墨弁
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墨弁(ぼくべん、墨辯)または墨経(ぼくけい)は、中国の古典『墨子』の中の6篇(経上篇・経下篇・経説上篇・経説下篇・大取篇・小取篇)の総称。術語事典・学説集のような形式で、幾何学・光学・力学・論理学(中国論理学)等を論じる。簡素な記述や伝存状態の悪さから、『墨子』の中でも難解な箇所として知られる[1][2]。
概要
基本的には以下のような形式で書かれている。
- 「経」(経上篇と経下篇) - 簡素な文(主に術語の定義文)の箇条書き。
- 「経説」(経説上篇と経説下篇) - 「経」で箇条書きした文に対する解説文(注釈・言い換え)のような文の箇条書き。
- 大取篇と小取篇 - 学説の枚挙。
「経・経説」と同様の形式は、近い時代の他の文献にも見出される。例: 『韓非子』十過、内儲説上などの「儲説」諸篇、『管子』乗馬・宙合・心術上、牧民解などの「解」諸篇、思孟学派の『五行』、黄老思想の『経法』君正・論・亡論など[3]。「経・経説」の成立順序(「経」が先に書かれたのか、それとも同時に書かれたのか)については諸説ある[4]。
受容
「墨子#受容」および「名家_(諸子百家)#研究史」も参照
西晋の魯勝は、墨弁の注釈書を著したが、叙文だけ残して散佚してしまった[5]。なお、「墨弁」という呼称はこの叙文に由来する。
清代には、王念孫・畢沅・孫詒譲らが『墨子』全体の校訂・注釈を進めた。特に乾隆55年(1790年)には、張恵言が『墨子経説解』を著している[1]。
民国初期の1920年代前後には、胡適・梁啓超ら多くの学者によって、西洋の論理学等との比較を通じて名家とともに再評価され、多くの研究が発表された[1]。ただし、この時期の研究は「墨子インド人説」に象徴されるように、実証性よりも斬新さを競うような研究が多かった[6]。
現代語訳
「墨子#参考文献」を参照
参考文献
- 井ノ口哲也「「経」とその解説――戦国秦漢期における形成過程――」『中国出土資料研究』第2号、1998年。
- 高田淳「墨経の思想 : 経上・経説上について」『学習院大学文学部研究年報』1963年。国立国会図書館書誌ID:764856
- 高田淳「墨経の思想 : 経下・経説下について」『東京女子大學論集』1964年 。
- 楊寛著、西嶋定生監訳、高木智見訳『歴史激流 楊寛自伝 ある歴史学者の軌跡』東京大学出版会、1995年。ISBN 978-4-13-023044-5。
脚注
- ^ a b c d 楊 1995, p. 46f.
- ^ 池田光子 著「『墨子』――兼愛・非攻を説く異色の書」、湯浅邦弘 編『教養としての中国古典』ミネルヴァ書房、2018年。ISBN 9784623082759。
- ^ 井ノ口 1998, p. 52.
- ^ 井ノ口 1998, p. 58.
- ^ 叙文は『晋書』隠逸伝にある。
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:魯勝墨辯注敘
- ^ 楊 1995, p. 46f;94.
外部リンク
- ctext.org 墨子 - 中国哲学書電子化計画
- Mohist Canons - スタンフォード哲学百科事典「墨経」の項目。