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日本を守る会

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日本を守る会(にほんをまもるかい)は、1974年から1997年まで存在した日本民間団体である。1997年5月30日に「日本を守る国民会議」と合併して「日本会議」に改組された[1]

結成

1973年6月、伊勢神宮において、神社本庁と、生長の家(現・生長の家本流運動)その他の反共右派宗教団体との間で懇談会が開かれた[2]

「守る会」発足時の代表委員は以下の通りである[3]

事務総長は副島広之(当時明治神宮権宮司)[5]

塚田穂高は、「守る会」には、カトリックプロテスタント世界真光文明教団等の信仰者の参加も見られたとしている[5]

守る会の結成趣旨には、「わが国の現状は(中略)皇室を中心とする日本民族の連帯感や愛国心が希薄になるなど、私たちが遠い祖先から受け継いだ多くの精神的遺産を失った感があり、(中略)この間隙をぬって国内では政治的・思想的な革命謀略が進行し」、「戦後の弊風を一掃して倫理国家の再建に努め」なければならない、といった文言が見られる[2]

活動

1974年5月、田中角栄首相(当時)に面会し、愛国心の昂揚、天皇の尊厳護持、国歌・国旗・元号の法制化、宗教的情操を基本にした道徳教育の振興、教育の正常化に関する要望書を提出している[5]。申し入れには、朝比奈宋源、岩本勝俊らと佛所護念会関係者が同行[6]

1975年昭和天皇在位50年の奉祝行事を開催しており、上杉聰によると参加者は約2万人とされ、参加者の多くは左翼からの攻撃を恐れていたという[7]

1977年秋[8]から1978年7月までに[8]、全国1600以上の地方議会[注 1]で元号法制化を求める決議や意見書が採択される[10]

評価

  • 堀幸雄は、「守る会」の運動手法は行動右翼のような暴力的手段ではなく、組織的な一種の下からの擬似大衆運動であるとしている[11]
  • 成澤宗男は、「日本を守る会」(守る会)の結成について、結成前年の1972年末総選挙で日本共産党が14議席から39議席に躍進したことに危機感を抱く団体らが[2]、1973年に開催された懇親会を母体として1974年4月に結成したと述べている[2]。また、「守る会」は異なる組織間による一種の統一戦線であるとしている[12]。成澤は、元号法制定運動の中心やそこでとられた手法(地方議会での決議・意見書採択、右派団体・政治家による一種の統一戦線方式の採用など)の源を、神道政治連盟や神社本庁とその他の保守系宗教団体、元号法制化実現国民会議といった組織に求めており[13]、「守る会」結成以後の活動実態は「国民会議」に比べると顕著だったとは言い難く、保守系宗教団体の親睦会の性格が強かったようだとしている[14]
  • 魚住昭は、守る会の事務局は、事実上、生長の家側と明治神宮側の2つで運営されたと主張している[15]。また、日本青年協議会の学生が地方議会の意見書採択に力を発揮し、なかでも、椛島が事務局に入ると運動に参加する人数が増したと主張している[8]1981年10月に発足した「国民会議」の事務局は守る会とほぼ同じで、両組織を掛け持ちで運営していたと主張している[16]
  • 上杉聰は、「国民会議」との統合の理由を「国民会議」の勢力衰退であるとしている。勢力衰退の原因について、1つには冷戦の終結により以前の「国民会議」の思考の枠組みが通用しなくなってきたことと、もう1つにはその動員部隊であった旧大日本帝国陸軍・旧大日本帝国海軍関係団体(偕行社水交社戦友会傷痍軍人会、2008年に解散した軍恩連盟全国連合会など)や日本遺族会の高齢化により動員数が極端に減少してきたことをあげている[17]。また、勢力減少をカバーする組織として、「佛所護念会」「霊友会」「念法眞教」「崇教真光」「倫理研究所」「モラロジー研究所」などを加えて世代交代を図る目的があったとしている[18]。この世代交代の中核となった団体が「守る会」としている[18]

脚注

注釈

  1. ^ 決議・意見書の採択数は資料によって若干の違いが見られる。上杉聰によれば、46都道府県(47ではない)と1600以上の市町村[9]である。一方、魚住「証言」によると、1978年7月までの数で1632市町村の議会と書かれている[8]

出典

  1. ^ 成澤 2015, p. 88.
  2. ^ a b c d 成澤 2015, p. 89.
  3. ^ 成澤 2015, p. 89-90.
  4. ^ 塚田 2015, p. 92,99.
  5. ^ a b c 塚田 2015, p. 55.
  6. ^ 塚田「転轍点」p.77.
  7. ^ 上杉 2007, p. 179.
  8. ^ a b c d 魚住 2007, p. 120.
  9. ^ 上杉 2007, p. 178.
  10. ^ 成澤 2015, p. 79.
  11. ^ 堀 1993, p. 224.
  12. ^ 成澤 2015, p. 80.
  13. ^ 成澤 2015, p. 78-80.
  14. ^ 成澤 2015, p. 91.
  15. ^ 魚住 2007, p. 121.
  16. ^ 魚住 2007, p. 128-129.
  17. ^ 上杉 2007, p. 181-182.
  18. ^ a b 上杉 2007, p. 182.

参考文献

  • 成澤宗男「日本会議のルーツと国家神道―価値同一性強要の戦後的変容に見る神道勢力の陥穽」『「開戦前夜」のファシズムに抗して』かもがわ出版、2015年。ISBN 978-4-7803-0807-5 
  • 塚田穂高『宗教と政治の転轍点―保守合同と政教一致の宗教社会学』花伝社、2015年。ISBN 978-4-7634-0731-3 
  • 上杉聰「宗教右翼と現代日本のナショナリズム」『年報日本現代史第12号「現代歴史学とナショナリズム」』現代資料出版、2007年。ISBN 978-4-87785-156-9 
  • 魚住昭『証言 村上正邦 我、国に裏切られようとも』講談社、2007年。ISBN 978-4-06-214333-2 
  • 堀幸雄『戦後の右翼勢力(増補版)』勁草書房、1993年。ISBN 4-326-35040-7