田畑氏
田畑氏 | |
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本姓 | 琉球王家(河内源氏為朝流説あり) |
家祖 | 笠利為春 |
種別 |
武家 鹿児島県士族 |
主な根拠地 | 鹿児島県大島郡龍郷町 ほか |
凡例 / Category:日本の氏族 |
鹿児島の田畑(たばた)氏は、江戸時代の薩摩藩士である。 ここでは、奄美大島を起源とする田畑氏について記述する。
かつて奄美が琉球国の一部であった時代、王命により島に渡り領域を支配した笠利(かさり)氏が江戸期に田畑に改姓する。[1]
慶長14年(1609年)の薩摩藩の琉球侵攻の後、奄美は薩摩の蔵入地(直轄領)となり支配を受けるが、その藩政下において領域支配に関与し続け、享保11年(1726年)には奄美初の郷士格となり、「田畑」姓を薩摩藩主より与えられる。砂糖増産のための新田開発等が主な理由とされる。
天明5年(1785年)に藩命によって龍(りゅう)に改姓(明治に田畑に復姓)するが、一族は奄美における為政者として家格を保ち、明治維新を主導した薩摩藩の主財源であった砂糖生産に大きく貢献することとなる[2][3]。
笠利氏とは
伊賀倉俊貞『校正鹿児島外史』等によれば、笠利氏は源為朝(頼朝・義経の叔父)の嫡男・為頼(母:阿多忠景の娘)の直系子孫とされているが、琉球国正史である『中山世鑑』に登場する舜天とつなぐ系図も存在するなど、その実体は不明である。
『笠利氏家譜』等によると、本祖の笠利為春(かさり ためはる/文明14年(1482年) - 天文11年(1542年))は、琉球の第二尚氏初代尚円王の父・尚稷(しょうしょく)の孫であるとされ、王命により文亀4年/永正元年(1504年)に奄美大島に渡り、名瀬間切首里大屋職となる。その後中国に渡り、天文11年(1542年)に亡くなったとされる。
第2代の当主・為充(ためみつ)は、瀬戸内東間切首里大屋職に、第3代・為明(ためあき)は、笠利間切の首里大屋職に琉球王から任命され、その際の任命書が現存している。為充への任命書は「志よ里の御み事 / せんとうちひがまぎりの / 志よりの大やこハ / 一人ひ可せとに / たまわり申す」、為明へのそれには「志よ里の御み事 / かさりのまぎりの大やこハ / 一人 きせの大やこに / たまわり申す / 志よりきせの大やこの主へまいる / 陸慶二年(1568年)八月廿四日」と和文で記されている( 志よ里とは首里、琉球国王のこと)。[4]
第5代・為転(ためてん)の時代、慶長14年(1609年)の薩摩藩の琉球侵攻を迎え撃つも大敗北を喫し、その蔵入地(直轄領)となり支配下に組み込まれる。しかし笠利氏は家督を奪われることはなく従来の地位が保全されるが、元和9年(1623年)に島津久元他4名連署による『大島置目之条々』が通達され、奄美の支配についての取り決めに従うことになる。
一方、為季(ためすえ、7・9代当主)が大坂の陣に参戦し、為成(ためなり、8代当主)が小姓として参勤交代に供奉(初代藩主・島津忠恒の時代)するなど、奄美を本拠地としながら藩政下で特別な扱いを受けていたことも窺える。
その後も本領への参勤や一族の一定期間の薩摩在住が義務付けられるなどの服属を強いられるが、第11代・為寿(ためじゅ)が元禄5年(1692年)に第3代藩主・島津綱貴を表敬訪問した直後に家老・新納久行(にいな ひさゆき)が送付した丁重な礼状(元禄5年(1692年)10月5日付)が現存しており、その文面からも笠利氏が特別な地位を有していたことが確認できる。[5]
ちなみに残存する系図等によると、本祖の為春以降、通字に「為」を使い続け、前述した源為朝とのつながりが強く意識されたことが想像される。また、400年以上も前から存在する田畑家の墓石の家紋には、清和源氏系の武家に多く見られる意匠「丸に一文字(横の棒線が丸枠を左右に突き出す)」が使用されている。
笠利家系譜 (『笠利氏家譜』等による)
- 笠利為春(文亀4年/永正元年(1504年)、王命により奄美大島赴任)
- 笠利為充
- 笠利為明
- 笠利為吉
- 笠利為転(薩摩藩琉球侵攻時の当主)
- (未詳)
- 笠利為季(大坂冬・夏の陣に参戦)
- 笠利為成(島津家久の小姓として参勤交代に供奉。)
- 笠利為季
- (未詳)
- 笠利為寿
- 田畑為辰(享保11年(1726年)、郷士格となり田畑に改姓)
- (未詳)
- (未詳)
- (未詳)
- (未詳)
- 龍為勝
- 龍為善(弟・佐民為行が西郷隆盛が奄美蟄居時の相続人代理)
- 龍為寧 …以下、省略。
田畑・龍氏として
薩摩藩の統治下も奄美の領域支配に深く関与し続け、享保11年(1726年)に藩政への貢献(砂糖増産のための新田開発)を主な理由として、第12代・佐文仁為辰(さぶんに ためたつ/延宝6年(1678年) - 天明4年(1784年))が、奄美で初めて代々、外城衆中格(後の郷士格)に取り立てられ、薩摩藩主より「田畑」姓を与えられる。その時点において奄美で公式に名字を名乗れたのは田畑氏のみであった。『和家文書』によると、天明3年(1783年)にさらに1家、文化15年/文政元年(1818年)から嘉永3年(1850年)の間に40家が郷士格に取り立てられているが、その内36家は砂糖献上、他の4家は唐通事(通訳業)によるものであり、新田開発を理由とするのは享保11年(1726年)の田畑氏のみである。[6]
天明5年(1785年)に、本領との差別化を目的とする政策により一字姓への改姓が強いられ(第8代藩主・島津重豪の時代)、本拠地であった龍郷(たつごう)の一字をとって龍(りゅう)に改姓する。
ちなみに、西郷隆盛が奄美に蟄居していた時期に暮らしていたのが龍郷町であり、龍家に預けられ、その庇護を受ける。島妻となる愛加那は、田畑氏(龍家)の分家筋の娘である。[7]
奄美の本家筋等は明治時代になってから田畑に復姓するが、それ以前に本領に移住していた分家筋ほかは、龍への改姓後も田畑氏のままであったと考えられている。[独自研究?]
脚注
- ^ 『奄美史の一断面 : 奄美笠利氏の系譜』千秋社、1978年11月。
- ^ 奄美大島の砂糖と田畑氏の関係については、大江修造著作の『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』に詳しい。
- ^ 『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』アスキー・メディアワークス、2010年3月10日。
- ^ 『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』アスキー・メディアワークス、2010年3月10日、35 - 36頁。
- ^ 『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』アスキー・メディアワークス、2010年3月10日、137 - 139頁。
- ^ 『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』アスキー・メディアワークス、2010年3月10日、45 - 47頁。
- ^ 『西郷のアンゴ(島妻)ー愛加那ー』みずうみ書房、1990年。
参考文献
- 伊加倉俊貞『校正鹿児島外史』(清弘堂、1885年9月、NCID BA34177729)
- 笠利水也『奄美史の一断面 : 奄美笠利氏の系譜』(千秋社、1978年11月、BN 13715915)
- 大江修造『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり : 薩摩藩隠された金脈』(アスキー・メディアワークス、2010年3月、ISBN 9784048684101)
- 潮田聡・木原三郎 『西郷のアンゴ(島妻) : 愛加那』(みずうみ書房、1990年3月、ISBN 483801547X)
- 南日本新聞社鹿児島大百科事典編纂室編 『鹿児島大百科事典』(1981年9月、NCID BN01086630)
- 皆村武一『奄美近代経済社会論』(晃洋書房、1988年)
- 奄美新聞編奄美の先駆者 田畑佐分仁』上・下(2009年1月1日・1月4日)
- 田畑勇弘『奄美郷土研究会報』第3・4・5号(1962年・1963年)
- 昇曙夢『大奄美史』復刻版(南方新社、2009年)