仮説
仮説(かせつ、英: hypothesis)とは、真偽はともかくとして、何らかの現象や法則性を説明するのに役立つ命題[1]のこと。「仮に設けたもの」という原意に則り「仮設」と表記されることもある[2]。
概説
真砂戦りあん 論語
全称命題の形式で表された仮説は、実験・観察・調査などによって事実との合致を検証し続けられたり、その仮説によって別の新たな現象の予測にも成功するにつれて、しだいにより「正しい法則」真砂戦犯などと人々から認知されるようになってゆく[3]。
ただし、自然科学の領域においては、多くの検証を経て「真」として支持する人が多数派になった説が、後に反転して「偽」とされるようになってしまった事例(=パラダイムシフト)も多々あるため、近年では「全ては仮説である」「科学の領域においては、あらゆる説明や法則を、あくまで仮説として扱うべきである」といった表現がされることがある。
自然科学の場合、ある実際の現象について、あり得る説明が仮説である。まず木を立て、次に検証のための実験系を考え、その結果によって仮説の正否を検証することになる。あるいは実験ではなく観察あるいは調査によって検証を行う場合もある。実際にはひとつの方法で仮説が十分に検証できるとは限らないので、さまざまな実験や観察を繰り返して仮説の確かさを検証し、理論付けを行うことで科学は進んでいく。
疑似科学追及を主題とした書籍などでは、ポパーが線引き問題の解決のために提案した反証可能性の概念をそのまま採用し、「反証可能な説明が"科学的仮説"であり、反証可能でないものは"疑似科学的仮説"あるいは"疑似科学的言説"である」といった主旨のことを述べているものもある。ただし、ポパーの提案の後には、実際には常に両者が簡単に区別できるというわけではない、といった指摘がしばしばなされている[4]。
自然科学においては、「法則」や「理論」と呼ばれているものも含めて、究極的にはすべて仮説である、とされる。たとえば物理学では電子の存在を証明できるかどうかは難しい問題である。物理学者はさまざまな実験を通じて電気現象の原因粒子として電子の存在を認め、さらにその利用技術をも発展させた。しかし、実は電子が存在せず、ただ今の物理学者が電子を使って説明している現象をまったく異なる様相で引き起こす別の何かが存在すると考えても、現象的には何も変わらない。したがって、明日にも誰かがその「別の何か」を発見し、それを支える理論を発表すれば、これまでの物理の教科書は過去の遺物になるであろう。実際、ニュートン力学は19世紀末までは揺るぎない存在であった。しかし相対性理論の登場によってその位置づけは変化し、相対性理論の枠組みの中での特殊な場合のひとつとなって納まっている。
ひとつの現象に関してひとつの説明(仮説)で満足するのでなく、あえて意識的に複数の仮説あるいは対立仮説を持つようにすると、知らず知らずのうちに思い込みや固定観念に陥るような事態を防止することができるとか、思考の健全性を確保しやすい、といったことが指摘されることもある。
仮説概念の歴史
ヨーロッパ諸語において 'hypothesis' という用語が現代のように「仮に立てる説」という意味で使われるようになったのは、近世以降である。それ以前は、現在の呼び方で「幾何学の公理」と呼ばれている絶対的前提・命題が 'hypothesis' と呼ばれていたこともある。
近世においては、イギリス系の科学者たちとヨーロッパ大陸系の科学者たちとの間で仮説の位置づけについて大きな見解の相違が生じた。
イギリスのアイザック・ニュートンは「科学的知識は観察事例の蓄積によって帰納的に構築されるべきだ」と判断し、「事例に先行して立てられる命題、すなわち仮説は、科学的探究の中では扱われるべきではない」と考えた。例えば「万有引力の法則」は、帰納法によって導かれるのであるから、科学的知識である。だが、「万有引力の法則を支える原因は何か?」という疑問について、何ら具体的事例がないにもかかわらずあれこれと仮説を立てるのは科学的ではない(つまりある意味で非科学である)と考えた。ニュートンのこのような考え方は、『自然哲学の数学的諸原理』(第2版、1713年)の「われ、仮説を作らず (Hypotheses non fingo)」の表現に典型的に現れている。
一方、ドイツのゴットフリート・ライプニッツは、確実だと証明できる法則は実際上ないと考え、証明できないという性質を持つ命題・仮説の利用は理論の構築に不可欠である、と見なした。
その後、自然哲学者・科学者たちの間に広まっていったのは、仮説を肯定するライプニッツ流の考え方である。現在では、仮説は科学理論の構築のための一般的な方法として広く利用されている。
仮説の好戦性
時に仮説は攻撃的である。新しい仮説は往々にして古い仮説を否定する形で提出され、両者の間に強い対立を作る。当然にその両者の当否を判断することになるが、これは往々にして相手をいかに否定するかを競う形になる。
極端な例の一つに、免疫の仕組みに関する理論がある。ジェンナーが種痘という形で発見した免疫は、パスツールによって一般化され、弱毒化した病原体であるワクチンを予防接種することによる感染予防という方法が開発された。その働きの本体がどこにあるかの追求から、それが血清にあることがわかり、これが血清療法を生んだ。ところが、メチニコフは食細胞を発見してこれが病気を予防する働きをしていると判断すると、それまでの血清の働きに関する知見いっさいを否定した。ここから両派による自己の正当性を証明し、相手方が間違っているとの証拠を示す競争がおこり、両派の対立は感情的なものにまでなったという。
仮説はこのように極端な形を取る例が少なくない。これはその対立によってこそ議論や研究が進む面があるからで、時に学者はすべて事実に合致しなくても、必要と判断すれば仮説を提出する。メンデルは彼の遺伝法則に合わない実験結果があることを知っていた。「発生学の父」とも言われるフォン・ベーアの言葉に次のようなものがある。
- 「不正確でもきっぱりと断言された一般的な問題の結論は、その不正確な面を訂正しようとする意欲に駆り立てられるから、正確ではあるが控え目な主張よりは科学の発達にとって有益なものである」
数学における仮説
自然現象ではなく抽象概念を扱う学問である数学においては、証明されたものは正しい命題であり、定理である。誤りであることが証明されたものも問題ない。しかし、「こういうことが成立する」と誰かが予想し、しかしまだ誰も証明していない、かといって反例も見あたらない場合、これは「いつか証明されることが期待される問題」ということになる。これを仮説(または予想)と言うことがある。代表的な例として、リーマン仮説(Riemann Hypothesis、日本ではリーマン予想という呼称が一般的)がある。
別の用例として、たとえば連続体仮説がある。これは「証明も反証もできないことが知られている」という点で、上の仮説(予想)とは意味合いが異なる。
統計学における仮説
統計学では、仮説とは、成立もしくは不成立が確定していない命題を指す。記号は もしくは が用いられる。統計的仮説検定でこの手法が用いられる。
帰無仮説のような仮説を、成立しうるものか、それともありそうにないものなのかを統計量によって判定する、仮説検定という手法が行われる。
仮説の例
- 言語(言語学)
- 言語の起源 : ワンワン説 / プープー説 / ドンドン説 / エイヤコーラ説(マックス・ミュラーが提唱)。タータ説(サー・リチャード・パジェットが提唱)。 / 「母・語」仮説 / 儀式・発話の共進化説(ロイ・ラパポート他提唱) / 言語過程説[5]
- 認識(哲学・論理学)
- 数(数学)
- 物理現象、天文現象(物理学・天文学)
- 熱の本質・正体 : 運動説 / カロリック説
- 燃焼の本質・正体 : 四元素説 / フロギストン説 / 「酸素との結合」説
- 光の正体 : 粒子説 / 波動説 / 光子説 / 二重説
- 光の伝播のしくみ : エーテル理論 / 特殊相対性理論
- 重力のしくみ : 渦動説 / 万有引力 / 重力場。「遠隔作用説」/「近接作用説」
- 物質的現象の本質: 原子仮説 / エネルギー論 [7] / 「真空のエネルギー Vacuum energy」論、ダークエネルギー論
- 宇宙の起源、宇宙の歴史 (宇宙論): 定常宇宙論 / 振動宇宙論 / ビッグバン仮説 / サイクリック宇宙論
- 太陽系の起源(太陽系起源説):デカルトの渦動説 / 星雲説(カント 1755年、ラプラス 1796年) / 潮汐説(ジーンズとジェフリーズ、1916年) / 電磁捕獲説(アルフェン、1942年)/ 乱流渦動説(「新星雲説」「渦動星雲説」「ワイゼッカー=カイパー説」などとも。ワイゼッカー、1944年)/ 光圧星雲説(フレッド・ホイップル、1947年)/ ホイルの星雲説
- 太陽系の形成と進化に関する仮説の歴史 も参照可。
- 月の起源:親子説 / 兄弟説 / 他人説 / ジャイアント・インパクト説
- 銀河はどのように形作られ、どのようなしくみで形が変化しているのか? : 「星がたくさんできたので、中心のブラックホールが大きくなれた」仮説 / 「まず巨大なブラックホールがあったから、その周囲で星の形成がさかんになったのだ」仮説
- エルゴード仮説(確率論、統計力学)
- 宇宙検閲官仮説(ブラックホール、一般相対性理論)
- 化学的現象
- 化学反応のしくみやダイナミズム(さらに化学反応の反応速度はどのようなしくみで決まるのか?という問題) :ハモンドの仮説 / 局所平衡仮説 / 準平衡仮説 / 非再交差仮説
- ゲイ=リュサックの気体反応の法則とジョン・ドルトンの原子説の間の矛盾:アボガドロの仮説
- 生命現象(生物学・地学ほか)
- 生命の起源(生命はどのように誕生したのか?):超自然説(創造説) / 自然発生説 / 化学進化説 / DNAワールド仮説 / RNAワールド仮説 / プロテインワールド仮説 / パンスペルミア仮説 / ID説
- 進化(生物の形が世代とともに変化していること[8])のしくみ: 用不用説 / 自然選択説 / 今西進化論 / 中立進化説
- 隔離分布(同一生物が大きく離れた地域に分布している理由): 陸橋説 / 大陸移動説 (生物地理学)
- 化石が存在すること(すでに滅びた生物の痕跡が地層から発見され続けること):天変地異説 / 斉一説
- 発生のしくみ : 前成説 / 後成説(発生学)
- 人類の進化(サルからどのようにして人が生まれたか?):狩猟仮説 / キラーエイプ仮説 / マキャベリ的知性仮説 / アクア説
- 周期ゼミ(素数ゼミ)の寿命がかっきり13年か17年である理由:「交雑する可能性が最小限になるからだ」説 / 「捕食者の生活周期との一致を最小限にするようになっているのだ」説 / 「素数になっているのは偶然で、まったく意味はない」説[9]
- 赤の女王仮説(進化、集団遺伝学)
- ジャンゼン・コンネル仮説(生態学、植物学)
- 中規模撹乱仮説(生物多様性、生態学)
- 人体(医学)
- 全身の血管の構造、つながり方 : 「通気系・栄養配分系の2系統」説(ガレノスの説) / 血液循環説
- なぜ歯の象牙質で痛みを感じるのか?:動水力学説
- 匂いを感じるしくみ(嗅覚が区別する対象) : 「分子の形状」説 Shape theory of olfaction / 「分子の振動」説 Vibration theory of olfaction
- 社会(社会科学)
- 人間と人間のつながりの構造: 六次の隔たり
- サイ現象、超能力、ポルターガイスト現象、ホーンティング現象:サバイバル仮説 / スーパーPSI仮説(超心理学)。心霊説(心霊主義)。誤謬説 / インチキ説(懐疑派)。
- ファフロツキーズ: 竜巻原因説、鳥原因説、飛行機原因説、悪戯説ほか
- シンクロニシティ、不思議な一致:シェルドレイクの仮説
その他
- 「もし恒星間航行を可能とする宇宙人がいるなら、なぜこの地球にやって来ないのか?」(フェルミのパラドックス): 動物園仮説
- 同一人物説(歴史上の人物について)
脚注
- ^ 『岩波 哲学・思想事典』p.239 「それ自体の真偽は確かめられていないが、色々な現象を説明したり、法則を導き出したりするために役立つものとして、仮に推論の前提に置かれる命題。」
- ^ 村上 1979, p. 6.
- ^ 『岩波 哲学・思想事典』p.239
- ^ 例えば「予測というのは複数・無数の仮説・前提が組み合わさってできているため、予測結果が実験などによって反証されても、理論が含む多数の仮説・前提のうちのどれかに問題があったとしても、一体そのうちのどれが棄却されるべきなのか判別できず、またさらに実験自体にミスがあったのかそうでないのかも、実際上は判別ができないため」といった主旨の指摘など。
- ^ 時枝誠記は「言語過程観」と呼んでいた。
- ^ [1]
- ^ ヴィルヘルム・オストヴァルトやエルンスト・マッハなどが支持。20世紀初頭では主流の説
- ^ 「Descent with modification」(『種の起源』
- ^ [2]
参考文献
- 村上陽一郎『新しい科学論——「事実」は理論をたおせるか』講談社〈ブルーバックス〉、1979年。ISBN 978-4061179738。
- 竹内薫(2006年)『99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』光文社新書、ISBN 4334033415
- アンリ・ポアンカレ(1983年)『科学と仮説』改版、河野伊三郎訳、岩波文庫、ISBN 4-00-339021-0
関連番組
- 『仮説コレクターZ』、NHK BSプレミアム 2015年4月より 毎週木曜 21:00-22:00放送
関連項目
外部リンク
- 仮説 - 哲学事典(森宏一編集、青木書店 1981年増補版)からの引用。
- (推論形式としての)仮説 - パース哲学用語辞典