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西川右近

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西川にしかわ 右近うこん
生年月日 1939年6月4日
没年月日 (2020-12-12) 2020年12月12日(81歳没)
本名 近藤 雅彦
出身地 日本の旗 日本 愛知県名古屋市中区本重町
二世西川鯉三郎
西川司津(近藤静子)
兄弟 西川左近
近藤八重子(元名妓連 芸妓
西川まさ子西川陽子西川千雅
当たり役
三十石の夜舟、お祭り、十二段君ケ色音、月、河、旅、宿の月、身替座禅、喜撰
受賞
1962年名古屋演劇ペンクラブ賞
1982年愛知県文化選奨文化賞[1]
2001年文部科学大臣賞
2015年中日文化賞

西川 右近(にしかわ うこん、1939年6月4日 - 2020年12月12日)は、名古屋西川流(一般財団法人 西川会)三世家元。愛知県名古屋市出身。東京都新宿区に本部を置く「西川流®」(一般財団法人 西川流)とは無関係。

来歴

1939年6月4日、近藤茂と静子の長男として生まれる。3歳で初舞台。1956年、名古屋西川流名取り「西川右近」となる。高校を中退し、4歳年上の名妓連芸妓・八重子(実家は名古屋市西区の靴職人)と同棲、のちの妻となる。この頃から、藤間勘祖 (2世)に師事する。

1983年8月、二世鯉三郎死去、名古屋西川流三世家元を継承。流派で内紛が起こり、1985年4月8日、右近は記者会見を開いて分家の実姉西川左近の絶縁を発表[1]。1985年4月16日、左近も名古屋西川流の分家問題や名取免許授与をめぐり紛糾している問題で記者会見した。左近の分家独立は当時の新聞、週刊誌とマスコミを騒がせた。左近は東京で「西川流鯉風派」を創流して分裂した。1985年8月、財団法人西川会(現、一般財団法人西川会)設立、理事長就任。1992年9月、心筋梗塞で緊急入院。

2004年4月、中京大学体育学部教授・湯浅景元と踊りと健康の融合「NOSS」を開発。2010年、東京国際大学の人間社会学部客員教授に就任。

2014年、第67回「名古屋をどり」終演を以て家元を引退し、以降、名古屋西川流総師を名乗る[2]。2017年1月、妻・八重子が81歳で死去。同年9月1日、一般社団法人日本舞踊スポーツ科学協会設立。2020年12月12日、急性心不全のため、自宅で死去[3]。81歳没。

流派としての活動

その他の活動

名古屋市で「右近」という飲食店を経営していた。

俳優や歌手の振付やステージングなどを手掛けた。東宝歌舞伎の長谷川一夫公演、結城孫三郎の結城人形座、宝塚歌劇団公演、平幹二朗「藤十郎の恋」「東海道四谷怪談」、美空ひばり都はるみ五木ひろしコンサート、中村玉緒ディナーショーなど。

2011年2月2日、作詞作曲の演歌を徳間ジャパンから発売。

出版

  • 『やっぱり古いが面白い!』文化創作出版 2003
  • 『週刊朝日』「夫婦の情景(270)西川右近・八重子夫妻」西川右近、西川八重子 2005.06.24(朝日新聞出版)
  • 『兄者 義経の血霊』だいわ文庫 2007
  • 『にんげん見本帖 心に残るあの人の言葉・この人の生き様』創美社 2010
  • 『日本舞踊舞踊劇選集』西川千雅共編 一般財団法人西川会 2002
  • 『7分のおどりで筋力強化! 日舞エクササイズ「NOSS」のすべて』 西川千雅共著 湯浅景元監修 日本経済新聞出版社 2010

脚注

  1. ^ 芸術文化選奨”. 愛知県 (2012年7月10日). 2014年12月10日閲覧。
  2. ^ 右近の制作日記362、継承公演、無事に終了”. 右近の日記 (2014年9月13日). 2014年12月10日閲覧。
  3. ^ 西川右近・日舞 名古屋西川流三世家元が死去、81歳 「名古屋をどり」を定着 - 毎日新聞 2020年12月15日

参考文献

関連項目

外部リンク