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新安沈船

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10分の1スケールの復元模型。

新安沈船(しんあんちんせん)とは1975年韓国全羅南道新安郡の沖で発見された沈没船を指す。新安沈没船、新安沖沈没船などの名称でも呼ばれる[1]。調査の結果、1323年に中国の寧波から日本の博多に向かっていた貿易船だったことが判明した[2]。中国の王朝時代の陶磁器や、銅銭を大量に積んでおり、当時の東アジアの貿易を知る貴重な資料となっている[3]。また、韓国の水中考古学が発展するきっかけにもなった[1]

発見・調査

引き揚げ作業の様子。

1975年7月、新安郡の智島にある道徳島の約2キロ沖で発見された。漁業者が6個の陶磁器を引き揚げて新安郡に報告し、1976年1月には韓国文化財管理局に情報が届いたが、当初は偽物の陶磁器だと考えられた。陶磁器をゆずられた者が古美術商に持ち込んだことがきっかけで関係者が注目し、1976年10月から文化財管理局が調査を開始した[注釈 1][5]

沈没船は東経126度5分6秒、北緯35度1分15秒で深さは約20メートルに位置していた。10月15日に新安郡の船舶で現場を調査し、10月16日に発掘照査を行った。文化財管理局は国防部に協力を求め、調査が行われた[4]。予備調査の段階で約2000点の遺物が引き揚げられたために、当局は重要性を認識し、韓国海軍も参加する。同年10月と1977年5月から7月の3回に分けて、文化財管理局と海軍に加えて考古学者や歴史学者、アメリカから招聘した水中考古学の専門家などによる調査が行われた[3][4]

現場は多島海で潮流が激しく、通常は5ノットに達し、緩やかな時で2.5ノットあった。半島の西海岸が黄海に面しているためか、海中の視界は悪かった[注釈 2][7]。作業では潮流から作業者を守り、遺物の発見場所を区別するために1辺2メートルの正方形の鉄製の枠を沈めた。引き揚げられたのは陶磁器6000点、金属製品や木造製品400点、銅銭10万枚だった。1977年10月には、国立中央博物館で新安海底文物展が開催された[8]忠南大学校ソウル大学校工科大学などの研究者の分析により、積荷は中国のものが中心であり、船体の構造からも中国系統の船であることが明らかになった[9]。1977年に少数ながら高麗青磁が発見され、1978年の調査では日本の品物も発見された[10]。調査は1984年まで11次にわたって進められ、荷札の木簡なども発見されて特定が進んだ[1]

船籍・航路

船上に引き揚げられた遺物。

船籍についての証拠として、港の名前を記した船具も引き揚げられた。青銅の沈鍾に「慶元路中国語版」という銘があったため、この船が慶元(現在の寧波)の中国船であると判明した。寧波はの時代から貿易港として栄え、代には明州慶元府中国語版と呼ばれ、元代に慶元路と呼ばれていた[10]。木簡には「至治三年六月三日」(1323年)という元の暦が書かれたものや、日本の東福寺の権利物を示したものもあった。当時の日本は博多で中国と貿易を行っていた点から、元の時代に慶元から博多へ向かった船であることが判明した[2]

元代の東アジア航海ルートとしては、(1) 首都の大都に近い山東半島と高麗の開京を結ぶルートと、(2) 東シナ海から朝鮮半島の南を通って博多に行くルートの2つがあり、新安沈船は(2)のルートを通った。当時は慶元から高麗の間は3日から5日、慶元から日本の間は約10日かかった[11]。新安沈船は慶元(寧波)で陶磁器をはじめ大量の貿易品を積み、博多を目指して出港した。杭州湾を出たあとで舟山列島から北東へ向かい、朝鮮半島南端に達した。積荷が満載だったことから、出港後にどこにも寄港せずに沈没したことが分かる。ただ、積荷の種類は日本で人気のある陶磁器や宋銭の他に、高麗で人気のある紫檀胡椒肉桂などもあり、複数の寄港を予定していたという説もある[10]

船体

船体の引き揚げは1979年から行われ、長さが約27.5メートル,幅が約8メートルの帆船であることが明らかになった[注釈 3][13]。甲板をはじめとする船体の上方は失われており、200トン規模で、乗組員は50名から70名とされる[14]

船艙は梁で区切られており、8つの区画があった。梁の底には孔が1個開けられており、船の継ぎ目からしみ出す水を集めるのが目的と考えられる。底にはバラストや濡れてもよい積荷があり、その上に底板が置かれた。浸水がたまってきたら、底板とバラストや積荷を取り出して水を汲み出した。ある種の防水隔壁であり、のちの18世紀にはこうした仕組みは潮倉と呼ばれた[注釈 4][16]

積荷

陶磁器

青磁鳳凰耳花生 南宋時代。新安沈船に積まれていたものと同型の龍泉青磁[17]

最も多かった積荷が陶磁器で、約21000点に達し、中国の華南のものが中心だった。最も多いのは龍泉窯中国語版龍泉青磁中国語版が約12000点。景徳鎮や福建省の白磁青白磁が約5300点。他に建窯中国語版天目茶碗七里鎮窯中国語版の褐釉小壺、吉州窯中国語版の褐釉磁や白地褐彩磁、褐釉四耳壺。華北からは磁州窯の黒釉磁や白地鉄絵、そして朝鮮半島からは高麗高麗青磁もあった[18]

積荷の龍泉青磁は大きく2タイプに分かれていた。水色の青磁で文様などの装飾が少ないタイプと、緑色で装飾が多いタイプである。積荷では後者が大半で、そのうち多くは小型の碗、皿、鉢だった。のちに日本では前者が砧青磁(きぬたせいじ)、後者が天龍寺青磁と呼ばれるようになる[注釈 5][19]。龍泉青磁は元の時代から器の大型化と装飾の増加が進んだ。遊牧民国家のモンゴル帝国を源流とする元は、大皿に盛った料理を取り分ける食文化であり、その習慣が影響したといわれている。新安沈船の時代である14世紀前半は、大型化した龍泉青磁の輸出が盛んになった時期にあたり、日本の他にも世界各地に輸出されていた[20]

砧青磁や天目茶碗には細かいすり傷がついていて、中古品だったと思われる。砧青磁や天目茶碗は南宋の時代に作られた器であり、アンティークとして日本で好まれた可能性がある。元の時代に作られていたのは、大型で装飾の多い天龍寺青磁だったが、日本では13世紀後半の鎌倉時代以降に砧青磁が好まれ、現在でも人気が高い[21]

陶磁器は10個単位で包装して木箱に入っていた。木箱の素材は常緑の喬木で、中国と日本に生息する種類だった。箱の表面には墨の文字で「大吉」や「子顕」などが書かれており、吉祥句や所有者の名前を示したと推測される[22]

銅銭

中国が発行した銅銭銅貨)が約800万枚、重量にして28トンにのぼり、主に宋政府が発行した宋銭だった[23]。宋銭は11世紀の日本でも博多に住んでいた宋人が使っており、12世紀後半には日本各地に流通し、13世紀後半には事実上の日本の通貨となっていた。宋政府は銅銭の輸出を禁じていたが、日本に密輸が続いた[24]。元政府も民間による金や銀の輸出を禁じており、銅銭についても同じだった。新安沈船には大量の銅銭が積まれている点から、元政府が公認した官貿易を行っていたと推測される[23]

木簡

荷物とともに、権利者の名前や中身を記録した木簡も多数発見された。荷札の木簡で最多のものは「東福寺公用(公物)」と、「綱司私」の木簡である。東福寺は日本の仏教寺院であり、東福寺がこの船を送ったことを示している。綱司は船長(綱首)のことであり、東福寺から輸送を請負った船長が私的な貿易品も積んでいたことを示している。この他に、博多の承天寺の釣寂庵や福岡の筥崎宮などの寺社や、船員や出資者と思われる名前の木簡もある[25][2]。東福寺は1319年(元応元年)に火災にあっており、筥崎宮も1310年(延慶三年)に火災にあっていることから、新安沈船は復興資金を調達する寺社造営料唐船であったと推測される[26]

その他

青銅杯などの金属製品が約700点、茶臼などの石製品、ガラス製品[27]、1万本の紫檀胡椒肉桂などの香木や香料[10][2]があった。また、日本製の品として銅鏡(和鏡)、瀬戸焼将棋の駒、漆器、瓶子、下駄日本刀の鐔などがあり、日本人の乗客や乗組員がいたことも分かる[注釈 6][10][28]。中国や日本などさまざまな出身の者が貿易船に乗り込むことは珍しくなく、宋代から同様の記録が存在する[13]

当時の日元関係

日本では博多、中国では慶元を玄関口として交流が行われた。元寇の弘安の役(1281年)ののち、日元は相互に警戒態勢となり、貿易船や人材交流も数年間は中断した。1292年には3度目の日本攻撃が計画されたが、1294年に皇帝クビライが死去し、次代にテムルが即位すると計画は中止された。日元は正式な国交がないものの交流が盛んになっていった[注釈 7][30]

日本

宋代から、九州には唐房と呼ばれる中国人街が建設されており、最大のものが博多の大唐街だった[31][32]。貿易船の船長は宋の時代から綱首と呼ばれ、日本の寺社と協力関係にあり、寺院建立に関わる者もいた[注釈 8]。中国からの貿易品は唐物と呼ばれて平清盛の時代に急増し、鎌倉幕府に入ると唐物の流行で物価が上昇したため、幕府は1254年(建長6年)に唐船(中国船)を5隻に制限しようとした[34]

元の時代に入ってからも、博多には多数の貿易商人が居住した。こうした海商は、日元双方の権力者や大商人の代理人として航海をした[35][36]。日本に住んでいた宋人は次第に日本に同化したとされており、元寇では博多が攻撃を受けたが、貿易は中断をはさみつつ増えていった。元代の龍泉青磁のほか、元が発行した銅銭の大元通宝や、パクパ文字の印章も出土している[37]。鎌倉時代や南北朝時代にかけては、寺社の造営費用や復興費用を調達するために寺社造営料唐船(勧進船)を派遣し、元寇の前よりも派遣は増加した[38]

貿易の他では、元へ渡航する仏教僧が急増し、寺社造営料唐船にもそうした僧が乗っていた。往来が禁止されていた時期を除くと年平均で4.1人が元へ渡っており、南宋時代(年平均1.1人)の4倍近くに達した[注釈 9][40]

中国の海運は、元代に大きく改善された。それまで北洋と南洋の往来は盛んではなかったが、危険な北の航路が開拓されて南北の海運がつながり、14世紀前半から国内の輸送や海上貿易が増加した。慶元は、南北のハブに位置する重要な港であった[注釈 10][11]。元は基本的に貿易を重視する王朝であり、服属をしない日本との貿易も続けようとした[注釈 11][42]。元は慶元路の警備を強化しつつ貿易を認めた。基本的な方針として、官貿易の商品を国家が管理し、倭人(日本人)は入城させずに取り引きを行った[42]

しかし、貿易の管理を厳しくしたためにトラブルが増加した。1309年には日本からの海商が慶元の役人と対立し、運んできた硫黄を使って放火し、慶元城内の建築物が4分の1近く焼失する事件が起きる[注釈 12]。事件以降の元政府は、日本だけでなく海商全体への警戒を強めた。日元は貿易をしていたものの、日本は元の招諭使に返答をしていないため正式な国交がなく、貿易におけるトラブルで日本側の協力は期待できなかった。そのため元政府には警戒強化の他に対策がなく、その後も1328年、1335年に同様の事件が起きた。当時の記録には倭寇という文字が使われているが、これはのちの海賊行為を行う倭寇を指すのではなく、海商の暴動を表している[44]

発見の影響

引き揚げられた陶磁器。

発掘・研究活動の継続

新安沈船の発見は、韓国の水中考古学が発展するきっかけにもなった。単一の遺跡としては韓国史上で最大の発掘量となり、韓国は宋元代の陶磁器の最大の保有国にもなった。調査終了後は、研究を続けるための拠点として木浦市に国立海洋遺物展示館が設立された。海洋遺物展示館では保存処理をした船体の部材の組み立てを始め、復元作業も進められた[14]

新安沈船が調査中だった1983年、同じく全羅南道の莞島郡にある薬山面漁頭里島の沖でも沈没船が発見された。この船は高麗青磁が大量に積まれており、海南郡の山二面珍山里で作られたことが判明した。南方の慶尚南道に陶磁器を運ぶ途中で沈没したとされる[1]。こうした発見によって、さらに西海岸や済州島での調査が活発になり、遺物の引き揚げも増加した。1995年には全羅南道務安郡の道里浦で14世紀の象嵌青磁が発見された。2002年には全羅北道の十二東坡島で高麗前期の船、群山市沃島で高麗時代中期の陶磁器が発見された。2007年には忠清南道泰安郡の大島沖で22000点におよぶ大量の高麗青磁が発見され、2002年発見のものと同様に開京へ運ばれる予定だったとされる。2008年までに14カ所の遺跡で中国船2隻、高麗船6隻、遺物が約88000点発見され、海洋遺物展示館は2009年に国立海洋文化財研究所朝鮮語版へと改組された[1]

法整備

韓国では水中文化財への関心が高まり、文化財保護法が全面改正された(1983年)。従来の文化財保護法(1973年)では対象が「土地とその他の物件」であり、改正で「土地・海底または建造物など」となった。さらに文化財保護法を補完する「埋蔵文化財の保護および調査に関する法律」(2010年)では、水中文化財の同定や発見区域について定め、水中文化財の調査を地表調査と発掘調査に分けて許可制度を整えた。水中文化財の発掘を行う主体は国立海洋文化財研究所であることが明記され、地表調査が可能なのは文化財管理局による登録や許可を得た組織とされた。2014年時点で地表調査をできるのは6組織あるが、水中の発掘調査が国立海洋文化財研究所に一元化されているため、一般の調査機関にとって制約になってきている[45]

出典・脚注

注釈

  1. ^ 売却した者は文化財保護法違反となった[4]
  2. ^ 招聘によってアメリカから参加した考古学者ジョン・キーヅは、1977年6月の調査では視界がほぼゼロだったと語っている[6]
  3. ^ 1973年に中国の泉州で発見された南宋代の船は長さ24.2メートル、幅9.15メートルあった[12]
  4. ^ 元代の外洋船について語ったマルコ・ポーロの『東方見聞録』では、船房(船艙)は13と語られており、1973年に泉州で発見された南宋船の船艙は13、1984年に山東省蓬莱市で発見された元末明初とされる蓬莱船は15、1995年に浙江省象山県で発見された明初とされる象山船は13だった[15]
  5. ^ 砧青磁の名の由来は、利休が持っていた青磁のひびに由来する説と、紀州徳川家の青磁が砧に似ていたという説がある。天龍寺青磁の由来は、天龍寺の造営費用をまかなうための天龍寺船で運ばれたことにある[19]
  6. ^ 和鏡には、神社と鳥居の図柄が描かれており、漆器には螺鈿の装飾があった[10]
  7. ^ 文献によれば、元から日本への渡航が再開したのは1299年の仏教僧一山一寧の渡航である。その後、1305年に臨済宗の僧である龍山徳見が、一山一寧に参禅したのちに元へ渡った[29]
  8. ^ 綱首の謝国明は、1242年の承天寺建立に関わっており、円爾とも交流があった[33]
  9. ^ 遣唐使の時代はさらに少なく、約20年ごとに数人だった[39]
  10. ^ 北洋とは長江の河口から北の海域で、東シナ海、黄海、渤海などを指し、高麗や日本までの航路は北号と呼ばれた。南洋は長江の河口から南にあたり、東シナ海、南シナ海、そして東南アジアへと続く南号の航路があった[41]
  11. ^ 1299年に来日した一山一寧は皇帝テムルの招諭使だったが、鎌倉幕府は元へ返答をしなかった[42]
  12. ^ 硫黄は、宋代から日本の重要な輸出品のひとつだった[43]

出典

  1. ^ a b c d e 西谷 2013, p. 3.
  2. ^ a b c d 四日市 2008, pp. 142–143.
  3. ^ a b 北野 1977, p. 15.
  4. ^ a b c 中田 2014, p. 205.
  5. ^ 中田 2014, pp. 204–205.
  6. ^ 北野 1977, p. 16.
  7. ^ 北野 1977, pp. 16–17.
  8. ^ 北野 1977, pp. 15–17.
  9. ^ 北野 1977, p. 17.
  10. ^ a b c d e f 北野 1978, p. 9.
  11. ^ a b 矢澤 2006, p. 167.
  12. ^ 北野 1977, p. 18.
  13. ^ a b 北野 1978, p. 11.
  14. ^ a b 中田 2014, p. 206.
  15. ^ 山形 2004, pp. 56–57, 61.
  16. ^ 山形 2004, pp. 20–21.
  17. ^ 森 2008, p. 103.
  18. ^ 森 2008, pp. 98–99.
  19. ^ a b 森 2008, pp. 100–101.
  20. ^ 森 2008, pp. 116–117.
  21. ^ 森 2008, pp. 102–103.
  22. ^ 北野 1977, p. 19.
  23. ^ a b 四日市 2008, pp. 143–144.
  24. ^ 榎本 2020, pp. 151–153.
  25. ^ 榎本 2008, pp. 66–67.
  26. ^ 河添 2014, p. 115.
  27. ^ 森 2008, p. 98.
  28. ^ 森 2008, p. 99.
  29. ^ 榎本 2020, pp. 177, 181.
  30. ^ 榎本 2020, p. 177.
  31. ^ 安野 2000.
  32. ^ 柳原 2017.
  33. ^ 榎本 2008, p. 53.
  34. ^ 河添 2014, pp. 113–114.
  35. ^ 四日市 2008, pp. 145–146.
  36. ^ 榎本 2008, pp. 52–53, 67.
  37. ^ 田上 2008, pp. 162–164.
  38. ^ 河添 2014, pp. 103–104, 114–115.
  39. ^ 榎本 2020, p. 205.
  40. ^ 榎本 2020, pp. 204–205.
  41. ^ 矢澤 2006, p. 166.
  42. ^ a b c 榎本 2020, pp. 183–184.
  43. ^ 山内 2012, p. 201.
  44. ^ 榎本 2020, pp. 186–189.
  45. ^ 中田 2014, pp. 207–210.

参考文献

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  • 山形欣哉『歴史の海を走る―中国造船技術の航跡』農山漁村文化協会、2004年。 
  • 四日市康博 著「銀と銅銭のアジア海道」、四日市康博 編『モノから見た海域アジア史 - モンゴル〜宋元時代のアジアと日本の交流』九州大学出版会、2008年。 

関連文献

  • 田上勇一郎「中世国際貿易都市「博多」の調査成果」(PDF)『専修大学社会知性開発研究センター古代東ユーラシア研究センター年報』第3巻、専修大学社会知性開発研究センター、2017年3月、145-149頁、NAID AA12712070識別子"AA12712070"は正しくありません。2020年7月16日閲覧 
  • 藪敏裕; 森達也; 徳留大輔 編『貿易陶磁器と東アジアの物流 平泉・博多・中国』高志書院、2019年。 

関連項目

外部リンク