小林宏之 (野球)
ロッテ時代(2010年5月12日) | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 埼玉県草加市 |
生年月日 | 1978年6月4日(46歳) |
身長 体重 |
185 cm 85 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1996年 ドラフト4位 |
初出場 | NPB / 1998年7月4日 |
最終出場 | NPB / 2014年8月28日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督・コーチ歴 | |
| |
国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
WBC | 2006年 |
この表について
|
獲得メダル | ||
---|---|---|
日本 | ||
ワールド・ベースボール・クラシック | ||
金 | 2006 | 野球 |
小林 宏之(こばやし ひろゆき、1978年6月4日 - )は、埼玉県草加市出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球監督。愛称は「コバヒロ」[1][2]。
2010年から2012年および2014年西武在籍時の登録名は、姓名の区切りがない小林宏(こばやしひろ)。
経歴
ロッテ時代
春日部共栄高校では3年春の県大会優勝、夏はベスト8[3]。1996年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズより4位指名を受けて入団。同校はプロ野球選手を多数輩出しているが、大学や社会人を経ずに直接プロ入りしたのは小林が初めてだった。
1年目はジュニアオールスターに出場し[3]、1998年(2年目)に一軍初登板を果たした。
2001年(5年目)終盤から一軍に定着。この年7月9日の対福岡ダイエーホークス18回戦(千葉マリンスタジアム)で、10回表に3点ビハインドの場面で登板し、1/3回を無失点に抑えると、10回裏の攻撃でフランク・ボーリックが満塁本塁打を放ち逆転サヨナラ勝利となったことでプロ初勝利を挙げた。この年は22試合に登板し、防御率3.70の成績を残した。
2002年、シーズン当初は先発投手として起用されたが、結果を出せずセットアッパーに転向し活躍した。8回を小林宏之・9回を小林雅英と繋ぐ投手リレーは「小林リレー」と呼ばれ、勝ちパターンの継投として定着した。また、オールスターゲームにも初出場を果たした。この年は58試合に登板し、防御率2点台だった。
2003年、開幕からリリーフとして活躍。シーズン中盤に再び先発に復帰し、先発ローテーションに定着。初めて規定投球回に到達し、2桁勝利を達成した。最終的に50試合に登板した。
2004年開幕前、当時18歳の女性と入籍。なぜか「交際期間6年」という、事実と異なる話が流布してしまう[4]。このシーズンは先発ローテーションの一角として初めてシーズン通して先発起用され、8月には自身初の月間MVPも獲得したが、9勝と2桁勝利に届かなかった。
2005年は、セ・パ交流戦中、打撃では打率3割に3打点、投げては6試合で5勝0敗という成績を残し、チームの交流戦優勝に貢献。初代の交流戦MVPも獲得した。交流戦の対読売ジャイアンツ戦では登板直前に長男が誕生。本人曰く「睡眠時間3時間ぐらい」というコンディションで粘投を見せ勝利を収め、試合後のヒーローインタビューで長男の誕生に喜びを見せた。レギュラーシーズンでも清水直行・渡辺俊介らとともに先発三本柱の一角として活躍し、12勝6敗、防御率3.30の成績を挙げた。プレーオフ、日本シリーズでも活躍し、チームの日本一に貢献した。翌年1月1日にTBS系で放送された『スポーツマンNo.1決定戦』では、初参加ながらショットガンタッチで12 m 50 cmを記録し総合6位に入った。
2006年は開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のWBC日本代表に選出された。しかし、渡米中に発熱などで調子が上がらず、第2ラウンド以降は登板することはなかった。
シーズンではWBCの影響で足を故障し開幕から出遅れたが、4月26日の対オリックス・バファローズ戦で初登板、2安打完封、98球で勝利。その後、シーズン最終登板となった対西武ライオンズ戦で10勝目を挙げ、2年連続の2桁勝利を記録した。
2007年はシーズンを通して先発ローテーションを守り、自己最多の投球回を達成。13勝を挙げて3年連続の2桁勝利となった。クライマックスシリーズでも第1ステージ第2戦・第2ステージ第2戦で先発したが、第1ステージでは2回途中6失点の大乱調で敗戦、第2ステージでは足の痙攣が治まらず4回途中に降板した。同年は北京五輪アジア予選日本代表に選出され、初戦の対フィリピン戦を打者3人、2奪三振で締めた。背番号はロッテでの41を稲葉篤紀に譲って14を着けた。オフにはポスティングシステムによるメジャーリーグ移籍の希望を球団に訴えたが認められず、総額2億円+出来高の2年契約を結んだ。
2008年はプロ12年目で初めて開幕投手(対北海道日本ハムファイターズ戦)に指名された。相手投手のダルビッシュ有と投げ合い、6回途中まで無失点に抑えたものの足の痙攣で降板し、敗戦投手となった。以降は右肩痛を発症したこともあり不調が続き、シーズン5勝12敗・自己ワーストの防御率5.02だった。
2009年は先発ローテーションの一角を担ったが、4勝13敗・防御率4.29、2年連続で規定投球回未到達に終わった。救援時には4試合登板で無失点、WHIP0.78,、被打率.130と好成績を残したため、シーズンオフにクローザーへ転向した[5]。
2010年4月6日より登録名を小林宏に変更。1998年から2007年までは小林雅英が、2008年と2009年は小林憲幸が同じ球団に所属していたため、スコアボードや新聞上では「小林宏」の表記が使われていた。2010年シーズンは同姓の選手がいなくなったが、本人は「小林宏」表記に愛着を持っており、「小林」に対し違和感があったことから、山本昌と同様に名字と名前の一文字目を組み合わせて姓名の区別を付けない登録名にしたものであった。シーズンではオープン戦で右肘を痛めたため開幕を二軍で迎え、状態によっては長期離脱の可能性もあったが、開幕7戦目となる3月30日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で一軍に復帰し、初セーブを挙げた。4月26日に海外フリーエージェント (FA) 権を取得[6]。最終的に3勝3敗29セーブ、防御率2.21, WHIP1.07と好成績を残したが、開幕から5月まで防御率0.00, WHIP0.72, 8月には月間防御率0.69, 同WHIP1.08と好投した一方で、6月には月間防御率5.19, 同WHIP1.73と不調に陥ったほか、9月には月間防御率4.72と救援失敗が相次ぎ、終盤にはセーブ機会でも登板を回避されるなど月によって好不調の激しいシーズンとなった。オフには夢であったメジャーリーグを目指し、FA権を行使。球団は慰留せず、宣言残留を認めないことを伝えた。その後、複数のメジャー球団が興味を示していると報じられたが、メジャー契約のオファーはなかった。
阪神時代
2011年1月20日にFA権行使直後より久保田智之・藤川球児に繋ぐ中継ぎの軸として獲得意思を表明していた阪神タイガースと初交渉し、阪神入団を表明[7]。推定2年総額5億円で大筋合意した。そして1月28日に入団会見を開き、背番号はロッテ時代と同じ「41」となった。獲得前からの球団の方針で開幕からセットアッパーとして8回のマウンドを任された。しかしシーズン前半戦は6度の救援失敗(うち4敗)を喫するなど不振で7月26日の対中日ドラゴンズ戦で移籍後初勝利を挙げたものの、調子は上がらず8月28日に二軍落ち。9月30日に再び一軍登録されたものの、10月4日の対東京ヤクルトスワローズ戦で失点を喫するなど最後まで不安定なままシーズンを終えた。全体では42試合で1勝5敗21ホールド、防御率3.00の成績だった。中継ぎだけでシーズンを終えたのはロッテ時代の2002年以来9年ぶりだった。
2012年は3年ぶりに先発への再転向を期したが不振で一軍昇格はなく、10月2日に戦力外通告を受けた[8]。11月18日に古巣ロッテの鴨川秋季キャンプで入団テストを受けたが、2回を投げ6安打5失点の結果で[9]不合格となった[10]。
独立リーグ時代
2013年1月31日にロサンゼルス・エンゼルスとマイナー契約で合意し、2月14日に契約[11][12][13]。スプリングトレーニングに招待選手として参加していたが、3月4日に自由契約となった。8月14日にベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)の群馬ダイヤモンドペガサスへ入団[14]。7試合の登板で2勝1敗、防御率3.14とまずまずの成績を残したが、11月2日に自由契約となり、退団が発表された[15]。11月22日に行われた、2013年度第2回12球団合同トライアウトに参加した[16]が、獲得に乗り出す球団はなかった。
2014年1月、2013年中に獲得を検討していた台湾プロ野球・統一セブンイレブン・ライオンズへの入団を希望したが、統一側は入団テストを行うことなく採用を見送った。2月12日にBCリーグの信濃グランセローズに入団することが報道され[17]、2月20日に投手コーチ兼任で正式に入団[18]。信濃入団後は、セットアッパーとして26試合に登板。2勝1敗、防御率1.26の成績を残した。
西武時代
2014年7月21日に埼玉西武ライオンズが獲得を発表、2年ぶりにNPBに復帰することになり[19]、翌7月22日に入団会見を行った。背番号は「52」[20]。登録名は2010年から2012年まで使用していた小林宏になった[21]。7月25日の対ロッテ戦(西武ドーム)でNPBでは2011年10月4日以来、1,025日ぶりに一軍登板を果たし、6回の1イニングを2与四球1奪三振の無失点で抑えた[22]。その後は中継ぎとして15試合に登板したが、防御率7.94と不安定な成績だった。10月2日、球団から戦力外通告を受け[23]、同月22日に現役引退を表明した[24]。
引退後
2015年1月8日、BCリーグ・武蔵ヒートベアーズの投手コーチに就任[25]。5月8日、監督の星野おさむが退任したことに伴い監督代行に就任[26]。三ツ間卓也に「プロに行くにはスピードが必要」と、オーバースローからサイドハンドへの転向を勧め、三ツ間の筋トレによる肉体改造も奏功し球速は10km/h近く上がって150km/hになり、2015年のNPB育成ドラフト会議で中日ドラゴンズから3巡目指名された[27]。シーズン終了後の11月2日、2016年より監督を務めることが発表された。武蔵では代行を含めて約3シーズン指揮を執め、2017年11月10日、監督退任が発表された[28]。
2017年11月29日にロッテ球団で少年野球指導をおこなう「マリーンズ・ベースボール・アカデミー」のコーチに就任することが発表された[29]。2021年からは同アカデミーの監督を兼務[30]。
選手としての特徴
制球良く低めにボールを集める投球が持ち味で、球持ちの良さにも定評がある[31][32]。ストレートは150km/h近い数値を計測し、変化球はスライダー、フォーク、チェンジアップを投じる[33]。特に落ちる球が得意で、奪三振率が高い[34][32]。
反射神経の良さから、打球を足で止めようとして打撲することがある。かつてはサッカー選手を夢見たこともあり、「無意識にトラップしようとしちゃう」と述べている[35]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1998 | ロッテ | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 11 | 2.1 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.71 |
2001 | 22 | 7 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 0 | -- | .200 | 238 | 56.0 | 49 | 11 | 23 | 0 | 1 | 45 | 3 | 0 | 24 | 23 | 3.70 | 1.29 | |
2002 | 58 | 1 | 0 | 0 | 0 | 7 | 4 | 0 | -- | .636 | 333 | 81.2 | 67 | 12 | 27 | 5 | 1 | 84 | 9 | 1 | 25 | 23 | 2.53 | 1.15 | |
2003 | 50 | 14 | 3 | 0 | 0 | 10 | 10 | 0 | -- | .500 | 592 | 145.1 | 135 | 17 | 36 | 2 | 3 | 117 | 7 | 1 | 66 | 62 | 3.84 | 1.18 | |
2004 | 24 | 24 | 2 | 0 | 0 | 9 | 7 | 0 | -- | .563 | 666 | 154.1 | 162 | 22 | 57 | 3 | 4 | 137 | 7 | 0 | 77 | 73 | 4.26 | 1.42 | |
2005 | 23 | 23 | 4 | 1 | 1 | 12 | 6 | 0 | 0 | .667 | 666 | 160.2 | 157 | 14 | 28 | 1 | 6 | 129 | 6 | 0 | 60 | 59 | 3.30 | 1.15 | |
2006 | 20 | 20 | 3 | 1 | 0 | 10 | 7 | 0 | 0 | .588 | 578 | 142.2 | 129 | 14 | 27 | 2 | 4 | 120 | 5 | 0 | 51 | 44 | 2.78 | 1.09 | |
2007 | 25 | 25 | 5 | 2 | 1 | 13 | 3 | 0 | 0 | .813 | 699 | 170.2 | 157 | 9 | 38 | 0 | 4 | 163 | 7 | 0 | 56 | 51 | 2.69 | 1.14 | |
2008 | 23 | 23 | 1 | 0 | 0 | 5 | 12 | 0 | 0 | .294 | 618 | 138.0 | 155 | 15 | 45 | 3 | 2 | 112 | 5 | 0 | 85 | 77 | 5.02 | 1.45 | |
2009 | 24 | 20 | 4 | 0 | 1 | 4 | 13 | 0 | 2 | .235 | 582 | 134.1 | 142 | 16 | 35 | 1 | 7 | 120 | 7 | 0 | 70 | 64 | 4.29 | 1.32 | |
2010 | 57 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 29 | 5 | .500 | 249 | 61.0 | 51 | 2 | 14 | 1 | 3 | 53 | 6 | 0 | 17 | 15 | 2.21 | 1.07 | |
2011 | 阪神 | 42 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | 21 | .167 | 181 | 39.0 | 43 | 2 | 19 | 4 | 2 | 45 | 8 | 0 | 17 | 13 | 3.00 | 1.59 |
2014 | 西武 | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | ---- | 59 | 11.1 | 16 | 1 | 8 | 0 | 0 | 10 | 2 | 0 | 15 | 10 | 7.94 | 2.12 |
通算:13年 | 385 | 157 | 22 | 4 | 3 | 75 | 74 | 29 | 31 | .503 | 5472 | 1297.1 | 1266 | 135 | 358 | 22 | 37 | 1135 | 72 | 2 | 563 | 514 | 3.57 | 1.25 |
- 各年度の太字はリーグ最高
WBCでの投手成績
年 度 |
代 表 |
登 板 |
先 発 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ | ブ |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ | ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2006 | 日本 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 1.0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | 2 | 2 | 18.00 |
表彰
- NPB
- その他
- 千葉市市民栄誉賞(2006年)
記録
- NPB初記録
- 投手記録
- 初登板:1998年7月4日、対福岡ダイエーホークス11回戦(千葉マリンスタジアム)、11回表二死に8番手として救援登板・完了、1/3回無失点
- 初奪三振:2001年6月8日、対オリックス・ブルーウェーブ12回戦(グリーンスタジアム神戸)、5回裏に進藤達哉から
- 初勝利:2001年7月9日、対福岡ダイエーホークス18回戦(千葉マリンスタジアム)、10回表二死に7番手として救援登板・完了、1/3回無失点
- 初先発登板:2001年8月5日、対西武ライオンズ21回戦(千葉マリンスタジアム)、4回1失点
- 初先発勝利:2003年7月9日、対大阪近鉄バファローズ14回戦(千葉マリンスタジアム)、7回無失点
- 初完投勝利:2003年9月28日、対オリックス・ブルーウェーブ25回戦(千葉マリンスタジアム)、9回5失点
- 初完封勝利:2005年8月26日、対オリックス・バファローズ16回戦(千葉マリンスタジアム)
- 初ホールド:2009年6月3日、対読売ジャイアンツ1回戦(千葉マリンスタジアム)、11回表に4番手として救援登板、1回無失点
- 初セーブ:2010年3月30日、対東北楽天ゴールデンイーグルス1回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表一死に2番手として救援登板・完了、2/3回無失点
- 打撃記録
- NPB節目の記録
- 1000投球回:2008年7月22日、対北海道日本ハムファイターズ15回戦(札幌ドーム)、1回裏一死目に稲田直人を投犠打で達成 ※史上312人目
- 1000奪三振:2009年8月26日、対福岡ソフトバンクホークス17回戦(千葉マリンスタジアム)、8回表に川﨑宗則から ※史上126人目
- NPBその他の記録
独立リーグでの投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
完 投 |
勝 率 |
投 球 回 |
打 者 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
奪 三 振 |
与 四 球 |
与 死 球 |
失 点 |
自 責 点 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 策 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2013 | 群馬 | 7 | 2 | 1 | 0 | 0 | .667 | 28.2 | 119 | 30 | 1 | 25 | 3 | 0 | 13 | 10 | 2 | 0 | 0 | 3.14 | 1.17 |
2014 | 信濃 | 26 | 2 | 1 | 1 | 0 | .667 | 28.2 | 120 | 28 | 0 | 21 | 6 | 1 | 12 | 4 | 2 | 0 | 1 | 1.26 | 1.21 |
通算:2年 | 33 | 4 | 2 | 1 | 0 | .667 | 57.1 | 239 | 58 | 1 | 46 | 9 | 1 | 25 | 14 | 4 | 0 | 1 | 2.11 | 1.17 |
背番号
- 41(1997年 - 2014年途中、2015年 - 2017年)
- 52(2014年途中 - 同年終了)
登録名
- 小林 宏之(こばやし ひろゆき、1997年 - 2009年、2013年 - 2014年途中、2015年 - )
- 小林宏(こばやしひろ、2010年 - 2012年、2014年途中 - 同年終了)
代表歴
登場曲
- 「Ignition Remix」R.Kelly(2005年)
- 「In Da Club」50 Cent(2005年)
- 「Your Body」Pretty Ricky(2006年)
- 「Yeah! feat. Lil Jon & Ludacris」Usher(2006年)
- 「How Come」D12(2007年)
- 「This Is Why I'm Hot」Mims(2007年)
- 「Cyclone feat. T-Pain」Baby Bash(2008年)
- 「Party People feat. Fergie」Nelly(2008年)
- 「Get Up」50 Cent(2009年)
- 「Right Round feat. Ke$ha」Flo Rida(2009年 - 2010年)
- 「#1」Nelly(2010年 - 2011年)
- 「I'm Shipping Up To Boston」Dropkick Murphys(2012年)
- 「Shake Ya Tailfeather」Nelly, P.Diddy & Murphy Lee(2014年)
脚注
- ^ “「ひちょり対コバヒロ」1打席ガチンコ勝負 三ゴロでコバヒロに軍配”. スポニチ Sponichi Annex (2021年6月5日). 2021年6月5日閲覧。
- ^ ““8回の男”小林宏ホッ!10日ぶりホールド”. スポニチ Sponichi Annex (2011年5月16日). 2021年6月5日閲覧。
- ^ a b 1998プロ野球プレイヤーズ名鑑 スポーツニッポン新聞社
- ^ 鈴木長月『千葉ロッテマリーンズあるある』TOブックス、2014年、112頁。ISBN 978-4-86472-251-3。
- ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2010』白夜書房、2010年、128頁。ISBN 978-4-86191-595-6。
- ^ “海外FAの権利を取得した小林宏投手のコメント”. 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト (2010年4月26日). 2010年4月26日閲覧。
- ^ 小林宏之選手入団記者会見阪神球団公式サイト2011年1月28日配信
- ^ “来季の選手契約について”. 阪神タイガース公式サイト (2012年10月2日). 2012年10月2日閲覧。
- ^ “ロッテ追試の小林宏2回6安打5失点”. デイリースポーツ online (2012年11月18日). 2021年9月23日閲覧。
- ^ “時事ドットコム:GG佐藤を獲得=小林宏は不合格-プロ野球・ロッテ”. 時事ドットコム (2012年11月25日). 2012年11月25日閲覧。
- ^ “Angels ink Japanese reliever Kobayashi to Minors deal”. MLB.com (2013年2月5日). 2021年9月23日閲覧。
- ^ “前阪神の小林がエンゼルスに マイナー契約で”. 山陽新聞 (2013年2月1日). 2013年2月1日閲覧。
- ^ “前阪神の小林がエンゼルスに”. Daily Sports Online (2013年2月1日). 2013年2月1日閲覧。
- ^ “小林宏がBC群馬入団=野球独立リーグ”. スポーツナビ online (2013年8月14日). 2021年9月23日閲覧。
- ^ “退団選手決定のお知らせ”. BCリーグ (2013年11月2日). 2021年9月23日閲覧。
- ^ “小林宏之投手を獲得 ロッテで2度の日本一経験”. 信濃毎日新聞社 (2014年2月13日). 2021年9月23日閲覧。
- ^ “小林 宏之の入団記者会見”. 信濃グランセローズ公式サイト (2014年2月21日). 2014年2月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月23日閲覧。
- ^ “選手獲得について”. 埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト (2014年7月21日). 2021年9月23日閲覧。
- ^ “小林宏之投手 入団会見”. 埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト (2014年7月22日). 2021年9月23日閲覧。
- ^ “西武小林宏「死ぬ気で」年俸は600万円”. 日刊スポーツ (2014年7月23日). 2021年9月23日閲覧。
- ^ “西武・小林宏、笑顔の零封 阪神時代以来1025日ぶり登板”. スポーツニッポン (2014年7月26日). 2021年9月23日閲覧。
- ^ “埼玉西武ライオンズ選手来季契約について”. 埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト (2014年10月2日). 2021年9月23日閲覧。
- ^ “元ロッテの小林宏が引退表明 独立Lから西武入りも結果残せず…”. スポーツニッポン (2014年10月22日). 2021年9月23日閲覧。
- ^ “コバヒロ BC武蔵投手コーチ就任 監督は星野おさむ氏”. スポーツニッポン (2015年1月9日). 2021年9月23日閲覧。
- ^ “小林宏之投手コーチ、監督代行就任のお知らせ” (PDF). 武蔵ヒートベアーズ (2015年5月8日). 2021年9月23日閲覧。
- ^ “開幕からブレーク 無名選手の正体 先祖に菅原道真 中日・三ツ間卓也は雑草右腕で天然キャラ”. 日刊ゲンダイ (2017年4月26日). 2021年9月23日閲覧。
- ^ “監督小林宏之 退任のお知らせ”. ベースボール・チャレンジ・リーグ ニュースリリース (2017年11月10日). 2021年9月23日閲覧。
- ^ “小林宏之氏が古巣ロッテにアカデミーコーチで復帰”. 日刊スポーツ. (2017年11月30日) 2017年12月2日閲覧。
- ^ “マリーンズ・ジュニア2021のメンバーが決定!”. 週刊ベースボールONLINE. (2021年10月6日) 2021年12月31日閲覧。
- ^ 小関順二、泉直樹、荒井太郎『プロ野球スカウティングレポート2006』アスペクト、2006年、25頁。ISBN 4-7572-1246-1。
- ^ a b 小関順二、西尾典文、泉直樹『プロ野球スカウティングレポート2007』アスペクト、2007年、133頁。ISBN 978-4-7572-1338-8。
- ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹『プロ野球スカウティングレポート2008』アスペクトムック、2008年、288頁。ISBN 978-4-7572-1439-2。
- ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2007』白夜書房、2007年、50頁。ISBN 978-4-86191-246-7。
- ^ 『おめでとう!千葉ロッテ日本一』日刊スポーツ出版社、2005年、68頁。ISBN 978-4-8172-5279-1。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 小林宏 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube