起きた。これに端を発し、本省人による、外省人国民党軍や国民党政府への抗議行動や暴動を含む大規模な抵抗運動が2月28日二・二八)から台湾全土に広がった。これに対して国民党政府が武力による大規模な掃討と鎮圧(弾圧)を行なった。

事件の背景

1945年日本から中華民国に接収された直後、台湾には大陸から蒋介石率いる中国国民党政府の官僚軍人がやってきて行政を引き継いだ。

一方、台湾の人々(本省人)は台湾に来た国民党政府の官僚や軍人らが腐敗していたこと、また物価高騰、失業の深刻化、治安の悪化などにより、期待は失望へと変わり、国民党政権に対し、極度の不満を募らせていったことが、この事件の背景にあった。当時、台湾の人たちは”犬(日本人)は去りて、豚(国民党)来たる”(犬は五月蠅くとも役に立つが、豚はただ貪り食うのみ)と揶揄した。

事件の顛末

1947年2月27日、台北市でヤミタバコを販売していた老婆を国民党政府官憲(台湾専売局台北支局密売取締員6名および警官4名、酒タバコ砂糖塩等すべて国民党によって接取し、”国有化”されたため)が発見。老婆(林江邁40歳、2人子持ちの寡婦)が土下座し、許しを懇願したにもかかわらず、公道でその老婆を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を没収するという惨事が起こった。さらに取締官が怒りで震えて集まった民衆に対し、発砲し、まったく関係ない見物人(陳文渓)を射殺した。これにかねてから不満があった市民の怒りが爆発。翌28日以降、それに対する抗議行動・外省人に対する無差別攻撃・暴動が台湾全島に拡がり、もともと台湾に住んでいた本省人は、戦後台湾に移住して強権を恣(ほしいまま)にする外省人と、外省人によって成り立っていた国民党政府に対して抗議活動・襲撃等を起こした。このとき、台湾人がラジオ放送局をジャック。軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」との放送を行った。

当初、国民党政府は本省人側にたいして対話姿勢を示していたが、台湾行政長官兼警備総司令・陳儀(妻が日本人、のちに中国共産党に寝返り、1950年6月18日に蒋介石によって台北馬場町にて公開銃殺処刑された)は反乱民衆に対話を装いながら一方、大陸の国民党政府に「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒に対し、武力をもって殲滅すべし」と電報を蒋介石に送る。蒋介石も調べもせずに、陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし、そのため、翌月、第21師団の援軍が大陸から到着してからは国民党政府による大弾圧が始まった。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治下で高等教育を受けたエリート層の多数が逮捕・投獄・拷問され、その多くは自宅に帰ることはなかった。また、国民党軍が一般市民にも無差別的な発砲を行っていたとする証言も多数あり、真実と思われる。基隆では街頭にて国民党軍が検問所を設け、市民に対し、北京語をうまく話せない台湾人をすべて逮捕し、紐で数人ずつ縛り、束ね、粽(チマキ)と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだとの証言もあり、約3万人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたといわれ、死者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。

このとき発令された戒厳令は40年後の1987年まで継続し、国民党政府による、いわゆる白色テロや強権による暴力支配は永らく続いた。国民党が戒厳令を解除し、民主化がはじまった1987年の後も、戒厳令は解除されたとはいえ、国家安全法によって言論の自由が制限されていた。民主化が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正して、言論の自由が認められてからのことである。

事件のその後

二・二八紀念公園内にある二・二八紀念館。建物は旧NHK台北支局。

この事件は、長らく一般市民の間で密かに語り伝えられ、公(おおやけ)に発言することはタブーとなっていた。しかし時が経つに連れ、弾圧していた側の国民党政府も、大陸の中国共産党と対峙する過程の中で次第に台湾化していき、1988年に李登輝本省人として初の総統に就任して以降、本格的な民主化時代がはじまる。1989年に公開された侯孝賢監督の映画『悲情城市』は二・二八事件を直接的に描いた初めての劇映画であった。この映画がヴェネチア国際映画祭で金賞を受賞し、二・二八事件は世界的に知られる事となった。これを皮切りに、事件当時の証言や告発をする動きがみられるようになり、政府に対する反逆として定義されていた二・二八事件も、現在は自由と民主主義を求める国民的な抵抗運動として公式にも再評価されるに至っている。

なお、二・二八事件については、当時台湾共産党が国民党政権を倒すということから民衆の蜂起を煽った面もあるとの指摘があるほか、特定の政治勢力が、いたずらに本省人外省人という省籍矛盾を煽って政治的な主導権を握るために二・二八事件を利用し、歪曲している側面もあるとの意見がある。


事件の分析

国民党がなぜ、このような過酷な手段を採ったのかについては議論があるが、一つには彼らが大陸時代に行った、人民政策をそのまま台湾に適用した、ということが考えられるだろう。国民党政治の基本は軍隊や暗殺団を利用した恐怖政治であり、従わないものは徹底的に弾圧するものだった。その傾向は抗日戦や内戦によって拍車がかけられ、47年当時にはピークに達していたと考えられる。

また彼らはこの蜂起の背後に共産党が糸を引いていたのではないかと疑心暗鬼に陥っており、その疑いは事件後の知識人層への徹底弾圧になって現れる。当時、知識人には共産党シンパが多かったからである。

一方、台湾人は日本の法治政治に慣れ、それを当然のものと考えていたため、警官や軍隊が群集を虐殺して回る事態を想定していなかったようである。そのため陳儀が対話姿勢を見せるとそれに応じ、彼に時間稼ぎの余裕を与えてしまうことになる。

蜂起者の多くは目的意識に乏しく、意図的に国民党支配を脱し、自主独立を目指した者は少数派で、大多数は光復後のお祭り騒ぎの後、悪化していく政治経済情勢に不満を感じての騒動だったと、考えられる。

事件後、2・28事件は日本にとってのヒロシマと同じような、民主化運動の金字塔となり、民主化を推進する役割を果たすが、民主化が完成した今、この事件は政治闘争の具として使われる傾向が大きくなっている。


参考文献

  • 何義麟著『二・二八事件――「台湾人」形成のエスノポリティクス』東京大学出版会、2003年3月、ISBN 4130362143
    • 文献あり
  • 黄昭堂編訳『台湾情勢報告書――2・28事件に関する米駐華大使館の報告』台湾現代史研究会、1973年
  • 田村志津枝著『悲情城市の人びと――台湾と日本のうた』晶文社、1992年12月、ISBN 4794961030
  • 若林正丈著『東アジアの国家と社会(2)』東京大学出版会、1992年10月、ISBN 4130330624
  • 若林正丈著『台湾――変容し躊躇するアイデンティティ』筑摩書房[ちくま新書]、2001年11月、ISBN 4480059180
  • 阮美妹原作・監修/張瑞廷作画/ 柯嘉馬・保田誠司訳『漫画 台湾二二八事件』まどか出版、2006年2月、ISBN 4944235291
  • 阮美妹著『台湾二二八の真実―消えた父を探して』まどか出版、2006年2月、ISBN 4944235283

関連映画

  • 侯孝賢(Hou Hsiao-hsien)監督『悲情城市』(Beiqing chengshi)、1989年台湾作品。主な出演者: 陳松勇(チェン・ソンユン)、高捷(ジャック・カオ)、李天祿(リー・ティエンルー)、梁朝偉(トニー・レオン)、陳淑芳(チェン・シュウファン)、中村育代
  • 林正盛(Lin Cheng-sheng)監督『天馬茶房』(March of Happiness, "Tienma chafang" in Chinese)、1999年台湾作品。主な出演者: 林強(リン・チィァン)、蕭淑慎(シァウ・シュウシェン)、龍紹華(ロン・シァウファー)、陳淑芳(チェン・シュウファン)

関連項目

外部リンク