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金炯旭

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1968年8月27日、統一革命党事件について発表する金炯旭

金炯旭(きんけいきよく[1],キム・ヒョンウク、朝鮮語: 김형욱1925年1月16日 - 1979年10月7日失踪)は、大韓民国軍人政治家第三共和国時代、朴正煕の側近として中央情報部(KCIA)部長を長く務めた。部長解任後、亡命先で朴正煕政権の不正を暴露し、後に失踪したが、KCIAによって拉致・殺害されたものと見られている。

生涯

日本統治時代黄海道信川郡に生まれる[2]1949年陸軍士官学校第8期を卒業し[2]朝鮮戦争中は首都師団中隊長を歴任。1961年5月16日金鍾泌ら陸士8期生とともに核心メンバーとして5・16軍事クーデターに参与、同年5月27日国家再建最高会議の最高委員へ就任[3]すると、内務分科委員長、運営企画委員長を務めた[2]1963年7月、第4代韓国中央情報部(KCIA)部長となり、同年10月、陸軍准将の階級で予備役編入[2]人民革命党事件(1964年)、東ベルリン事件1967年)、統一革命党事件1968年)を捜査するが、3選改憲による混乱から1969年10月にKCIA部長を解任される。1971年5月の第8代総選挙国会議員に当選するも、その直後に発生した十月維新で議員職を剥奪されたことから、維新の首謀者である朴正煕に恨みを抱くようになる。1973年4月に台湾経由でアメリカ亡命し、同国にて朴政権の不正を相次いで暴露する。1979年10月にフランスパリで消息を絶ち、1984年10月に家族が死亡届を提出した。

真相究明

2005年2月3日、KCIAの後継機関である国家情報院の「過去事件真実究明を通じた発展委員会(過去事件真実委)」は、東ベルリン事件民青学連事件および人民革命党事件金大中拉致事件大韓航空機爆破事件正修奨学会朝鮮語版問題、中部地域党事件朝鮮語版とともに、金炯旭失踪事件を優先調査対象に選定した[4]。同年5月25日、過去事件真実委は事件に関する中間報告を発表し、金はKCIAの要員によって拉致・殺害されたと認定した。それによれば、事件は当時のKCIA部長金載圭の指示により、李相悦朝鮮語版駐フランス公使が計画、フランス研修中のKCIA要員シン・某(本名ピョン・某)とイ・某(本名キム・某)に実行させたもので、彼らは東ヨーロッパ出身者2名を雇い金を拉致・殺害、遺体は付近の山野に遺棄したという[5]。事件の全貌を知っていると見られた李相悦は、過去事件真実委との面談において自身の関与は認めたものの、具体的な内容については一切語らず、結局真相を明かさないまま2006年4月に病死した[6][7]

一方で、KCIA関係者を中心として、事件への大統領警護室の関与を主張する声もある。金の回顧録を出版した元民主党国会議員金景梓朝鮮語版によれば、事件当時民主化運動の活動家だった宋振燮朝鮮語版安山市長が西大門刑務所に収監されていた際、朴正煕暗殺事件に関与して隣房に収監されていた朴善浩朝鮮語版元KCIA儀典課長から「金は警護室によって拉致され、青瓦台の地下室で車智澈警護室長手ずから射殺された」という話を聞いたという。しかし、金景梓自身はソウルまで移送するのは困難だとして、パリでの殺害に傾いている[8]。事件当時KCIA総務局長だった李鍾賛元国家情報院長は、朴鐘圭元警護室長の関与を示唆し、海外担当次長だった尹鎰均朝鮮語版もKCIAの関与を否定した[9]

著書

  • “권력과음모” 1979年4月
    • 和訳『権力と陰謀 元KCIA部長金炯旭の手記』合同出版 1980年

脚注

参考資料

  • 金炯旭 (1980), 権力と陰謀 : 元KCIA部長金炯旭の手記, 合同出版, NCID BN01123690 
  • 황병주 (2013), “김형욱(金炯旭)”, 韓国民族文化大百科事典, 韓国学中央研究院, http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0073399 2020年1月20日閲覧。 
  • 김형욱(金炯旭)”. 大韓民国憲政会. 2018年10月6日閲覧。
公職
先代
金在春
大韓民国の旗 大韓民国中央情報部部長
1963年7月12日 - 1969年10月20日
次代
金桂元