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サンエリザリオ塩戦争(San Elizario Salt War)
日付1877年–1878年
場所アメリカ合衆国テキサス州エルパソ郡
別名サリネロ反乱
エル・パソ塩戦争
結果蜂起は鎮圧される
死者20人–30人

サン・エリザリオ塩戦争(サンエリザリオしおせんそう、San Elizario Salt War)は、サリネロ反乱(サリネロはんらん、Salinero Revolt)あるいはエルパソ塩戦争(エルパソしおせんそう、El Paso Salt War)としても知られ、19世紀半ばの拡大された複雑な範囲戦争(range war)で、アメリカ合衆国、テキサス西部のグアダルーペ山脈のふもとにある巨大な塩湖の所有権と管理を中心に展開した。1866年にアングロ・テキサスの政治家らと資本家らの間の政治的法的闘争として始まったものは、1877年に、エル・パソ近くのリオ・グランデ川の両側に住む民族的メキシコのとテハーノの住民らによる主要な政治家1人に対する武装闘争を引き起こした。彼はテキサス・レンジャーズによって支持されていた。闘争は、テキサス州サン・エリザリオの町でのひょっとしたら500人かもしれない人気ある軍隊にたいするテキサス・レンジャーズ20人の包囲と降伏で最高潮に達した。アフリカ系アメリカ人の第9騎兵隊とニューメキシコ傭兵らの保安官民警団の到着が、何百人ものテハーノにメキシコに逃げさせ、一部は永久追放であった。塩湖を所有する個人らの権利は、以前はコミュニティの資産として保持されていたし、武力によって確立された。

紛争は、地元の喧嘩として始まり、段階的に成長し、最終的にテキサスと連邦の政府両者の注目を集めた。国じゅうの新聞編集者らは、しばしば熱狂的な口調でぞっとするように詳細に、物語を報道した。紛争の最盛期には、650人もの男が武器を持った。12年間の塩の戦いで約20〜30人が死亡したし、ひょっとしたらその2倍の人が負傷した[1]

伝統的に、サン・エリザリオ塩戦争中のメキシコ系アメリカ人らの蜂起は、歴史家らによって、遠吠えする乱衆による流血の暴動として記述されてきた。降伏したテキサス・レンジャーズ、特に彼らの指揮官は、不適格であると記述されてきた[2]。より最近の学問は戦争を、征服された人々らとしてではなく、合衆国における平等な市民らとして扱われるためのメキシコ系アメリカ人らの長い、しばしば暴力的な社会的闘争の文脈の中に置いている[3]。ごく最近、「乱衆」(mob)は、彼らの基本的な政治的諸権利と経済的未来の地方的支配を再確立することをゴールとする、組織化された政治的軍事的反乱として記述されている[4]

背景

国家的あいまいさ

リオグランデ川は、テキサス西部の自然的障壁である。その地域への請求がイギリス系アメリカ人らによってなされるずっと前に、スペイン植民地人らとその後のメキシコ人らは、川の南岸に沿って一連のコミュニティを定住させたし、それは北からのコマンチ族とアパッチ族の襲撃からの保護を提供した。20世紀前半に建設されたエレファント・ビュート・ダイクのようなリオ・グランデ川の主要な水管理プロジェクトよりも前に、この川はしばしば氾濫した。サン・エリザリオは、1789年の創設から、1829年の洪水が川の流れを変え、リオ・グランデ川の新・旧の水路の間にある新しい島、「"La Isla"」にサン・エリザリオを残したときまで、川の南にある比較的大きなコミュニティであった。

川に対するこの位置は、1836年にさらに重要になった。そのとき新しく独立したテキサス共和国は、リオグランデ川を新しい国の南の国境として宣言した。サン・エリザリオの人々の国籍は、1848年のグアダルー・ペイダルゴ条約の署名まで議論された。これは米墨戦争を終わらせ、「最も深い水路」("deepest channel")すなわち南水路を公式の国境として特定した。サン・エリザリオの地位は、ガズデン購入の領土をアメリカ合衆国に売った1853年の条約によってさらに公式にされた。当時、サン・エリザリオは、テキサス州サン・アントニオとニューメキシコ州サンタ・フェの間のアメリカ合衆国最大のコミュニティであった。それは『Camino Real』の主要なストップであったし、地域の郡庁所在地であった。

南北戦争と再建

南北戦争は、西テキサスの政治的風景に大きな変化を作りだした。戦争の終結と再建は、多くの起業家をこの地域にもたらした。サン・エリザリオの諸家庭は、深いルーツを持っていたし、新参者らを受け入れることを嫌っていた。多くの共和党員は、テキサス州フランクリン郡 (テキサス州)の小さなコミュニティに定住した。これは、チワワ州の都市エル・パソ・デル・ノルテ(現在のシウダー・フアレス)からリオ・グランデ川を渡った交易村であった。

1870年代の初めまでに、民主党は、州内の政治的影響力を取り戻し始めていた。米国南部とのつながりを持つ民主党のスパイらは、メキシコと世代的つながりを保持していたために、サン・エリザリオの人々にも受け入れられなかった。テキサス西部のヒスパニックの、共和党の、そして民主党の派閥の間で同盟がシフトし、競争が発展した。

サン・エリザリオの北東約100 mi (160 km)のグアダルーペ山脈のふもとに、一連の乾燥した塩湖がある(北緯31度44分36秒 西経105度04分36秒 / 北緯31.74335度 西経105.07668度 / 31.74335; -105.07668にある)。テキサス西部から水と油をポンプでくむことの前に、この地域は周期的な浅い地下水面があったし、毛細管現象は高純度の塩を地表に引きあげた。この塩は、肉の保存と、ヒトと動物から発汗が取ったものの補充をふくめて、広くさまざまな目的に非常に有益であった。それの価値はそれをエル・カミノ・レアル・デ・ティエラ・アデントロ沿いの物々交換に使用される商品にしたし、チワワ鉱山の鉱石から銀を抽出するためのパティオ・プロセス(patio process)の本質的な要素であった。歴史的に、塩湖へのキャラバンは、リオ・グランデを下ってまっすぐ北にか、でなければ、バターフィールド・オーバーランド・メール・ルートとなったものを経由したかで移動した。1863年に、サン・エリザリオの人々は、コミュニティとして、塩湖に東に走る道路を寄付によって建設した。エルパソのリオグランデ渓谷の初期の居住者らは、スペイン国王によってこれら湖へのコミュニティ・アクセス権を付与されたし、これら権利は後にメキシコ共和国によってグアダルーペ・イダルゴ条約に従って祖父条項を適用された。1866年から、テキサス州憲法は、個人が鉱業権の所有を主張することを許可したし、かくして伝統的なコミュニティの権利をくつがえした。

政治的位相、1866年–1877年

1870年に、フランクリンからの影響力ある指導者らのグループが、塩の堆積物が見つかった土地の所有権を主張した。彼らは土地の唯一の所有権を得ることに失敗したし、その所有権と支配をめぐる争いが始まった。ウィリアム・ウォレス・ミルズ[5]は、個人の私的所有権を支持したし、ルイス・カルディは連邦のヒスパニック・コミュニティ概念を支持したし、アルバート・ジェニングス・ファウンテンはコミュニティ・アクセス権を持つ郡政府所有権を支持した。これが、カルディとファウンテンがいわゆる「反ソルト・リング」として一緒になることにつながったし、ミルズは反対する「ソルト・リング」の指導者になった。

ファウンテンは、テキサス州上院議員に選出され、コミュニティ・アクセスのある郡政府所有権の計画を推進し始めた。サン・エリザリオのスペイン人聖職者、アントニオ・ボラホ神父はこの計画に反対し、カルディの支持を得た。1870年12月7日に、ミルズの支持者、裁判官ゲイロード・J・クラークが殺害された。ファウンテンとカルディは、あらゆる政治的法的な手段を駆使してスパーリングした。1873年の共和党の州政府支配の喪失は、ファウンテンに、エルパソを発ってニューメキシコ準州の妻の家に向かわせた。

1872年に、バージニア州生まれのチャールズ・ハワードが、テキサス西部で民主党を政権に復帰させることを決意して地域に来た。彼の自然なライバルはミルズであったために、彼はカルディと同盟を結んだ。彼はこの地域のヒスパニック系有権者らに影響力があった。カルディは、アメリカのどちらの政党よりもメキシコの元市民らに強い忠誠心を持っていたし、コミュニティにとってあるいは自分自身にとって有益であると自分が考える方向に投票を振り向けることに影響力を持っていた。ハワードは地区裁判官に選出されたし、ほぼ同時に、郡の政治的「勝者」("top dog")となる人物をめぐってカーディスと抗争を始めた[6]

1877年夏に、ハワードは、オースティンの資本家である義父のジョージ・B・ジンペルマンの名義で塩湖の請求権を申し立てた。ハワードは、塩を集めたいかなる『サリネロ』(salinero)にも回収のための通行料を支払うことを申し出たが、彼は塩が自分のものであると主張した。サン・エリザリオのテハーノらは、カルディの支援を受けて、ボラホ神父(今では元牧師)に励まされて、ハワードの請求権にもかかわらず、塩を集め保管していた。人々は外部の指導者だけに目を向けたわけではない。彼らは地元の自治の長い伝統に立ち返り、サン・エリザリオとテキサス州ソコロとイスレタの大きくテハーノに隣接する町らに委員会(『juntas』)を結成し、ハワードの行動に対するコミュニティベースの対応を決定した。1877年夏の間に、彼らはいくつかの秘密の、決定的な、そして組織的な会議を開催した[7]

1877年の塩戦争

カルディの殺害

1877年9月29日に、ホセ・マリア・フアレスとマケドニア・ガンダラは大量の塩を集めると脅迫した。ハワードは、彼らの活動を聞き知ったとき、その男らをエルパソ郡保安官チャールズ・ケルバーに逮捕させ、その晩、彼らを法的に拘束するためにサン・エリザリオの裁判所に行った。しかしながら、武装した男らの派閥が従順な法学者を逮捕したし、他の人々はハワードを探しに行き、イセルタのカーバー保安官の家に彼を見つけた。彼らはフランシスコ・「チコ」・バレラのリーダーシップの下に、ハワードを捕らえ、サン・エリザリオまで行進させた。3日間、彼は、シスト・サルシド、リノ・グラニージョ、そしてバレラに率いられた男数百人に捕虜にされていた。10月3日に、彼は1万2000ドルの公債の支払いと塩鉱床に対するすべての権利の書面による放棄によって、ついに釈放された。ハワードはニューメキシコ州メシラに向けて出発し、少しの間、そこの噴水の家に滞在した。彼はまもなく地域に戻り、10月10日に、エル・パソ(旧フランクリン)の商店でカルディを撃って殺した。ハワードはニューメキシコに逃げ戻った。エル・パソ郡のテハーノの人々は、憤慨した。彼らは事実上郡政府全体を止め、それをコミュニティ委員会(juntas)と置き換え、保安官に彼らに対して何らかの行動を取れるなら取ってみろと挑んだ。

テキサス・レンジャーズの仲裁

テキサス州知事のリチャード・B・ハバードは、おびえたアングロ・コミュニティ(郡内の約5000人のうち100人未満の居住者)からの嘆願に応えて、テキサス・レンジャーズのフロンティア大隊の指揮官、ジョン・B・ジョーンズ少佐をエルパソに送ることで答えた。ジョーンズは、11月5日に到着して、委員会(junta)指導者らと会い、法律を守るという彼らの合意について交渉し、ハワードの帰還、召喚、そして保釈を手配した。ジョーンズはまた、カナダ先住民ジョン・B・テイズ中尉の指揮の下、新しいテキサス・レンジャーズ20人、中隊Cの分遣隊を採用した。伝統的に、テイズは教育を受けていない便利屋として記述されてきたが、その後の調査は、彼は鉱山技師、エル・パソの土地投機家、そしてメキシコ牛の密輸業者であることを示した。地元のレンジャー分遣隊を指揮する彼の任命は、指導しているアングロらによって承認された。ジョーンズとテイズによって採用されたレンジャー分遣隊は混成で、老いたインドの戦闘員1人、南北戦争の古参兵数人、経験豊富な法執行官1人、無法者少なくとも1人、そしてコミュニティの大黒柱数人を含めて、アングロらとテハーノ数人で構成されていた。個人的に、彼らは有能な男が数人含んでいたが、ユニットは伝統あるいは結束が欠けていた[8]

テキサス・レンジャーズの降伏

1877年12月12日に、ハワードはテイズが率いるテキサス・レンジャーズ20人の中隊と共にサン・エリザリオに戻った。もう一度、武装した反乱者のグループが彼らに降りた。ハワードとレンジャーズは建物に隠れ、最終的に町の教会に避難した。2日間の包囲の後、テイズはレンジャーズの中隊を降伏させ、テキサス・レンジャーの部隊がかつて敵に降伏したのは歴史上唯一回であった。ハワード、レンジャー軍曹ジョン・マクブライド、そして商人で元警部補のジョン・G・アトキンソンは、身体をめった切りにされて井戸に投棄されて、銃殺隊によって即座に処刑された。レンジャーズは武装解除され、町から送り出された。サン・エリザリオの市民指導者らはメキシコに逃げたし、町の人々は建物を略奪した。全部で12人が死亡し、50人が負傷した。

遺産

多くの死傷者に加えて、戦争は物的損害で推定3万1050ドルを要した。さらに、地元の農民らが数か月間畑を耕したり収穫したりしなかったために、多くの作物の損失が続いた。小麦の損失だけで4万8000ドルと推定された。これらの差し迫った財政的損失(総称して2023年時点の$1,404,000と同等)に、エル・パソ郡のメキシコ系アメリカ人コミュニティのさらなる政治的経済的な、主流からの追いやられを加えることができる[9]

不安の結果、サン・エリザリオは郡庁所在地としての地位を失ったし、郡庁所在地は成長を続けるエルパソの町に移された。バッファロー・ソルジャーズの第9騎兵連隊は、国境と地元のメキシコ人の人口を監視するためにフォート・ブリスを再建するために派遣された。鉄道が1883年に西テキサスに到着したとき、それはサン・エリザリオを迂回した。町の人口は減少したし、民族的メキシコ人は地域での政治的影響力の多くを失った。

文献

  • The Texas Rangers: A Century of Frontier Defense, Walter Prescott Webb, 1965 (1935), University of Texas Press.
  • The El Paso Salt War of 1877, C. L. Sonnichsen, 1961, Carl Hertzog and the Texas Western Press.
  • Troublesome Border, Oscar J. Martinez, 1995, University of Arizona Press.
  • "The El Paso Salt War: A Review of the Historical Literature", Paul Cool, in Journal of Big Bend Studies, Vol. 17, 2005.
  • Salt Warriors: Insurgency on the Rio Grande, Paul Cool, 2008, Texas A&M University Press.

脚注

  1. ^ "The El Paso Salt War: A Review of the Historical Literature", Paul Cool, Journal of Big Bend Studies, Vol. 17, 2005, pp. 49–50.
  2. ^ Walter Prescott Webb, The Texas Rangers: A Century of Frontier Defense, University of Texas Press, 1965 (1935), pp. 351–367; C. L. Sonnichsen, The El Paso Salt War of 1877, Carl Hertzog and the Texas Western Press, 1961, pp. 27–57.
  3. ^ Oscar J. Martinez, Troublesome Border, University of Arizona Press, 1995, pp. 85–86.
  4. ^ Paul Cool, Salt Warriors: Insurgency on the Rio Grande, Texas A&M University Press, 2008, pp. 1–5, 131–134.
  5. ^ William Wallace Mills, W.W. Mills (1901) Forty Years at El Paso (1858-1898) HTML table of contents: pp. 9-10
  6. ^ Charles H. Howard was long reported to have been a native of Missouri, but Virginia has now been established as his birthplace. See Sonnichsen, The El Paso Salt War of 1877, p. 1; "Charles H. Howard", Handbook of Texas. For Howard's political career in El Paso, see Cool, Salt Warriors, pp. 57–78.
  7. ^ Cool, Salt Warriors, pp. 83–85.
  8. ^ For traditional and revisionist views of Tays, see Webb, The Texas Rangers, p. 367; Sonnichsen, The El Paso Salt War of 1877, p. 38; Cool, Salt Warriors, pp. 142–143.
  9. ^ "The El Paso Salt War: A Review of the Historical Literature, Journal of Big Bend Studies, Vol. 17, 2005, pp. 49–50.

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