推古天皇
推古天皇 | |
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時代 | 飛鳥時代 |
先代 | 崇峻天皇 |
次代 | 舒明天皇 |
誕生 | 554年5月21日(欽明天皇15年乙巳朔癸丑) |
崩御 |
628年4月15日(推古天皇36年3月7日) 小墾田宮 |
陵所 | 大野岡上→磯長山田陵(科長大陵) |
漢風諡号 | 推古天皇 |
和風諡号 | 豊御食炊屋姫天皇 |
諱 | 額田部 |
別称 |
豊御食炊屋姫尊 豊御食炊屋比売命 炊屋姫尊 |
父親 | 欽明天皇 |
母親 | 蘇我堅塩媛 |
子女 |
菟道貝蛸皇女 竹田皇子 小墾田皇女 鸕鶿守皇女 尾張皇子 田眼皇女 桜井弓張皇女 |
皇居 |
豊浦宮 小墾田宮 |
最初の天皇号使用者(異説あり) 史上初の女性天皇 |
推古天皇 | |
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第30代天皇后 | |
皇后 | 576年4月23日(敏達天皇5年3月10日)(大后) |
配偶者 | 敏達天皇 |
結婚 | 571年(欽明天皇32年) |
推古天皇(すいこてんのう、554年5月21日〈欽明天皇15年乙巳朔癸丑: 4月9日〉- 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉[注 1][注 2])は、日本の第33代天皇(在位:593年1月15日〈崇峻天皇5年12月8日〉 - 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉)。
在位期間は36年、『古事記』では37年で、(神功皇后を含まない)日本史上最初の女性天皇。(但し飯豊青皇女が執政をとったとして宮内庁では天皇扱いされている)また、女性天皇の中では最長寿であり、最長在位である[1]。女性君主は当時の東アジアではまだみられなかった[2]。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)。炊屋姫尊とも称される。漢風諡号の「推古天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。『古事記』ではこの天皇までを記している[3]。確かな記録が残っている最古の天皇とされる[4]。
天皇号を初めて用いた大王という説もあった[1]が、1998年の飛鳥池工房遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見されて以降は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説も存在している。
即位以前の動向
第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣の蘇我稲目の女の堅塩媛。第30代敏達天皇は異母兄で夫でもある。第31代用明天皇は同母兄。第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。
『日本書紀』推古紀に「幼曰 額田部皇女 姿色端麗 進止軌制 年十八歳 立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后 卅四歳、渟中倉太珠敷天皇崩」とあり、「姿色(みかお)端麗(きらきら)しく」、挙措動作は乱れなくととのって(進止軌制)おり、18歳で異母兄の渟中倉太玉敷天皇(敏達天皇)皇后となり[注 3]、34歳のときその渟中倉太玉敷天皇が崩御した。
『日本書紀』敏達紀では、欽明天皇32年(571年)に異母兄の渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)の妃となり、敏達天皇4年(575年)11月の皇后の広姫の崩御を承け、敏達天皇5年3月10日(576年4月23日)、皇后に立てられた。「敏達14年8月乙酉朔己亥[注 4]」(8月15日)(585年9月15日)に敏達天皇が崩御した。
敏達天皇との間に菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)・竹田皇子・小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)・鸕鶿守皇女・尾張皇子(聖徳太子妃の橘大郎女の父)・田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)・桜井弓張皇女(押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃)の2男5女を儲けた。
用明元年(586年)夏5月、敏達天皇の殯宮に異母弟の穴穂部皇子が侵入し、皇后を犯そうとした。寵臣の三輪逆に助けられたが、逆は穴穂部皇子に同調した物部守屋らに追い詰められ殺された。
即位
その後、用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、用明2年4月乙巳朔癸丑(4月9日)(587年5月21日)に崩御した後、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。そこで額田部皇女が詔を下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じたという。しかし、5年後の崇峻5年11月癸卯朔乙巳(旧暦11月3日)(592年12月12日)には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、12月壬申朔己卯(旧暦12月8日)に、先々代の大后(皇后)であった額田部皇女が、馬子に請われて、豊浦宮において即位した。時に彼女は39歳で、史上初の女性の大王(女帝)となった(ただし、神功皇后と飯豊青皇女を歴代から除外した場合)。
その背景には推古天皇が実子の竹田皇子の擁立を願ったものの、敏達の最初の大后が生んだ押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)の擁立論が蘇我氏に反対する勢力を中心に強まったために、馬子と推古天皇がその動きを抑えるために竹田皇子への中継ぎとして即位したのだと言われている(だが、竹田皇子は間もなく薨去した)。
推古天皇元年4月10日(593年5月15日)、甥の厩戸皇子を皇太子として万機を摂行させたとされる。推古の即位については、異例の早さで厩戸皇子がその「皇太子」とされているのである。推古の即位と厩戸の立太子とが一体のものであったこと、すなわち女帝=推古の即位は、皇太子=厩戸の立太子があって初めて完結するものであった[5]。
垂仁天皇7年4月27日(599年5月28日)、日本の歴史書に記される最古の地震が起きた際、四方に令して、地震の神を祭らせたとされる。
推古天皇は、皇太子と大臣馬子の勢力の均衡を保ち、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。推古天皇32年(624年)、馬子が倭の六県の一つである葛城県(馬子の本居(ウブスナ)であり、円大臣が雄略天皇に滅ぼされた際に献上した「葛城の五村」「葛城の宅七区」のことであると考えられるが、蘇我稲目の代にはその経営権、管理権は蘇我氏が掌握していたと考えられる[6])の支配権を望んだ時、女帝は、「私は(厳密には母が)蘇我氏の一族出身で、あなたは我が叔父である。なので、あなたの望むことは何でも叶えてきた。だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世から愚かな女と評され、あなたもまた不忠だと謗られよう」と言って、この要求を拒否したという[6]。
遣隋使
このように公正な女帝の治世のもと聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(推古天皇11年(603年))・十七条憲法(推古天皇12年(604年))を次々に制定して、法令・組織の整備を進めた。推古天皇15年(607年)、小野妹子を隋に派遣した[7][注 5]。中国皇帝から政権の正統性を付与してもらう目的で、過去にもたびたび使節が派遣されていたが、初めて日本の独立を強調する目的で使節が派遣された[7]。翌年からは入隋の使節に学問生・学問僧を同行させた。また、推古天皇2年(594年)に出された、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、女帝は太子や馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺を建立させたりした。
推古天皇15年(607年)には、壬生部を定め、「昔、我が皇祖の天皇等、世を宰めたまふこと、敦く神祇を礼びたまふ。(中略)今朕が世に当りて、神祇を祭り祀ること、豈怠ること有らむや。故、群臣、共に心を尽くして、神祇を拝るべし」と詔を出して神道の祭祀を重んじる旨を示した。
推古天皇28年(620年)、聖徳太子と馬子は『天皇記』『国記』を編纂して献上したが、2年後の推古天皇30年2月22日(622年4月8日)に太子が49歳で薨去し、更に4年後の同34年5月20日(626年6月19日)、蘇我馬子も亡くなった。
推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、75歳で小墾田宮において崩御。死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫の田村皇子(のちの舒明天皇)を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子の山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようである。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町大字山田にある磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)に治定されている。子の竹田皇子との合葬陵墓で、宮内庁上の形式は方丘。遺跡名は「山田高塚古墳」で、方墳または長方墳である。
『日本書紀』では推古天皇36年(628年)3月の崩御ののち、同年9月に遺詔により「竹田皇子之陵」に葬ったとするが、所在地・陵名に関する記載は無い[8]。一方で『古事記』では、「御陵在大野岡上、後遷科長大陵也」として「大野岡上」から「科長大陵」への改葬の旨が見えるが、こちらには竹田皇子との合葬に関する記載は無い[8]。『延喜式』諸陵寮では、推古天皇陵は遠陵の「磯長山田陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で陵戸1烟・守戸4烟を毎年あてるとする[8]。『扶桑略記』では康平3年(1060年)に「推古天皇山陵」で盗掘があったという[8]。その後、元禄の探陵の際には堺奉行が現陵の存在を報告している[8]。なお、現陵近くの二子塚古墳を真陵に比定する説もあるほか、改葬前の陵(大野岡上)については植山古墳(奈良県橿原市)に比定する説がある。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
在位年と西暦との対照表
- 太字は『日本書紀』の太歳干支の年。
推古天皇 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 |
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西暦 | 593年 | 594年 | 595年 | 596年 | 597年 | 598年 | 599年 | 600年 | 601年 | 602年 |
干支 | 癸丑 | 甲寅 | 乙卯 | 丙辰 | 丁巳 | 戊午 | 己未 | 庚申 | 辛酉 | 壬戌 |
推古天皇 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 |
西暦 | 603年 | 604年 | 605年 | 606年 | 607年 | 608年 | 609年 | 610年 | 611年 | 612年 |
干支 | 癸亥 | 甲子 | 乙丑 | 丙寅 | 丁卯 | 戊辰 | 己巳 | 庚午 | 辛未 | 壬申 |
推古天皇 | 21年 | 22年 | 23年 | 24年 | 25年 | 26年 | 27年 | 28年 | 29年 | 30年 |
西暦 | 613年 | 614年 | 615年 | 616年 | 617年 | 618年 | 619年 | 620年 | 621年 | 622年 |
干支 | 癸酉 | 甲戌 | 乙亥 | 丙子 | 丁丑 | 戊寅 | 己卯 | 庚辰 | 辛巳 | 壬午 |
推古天皇 | 31年 | 32年 | 33年 | 34年 | 35年 | 36年 | ||||
西暦 | 623年 | 624年 | 625年 | 626年 | 627年 | 628年 | ||||
干支 | 癸未 | 甲申 | 乙酉 | 丙戌 | 丁亥 | 戊子 |
系図
27 安閑天皇 | 28 宣化天皇 | 29 欽明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石姫皇女 (欽明天皇后) | 上殖葉皇子 | 30 敏達天皇 | 31 用明天皇 | 33 推古天皇 | 32 崇峻天皇 | 穴穂部間人皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大河内稚子媛 (宣化天皇后) | 十市王 | 押坂彦人大兄皇子 | 春日皇子 | 大派皇子 | 難波皇子 | 聖徳太子 (厩戸皇子) | 来目皇子 | 当麻皇子 | 殖栗皇子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
火焔皇子 | 多治比古王 | 茅渟王 | 栗隈王 | 山背大兄王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多治比嶋 〔多治比氏〕 | 35 皇極天皇 37 斉明天皇 | 36 孝徳天皇 | 美努王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
有間皇子 | 橘諸兄 (葛城王) 〔橘氏〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蘇我堅塩媛 | 29欽明天皇 | 石姫皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
33推古天皇 | 30敏達天皇 | 広姫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大俣女王 | 押坂彦人 大兄皇子 | 糠手姫皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉備姫王 | 茅渟王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
35皇極天皇 37斉明天皇 | 34舒明天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蘇我遠智娘 | 38天智天皇 | 蘇我姪娘 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
40天武天皇 | 41持統天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
49代以降 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
草壁皇子 | 43元明天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
44元正天皇 | 藤原宮子 | 42文武天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光明皇后 | 45聖武天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
46孝謙天皇 48称徳天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
注釈
- ^ 『古事記』では戊子年3月15日
- ^ 在位期間は特に推古時代と呼ばれる。
- ^ これを採用した場合には欽明天皇32年(敏達天皇即位の年)に皇后となったことになり、広姫立后の記事と矛盾することになり、広姫立后記事か推古の立后時の年齢のいずれかが誤りの可能性がある。
- ^ 『古事記』分注では「甲辰年四月六日崩」
- ^ 『日本書紀』では冠位十二階制定などの改革の後に「大唐」に使いを送ったとあるが、『隋書』によると「俀国」から開皇20年(600年)に使者が来たという。吉田孝は『日本の誕生』(岩波新書、1997年)89頁で「推古朝の国制改革は、600年の遣隋使のカルチャーショックを、おそらくは起点としたのである」としている。
出典
- ^ a b ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、78頁。(第2章『女性統治者の出現』、5『最初の「天皇」は女性だった』、『日本で最初の「天皇」』)
- ^ 横田健一『古代王権と女性たち』(吉川弘文館、1996年1月発行)22頁
- ^ 『古事記』推古天皇段には「妹(いも)、豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、小治田(をはりだ)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三十七歳(みそじまりななとせ)なりき。分注、戊子の年の三月十五日癸丑の日に崩りましき。)御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大木陵に遷しき」(『古事記』)とある。小治田宮は奈良県高市郡。
- ^ 日本放送協会. “上皇さま 歴代天皇の中で最高齢に”. NHKニュース. 2021年9月2日閲覧。
- ^ 瀧浪貞子『女性天皇』(集英社、2004年)30頁
- ^ a b 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社、2015年)
- ^ a b ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 (翻訳)、79頁。 (第2章5『日本で最初の「天皇」』)。
- ^ a b c d e 磯長山田陵(国史).
参考文献
- 『国史大辞典』吉川弘文館。
- 黛弘道 「推古天皇」、石田茂輔 「磯長山田陵」(推古天皇項目内)。
- ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、講談社、2003年1月。ISBN 978-4062116756。