山崎裕之
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 埼玉県上尾市 |
生年月日 | 1946年12月22日(77歳) |
身長 体重 |
176 cm 76 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手、遊撃手 |
プロ入り | 1965年 |
初出場 | 1965年4月10日 |
最終出場 | 1984年9月29日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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山崎 裕之(やまざき ひろゆき、1946年12月22日 - )は、埼玉県上尾市出身の元プロ野球選手(内野手)。
経歴
この選手の経歴・人物像に関する文献や情報源が必要です。(2014年5月) |
埼玉県立上尾高等学校では1962年、1年生の時に投手、三番打者として夏の甲子園予選西関東大会決勝に進出するが、甲府工に敗退。翌1963年春の選抜に遊撃手、控え投手として初出場を果たす。同大会では1回戦で松阪商を降すが、2回戦で東邦高に完封負け[1]。この試合ではリリーフとして甲子園初登板を果たした。1964年夏の県予選は準決勝で熊谷商工に敗れた。この年9月、上尾市内で東京オリンピックの聖火ランナーを務めている[2]。高校の1年下に会田照夫、江田幸一がいた。
1965年、東京オリオンズに入団。『長嶋二世』と言われた所以で、オリオンズ入団時に当時の看板打者・榎本喜八がつけていた背番号3を提示されたが、2を希望する。当時はドラフト制度が無く、各球団での競合となり、当時としては破格の契約金5000万円での入団となった。1年目から一軍に定着、1967年には遊撃手のレギュラーとなる。同年は規定打席(17位、打率.255)にも到達するが、打撃は今一つ伸び悩む。しかし1969年に二塁手に回り、打率.301(リーグ5位)を記録。
以後不動の二塁手として活躍。1970年は開幕戦の南海ホークス戦で1回裏に先発・西岡三四郎の初球を初回先頭打者初球本塁打している[3]。この年のロッテ打線はミサイル打線の異名を取って、山崎も6番で25本塁打を放って75打点を挙げ、10年ぶりのリーグ優勝に貢献、しかし同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは16打数2安打と精彩を欠いた。
1971年8月14日の東映フライヤーズ戦では史上25人目となるサイクルヒットを達成。1973年のオールスターゲームでは第3戦で9回裏にヤクルトスワローズの安田猛からサヨナラヒットを放ち、この試合のMVPに輝いた。
1974年には自身2度目のリーグ優勝を経験、中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、全試合で4番に座り、最終第6戦で3安打を放つなど22打数8安打3打点と活躍して優秀選手賞を獲得し、チーム24年ぶりとなる日本一に貢献した。
しかし1978年オフに就任した新監督の山内一弘の構想から外れ、古賀正明・倉持明との交換トレードで、福岡から所沢へ移転したばかりの新生西武ライオンズに成重春生と共に移籍。当時、ヤクルト監督の広岡達朗からヤクルト移籍を誘われたが、この時は実現しなかった[4]。このオフに「球界の寝業師」の異名を取った西武根本陸夫監督はBクラスが定位置となっていたライオンズの体質改善の為に他にも田淵幸一・野村克也など他球団で実績を残した大物のベテラン選手を続々と獲得していたが、山崎もロッテ時代と同じ背番号2を与えられ、チーム再建を担うベテランの一角として期待を受けた。
1979年は故障欠場もあって規定打席に届かなかったが、打率.332を記録。根本に代わって広岡が西武監督に就任した1982年には120試合以上に出場しチームは7年ぶりのAクラス入りと同時に19年ぶりのリーグ優勝・24年ぶりの日本一へと駆け上がり、1983年にもほとんどの試合に出場して2年連続となるリーグ優勝・日本一連覇に貢献し、自己最多の82打点をマークし、当時プロ野球18人目となる通算2000本安打も達成している。1984年、チームのリーグ3連覇が絶望的になったのを機に若手主体の編成に変わり、自身の打撃の低迷も相まってこの年限りで現役を引退した。
引退後は、文化放送、テレビ東京の野球解説者、日刊ゲンダイの野球評論家として活動している。
逸話
高校時代は埼玉県営大宮公園野球場で長嶋茂雄以来のバックスクリーン弾を放つなど強打で鳴らして『長嶋二世』と評され、当時は広島カープを除く11球団が興味を示したというプロ注目の内野手であったが、まず1番に声をかけてくれた東京オリオンズに入団することを決意したという[5]。この時にオリオンズが提示した5,000万円という契約金は当時としては破格であり、山崎本人はこれを手取りで受け取っていたと証言しており、こうした契約金の高騰合戦が1965年オフより始まったプロ野球ドラフト会議導入のきっかけになったのではないかと推測している(ただし、山崎は契約金は慶應義塾大学から南海ホークス入りした渡辺泰輔の方がさらに上であったとも語っている)[6]。
広岡達朗は選手として山崎に大きな信任を寄せており、ヤクルト監督時代は獲得を熱望していたほか、西武監督となってからは東尾修や田淵幸一などのチームの看板選手も特別扱いをせずに厳しい態度で臨んだが、山崎に関してだけは何も言うことは無く、1982年シーズンは打率.246、7本塁打という不本意な成績で終わったにも関わらず「チームへの貢献度は一番」と評してこの年は年俸が上がったという[5]。
根本陸夫は山崎の獲得に当たって投手2人をロッテから要求された事については「バッテリー間を先に作り上げるという考え方からすれば、やっちゃいかんこと」と後年振り返りつつも、山崎の事は「打の柱が田淵なら、投の軸が東尾、あとは内野にキーマンが必要です。守れて打てる山崎君は、その役にピタリでした。オリオンズに在籍して14年、キャリアは十分です。派手ではないけれど、野球の職人です。放っといても自分で自分をつくるタイプです。新しい環境が水に合えば、最盛期のレベルに復活してくれると期待しています。5年待てば、新しく入れた若手が育ちます。その間、西武の力となり、若手の見本となってくれればと思いました。」と評している[7]。この根本の読み通りに山崎は移籍後にキャリアハイと言えるような数字を残して西武の優勝と日本一に貢献し、在籍6年でユニフォームを脱いだが、次世代のセカンドには行沢久隆・辻発彦ら若手が既に台頭を見せていた。
選手としての特徴
高卒1年目からショートでレギュラー出場するもなかなかプロのレベルでは芽は出なかったが、守備位置がセカンドに固定されてレギュラーに定着してからは打撃でもパンチ力を見せ、現役20シーズン中14シーズンで2桁本塁打を記録し、通算で270本塁打を放った。しかし、規定打席に到達して打率3割を記録したのは1度だけであり、通算打率は.265と決して高くはない。
通算盗塁数は137だが、盗塁死も多く成功率は55.9%に留まり、通算犠打も104と多くはなく、リードオフマンや繋ぎの2番といったタイプではない。プロ入りから打順は毎年のように変動しており、ロッテ時代は1番~7番での間で打順がチーム状態に応じて変動していたが、西武移籍後は現役晩年ながら1番や2番での起用で固まり[8]、1980年にはリーグ最多四球を記録するなど出塁するために四球を選ぶようになり、1981年と1983年にはリーグ最多得点も記録している。プロ入りしてから1番から9番までの全打順での起用経験を持つ[5]。
守備に関しては守備位置は入団当初はショートであったが、3年目となる1968年に119試合でショートの守備について23失策・守備率.957を記録するなどプレーに確実性を欠いていた。 しかし、翌1969年よりセカンドにコンバートされると125試合でセカンド守備に入って9失策・守備率.986を記録し、課題だった守備に安定感が出た[9]。以後は長年セカンドを守り続け、セカンドでの試合出場1883試合は高木守道に次いで歴代2番目に多く[10]、セカンドでの通算捕殺3972、通算刺殺4840はいずれも歴代3位の記録となっている[11]。守備に卓越した選手をシーズンごとに選ぶダイヤモンドグラブ賞にはセカンドで3度選出されている。また、現役時代は隠し球の名手として知られ、犠打で二塁へ送られてきたランナーやタイムリーなどを放って油断している選手に不意を突いて仕掛ける事があった[5]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1965 | 東京 ロッテ |
71 | 205 | 189 | 10 | 36 | 5 | 1 | 2 | 49 | 14 | 9 | 5 | 3 | 0 | 12 | 0 | 1 | 36 | 8 | .190 | .243 | .259 | .502 |
1966 | 28 | 69 | 65 | 1 | 8 | 0 | 0 | 0 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | 11 | 4 | .123 | .162 | .123 | .285 | |
1967 | 113 | 367 | 339 | 26 | 76 | 12 | 4 | 7 | 117 | 34 | 8 | 4 | 6 | 0 | 19 | 2 | 3 | 78 | 5 | .224 | .271 | .345 | .617 | |
1968 | 128 | 466 | 420 | 47 | 107 | 18 | 5 | 14 | 177 | 49 | 8 | 7 | 4 | 3 | 33 | 4 | 6 | 75 | 5 | .255 | .318 | .421 | .740 | |
1969 | 126 | 541 | 495 | 73 | 149 | 19 | 4 | 14 | 218 | 60 | 7 | 6 | 4 | 5 | 34 | 0 | 3 | 74 | 1 | .301 | .350 | .440 | .790 | |
1970 | 129 | 520 | 474 | 64 | 117 | 16 | 3 | 25 | 214 | 75 | 15 | 12 | 3 | 6 | 36 | 4 | 1 | 80 | 4 | .247 | .301 | .451 | .753 | |
1971 | 123 | 508 | 439 | 84 | 123 | 22 | 3 | 21 | 214 | 50 | 17 | 10 | 2 | 4 | 59 | 2 | 4 | 78 | 10 | .280 | .371 | .487 | .858 | |
1972 | 123 | 499 | 442 | 54 | 107 | 22 | 1 | 16 | 179 | 58 | 4 | 9 | 2 | 2 | 52 | 1 | 1 | 76 | 7 | .242 | .323 | .405 | .728 | |
1973 | 123 | 429 | 377 | 45 | 90 | 13 | 2 | 9 | 134 | 27 | 11 | 6 | 8 | 1 | 39 | 1 | 4 | 65 | 6 | .239 | .317 | .355 | .672 | |
1974 | 124 | 507 | 454 | 62 | 126 | 32 | 3 | 11 | 197 | 58 | 6 | 5 | 9 | 5 | 39 | 2 | 0 | 70 | 12 | .278 | .335 | .434 | .769 | |
1975 | 118 | 484 | 430 | 62 | 116 | 17 | 5 | 17 | 194 | 56 | 9 | 8 | 5 | 2 | 46 | 0 | 1 | 74 | 13 | .270 | .342 | .451 | .793 | |
1976 | 121 | 478 | 418 | 50 | 114 | 19 | 2 | 16 | 185 | 62 | 7 | 4 | 6 | 5 | 48 | 2 | 1 | 67 | 6 | .273 | .349 | .443 | .792 | |
1977 | 128 | 505 | 451 | 49 | 116 | 21 | 4 | 17 | 196 | 62 | 4 | 6 | 10 | 3 | 39 | 0 | 2 | 85 | 7 | .257 | .319 | .435 | .754 | |
1978 | 122 | 483 | 435 | 56 | 126 | 23 | 2 | 13 | 192 | 52 | 3 | 4 | 12 | 2 | 33 | 1 | 1 | 55 | 8 | .290 | .341 | .441 | .783 | |
1979 | 西武 | 79 | 337 | 286 | 54 | 95 | 16 | 2 | 12 | 151 | 46 | 7 | 3 | 5 | 1 | 44 | 1 | 1 | 41 | 8 | .332 | .423 | .528 | .951 |
1980 | 128 | 566 | 477 | 89 | 140 | 26 | 2 | 25 | 245 | 77 | 6 | 3 | 3 | 5 | 78 | 2 | 3 | 70 | 11 | .294 | .396 | .514 | .910 | |
1981 | 125 | 553 | 457 | 97 | 124 | 27 | 4 | 22 | 225 | 68 | 5 | 5 | 2 | 3 | 88 | 0 | 3 | 83 | 7 | .271 | .392 | .492 | .885 | |
1982 | 122 | 473 | 415 | 50 | 102 | 16 | 1 | 7 | 141 | 34 | 4 | 5 | 5 | 2 | 51 | 2 | 0 | 67 | 8 | .246 | .328 | .340 | .668 | |
1983 | 128 | 600 | 515 | 96 | 148 | 30 | 3 | 18 | 238 | 82 | 4 | 3 | 9 | 7 | 67 | 3 | 2 | 52 | 12 | .287 | .372 | .462 | .834 | |
1984 | 92 | 297 | 267 | 30 | 61 | 17 | 0 | 4 | 90 | 19 | 3 | 0 | 6 | 2 | 22 | 1 | 0 | 30 | 7 | .228 | .287 | .337 | .624 | |
通算:20年 | 2251 | 8887 | 7845 | 1099 | 2081 | 371 | 51 | 270 | 3364 | 985 | 137 | 105 | 104 | 59 | 842 | 28 | 37 | 1267 | 149 | .265 | .339 | .429 | .768 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更
表彰
- ベストナイン:5回 (二塁手 1969 - 1971年、1974年、1980年)
- ダイヤモンドグラブ賞:3回 (二塁手 1977年、1980年、1981年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1974年)
- オールスターゲームMVP:1回 (1973年 第3戦)
- パ・リーグプレーオフ優秀選手賞:1回 (1974年)
記録
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1965年4月10日、対東映フライヤーズ1回戦(後楽園球場)、7番・遊撃手で先発出場
- 初安打:1965年4月11日、対東映フライヤーズ2回戦(後楽園球場)、5回表に尾崎行雄から
- 初打点:1965年6月8日、対西鉄ライオンズ8回戦(小倉球場)、10回表に田中勉から右前2点適時打
- 初本塁打:1965年6月15日、対東映フライヤーズ9回戦(東京スタジアム)、3回裏に田中調から2ラン
- 節目の記録
- 100本塁打:1973年4月20日、対阪急ブレーブス前期1回戦(後楽園球場)、4回裏に足立光宏から左越ソロ ※史上74人目
- 1000試合出場:1974年5月21日、対太平洋クラブライオンズ前期7回戦(平和台野球場)、5番・二塁手で先発出場 ※史上170人目
- 1000本安打:1975年7月13日、対太平洋クラブライオンズ後期1回戦(宮城球場)、1回裏に東尾修から中前安打 ※史上91人目
- 150本塁打:1976年8月29日、対阪急ブレーブス後期7回戦(阪急西宮球場)、9回表に山田久志から左越ソロ ※史上44人目
- 1500試合出場:1978年5月27日、対日本ハムファイターズ前期9回戦(後楽園球場)、4番・二塁手で先発出場 ※史上57人目
- 1500本安打:1979年10月10日、対日本ハムファイターズ後期12回戦(西武ライオンズ球場)、9回裏に宇田東植から中前安打 ※史上32人目
- 200本塁打:1980年4月30日、対ロッテオリオンズ前期6回戦(宮城球場)、9回表に安木祥二から左越決勝ソロ ※史上33人目
- 1000三振:1980年8月1日、対南海ホークス後期4回戦(西武ライオンズ球場)、9回裏に金城基泰から ※史上5人目
- 300二塁打:1981年8月10日、対ロッテオリオンズ後期5回戦(西武ライオンズ球場)、3回裏に水谷則博から ※史上18人目
- 3000塁打:1982年8月10日、対ロッテオリオンズ後期4回戦(西武ライオンズ球場)、8回裏に三井雅晴から中前安打 ※史上19人目
- 2000試合出場:1982年8月17日、対南海ホークス後期7回戦(大阪スタヂアム)、2番・二塁手で先発出場 ※史上17人目
- 250本塁打:1983年4月22日、対阪急ブレーブス1回戦(西武ライオンズ球場)、8回裏に松本祥志から2ラン ※史上20人目
- 1000得点:1983年5月19日、対ロッテオリオンズ7回戦(鹿児島県立鴨池野球場)、3回表に大田卓司の決勝適時二塁打で生還して記録 ※史上18人目
- 350二塁打:1983年9月6日、対南海ホークス20回戦(大阪スタヂアム)、9回表に矢野実から ※史上13人目
- 2000本安打:1983年9月18日、対ロッテオリオンズ24回戦(西武ライオンズ球場)、3回裏に仁科時成から右翼へ三塁打 ※史上18人目
- その他の記録
- 6試合連続二塁打(1971年7月29日 - 8月3日)当時の日本記録
- 1イニング2本塁打[12]:2回 ※史上8人目(複数回達成は史上2人目)
- サイクルヒット:1971年8月14日、対東映フライヤーズ19回戦(明治神宮野球場) ※史上25人目
- オールスターゲーム出場:11回(1969年、1970年、1972年 - 1977年、1980年、1981年、1983年)
背番号
- 2 (1965年 - 1984年)
関連情報
出演番組
- 文化放送ホームランナイター
- 文化放送ライオンズナイター
- 全力闘球 - 出演していたテレビ東京のプロ野球中継の現行タイトル。
脚注
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ 64年東京五輪 子供が夢育む好機 山崎裕之さん - 毎日新聞2015年11月5日(聖火の記憶)[リンク切れ]
- ^ 開幕直後の“先頭打者弾”!プレイボール直後の“初球”に注目
- ^ 「私の履歴書 広岡達朗」日本経済新聞社連載(20)、2010年8月21日
- ^ a b c d “山崎裕之 廣岡監督に評価された名バイプレーヤー/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボールonline (2019年1月27日). 2020年6月9日閲覧。
- ^ “新人選手の獲得、活躍あれこれ(1)”. 東京プロ野球記者OBクラブ (2018年9月1日). 2020年6月9日閲覧。
- ^ “【根本陸夫伝】 主力を放出してまで田淵幸一の獲得にこだわった男”. web Sportiva (2015年9月2日). 2020年6月9日閲覧。
- ^ “山崎裕之[1965-1984]”. 日本プロ野球RCAA&PitchingRunまとめblog (2014年1月5日). 2020年6月9日閲覧。
- ^ “プロ野球記録 山崎裕之”. johnnybet.com. 2020年6月9日閲覧。
- ^ “追悼・タフさと勤勉さで球史に残る名二塁手となった高木守道”. FRIDAY DIGITAL (2020年1月21日). 2020年6月9日閲覧。
- ^ “二塁守備得点[1958-2019]”. 日本プロ野球RCAA&PitchingRunまとめblog (2015年8月20日). 2020年6月9日閲覧。
- ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」410ページ
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 山崎裕之 - NPB.jp 日本野球機構