有本義明
有本 義明 | |
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生誕 |
1931年6月1日(93歳)![]() |
教育 | 慶應義塾大学 |
職業 |
スポーツライター 野球解説者 |
代表経歴 |
スポーツニッポン新聞社特別編集委員 アール・エフ・ラジオ日本解説者(1970年代 - 2007年) 福岡ダイエーホークス二軍監督 |
基本情報 | |
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国籍 |
![]() |
出身地 | 兵庫県芦屋市 |
生年月日 | 1931年6月1日(93歳) |
身長 体重 |
165 cm kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手、二塁手 |
プロ入り | プロ野球選手経験無し |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
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この表について
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有本 義明(ありもと よしあき、1931年6月1日[1] - )は、日本のスポーツライター・野球解説者、プロ野球監督。兵庫県芦屋市出身[1]。現在はスポーツニッポン(スポニチ)特別編集委員。主にプロ野球を中心に取材している。
来歴・人物
芦屋中学校(1948年4月より学制改革により芦屋高等学校となる)ではエースとして甲子園に通算四度出場。戦後初の1946年夏の選手権に出場するが、1回戦で城東中の前田祐吉に抑えられ敗退[2]。1948年夏の選手権も1回戦でエース西村修を擁する桐蔭高に敗れる[2]。1949年春の選抜は順調に勝ち進み、準決勝では小倉高の福嶋一雄に投げ勝ち完封勝利。しかし決勝では北野高と延長12回の熱戦の末に4-6で敗退、準優勝にとどまった[3]。同年夏の選手権は準々決勝に進むが、中西太らのいた高松一高に完封負け[2]。
慶應義塾大学に進学。同野球部では二塁手へ転向。四年生時には主将を務めた。東京六大学野球リーグでは在学中2度の優勝を経験。リーグ通算29試合出場、65打数13安打、打率.200、0本塁打、5打点を記録。大学同期に花井悠がいた。
大学卒業後はスポーツニッポン新聞社へ入社し、プロ野球を中心としたスポーツの取材を実施。在職中の1962年、当時の阪神タイガース監督藤本定義の要請でアメリカへ外国人選手の調査に向かい、ジーン・バッキーを見いだす。また、同じく1960年代には、NETテレビの東京六大学野球中継に解説者として出演することもあった。1970年代あたりからは、東京12チャンネル・ラジオ関東(1981年よりRFラジオ日本)・TBSラジオ各局のプロ野球中継解説者も務めるようになる。
1992年には、プロ野球記者としての取材活動の集大成として『プロ野球三国志』をスポニチ紙上に執筆。毎日新聞社から単行本が出版された。
1993年から1995年は、根本陸夫に請われ、プロ選手経験のないまま福岡ダイエーホークス二軍の監督を担当する珍しい試みに挑戦した。
著書
- 野球のコツ教えます 明日からうまくなる新理論
- 1974年、スポーツニッポン新聞社より発行[4]。
- ザ・草野球
- 1981年4月、スポニチ出版より発行。ISBN 4790309053
- プロ野球三国志
- 1992年7月、毎日新聞社より発行。ISBN 4620308714
出演番組
- 解説者として出演していた野球中継番組
- 東京六大学野球中継(NETテレビ。1960年代頃)
- 選抜高等学校野球大会中継(MBSテレビ、1960年代から70年代初期。NETテレビ・東京12チャンネルなどにネット)
- ベースボールLive(東京12チャンネル=現:テレビ東京。1970年代前半頃。タイトルは2016年以降のもの)
- ラジオ日本ジャイアンツナイター(RFラジオ日本。ラジオ関東時代の1970年代中頃から2007年まで出演)
- TBSエキサイトナイター(TBSラジオ。1979年 - 1981年)
- スポーツ情報番組
詳細情報
背番号
- 71(1993年 - 1995年)
脚注
関連項目
- 芥田武夫 - プロ選手経験ゼロで新聞のスポーツ記者から近鉄パールス監督を務めた。
- 田口周 - 有本同様に、プロ選手経験ゼロでヤクルトスワローズ二軍監督を経験(スポーツ紙記者出身という点でも共通している)。
- 平田翼 - 有本同様に、野球記者を務める傍ら、RFラジオ日本の野球解説者を務めた。