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フランク・ザッパ

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フランク・ザッパ
1977年撮影
基本情報
出生名 フランク・ヴィンセント・ザッパ
生誕 1940年12月21日
出身地 アメリカ合衆国の旗 メリーランド州ボルチモア
死没
学歴 アンテロープ・バレー短期大学
ジャンル
職業
担当楽器
活動期間 1955年 - 1993年
レーベル
共同作業者
公式サイト フランク・ザッパ公式サイト

フランク・ヴィンセント・ザッパFrank Vincent Zappa1940年12月21日 - 1993年12月4日)は、アメリカ合衆国シンガーソングライターマルチプレイヤー作曲家バンドマスター

1960年代の半ばから52歳で病没する90年代前半まで、前衛的なロックを演奏し、ツアーもこなしながら多数のアルバムを発表し、ロック・ミュージックとポピュラー音楽が表現しうる領域を拡大した。すなわち、前衛ロック、現代音楽ミュジック・コンクレート(電子音楽の一種)、ジャズ・ロッククロスオーバー、構築的な電子音楽、などのジャンルのポピュラー音楽的翻案に先鞭をつけ、なおかつR&Bドゥーワップブルースサイケデリック・ロック[注釈 1]ハード・ロックプログレッシヴ・ロックブルース・ロックフリー・ジャズパンク・ロックニュー・ウェイヴレゲエディスコなどの音楽を取り入れた多様性を確保した作風を示した。その功績は広く認知され、1988年にはグラミー賞の最優秀ロック・インストゥルメンタル賞を受賞した。

リトル・フィートローウェル・ジョージジョージ・デュークテリー・ボジオエディ・ジョブソンエイドリアン・ブリューヴィニー・カリウタデュラン・デュランウォーレン・ククルロスティーヴ・ヴァイマイク・ケネリーチャド・ワッカーマンなど、後年著名となったミュージシャンを数多く輩出した。

また生涯を通じて、アメリカ政府、共和党、キリスト教右派(キリスト教原理主義者)、検閲、音楽産業などを批判して、アメリカの問題点をきびしく指摘し続けた。

多くの作品を発表した上に、自作曲の再演やリアレンジも積極的に行った。その活動の活発さゆえ未発表テイクやライヴ音源が膨大に残されており、没後30年近く経った現在も、遺族によって年に複数の「新作」が発表されるほどである。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第45位、2011年の改訂版では第22位。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第71位。

来歴

生い立ちと初期の活動

フランク・ヴィンセント・ザッパは1940年12月21日、メリーランド州ボルチモアで生まれた。彼の祖先にはシチリア島イタリアギリシャアラブフランスアイルランド、そしてドイツと様々な土地の出身者がいた。1951年1月に一家はザッパの喘息療養のためカリフォルニア州サンフランシスコから100マイル南のモンタレーに転居した。一家はその後もポーモーナ、エルカホン、サンディエゴを経て、1955年には再びランカスターに転居した。その結果、ザッパは15歳の時までに六つの異なる学校に通った。父親のフランシス(1905〜73)はシチリア島出身の科学者および数学者で、エドワーズ空軍基地の近くにある連邦政府化学戦研究施設に勤務した[2]。一家はこの空軍基地の近くに暮らしたため、事故に備えて家庭には防毒マスクが常備されていた。

ザッパは12歳でドラムスを始め、17歳でギターに転向した。彼はドゥーワップの熱心なファンで、15歳から17歳まではR&Bばかり演奏しており、本人曰くクラレンス・"ゲイトマウス"・ブラウンジョニー・"ギター"・ワトソンギター・スリムなどに影響を受けた[3]。自らのバンド活動を始めたのもこの頃である。一方、彼は14歳の頃にエドガー・ヴァレーズの作品集を初めて購入して夢中になり、イゴール・ストラヴィンスキーアントン・ウェーベルンの作品もよく聴いていた

高校を卒業したザッパは、いくつかの会社勤めをしながら地元サン・バナディーノのクラブに出演し、キャリアを積んだ。1959年には、彼の英語教師ドン・セルヴェリスが脚本を書いた西部劇映画「Run Home Slow」の映画音楽を担当し、19歳にして現代音楽作曲家としてのキャリアをスタートさせた。1963年には、ポール・バフ[注釈 2]が自主設立しながら資金難で手放したパル・レコーディング・スタジオ[注釈 3]を買い取ってスタジオZと名づけて、そこで様々なレコーディングを行なった[4]

1960年代

1964年、ザッパは、レイ・コリンズ(ボーカル)がリーダーを務めジミー・カール・ブラック英語版(ドラムス)、ロイ・エストラーダ(ベース・ギター)が在籍していたザ・ソウル・ジャイアンツというバンドに、ギタリストとして加入した。ザ・ソウル・ジャイアンツはソウル・ミュージックのカヴァー・バンドであったが、ザッパの提案によってオリジナル曲を演奏し始めた。1965年MGMレコードと契約した彼らは名前をザ・マザーズ・オブ・インヴェンション[注釈 4](本稿ではMOI[注釈 5]と呼称)と変え、翌1966年にデビューアルバム『フリーク・アウト!』をリリースする。ザッパ名義の全14曲から構成された本作は、当時としては異例の2枚組であり、ロック史上初のコンセプト・アルバムの一つであった。

MOIは新しいメンバーを加えて1969年まで活動を継続し、アルバムを7作発表した。MOIの作品のほぼ全てはザッパの単独名義であったが、ザ・ソウル・ジャイアンツ時代からのトラディショナルな素地を持ったコリンズ、ブラック、エストラーダに、バンク・ガードナー英語版(木管楽器)やアート・トリップ(パーカッション)のようなオーケストラ出身者、ドン・プレストン英語版(キーボード)のようなセッションマン、イアン・アンダーウッド(キーボード、サクソフォーン)のようなジャズやクラシックの素養豊かなインテリ、と様々なバック・グラウンドを持った新メンバーを迎えたMOIは、各メンバーの個性と才能が存分に発揮された多彩な音楽性を呈していた。一方で、ザッパは『ランピー・グレイヴィ』(1968年)と『ホット・ラッツ』(1969年)の2作のソロ・アルバムを発表し、既に群を抜いた多作振りを示していた。アメリカではヒット・アルバムが出なかったが、イギリスでは『ホット・ラッツ』がヒットチャートで上位を占め、メロディー・メーカー英語版誌の1969年度の「Album Of The Year」に輝いた。

ザッパの音楽は、ブルースやR&B、ジャズドゥー・ワップ[注釈 6]などの所謂ルーツ・ミュージックに現代音楽の要素を加えた、今日で言うミクスチャー・ミュージックの先駆的なものであった。また、『フリーク・アウト』、『ランピー・グレイヴィ』でのオーケストラと共演、『アンクル・ミート』(1969年)での室内楽的なアプローチやテープ編集によるスタジオ音源とライヴ音源とのミックスなど、技法の斬新さも特筆すべきものがあった。一方、『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』(1968年)では自身の音楽のもう一つのルーツであるドゥー・ワップに斬新なコード進行とアレンジを施したルーツ・ミュージックを披露し、MOIのコンサートでは'Louie Louie'[注釈 7]などのトラディショナルなナンバーも演奏するなど、音楽性の二本槍をきっちりと守った。ソロ・アルバムではMOIのアルバムとは別種の方向性を打ち出し、具体音楽とジャズ・ロックにポピュラー音楽的解釈をいち早く導入した。

当初MOIはMGMレコードの子会社のヴァーヴ・レコードに所属していたが、充分なプロモーションを受けられず不遇だった[注釈 8]。そこでザッパは1968年に「ビザール・レコード英語版」と「ストレイト・レコード」という二つのインディーズ・レーベルを設立して[注釈 9]、前者からはMOIや自分の作品、後者からはキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドアリス・クーパー[注釈 10]ティム・バックリィThe GTO's英語版らの作品を発表した。キャプテン・ビーフハートこと旧友ドン・ヴァン・ヴリート[注釈 11]が率いるキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドのアルバム『トラウト・マスク・レプリカ』(1969年)は、ザッパのプロデュース作品の代表の一つに挙げられてきた。

1969年、ソロ・アルバム『ホット・ラッツ』を発表した後、8月にザッパはMOIの解散を発表した。

1970年代

ザッパが1970年代に最初に発表したアルバムは、MOIの未発表の音源を編集した『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』と『いたち野郎』であった。『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』には、シュガーケイン・ハリス英語版(バイオリン)が参加している[5]

新作ソロ・アルバム『チャンガの復讐』で幕を開けた70年代のザッパの音楽は、ロック、ジャズ・ロック、ブラック・ミュージック、ジャズ・フュージョン、パンク/ニュー・ウェイヴ、ファンク、レゲエと、幾度も変遷を繰り返した。まず、彼はタートルズのヴォーカリストであったハワード・カイランとマーク・ボルマンのデュオ[注釈 12]を迎えて新しいMOIを結成して、60年代に比べると、ややポップな歌ものに傾斜したアプローチを見せた。20分を超える大曲「ビリー・ザ・マウンテン」を収録した『ジャスト・アナザー・バンド・フロム L.A.』(1972年)は、ミュージカル的な掛け合いをサウンドの一部として聴かせており、当時の布陣による一つの音楽的成果と言える。1971年には映画『200モーテルズ英語版[注釈 13]とアルバム『200モーテルズ(サウンドトラック)英語版』を発表した。

1971年12月モントルーカジノモントルー・カジノ」での公演中に、観客の一人が会場の天井に向けてフレア・ガンを発射したので火災が起こり、MOIはその機材すべてを失った。ショーが始まって1時間過ぎた頃に、「フレア・ガンを持ったいかれた野郎」[注釈 14]が天井に向かって銃を発射したので発火。天井は竹で出来ていたので火はあっという間に広がり、十数時間以上燃え続けて、カジノは全焼した。クロード・ノブス(モントルー・ジャズ・フェスの創設者)が観客を必死に誘導したので幸い負傷者は出なかった[注釈 15]。翌週、ロンドンでの次の公演中に聴衆の一人がザッパをステージから突き落とすという事件が起こった。彼はコンクリートのオーケストラ・ピットの上に転落して全身に複雑骨折を負い、一時は生命すら危ぶまれた。一命はとりとめたものの、翌1972年の9月までツアーに出ることもままならない静養生活を送らざるを得なかった。この静養期間中にザッパは当然MOIを維持することが出来ず、MOIは解散の憂き目に会う。

静養期間中に、ザッパはビッグ・バンド・スタイルによるジャズ・ロックのスタジオ録音に没頭する。その成果は、1972年に立て続けに発表されたビッグ・バンド形式のソロ・アルバム『ワカ/ジャワカ』とMOIのアルバム『グランド・ワズー』として結実した。これ以降ザッパは本人が「(引用者註・自分のヴォーカリスト・演奏者としての力量をさして)この程度のスペックでは自分のオーディションにさえ合格できない」[6]と述べた程の厳格なオーディションを行って非常に高い演奏技術を持ったミュージシャンを集めるようになり、期せずして「ザッパ・スクール」が形成されることとなった。また骨折によって高音域の発声が圧迫され、特徴的なロー・トーン・ヴォイスになってしまった[6]。総じて、ステージからの転落はまさに「怪我の功名」とも言うべき結果を導いた。

その後もアルバムリリースの勢いは衰えを見せず、ジャズ・ロック路線とブラックミュージックへの傾倒をミックスした『オーヴァーナイト・センセーション』(1973年)、ジャズ・ロック期の代表作として記憶する人も多い『アポストロフィ (')[注釈 16](1974年)、高度な演奏テクニックに裏打ちされた「インカ・ローズ」などを収録した『ワン・サイズ・フィッツ・オール』(1975年)などのアルバムが続々とリリースされた。この時期のザッパはジャン=リュック・ポンティ[注釈 17](ヴァイオリン)、ジョージ・デューク[注釈 18]キーボード)、ラルフ・ハンフリー[注釈 19](ドラムス)、エインズレー・ダンバー[注釈 20]ドラムス)、チェスター・トンプソン[注釈 21](ドラムス)、ブルース・ファウラー英語版トロンボーン)、トム・ファウラー英語版ベース)、ナポレオン・マーフィ・ブロック英語版(ヴォーカル、テナー・サクソフォーン、フルート)、ルース・アンダーウッド英語版パーカッション)などの錚々たる実力派ミュージシャンに支えられた。このメンバー構成は1975年頃まで続いた。

ザッパ/ビーフハート/マザーズ名義のライブ・アルバム『ボンゴ・フューリー』(1975年)[注釈 22]からは、トンプソンに変わりテリー・ボジオ[注釈 23]が参加。このアルバムを最後に、新作アルバムは参加ミュージシャンの顔ぶれの如何を問わず全てフランク・ザッパ名義となり、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの名前は使われなくなった[注釈 24]。この頃からメンバーの流動が激しくなり、ファウラー兄弟、デュークが去り、ザッパはボジオとの共同作業を軸にブロック、エストラーダを含む多数のメンバーを断片的に関与させ『ズート・アリュアーズ』(1976年)を仕上げる。この頃、パトリック・オハーン英語版(ベース)、エディ・ジョブソン(ヴァイオリン、キーボード)が参加する[注釈 25]。また同年12月には後にメイン・メンバーの一人になるレイ・ホワイト(ヴォーカル、リズム・ギター)、ブレッカー・ブラザーズ[注釈 26]をはじめ多勢のホーン・プレイヤーが参加してニューヨーク・パラディアム・シアターでコンサートが行なわれ、その音源が『ザッパ・イン・ニューヨーク』として発表された。

なお多作なザッパに珍しく『ズート・アリュアーズ』から『ザッパ・イン・ニューヨーク』まで2年のブランクがあったのは、後述のように、『レザー』(更には『ザッパ・イン・ニューヨーク』一部収録曲)をめぐる紛糾が起こったためである。この騒動の間にジョブソン、ルース、ホワイトらがバンドを離れ、ザッパはワーナーとの契約を消化する為に『スタジオ・タン』『スリープ・ダート』『オーケストラル・フェイヴァリッツ』を不本意な形で発表して、ワーナーと契約を終える。

同時期、ザッパは自身のレーベル「ザッパ・レコード」を設立し『シーク・ヤブーティ[注釈 27]ジョーのガレージ』を発表。エイドリアン・ブリューピーター・ウルフ[注釈 28]アイク・ウィリスをはじめ、ヴィニー・カリウタ、ウォーレン・ククルロ、アーサー・バロウがこの時期続々と参加している。

リリース当時勃興していたパンクニュー・ウェイヴに近い音楽性を示した『シーク・ヤブーティ』、「バイオニック・ファンク」と本人が述べたファンキーな側面を打ち出しつつレゲエ的短調や変拍子・ポリリズムをふんだんに多用した近未来的ロック・オペラ『ジョーのガレージ』は、ザッパの80年代以降の音楽性を予期させるものであり、今日ではザッパの代表作(の一つ)の感もある。だがバンドを巡るいざこざは再び起こり、ザッパの新作は再び2年空いた1981年の『ティンゼル・タウン・リベリオン』まで待たねばならない。

1980年代

1981年にリリースされた『ティンゼル・タウン・リベリオン』は、ザッパが同年設立したレーベル「Barking Pumpkin Records」からの最初のリリースとなった。それまでは採譜係だったスティーヴ・ヴァイが成人となったのを機に、実質的なライヴ・デビューを果たした作としても知られる。これ以降、ザッパは毎年のツアー録音を中心とした膨大な量の音源を再編集して作品化する手法にさらに磨きをかけ、年平均2〜3作という旺盛なアルバムリリースを継続していった。

同年、ライヴ演奏のギターソロのみを集めた、ほぼ全編インプロヴィゼーションである『黙ってギターを弾いてくれ』が生み出された。このアルバムは様々な音源を題材としたが、実質的にはザッパとヴィニー・カリウタが生み出す超絶的なポリリズムの作品であると言えよう。スティーヴ・ヴァイは、本作のギターソロを正確に採譜するという仕事を任され、エフェクターやノイズまでを採譜しきった難業を成し遂げて、最終的に「The Frank Zappa Guitar Book」の出版をもたらした。

1982年リリースの『たどり着くのが遅すぎて溺れる魔女を救えなかった船』でチャド・ワッカーマン(ドラムス)が正式に加入し、スコット・チュニス(ベース・ギター)が参加。チュニスは、翌年に発表された次作の『ザ・マン・フロム・ユートピア』で正式加入した。この2人はザッパのキャリアの終点近くまで、バンドのボトムを支えることとなった。

1983年と1984年にはザッパのキャリア上重要な転換点となる2つの作品がリリースされた。1983年発表の『London Symphony Orchestra Vol. I』は、指揮者にケント・ナガノを迎えた、ザッパにとって初のフル・オーケストラによる自作録音であり、本格的なデジタル・レコーディングを駆使した作品であった。デジタル・レコーディング技術の導入によって、録音後の編集作業は大いに簡便になった。1984年発表の『The Perfect Stranger』は、ピエール・ブーレーズの指揮によるアンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏[注釈 29]で、ザッパと現代音楽の接点の中でも最大のものと言える。本作は収録曲の半数以上がシンクラヴィアによるものであり、「初めてシンクラヴィアによる演奏が収録されたアルバム」であるという意義が大きい。

これ以降、ザッパのアルバムは、ツアーの録音素材をオーヴァーダブなしに編集したものとシンクラヴィア演奏とのハイブリッドと言う形態をとることが多くなる。そのハイライトが、ギターソロ曲「St.Ethienne」を除く全曲がシンクラヴィアによるアルバム『ジャズ・フロム・ヘル』(1986年)である。その革新的な内容から、本作はグラミー賞のベスト・インストゥルメンタル・パフォーマンス部門を受賞した。ザッパは「笑っちまったよ、グラミー賞なんてインチキだと思ってるから」「ま、功労賞みたいなもんだな」と、いかにも彼らしいコメントを残している。

1985年9月、検閲委員会(PMRC)が開催を推進してアメリカ上院議会に於いて開かれた意見公聴会に、反対側の参考人として招かれ、委員の前で導入前の検閲制度を批判した[注釈 30]PMRCは、後にアメリカ合衆国副大統領となるアル・ゴアの夫人のティッパー・ゴアが、マスターベーションを勧めるプリンスの曲「ダーリン・ニッキ」を11歳の長女が聴いていることにショックを受けて設立した委員会で、「性表現や暴力・ドラッグを美化したような描写の強い」と認定したレコードやCDのジャケットに、ステッカーで「Parental Advisory: Explicit Lyrics」と表示するように、アメリカ国内のレコード会社に要請した。ザッパは、グレイトフル・デッドのファンであるティッパーを「文化テロリスト」と非難した。のちに彼は、この公聴会のやり取りの音声記録をサンプリングした「ポルノ・ウォーズ」を作曲し、これを収録したアルバム『ミーツ・ザ・マザーズ・オブ・プリヴェンション』を緊急発表して、この問題をより幅広く世間に問うた。このアルバムのジャケットは、「Parental Advisory: Explicit Lyrics」ステッカーのパロディーである。

1984年、ザッパは「ライヴでやれることはすべてやりつくした」ことを理由に、それまでほぼ毎年行ってきた全米を中心としたツアーからの引退を表明した。1986年からは旧作のデジタル・リマスタリングに着手した。そのほかに「Old Masters Box」や「You Can't Do That On Stage Anymore」シリーズなどの旧作発掘・編集音源リリースも開始した。

この時期には賛否両論を招く実験作『Thing Fish』と『Francesco Zappa』がリリースされた。『Thing Fish』は大幅にアレンジされた既発曲も含まれた3枚組の大作ロック・オペラであるが、『ジョーのガレージ』以上に台詞に力点が置かれた結果、非英語圏の聴き手には難解な作品となった。『Francesco Zappa』は18世紀の作曲家フランチェスコ・ザッパの作品をシンクラヴィアで演奏したもので、シンクラヴィアのための習作をユーモアに包む形で発表した作品という解釈が一部でなされた。

1988年、民主党支持者であったザッパは大統領選立候補を検討するがこれは最終的に実現せず、選挙活動の代替案として大規模なワールド・ツアーを企画する。このツアーでは1984年時点のメンバーを中心に、ブルース・ファウラーなどのかつてのメンバーをも含んだ総勢13名のミュージシャンが動員された。全くの無名だったマイク・ケネリーはこのバンド結成時のオーディションでザッパに「あなたの曲はすべてギターとキーボードで弾ける」とアピールして採用され、スティーヴ・ヴァイの後継となるStunt Guitaristとしてツアー全日程に同行した。このツアーのレパートリーは数百曲で、しかも一曲につき複数のアレンジが用意されて、演奏中にザッパの指示で変奏したという。多くのミュージシャンのツアーではほとんど同じ曲が繰り返されるが、ザッパのツアーではコンサートごとに演奏される曲が異なり、新たに書き下ろされた楽曲や未発表曲も多く演奏された。ザッパはリハーサルに半年をかけ、メンバーにその間のギャラも支払ったため、ツアーの収支は大赤字だったらしい。このツアーは6ヶ月間で企画され、全米ののちヨーロッパから日本にまで来ることが決定されていたが、ツアー中にベースのスコット・チュニスと他のメンバーとの間の確執が表面化したので、途中で打ち切られた。ツアーの模様は『ブロードウェイ・ザ・ハード・ウェイ』『ザ・ベスト・バンド』『メイク・ア・ジャズ・ノイズ』など5組のライヴ・アルバムに収録された。また、ツアーの間にザッパが大々的に行った選挙登録キャンペーンは、のちに多くのアーティストが模倣・導入することとなった。

1990年代(死去まで)

1990年、ザッパは死因となった前立腺癌と診断された。癌は10年ほど前から進行しており、発見された時点ではほぼ手遅れの状態であった。共和党のロナルド・レーガンに強く反対していたザッパは、1980年代末から1990年代初頭にかけて大統領選挙への出馬を検討して会見まで行った[注釈 31]が、癌が発症して闘病生活を送らざるを得なかったため断念した。

1991年、1988年ツアーを収録したアルバム群の最後を飾る『メイク・ア・ジャズ・ノイズ』を発表。翌年には「You Can't Do That On Stage Anymore」シリーズ最終作である『Vol.6』、MOIのライヴ・ドキュメンタリーアルバムである『プレイグラウンド・サイコティクス』、『アヘッド・オブ・ゼア・タイム』をリリースした。

1992年の、最晩年の活動であるアンサンブル・モデルンとの共演は殊に重要である。LSOやブーレーズとの共演でも決して満足しなかったザッパは、自分の音楽に情熱的に取り組むアンサンブル・モデルンの姿勢にいたく感銘を受け、自らに残された寿命を十分に認識しつつ、全精力をこのプロジェクトに傾けた。1992年9月のライブ録音は『イエロー・シャーク』として結実するが、同時にザッパの遺作となった。なお、主にリハーサル・テイクを収録した『Everything Is Healing Nicely』が死後の1999年、リリースされた。

1993年12月4日、前立腺癌のため52歳で死去。

音楽性

ザッパの音楽のルーツは、二十世紀の現代音楽ブラック・ミュージックである。彼は14歳の頃にエドガー・ヴァレーズ(1883年-1965年)の作品集を初めて購入して夢中になり、イゴール・ストラヴィンスキー(1882年-1971年)やアントン・ウェーベルン(1883年-1945年)の作品もよく聴いていたが、同時に膨大な量のR&Bのレコードをも聴き漁っていた[6]。そのため、キャリアの初めには、ヴァレーズのパーカッシヴな楽曲の影響を受けたせいかドラムスを選んだ一方、ソウル・ミュージックのカヴァー・バンドであったザ・ソウル・ジャイアンツにギタリストとして加入した。しかし活動を続けていくうちにそうしたジャンルを越え、多彩な要素を盛り込んだ音楽を創造していった。

楽曲面においては変拍子・連符・ポリリズムなどを駆使し執拗に変化する複雑なリズム、転調・移調の多用と独特のハーモニー、多彩なヴォーカルと分厚いコーラス、長尺のギター・ソロに代表される豊かな即興、大胆な他作品の引用などが特徴であるが、それらをあくまでポピュラー・ミュージックの埒内で構成する姿勢がザッパの持ち味である。初期のR&Bに立脚した音楽性をオリジナル・マザーズの解散とほぼ同時に清算してからは、フロー&エディに始まる複数のヴォーカリストの起用もメインとなり、ジャズ・ロック期以降には複数のリズム・ギタリストやキーボード奏者、時にブラス・セクションを加えた大所帯のアンサンブルが目立つようになる。なお、時代によって音楽性が異なるザッパであるが、過去のレパートリーを埋もれさせることもなく、88年のラスト・ツアーにおいてもオリジナル・マザーズのレパートリーを演奏した。その際には事前の綿密なリハーサルによって複数パターンのアレンジを練り直し、ザッパの出す指示によってどのパターンも瞬時に演奏できるようメンバーにその要諦を徹底的に叩き込んだといわれる。

ザッパは音楽大学の講義に潜り込んでいた程度で正規の音楽教育を受けたことはなく、独学でかなりの研鑽を積んだとみられる。ブーレーズ自身の指揮による「ル・マルトー・サン・メートル」のレコードをスコアを見ながら聴いて、演奏の不正確さに気付き、後にそれを本人に指摘した(自伝参照)というエピソードから、相当な読譜力を持っていたことが分かる。ただし、セリー(十二音音楽)やトーン・クラスターといった現代音楽の代表的な手法を使うことは殆んどなく、自らの作曲に関してことさらに理論的な裏付けを示すようなことも行わなかった。現代音楽でもミニマル・ミュージックに対しては明確な嫌悪感を示している。こうした事実も含めてザッパの作曲法は多分に手癖なども含めた経験主義的なものであったとみられる、

没後約30年間、現代音楽界においてザッパが論じられることは殆んどなかったが、彼の作品は屢々クラシック音楽の演奏家達に取り上げられてきた。マイケル・キーラン・ハーヴェイや先述のアンサンブル・モデルン、アンサンブル・アンブロシアスハルモニア・アンサンブルオムニバス・ウィンド・アンサンブル等は彼の作品のみを収録したアルバムを発表し、ノルウェー放送管弦楽団はかつてブーレーズの指揮した"The Perfect Strangers"を演奏した。他にも、メリディアン・アーツ・アンサンブル等のように、彼の作品を演奏する楽団は少なからず存在する。

思想

政治宗教・社会構成などに対してユニークな思想と主義を持っており、それらの事柄に関して独自の意見を述べることでも有名であった。彼は、軽い税金、または所得税廃止といった自由を重視した信条の持ち主であった一方、現存の教育制度と組織化された宗教または宗教団体を痛烈に批判した。共和党のリチャード・ニクソンロナルド・レーガンに激しい嫌悪感を示すなど、とことん反権力の人物でもあった。ザッパの政治的な活動で最も知られるのは、言論の自由を守ることの重要さを大々的に訴え、検閲に反対する姿勢を貫いたことであろう。

歌詞においては、非常に辛辣かつユニークなユーモアによって、政治批判(PMRCなどの検閲政策や、共和党らアメリカ右派、さらにそれらの勢力の精神的支柱であるキリスト教原理主義に強く反対し、自身の作品やコンサートで選挙人登録を強く訴えていた)、社会風刺(時代時代のロックシーンにおけるファナティックな流行や、若年層の性的紊乱やドラッグ問題、市井の人間の攻撃的な行状などを揶揄した)、現代風俗(実在の地名や人名、国名や人種名、商標名などの固有名詞が頻出する)、性風俗(ゲイやSMといった過激な題材を―しばしば批判的に―取り上げることもあった)などが主な題材として扱われる。また、言葉遊びによる造語や異国語の混入、スラングやメタファーの多用された独特の言い回しも多い。実在のバンド・ミュージシャンに茶化しのために言及したり、ツアーによっては時事的な話題を盛り込んで歌詞を改作することもままあった。政治家のニクソン、スピロ・アグニュー、レーガン、PMRCの設立者ティッパー・ゴアとその主人のアル・ゴア、当時少女買春のスキャンダルが明るみに出たTV宣教師のジミー・スワッガート(Jimmy Swaggart)などが明白な批判対象であった。

青年期までカトリック信者だったが、後に無宗教となった。支持政党は民主党。大統領選挙出馬が実現した場合は、民主党、もしくは独立系無所属での立候補の可能性もあった。

人物

  • 二度目の妻であったゲイル・ザッパ(1945年-2015年)との間にムーン・ザッパ英語版ドゥイージル・ザッパ英語版アーメット・ザッパ英語版ディーヴァ・シン・マフィン・ピジーン・ザッパ英語版の二男二女を儲けた。子供達はいずれもアーティスト・俳優・ミュージシャン・作家など多彩な活動を行っており、ザッパ・バンドとの共演経験もある。長男のドゥイージルは、80年代にロック・ギタリストとして登場し、21世紀には父のレパートリーを再演するプロジェクト「ザッパ・プレイズ・ザッパ」を主宰している。
  • 『フランク・ザッパ自伝 (The Real Frank Zappa Book)』によると、彼は長らく自分の名前は「フランシス」だと思い込んでおり、どうしても好きになれない名前なので愛称の「フランク」を名乗っていたという。海外ツアーに向けてパスポートを取得するために出生証明書を取り寄せてみたところ、そこに記されていた名前は実際に「フランク」であったので、そのことを知る前にリリースした『ランピー・グレイヴィ』等初期のアルバムに「フランシス・ヴィンセント・ザッパ」の名を使ってしまったことをかなり後年まで悔やんでいた[7]。再発版では修正されたが、「アルバムジャケットにそう書かれているから」という理由で彼の名を「フランシス」であると誤って主張する者は現在でも多い。
  • 生前、「宇宙には普遍的なものが2つある。水素と愚かさである」という言葉を残していた(出典:マーフィーの法則)。
  • エキセントリックな側面が誇張して語られがちであるが、音楽への取り組みはきわめて真摯であり、古い作品をCD化する際にアナログマスターをそのままデジタル・マスタリングするミュージシャンが大半であった中、彼は過去の作品全てを自らリミックスリマスタリング、時にはオーヴァーダブや編集も施している。さらには亡くなる直前の1993年に一部のアルバムのリマスタリングを行い、暫定的な決定版とした。この1993年盤は本人が数あるマスターから最終的なOKを選んだ「承認マスター」と呼ばれ、1995年以降の再発CDではこのマスターが使用されている
  • 生前に数多くの作品が発表されたが、逝去後も30年近くにわたって、未発表テイクやライヴ音源が新譜としてコンスタントにリリースされてきた。彼の家の地下室には、膨大な量の未発表音源のマスターテープがあり、未亡人のゲイル(2015年死去)や息子達を中心とした遺族によって管理されている。
  • アルバム『レザー』は、レコーディング自体は1970年代に済ませており、あとはリリースするだけという段階にあったのだが、レコード会社側の一方的なクレーム・要求に憤りを感じたザッパが、リリース寸前にこのアルバムに収録した曲を全曲ラジオで放送するという強硬策に打って出た。『レザー』収録予定曲を契約上の都合でバラバラのアルバムとして発表した『スタジオ・タン』『スリープ・ダート』『オーケストラル・フェイヴァリッツ』の三作や、『ザッパ・イン・ニューヨーク』『シーク・ヤブーティ』『ジョーのガレージ』など、収録予定曲の含まれたアルバムは発売されたものの、遺族によって1996年にCD化されるまでは長らくお蔵入りとなっていた。90年代のCD化にあたって当該三作の大胆なアレンジが行われた(インストゥルメンタルにヴォーカルがオーヴァーダブされるなど)のは、『レザー』発売のための布石であったと思われる。なお、『レザー』収録曲の中で既発の曲はすべてヴァージョン違いである。
  • 聖飢魔IIのジェイル大橋こと大橋隆志によると、彼が1987年に結成したキャッツ・イン・ブーツがアメリカでメジャー・デビュー出来たのはザッパのサポートが大きかった。アメリカ人メンバー2人がザッパの息子のドゥイージルとの繋がりがあった事から、キャッツ・イン・ブーツのデモ音源がザッパの手に渡り、更に彼のビジネスマネージャーで後にバンドのマネージャーになる人物の手に渡って、最終的にEMIと契約に漕ぎ着ける事に成功した[8]

日本での受け取られ方

  • 日本の著名なファンや研究者としては、大山甲日、ヤギヤスオ(八木康夫)、茂木健などが挙げられる。
  • アナログ時代には日本での認知度が低かった事もあり、国内盤が発売されなかった作品も多い。名作の誉れ高い『ホット・ラッツ』もその一つだった。ザッパは1976年2月に唯一の来日公演を行った。その結果「来日公演以来ファン同士のネットワークが形成され」、「それまでの奇人変人といった評価から、彼の正統的な音楽性が評価されはじめ」[9]たことで、国内盤の発売が増えたという。アナログ時代の国内レーベル日本グラモフォンビクターワーナー・パイオニアCBSソニー東芝EMI各社である。CD化以降はMSI, ビデオアーツにより国内盤が発売された。
  • 国内盤が発売されると、アルバムや楽曲の多くに原題とは全く無関係な邦題がつけられた。正方形や三角形がジャケットに描かれたアルバム"Ship Arriving Too Late To Save A Drowning Witch"には『フランク・ザッパの○△□』、"No Not Now"という楽曲には『いまは納豆はいらない』というように、単に原題の語感やジャケットのデザインにこじつけただけのものであった。これらの邦題はCBSソニーのディレクターで当時ザッパを担当していた黒田日出良(渚十吾)が考案したとされる[10]。さらに、これらの日本盤にはヤギヤスオ(八木康夫)の解説文が寄せられ、『フランク・ザッパの○△□』には「回を重ねるごとにエスカレートする超豪華解説書『マンコ・カパックの友』」が付された[10]

ディスコグラフィ

Beat the Bootsシリーズ (Official Bootleg)

Beat the Boots

  • As an Am (雑派大魔神ボストンで立腹) (1991年)
  • The Ark (雑派大魔神ニューヨークで憤激) (1991年)
  • Freaks & Mother*#@%! (雑派大魔神フィルモアで逆襲) (1991年)
  • Unmitigated Audacity (雑派大魔神ノートルダムで激怒) (1991年)
  • Any Way the Wind Blows (雑派大魔神パリで逆鱗) (1991年)
  • 'Tis the Season to Be Jelly (雑派大魔神スウェーデンで逆上) (1991年)
  • Saarbrücken 1978 (雑派大魔神ザールブルュッケンで激昂) (1991年)
  • Piquantique (雑派大魔神ストックホルムで激憤+シドニーで憤慨) (1991年)

Beat the Boots II

Beat the Boots III

  • 7枚組・Amazon、iTune Store、Napstarのダウンロード販売のみ。2009年

日本公演

1976年2月上旬、ザッパはテリー・ボジオ(ドラムス)、ナポレオン・マーフィー・ブロック[11](テナー・サクソフォーン、ボーカル)、ロイ・エストラーダ(ベース・ギター、ボーカル)、アンドレ・ルイス[12](キーボード、ボーカル)からなるMOIを率いて、初の、そして唯一の日本公演を行なった[13]

  • 1976年2月1日 東京 浅草国際劇場 (浅草最大のロックショウ)
  • 1976年2月3日 大阪 厚生年金会館
  • 1976年2月4日 京都 京大西部講堂
  • 1976年2月5日 東京 日本青年館

この顔ぶれからなるMOIは1966年以後にツアーを行なったMOIの中では最小規模のもので、1975年9月から1976年3月まで。時にはゲスト・ミュージシャンを迎えながらコンサート活動を行なってきた。来日公演は、1976年1月から3月まで行なわれたハワイ、日本、オーストラリア、ニュージーランド、ヨーロッパを巡るワールド・ツアーに組み込まれていた[13]。1976年2月3日の大阪厚生年金会館でのコンサートのライブ録音の2曲が、You Can't Do That On Stage Anymore, Vol.3に収録された[注釈 32]

因みに、このワールド・ツアーはザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの名前が使われた最後のものであった[13]

主な日本語の参考書籍 (含翻訳)

以下の書籍のうち、ザッパ本人が著作に関与したものは『フランク・ザッパ自伝』の原著のみである。

出版日 署名 著者 出版社 ISBN
1994年5月 ユリイカ - 特集=フランク・ザッパ越境するロック 山本直樹、清水俊彦、秋田昌美、大里俊晴、岸野雄一 青土社 ISSN 1342-5641
1998年12月 大ザッパ論―20世紀鬼才音楽家の全体像 大山甲日 工作舎 ISBN 978-4875023043
2001年12月 大ザッパ論〈2〉鬼才音楽家の足跡1967‐1974 大山甲日 工作舎 ISBN 978-4875023616
2004年2月7日 フランク・ザッパ自伝 フランク・ザッパ (著), ピーター・オチオグロッソ (著), 茂木健 (翻訳) 河出書房新社 ISBN 978-4309267197
2015年12月21日 フランク・ザッパを聴く ―アルバム・ガイド大全― 大山甲日 ヤマハミュージックメディア ISBN 978-4636919363
2020年12月1日 フランク・ザッパ攻略ガイド: やれるもんならやってみな 和久井光司 河出書房新社 ISBN 978-4309291147
2022年4月1日 フランク・ザッパ バリー・マイルズ(著),須川宗純(翻訳) Pヴァイン ISBN 978-4910511122

脚注

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l Ruhlmann, William. Frank Zappa | Biography & History - オールミュージック. 2020年12月8日閲覧。
  2. ^ フランク・ザッパ バイオグラフィ 2022年2月26日閲覧
  3. ^ Milkowski, Bill. “1983-02 Frank Zappa: Guitar Player”. ZB Zappa Books. 2020年12月8日閲覧。
  4. ^ Zappa & Occhiogrosso (1989), pp. 41–44.
  5. ^ 「フランク・ザッパを聴く」 大山甲日著。p.47
  6. ^ a b c 『フランク・ザッパ自伝 (The Real Frank Zappa Book)』より。
  7. ^ ザッパ, フランク; オチオグロッソ, ピーター (2004). 『フランク・ザッパ自伝』. 河出書房新社. pp. p. 320. ISBN 4-309-26719-X 
  8. ^ ロッキンf 2015(サウンド・デザイナー) 80p
  9. ^ 『シーク・ヤブーティ』95年版ライナーノーツ(岸野雄一述)より
  10. ^ a b 植村和紀『洋楽日本盤のレコード・デザイン』(グラフィック社 2015年 ISBN 9784766127430 P84)
  11. ^ Ulrich (2018), p. 525.
  12. ^ Ulrich (2018), p. 177.
  13. ^ a b c Ulrich (2018), pp. xxxv–xxxvi.

注釈

  1. ^ 本人は生涯を通してアンチ・ドラッグの姿勢を貫いた。
  2. ^ レコーディング・エンジニア。ザッパは1961年に彼に出会って、彼からレコーディングの基本を学んだ。
  3. ^ カリフォルニア州ランチョクカモンガにあった。
  4. ^ 日本のグループ・サウンズのバンドであったザ・タイガースがMOIに会って、ザッパ以外のメンバーはパーティーでマリファナを吸っていたと証言している。
  5. ^ 自伝The Real Frank Zappa Book. (Poseidon Press. ISBN 0-671-70572-5)で使用されている略語。
  6. ^ ドゥーワップ・アルバム「ルーベン&ザ・ジェッツ」まで制作している
  7. ^ リチャード・ベリーが作詞作曲したロックンロールの楽曲。キングスメンのバージョン(1963年)が大ヒットした。1960年代に生まれたガレージロックの代表作の一つ。
  8. ^ 同じ会社に所属していたヴェルヴェット・アンダーグラウンドも似た境遇にあった。
  9. ^ これらの会社は、1973年に「ディスクリート・レコード」にとって代わられた。「ディスクリート・レコード」は、ザッパ、マザーズ、ティム・バックリィテッド・ニュージェント&アンボイ・デュークスらの作品を発表した。さらにザッパは、1977年に「ザッパ・レコード」、1981年に「バーキング・パンプキン・レコード」を設立した。
  10. ^ リード・ボーカリストの名前であると同時にバンド名でもあった。ストレイト・レコードから2作のアルバムを発表した後、1970年代にワーナー・ブラザーズから「スクールズ・アウト」「アリスは大統領」などのヒット曲を発表した。
  11. ^ 二人はカリフォルニア州ランカスターアンテロープ・バレー・ハイ・スクールの同級生。キャプテン・ビーフハートとは、ザッパが1964年にヴァン・ヴリートと共同で制作していた低予算のSF映画Captain Beefheart vs. The Grunt Peopleの登場人物名である。
  12. ^ フロー&エディ英語版として知られた。『チャンガの復讐』に参加。
  13. ^ リンゴ・スターがザッパを演じた。
  14. ^ イギリスのロックグループであるディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」より。原詩は"Some stupid with a flare gun"。
  15. ^ ディープ・パープルは、新作のレコーディングの為に当時モントルーに滞在しており、マザーズのコンサートの観客として、この火災に遭遇した。避難して宿泊先のグランドホテルからレマン湖の対岸に浮かぶ煙を見て、後に彼らの代表作として知られることになる「スモーク・オン・ザ・ウォーター」を制作して新作に加えた。
  16. ^ 全米ヒットチャートを10位にまで駆けのぼり、シングル曲もヒットした。
  17. ^ オーヴァーナイト・センセイション』『アポストロフィ』に参加。
  18. ^ 200モーテルズ』、『ワカ/ジャワカ』から『ボンゴ・フューリー』まで在籍
  19. ^ オーヴァーナイト・センセイション』と『ロキシー&エルスウェア』に参加
  20. ^ チャンガの復讐』を最初に『アポストロフィ』まで断続的に参加
  21. ^ ロキシー&エルスウェア』から『ボンゴ・フューリー』まで参加。
  22. ^ 1974年、ヴァン・ヴリート(キャプテン・ビーフハート)が率いていたキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドは解散状態に陥り、彼は自宅に籠ってしまった。しかし、彼が以前にレコード会社と結んだ契約はまだ有効であったので、そのしがらみに絡まれた彼はザッパに助けを求めた。ザッパは1975年4月、『ワン・サイズ・フィッツ・オール』の制作にヴァン・ヴリートをブラッドショット・ローリン・レッドの変名で客演させ、続いて4月と5月、国内ツアーにキャプテン・ビーフハートとして参加させた。『ボンゴ・フューリー』は5月20日と21日にテキサス州オースティンのコンサートで録音された音源を収録したライブ・アルバムである。
  23. ^ 超絶技巧の演奏者として知られている
  24. ^ 1975年以前にザッパ名義で発表されたアルバムは『ランピー・グレイヴィ』(1967年)、『ホット・ラッツ』(1969年)、『チャンガの復讐』(1970年)、『ワカ/ジャワカ』(1972年)、『アポストロフィ (')』(1974年)。
  25. ^ 両者は『ズート・アリュアーズ』のジャケットに映っているが、制作に参加してはいない。
  26. ^ ファンキーなブラス・サウンドのクロスオーバー・ミュージシャンである
  27. ^ 「シェイク・ユア・ブーテイー」をもじった可能性がある。題名とジャケットにユーモアがあふれている
  28. ^ オーストリア出身の音楽家で、Jガイルズ・バンドのヴォーカリストとは同名異人である
  29. ^ アルバム中では、Barking Pumpkin Digital Gratification Consortによる演奏と表記されている。
  30. ^ 同公聴会には、カントリー・ミュージシャンのジョン・デンバーと、ヘヴィメタルバンド、トゥイステッド・シスターのヴォーカリストであるディー・スナイダーも招かれ、意見を述べた
  31. ^ ザッパより以前に大統領選挙に実際に出馬したのは、ディジー・ガレスピーとアリス・クーパーである。ザッパは出馬できなかった
  32. ^ 'Hands with a Hammer'と’Zoot Allure’’の2曲。但し’Zoot Allure’のギター・ソロは1982年5月30日のコンサートで録音されたものである。

参考文献

  • Zappa, Frank; Occhiogrosso, Peter (1989). The Real Frank Zappa Book. Poseidon Press. ISBN 0-671-70572-5 
  • Ulrich, Charles (2018), The Big Note: A Guide To The Recordings Of Frank Zappa, New Star, ISBN 978-1-55420-146-4 

関連項目

外部リンク