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風魔

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風魔(かざま/ふうま、風广/風摩)は、三浦浄心の『北条五代記』において、北条氏直に扶持され、天正9年(1581)の「黄瀬川の戦い」で敵方の武田の陣に夜討ちをする集団を率いた乱波として紹介されている人物。後北条氏の発給文書などに名前のみえる「風間出羽守」や、『関八州古戦録』などに名前のみえる「風間孫右衛門」はそのモデルとみられている。

また同著者の『(慶長)見聞集』には、江戸時代初期に向崎甚内が関東各地の盗賊の首領を「風魔の一類らっぱの子孫ども」と告発して江戸町奉行所による「盗人狩」が行われた、との逸話があり、風魔が率いた集団を「風魔」とか風魔一族(ふうまいちぞく)と呼ぶこともある。

鎌倉管領九代記』に登場する風間小太郎とは別人。派生して物語に登場する人物として風魔小太郎は著名。

伝説

三浦浄心が著した寛永18年(1641年)刊の『北条五代記』によると、天正9年(1581年)に北条氏直が黄瀬川をはさんで武田勝頼信勝父子と対陣したとき、風摩と「四頭」に率いられた山賊、海賊、強盗、窃盗の「四盗」、合計200人から成る一党は、夜々に敵陣に忍び込んで、人を生け捕りにし、繋ぎ馬の綱を切ってその馬に乗り、更にあちこちに放火し、四方八方に紛れ込んで、勝ち鬨をあげるので、敵方はさんざん動揺した。頭目の風摩について、武田軍の兵士は「身の丈7尺2寸(約218cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」という、異様な風貌をしていると噂したという[1]

『北条五代記』には、風魔や乱波は後北条氏滅亡後、その名前や噂を聞かなくなった、とあるが、同じ三浦浄心の著書『見聞集』には、後北条氏滅亡後、向崎甚内が「関東各地に千人も二千人もいる盗賊の首領はみな昔有名だったいたづら者、風魔の一類・らっぱの子孫です。自分は居場所を知っているので案内しましょう」と訴え出て、江戸町奉行所による「盗人狩」が行われ、「盗人」が根絶やしにされたという逸話を載せている。しかし、向崎甚内も「大盗人」であることがわかり、慶長18年(1613年)に処刑された。

  • 嘉永3年(1850年)刊の『武江年表』の天正18年(1590年)の記事でも上述の解説をしているが、『武江年表補正略』を著した喜多村信節は、「乱破」は徒党の名称、「風魔」はその中の一人の名前だと補説している。[2]

出自

『北条五代記』や『見聞集』には風魔の出自や根拠地に関して何も言及がない。

表記・読み

三浦浄心の著書-『北条五代記』寛永版・万治版および『見聞集』(写本、内閣文庫本)-における表記は一貫して「風广」で、「广」は浄心の著書の中で「天广」「須广」「薩广」「達广」など「まだれ」の漢字全般の略字として用いられている。読みは『北条五代記』に振り仮名「かざま」とあり、『見聞集』にはルビがない。

モデル

風間孫右衛門

関八州古戦録』巻10「多賀谷政経乗捕湯(弓)田砦事」には、関宿城落城の翌年・甲戌(天正2年・1574年)の秋、猿島領が後北条氏の持分となったため、北条氏政が伊勢備中守貞連に命じて湯田村(坂東市弓田)に砦を築かせ、飯沼の対岸にあった天満天神の社を焼き払って城を築き、風間孫兵衛(または孫右衛門)と石塚藤兵衛に軽卒300人を付けて守らせた。これは多賀谷政経の領地を押さえ、敵方の隙をついて襲撃するためだった、との記事がある。

類似の記事は、『関八州古戦録』以前に成立した下妻多賀谷氏の家記にもみえる。

風間出羽守

後北条氏の発給文書

後北条氏の発給文書に、風魔のモデルと思しき「風間」の人名がみえることは、『新編武蔵風土記稿』の中に指摘があり、その後、関連する文書が何件か見つかっていて、中でも「風間出羽守」の人名がみえるものが1件ある。[3][4][5]

元亀3年(1572年)5月7日付けで、後北条氏(笠原藤左衛門尉)は岩井弥右衛門尉ら5人に対し、「風間」を同年7月まで(約2ヵ月間、岩付領内の)「六ヶ村」に配置する予定として、宿以下のことを手配し、馬草・薪を調達させるよう命じ、もし知行分に対して狼藉があった場合は、風間にいったん断わりを入れ、承諾しなければ書付を小田原へ提出するように伝える朱印状を与えた[6]

風間来七月迄六ヶ村被為置候間、宿以下之事、無相違可申付候、万一対知行分、聊も狼籍致ニ付而者、風間ニ一端相断、不致承引者、則書付者、小田原へ可捧候、明鏡ニ可被仰付候、馬之草・薪取儀をは、無相違可為致之者也、仍如件、

   壬申(元亀3年・1572)五月七日      笠原藤左衛門尉奉
   岩井弥右衛門尉殿
   中村宮内丞殿
   足立又二郎殿
   浜野将監殿

   立川藤左衛門尉殿
北条家朱印状写(新編武蔵風土記稿111)[7]
  • 『新編武蔵風土記稿』によると、この文書は、武蔵国小宮領檜原村の旧家・百姓(吉野)軍次の家伝文書2通のうちの1つで、その先祖は後北条氏の配下で、天正元年(1573年)に没した吉野対馬守盛光といい、その子・九郎右衛門以降も代々「対馬守」を名乗り、軍次は13代目とされている[8]
    • 「吉野対馬守」の受領は、青梅師岡村里正となって慶長16年(1611年)に新町村を起村したことで知られる吉野織部之助正清家の家系図にも先祖の名としても見え(ただし諱は「正方」とある)、吉野正清は、忍城主の成田氏に仕えていたが、後北条氏滅亡の後、師岡村へ来て帰農したとされており、『成田分限帳』には他にも成田氏に仕えていた吉野氏の人物の名がみえる[9]
  • 「笠原藤左衛門尉」は、北条氏政の宿老として、永禄10年(1568)から天正5年(1577)頃、領域担当の奉行として北条家当主から岩付領への取次ぎを担当していた笠原康明とみられている[10]
    • 黒田基樹は、笠原が奉者となっていることから、文書は武蔵岩付領(さいたま市周辺)に宛てたもので、宛名にみえる岩井氏ら5人は岩付衆、と推測している[4]
  • 「岩井弥右衛門尉」は、自序により天保11年(1840年)頃成立の、越谷宿大沢町の名主・江沢昭融が著した地誌『大沢町古馬筥』に、以前、新方領向畑(むこうばたけ)村(越谷市向畑)にあった陣屋の陣屋守で、後に修験となって同村の花向院の住職をしていた人の名としてみえる[11]。天保に近い頃まで子孫の縁者が残っていたが、嫡家は没落しており、天保当時、向畑村字陣屋の百姓・初右衛門の家に伝説的な人物「新方三郎」の肖像画として伝えられてた掛け軸は、実際には岩井弥右衛門の肖像画で、また文化の頃まで花向院には岩井弥右衛門所持の短刀が伝えられていた、とされている[11]
  • 元亀4年(1573年)12月10日、後北条氏(評定衆・勘解由左衛門尉康保)は武蔵国の「すな原」の百姓達からの訴えを受けて、以後、風間を「すな原」に在宿させないとする裁許朱印状を与えた[12]
  • 天正5年(1577年)2月に北条氏(評定衆・下総守康信)は、内田孫四郎に、「風間同心渡辺新三」からの、内田が定められた軍役を果たしていないとの訴えを却下した旨を伝える朱印状を与えた[13]
    • 内田孫四郎は、天正元年(1573年)2月に関宿の合戦で戦功があったとして北条氏直の感状を受け、天正2年(1574年)7月に(北条)氏好から太田美濃守時代からの「すな原」の「打明」の領有を引き続き認められていた[14]
  • (推定天正9年・1581年以降に)北条氏政が(岩付城主の)十郎(氏房)に宛てた書状では、夜間の警備を厳重に行うにあたっては前々から準備しておくこと、風間のところへ加勢することが重要であり、「かき」を1里ほど指示すべきこと、「かゝり」を極め、夜中くらいままにしておくように(?)厳しく指示すべきことなどを繰り返し指示している。
今日之構肝悪(要カ)之処侯、然者、夜中之仕置極候、兼而不申付儀者、俄ニ成かたく候、日中さへ厳敷候事者あわたゝしく候、いわんや夜中之儀者、兼而之仕置専一候條、風間処江堅加勢専一候、第一かきを一里計可被申付侯、又かゝりニ極候、夜中くら(暗)く候まゝ堅可被申付候、返々夜分の用心専一ニ候、大かたニ覚悟ニ而ハロ惜候、又煩ハ如何、くわしくきゝ(聞)度候、
十郎殿へ
北條氏政〔カ〕書状写(家伝史料6)[15]
  • 平山優は、「かき」は「嗅ぎ」(嗅物聞、偵察の忍び)と推測している[16]
  • (推定天正10年・1582年)9月13日付の書状で北条氏政は風間出羽守に「大手陣」(氏直の軍勢)の境での戦況を伝え、味方と示し合わせて出陣するよう命じている。
注進状之趣、何も心地好候、為致絵図見届候、然者大手陣弥吉事連続、於信州遠州之境、山家三方衆千余人討捕、信州者無残所候、当口へも定使可見届候、毎日人衆打着候間、能々首尾を合、可打出候、無二此時可走廻候、謹言、

(天正10年)九月十三日   (北条)氏政(花押)

風間出羽守殿
北条氏政書状(佐藤行信氏所蔵文書)[17]

黒谷村・雨宮弥太夫家の家記

黒谷周辺の「風間出羽守」関連地名地図

2006年刊の茂木和平『埼玉苗字辞典』[18]および下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』[3]に、岩付城下・黒谷村さいたま市岩槻区)の妙円寺の開基は、風間出羽守の嫡子・雨宮主水正、とあり、茂木は、「風間」は信濃国水内郡式内社風間神社から起る在名で、本名が「雨宮」と推測し、黒谷村には、雨宮氏が5戸あり、風間氏は無い、と指摘している[18]。『岩槻市史 通史編』[19]には、「妙円寺:曹洞宗:開基:風間出羽守嫡子・雨宮主水正。開山:真浄寺第三世雪庭祖林和尚」とある[20]

江戸時代に黒谷村の名主をしていた雨宮弥太夫家で安政2年(1855年)から書き継がれた「万代記録帳」(杉崎賢治家文書)[21]中の「清和天皇七代之孫源頼義公 当家世代控」によると、同家の始祖は、「風間出羽守嫡子雨宮主水正〔本国紀州清和源氏頼義18代之後 風間出羽守〕」である[22]。また明治8年(1875年)に調査が行われた『武蔵国郡村誌』の黒谷村 妙円寺の項には「正保の頃、村吏雨宮利之助の祖先・風間出羽守庶子雨宮主水、開基創建すと云」とあり[23]、「利之助」の名は「万代記録帳」にもみえる[24]

黒谷地区の雨宮姓には2系統あり、屋号「ホンケ」「トライチドン」の雨宮家には、4代前の継嗣が幼いうちに両親が死去したため、母方の実家のあった越谷市西新井で養われ、成長してから黒谷に戻り家を復活させたと伝えられていた[25]。「万代記録帳」が伝わった杉崎家は、雨宮家の継嗣の姉の嫁ぎ先で、雨宮家の継嗣が幼い頃に両親が死去したため、その後見人となり、継嗣は成長した後に岩槻へ移住したため、雨宮家の跡を継いだ、とされている[26]

「万代記録帳」が伝わった家とは別系統の屋号「ケイッカ」の雨宮家には、先祖は大坂城で財政の仕事をしていたが、大阪落城のとき、松ブシミンブサマと一緒に落ち延びてきた、と伝えられていた[27]。松伏町の石川民部家の祖流については、河内石川氏とする説もあり[28]、松伏町で2001-2002年頃、町史編纂のため聞き取り調査を実施した際にも、石川民部家始祖は大阪の陣の頃、関西から落ち延びてきた、との民間伝承が残っていた[29][30]

「万代記録帳」には、別に、雨宮家が毎年正月と7月に黒谷村の妙円寺と遍照院に付け届けをしており、妙円寺については、先祖が開基だった旨がみえる[31] [32]。『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』所載の聞書によると、黒谷の雨宮氏一党の本寺は岩槻太田浄源寺で、妙円寺には墓のみがあったが、遍照院に墓を移した、とされている[33]

「万代記録帳」によると、雨宮主水正の没年は承応元年壬辰(1652年)で、その子・弥太夫(1689年没)から代々「弥太夫」を名乗っており、初代弥太夫の妻・雲信女(1684年没)は新方領恩間村(現越谷市恩間、『新編武蔵風土記稿』には「岩槻領忍間村」としてみえる[34])の渡辺氏から嫁いでいる[35]。(上記の天正5年の後北条氏の発給文書にみえる「風間同心渡辺新三」との関連が考えられ、)恩間村渡辺氏はその家譜が『越谷市史 第3巻 史料1』[36]や『大竹の歩み』(抄本)[37]に収載されているが、家譜の自序によると、中世の系譜は正保年間の火災で焼失し、系譜は後年、他の渡辺氏の系図を参照して書き継いだもの、とされており、「新三」名はみえない[38]

また『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』によると、黒谷の約半数は「浜野」姓で、屋号「アブラヤ」で村内の薬師堂を創建した浜野家は古くから屋号「ケイッカ」から分れた屋号「シモノカタヤ」の雨宮家と交流があった[39]

風間用水と風間圦

『武蔵国郡村誌』の下新井村の項に、同村の北方・飯塚村から南に流れて高曽根村・黒谷村の間に入る「風間堀」について言及がある[40]。1984年当時は「風間用水」と呼ばれるようになっており、「飯塚から南下新井・黒谷・高曽根へと続く」とされている[41]

天明3年(1783年)の「飯塚村明細書上帳」には、元荒川から用水を引き入れるため、風間と風間新田の2箇所に圦(いり)を普請してある旨がみえ、風間の圦について飯塚・下新井・黒谷・高曽根・野島・孫十郎の6ヶ村、風間新田の圦について末田・飯塚の2ヶ村の組合とされている[42]

一 村国村治郎兵衛裏より風間圦前迄堀長三百八拾三間
一 風間(圦)尻より往還石橋迄 七拾弐間
一 往還石橋より古川堤上口迄 弐百八拾八間
一 古川堤上り口石橋より下新井馬洗場石橋迄百五拾弐間
一 上曾根土橋より落口迄 六拾四間
 〆堀長サ千六拾八間(約1.942km)有之申侯、右之役人者共算ニ当年
 ハ〆九百五拾九間当有之、清水右金次当

風間堀筋之覚「清水金之亮家文書」[43]

考証・評価

  • 文政11年(1828年)の『新編武蔵風土記稿』は、「風間」の名が記された後北条氏の発給文書2点を収載し、うち1点に「文中に風間といへるは、小田原北条氏にかかへおける乱波なり、乱波とは忍びの者のことにて、あるひは透波とも云、風間はその首領にて、諸国を廻り軍事をたすけしものなり」と編注を付している[8]
  • 万延元年(1860年)頃完成した和学講談所の『武家名目抄』において、『北条五代記』「関東の乱波智路の事」にみえる乱波は、常に「忍(しのび)」を役する一種の「賎人」で、野武士・強盗などの中から扶持され、戦国大名は間者・かまり・夜討などに使うために彼等を養い置いた、と解釈されている[44]
  • 1926年に花見朔巳は、もともと身分が低く、情勢次第で主君を替える傭兵・野武士のような雑兵で、軽装で防備が手薄な敵方の陣所に物盗りに入り、火付けをするなどしていた「足軽」が時代が下るにつれ部隊化されたものが「らっぱ」ではないかとし、『北条五代記』の中では不分明な、斥候や偵察をする「忍びの者」とはやや異質な存在だったのではないかと指摘した[45]
  • 1928年に三田村鳶魚は、『北条五代記』の風魔(、『鎌倉管領九代記』の風間小太郎)と『見聞集』の「風魔の一類らっぱの子孫共」を同じ「風摩の一類」だ、と解釈して、「らっぱ」すなわち怪しげな能力を持った「忍びの上手」の「風摩の一類」が、後北条氏の滅亡で食禄を失い、江戸に上って盗賊(泥坊)になったと主張した[46]
  • 1928年に折口信夫は、三田村の「盗賊」的な見方を発展させ、らっぱを「サンカ」(山岳地帯に住む特殊な民族)が里に下りて街道筋を流浪するようになった存在だと主張した[47]
  • 2004年に下沢敦は、『北条五代記』「関東の乱波智路の事」の条に、乱波の言い換えである「二百人の悪盗」について『節用集』に「悪盗」が「悪党」の言い換えとされていることや、作中の「山賊・海賊・夜討・強盗」の列挙が『御成敗式目』第3条の罪科の列挙と共通していることから、乱波を悪党(極悪で凶悪な盗人の集団)と解釈し、戦国大名家が傭兵として悪党集団を召し抱え、足軽部隊を先導させるなどして、現代の斥候のような索敵・偵察任務や、夜討ちに代表される夜間奇襲攻撃のような特殊任務に使役した、と解釈した[48]
  • また下沢は、『北条五代記』「関東の乱波智路の事」の後半の「立すぐり・居すぐり」の逸話が『太平記』巻第34「平石の城軍の事付けたり和田夜討の事」の記事にみえることを指摘し、同話が三浦浄心による再話の可能性を指摘しつつも、身分の低い、社会の最底辺にあるような人々が悪党集団を構成し、中世の古風な悪党の智略をそのまま踏襲していた、と解釈している[48]
  • 2006年の下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』は、「風間」の名が見える後北条氏の発給文書5点と黒谷村の妙円寺開基・雨宮主水正の先祖・風間出羽守の伝を紹介した上で、「風間」を「ふうま」と読み、「風間」と「風間出羽守」を「北条氏に仕えた忍者の棟梁」と解釈している[3]
  • 2013年に黒田基樹は、下山『後北条氏家臣団人名辞典』に挙げられている史料のうち、黒谷村の妙円寺開基・雨宮主水正の先祖・風間出羽守の伝を除く5点と、別人と目される「風間」の人名が見える後北条氏の発給文書1点の存在を指摘し、風間は史料中で、軍事最前線に配備され、軍事活動を担う存在とされている、とし、推定天正9年以降の北条氏政の十郎あて書状で風間が敵の夜懸への警戒にあたっていることもあわせて、特殊な軍事活動を多く行う存在であったことが伺われ、それが江戸時代に「忍者風魔小太郎」を生み出した、と推測している[4]
  • 2020年に平山優は、「風魔の実像を検討した唯一の研究」[49]として黒田の論考を挙げ、他の先行研究の存在を否定した上で、実在した風間は、「嗅ぎ」などの忍びの任務をこなし、後北条氏にとって重要な戦場の最前線に派遣、配置されており、かなりの規模の軍勢を率いていたが、その軍勢は素行が悪く、味方の村々からも悪評紛々であった、として、『北条五代記』などが「明記」する「風魔一党は悪党出身のアウトロー集団であった」という記述とほぼ一致する、と解釈している[50]

関連項目

関連作品

脚注

  1. ^ 萩原龍夫(校注)『北条史料集』人物往来社、1966年、399-400頁。 
  2. ^ 今井金吾『定本 武江年表 上』筑摩書房、2003年10月。 
  3. ^ a b c 下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年9月、523-524頁、ISBN 978-4490106961
  4. ^ a b c 黒田基樹「コラム 風間出羽守のこと」『北条氏年表』高志書院、2013年、136-138頁
  5. ^ 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』小田原市、1993年
  6. ^ 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.1106、93-94頁
  7. ^ 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.1106、93-94頁
  8. ^ a b 『新編武蔵風土記稿』巻之111 多磨郡之23 小宮領 檜原村 上 旧家 百姓(吉野)軍次」。蘆田伊人(編)『大日本地誌大系 第10巻 風土記稿6』雄山閣、1931年、81-82頁。
  9. ^ 滝沢博「帰農した地侍たち - 吉野氏と師岡氏」たましん地域文化財団『多摩のあゆみ』第46号、1987年2月、37-50頁
  10. ^ 黒田基樹「総論 北条氏房の研究」黒田基樹(編)『北条氏房』〈論集戦国大名と国衆19〉岩田書院、2015年、19頁
  11. ^ a b 「8 ○向畑村新方三郎之事」『越谷市史 第4巻 史料2』(越谷市、1972年)133頁。茂木和平『埼玉苗字辞典』ウェブ版の「イ」「岩井氏」の項に言及がある。
  12. ^ 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.1137、128頁
  13. ^ 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.1239、217-218頁
  14. ^ 『岩槻市史 古代・中世史料編I 古文書史料 下』1983年、No.475,481
  15. ^ 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.2245、1082-1083頁
  16. ^ 平山優『戦国の忍び』角川新書、2020年9月、94-95頁
  17. ^ 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、416頁、No.1464、
  18. ^ a b 茂木和平、2006年、第2巻、カ-シ、2165頁
  19. ^ 岩槻市市史編さん室、1985年
  20. ^ 782頁。下山氏のご教示による。
  21. ^ 『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(下)』1982年、952-1060頁
  22. ^ 前掲書958-959頁
  23. ^ 『武蔵国郡村誌 第11巻』埼玉県立図書館、1954年、第11巻 埼玉郡村誌 巻之七 黒谷村、323頁
  24. ^ 前掲書960頁
  25. ^ 『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、27-28頁
  26. ^ 『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、27-28頁
  27. ^ 岩槻市市史編さん室、1982年、27-28頁
  28. ^ 大河内博「ある豪農の盛衰 - 石川民部の系譜」『大きく砕けよ』1990年、160-161頁
  29. ^ 「松伏町聞き取り調査カード(事件用)」No.1-35・1-146、2001年・2002年
  30. ^ 「万代記録帳」によると、風間出羽守は黒谷の雨宮家の先祖筋であるが、始祖はその子・雨宮主水正とされているため、後北条氏の推定天正10年の発給文書にみえる風間出羽守と同一人物(の子)であったとしても、当時から一貫して黒谷にあったかは不明で、『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』の伝のように別地からの移住の経緯があったとも考えられる。
  31. ^ 『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(下)』976頁
  32. ^ 『岩槻市史 金石史料編Ⅰ 中世史料』(岩槻市、1984年、196頁)には、妙円寺には明応9年(1500年)の板碑があるとされており、同寺の創建は雨宮主水正の時代よりも遡る可能性がある。
  33. ^ 『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、36-37,252,257-258頁
  34. ^ 『新編武蔵風土記稿』巻203 崎玉郡 5 岩槻領 忍間村附持添新田
  35. ^ 前掲書959頁
  36. ^ 越谷市、1973年、962-967頁
  37. ^ 大竹自治会、1997年、30-32頁
  38. ^ 『越谷市史 第3巻 史料1』962-963頁
  39. ^ 『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、27,35-36,268頁。
  40. ^ 第11巻 埼玉郡村誌 巻7 下新井村、339-340頁
  41. ^ 『岩槻市史 民俗史料編』岩槻市市史編さん室、1984年、177頁。『岩槻市史料第13巻 民俗調査報告書2』(岩槻市史編さん室、1982年)58頁に、「風間用水は、飯塚の金子亀次家の裏、島田タイル屋から入ってきて高曽根に来ているもの」とあり。
  42. ^ 「清水金之亮家文書」『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(上)』1982年、585-595頁
  43. ^ 『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(上)』1982年、591頁
  44. ^ 今泉定介編『故実叢書 武家名目抄 職名部 巻6』吉川弘文館、1903年、701-703頁
  45. ^ 花見朔巳「室町時代の解体期と足軽の研究」花見朔巳「室町時代の解体期と足軽の研究」日本歴史地理学会『日本兵制史』日本歴史地理学会、121-240頁
  46. ^ 三田村鳶魚「慶長前後の泥坊」『中央公論』第43巻第2号(通巻481号)1928年2月、説苑8-15頁。三田村の主張はその出典の記述内容と論考の結論が必ずしも結び付いていないと思われるが、戦後の戦後の「風摩忍者」に関する時代考証物において支配的な見方となっている。例示は省略する。
  47. ^ 折口信夫「無頼の徒の芸術」民俗芸術の会『民俗芸術』第1巻第8号、1928年8月、1-14頁。論考のもとは講演での口頭発表で、論拠となる出典への言及が全く示されていないが、安野真幸「『相良氏法度』の研究(二)『スッパ・ラッパ』考」(弘前大学教養部『文化紀要』第40号、1994年9月、9-51頁)や藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年、201-261頁)など、近年の雑兵論でも通説と見做されている。
  48. ^ a b 下沢敦「風摩:『北条五代記』「関東の乱波智略の事」について」『共栄学園短期大学研究紀要』2004年、No.20、15-40頁
  49. ^ 平山優『戦国の忍び』角川新書、2020年9月、88頁
  50. ^ 平山優『戦国の忍び』角川新書、2020年9月、95頁