日系ウルグアイ人
Japonés Uruguayo | |
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バルバラ・モリ 代表的な日系ウルグアイ人 | |
総人口 | |
3,456人 | |
居住地域 | |
モンテビデオ | |
言語 | |
リオプラテンセ・スペイン語、日本語 | |
宗教 | |
キリスト教、大乗仏教、仏教、神道 | |
関連する民族 | |
日本人、日系ブラジル人、日系アルゼンチン人、日系パラグアイ人、日系ボリビア人、日系コロンビア人、日系ベネズエラ人、日系ペルー人、日系エクアドル人、日系チリ人、日系キューバ人、日系ドミニカ人、日系メキシコ人、日系アメリカ人、日系カナダ人 |
日系ウルグアイ人(にっけいウルグアイじん、スペイン語: Japonés Uruguayo)とは日本人の血を引いたウルグアイの市民である。ウルグアイ初の日本人移住者は、1908年に神戸を拠点とした貿易商人が雑貨店の支店開設のためにアルゼンチンから派遣した従業員の坪田静仁(つぼた せいじ)[1][2]、京都市より同年12月10日モンテビデオ港着の宇野テルオである。なお坪田はウルグアイ人女性と結婚したが、子供に恵まれなかったとのことで、子孫はいない[3]。2008年に高円宮妃が日本人ウルグアイ移住100周年記念式典に臨席された時点では、宇野テルオの調査は未確認である。宇野はウルグアイ入国時推定8歳、メルセデス県牧場主ウニエが日本より宇野の両親及び本人の意思で日本から直接ウルグアイへ移民した最初の人物である。
歴史
日本人が最初に大規模な移住を行ったラテンアメリカの国家はブラジルであった。しかし、ブラジル政府は1930年代に日本人移民を禁止することを決定した。その中で、ウルグアイは国土の人口がまばらな地帯を埋めるために、日本人移民を歓迎する国家の一つとなったが、多くの移民は首都モンテビデオにとどまった。第二次世界大戦が始まった時、敵意は主にドイツ系ウルグアイ人、イタリア系ウルグアイ人、そして日系ウルグアイ人と日本語学校に向けられ、特に日本語での新聞や本の出版を行う事は禁止された。当時ウルグアイに住んでいた多くの日系ウルグアイ人はアメリカ合衆国に収監された(日系人の強制収容)。戦後、数百人の日系ウルグアイ人が難民としてウルグアイ政府によって定住を許可され、再び同国に住むようになった。また日本の急速な経済発展に伴い、多くの日本人がウルグアイから利益を得るために特にビジネスマンとして同国を訪れるようになった。日系ウルグアイ人は今日ではスペイン系・イタリア系・ドイツ系などの白人系ウルグアイ人から尊敬され、社会の中心に同化している。それと同時に日系ウルグアイ人はウルグアイの文化の重要な部分でもある。
日系ウルグアイ人はウルグアイに花卉栽培を根付かせたことで知られており、2008年に行われた日本人ウルグアイ移住100周年記念式典に臨席された高円宮妃は、「日系人が品種改良した新たな品種はこの国を華やかに装飾しています。ひた向きな勤勉さと誠実かつ正直なところがウルグアイの社会で信頼と尊敬をかち得たことを同じ日本人として誇りに思います」と移民の苦労をねぎらった[2]。式典にはウルグアイのダニエル・マルティネス (政治家)産業・エネルギー・鉱業省大臣、在ウルグアイ日本国大使館の竹元正美大使、田中忠日本人会会長ら約300人が出席した[2]。皇室のウルグアイ訪問は2003年11月の紀宮時代の黒田清子以来である[2]。
2018年12月3日、安倍晋三が日本の総理大臣として初めてウルグアイを訪問し、現地の日系ウルグアイ人と懇談を行った[4][5][6]。
言語
多くの日系ウルグアイ人はスペイン語しか話さない。ごく少数が日本語を話すことが可能であり、そのうち特に高い教育を受けたものは英語も話す。
宗教
大多数の日系ウルグアイ人はカトリック教徒であり、残りは仏教徒等である。
著名な日系ウルグアイ人
逸話
ウルグアイの第40代大統領を務めたホセ・ムヒカは、2015年の10月11日放送のフジテレビ『Mr.サンデー』拡大スペシャルでのインタビューにおいて、少年時代に近くに住む日系ウルグアイ人の造園業の手伝いをして造園のノウハウを学んだことを紹介し、「実は家の近所に10軒か15軒ぐらいの日本人家族がいてね。みんな花を栽培していたんだ。幼い私も育て方を教わり、家計を助けたよ。彼らはすごい働き者でね。昔ながらの日本人だった。農民の思考で狭い土地に多くのものを耕していたんだ」「ここには日本の造船会社が来ていてね。日本人技術者が大勢働いていたんだ。その子どもたちはここで成長し、自転車で学校へ通い、ここでサッカーを覚えたんだ。ある日、日本人の子どもが試合に出ていてね。激しいプレーで頭をけがして血を流してた。ついにはコートから出された。その子は泣いていたよ。でも傷が痛いからじゃない。最後までプレーできないことが悔しくて、名誉心で泣いていたんだ」と述べた[7]。
脚注
- ^ 竹元正美 (2008年12月). “ウルグアイの高円宮妃殿下”. 文藝春秋 (文藝春秋): p. 85-87. オリジナルの2013年12月14日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b c d “ウルグアイ移住百年を祝う=モンテビデオ=高円宮妃久子さまがご出席=「この国を華やかにした」”. ニッケイ新聞. (2008年9月20日). オリジナルの2017年4月20日時点におけるアーカイブ。
- ^ “ウルグアイへの日本人移住百年祭を応援”. 日本ウルグアイ協会. (2008年6月30日). オリジナルの2021年5月17日時点におけるアーカイブ。
- ^ “安倍首相、ウルグアイとパラグアイを訪問”. MBS. (2018年12月3日). オリジナルの2018年12月4日時点におけるアーカイブ。
- ^ “安倍首相、ウルグアイとパラグアイを訪問”. BSN. (2018年12月3日). オリジナルの2018年12月4日時点におけるアーカイブ。
- ^ “安倍首相、ウルグアイとパラグアイを訪問”. TBS. (2018年12月3日). オリジナルの2018年12月4日時点におけるアーカイブ。
- ^ 新井由己 (2015年10月18日). “ムヒカ大統領から日本人へのメッセージ”. note. オリジナルの2017年4月29日時点におけるアーカイブ。
参考文献
- グスタボ・ヘンタ・ドラド (1993年3月) (スペイン語). La Colectividad Japonesa en Uruguay. モンテビデオ: Ediciones de la Crítica. OCLC 30613716
- 田中, 直樹 (1990年). 南米ウルグアイ東方共和国日本人移住史年表. 東京. OCLC 673507909