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松尾城 (日向国)

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松尾城(まつおじょう)は、現在の宮崎県延岡市にあった城郭。別名「縣城」。


歴史  1444(文安1)年から土持宣綱が築城にかかり,1446(文安3)年に西階城から居城を移したという(『延陵世鑑』)。以後,土持宣綱→土持全繁→土持常綱→土持親栄→土持親佐→土持親成の6代134年間、縣土持氏の本城として機能した。  1578(天正6)年4月10日、大友宗麟(大友義統)により落城して縣(延岡)は大友領となるが、同年11月9日~12日の高城の戦い・耳川の戦いで島津氏が勝利した後に島津領となった。同14日には縣土持氏は島津氏へ被官し(「川上久辰耳川日記」/「都城島津家文書」)、1579(天正7)年から9年間、島津義久配下の縣地頭として土持高信(1584年12月に久綱と改名(『島津国史』))がこの城に在城した(『上井覚兼日記』)。  1588(天正16)年,豊臣秀吉の九州仕置により豊前香春岳から17歳の高橋元種公が入城し,1603(慶長8)年秋に縣城(延岡城)を築城して移るまで、15年間在城した。この時期には、この松尾城を「縣城」と呼ぶ史料もみられる。

 この城は、縄張り調査によって,従来考えられていた以上に広大な範囲に城域の拡大することが確認された。TR線の南側に展開する、主郭と考えられる本東寺西の丘陵(曲輪Ⅰ~Ⅲ,従来はこの部分だけを松尾城として認識していた=狭義の松尾城)から,東は本東寺(曲輪Ⅸ~ⅩⅠ)および堀切iをはさんで松山神社・永田神社の丘陵(曲輪ⅩⅡ)まで、北はTR線より北の尾根(曲輪⑥~⑨)およびその東の田部神社のある尾根(曲輪①~⑤)までを城域としている。また,今後の縄張り調査によっては,その中間の尾根にまで拡大する可能性がある。いずれにせよ,現状でも南北600m,東西500mに達する大城郭(=広義の松尾城)である。  ここでは便宜的にTR線南側の「一の城」,北側の「二の城」,東の尾根の「三の城」に区分しておく。1578(天正6)年の大友宗麟(大友義統)の攻撃をうけ落城した時に「本丸,二の丸,三の丸」の記述があり(『延陵世鑑』),従来は一の城の3つの曲輪Ⅰ~Ⅲをそれにあてて説明していることが多いが,便宜上区分したこの一の城~三の城がそれである可能性もある。    城取りは五ヶ瀬川と支流小峰川を南面の堀とし、南からの敵の行動を阻止する「後ろ堅固の構え」を取っている。周辺には、「ノマの下」「池尻」「岩ぐま」「堀端」「城ケ峯」「おんばらでん(御腹田?)」「馬場野」「鍛冶屋」「武人屋敷」「代官屋敷」など、城郭に関連する通称地名が数多く伝承されている。南側の松山神社・永田神社の丘陵とにはさまれた堀切iを通って東西に通じる道は旧高千穂街道であり,これが1446(文安3)年に縣土持氏の本城となって以降の城下街道である。

 縄張り構成的には,堀切・空堀・竪堀・土塁を多用する一の城がもっとも複雑でより近世的,二の城はそれよりもやや造りが粗く,三の城はもっとも単純な構造になっている。ここから、三の城→二の城→一の城という築城の時代的な推移を示す可能性もあり、もともとここにあった城が次第に修築・拡大され後の拠点城郭としての松尾城の「遺構」が現在残っているということになる。  とくに,一の城は縄張りが最も複雑であり、1578(天正6)年4月の大友合戦とその後の島津氏配下縣地頭土持久綱の修築,1587(天正15)年3月の豊臣秀長合戦およびその後の高橋元種の修築によるものと考えられる。高橋元種は北九州の雄として、また、豊前(福岡県)の要衝であった香春岳城主として、1586(天正14)年に、九州平定を進める豊臣秀吉配下の毛利・小早川・吉川・黒田軍との激戦を経験しており、縣(延岡)移封後に修築した松尾城には、当時の築城技術の粋が投入されているとも言える。現在の松尾城跡はその時の遺構である。  ただ、この城はもともとは石垣造りであり、高橋元種が縣(延岡)城築城の時にその石垣の石を運んで転用したとの伝承があるが、現地での複数の縄張り調査ではそのような確証は全く得られておらず、当時の築城技術の粋が投入されているとは言え、これは信憑性に乏しく疑問である。