蜂須賀至央
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蜂須賀至央像 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 元文元年12月15日(1737年1月15日) |
死没 | 宝暦4年7月12日(1754年8月29日) |
改名 | 鉄松(幼名)、松平頼央(初名)、蜂須賀至央 |
別名 | 通称:志摩 |
墓所 | 徳島県徳島市下助任町の興源寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 松平頼桓→頼恭→徳川家重 |
藩 | 阿波徳島藩主 |
氏族 | 松平大膳家→高松松平家→蜂須賀氏 |
父母 |
父:松平頼熙、母:渡辺氏 養父:蜂須賀宗鎮 |
兄弟 | 松平頼桓、宗鎮、至央 |
子 | 養子:重喜、宗子 |
蜂須賀 至央(はちすか よしひさ)は、阿波国徳島藩の第9代藩主。もとは松平大膳家第4代当主。
生涯
高松藩御厄介(一門)松平頼煕の三男として生まれる。母は渡辺氏。大膳家当主頼珍(宗鎮)が徳島藩蜂須賀家に養子入りしたため、元文4年(1739年)、幼くして松平大膳家の家督を相続し、頼央(よりひさ)と名乗った。
宝暦4年(1754年)4月2日、藩主松平頼恭の養弟となった上で異母兄蜂須賀宗鎮の養子となり、至央に改名した(「至」の字は初代藩主・至鎮の偏諱をとったものと思われる)。松平大膳家の家督は養兄頼恭の五男頼昌が継いだ。同年4月13日、第九代将軍徳川家重に御目見した。同年5月22日、宗鎮の隠居により蜂須賀家の家督を相続したが、至央は同年7月12日に死去した。享年19。法号は興徳院殿仁祐竜沢。墓所は徳島県徳島市下助任町の興源寺。
襲封後2ヵ月足らずで死去したため、歴代藩主の通例である当代将軍からの偏諱を受けなかった。徳島藩の歴代藩主は養子・幼君が相次いでいた上、至央自身も若年であったことから、藩政の実権は家老に掌握されており、飾り物の藩主に過ぎなかった。
緊急に末期養子として、出羽国久保田藩の分家である秋田新田藩の藩主佐竹義道の四男であった重喜を迎えた。
系譜
脚注
参考文献
- 『蜂須賀家記』