嵯峨野の竹林の小径を抜けて行くと、野宮神社があります。野宮神社があるところは、天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清める場所であり、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた清浄の地を選んで建てられました。その様子は源氏物語「賢木の巻」で、六条御息所の娘(後の秋好中宮)がこの地に暮らした後、斎王群行をして伊勢に向かう直前に、光源氏が六条御息所を野宮に訪ね、別れを惜しむ場面が場面が描かれています...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
嵯峨野の竹林の小径を抜けて行くと、野宮神社があります。野宮神社があるところは、天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清める場所であり、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた清浄の地を選んで建てられました。その様子は源氏物語「賢木の巻」で、六条御息所の娘(後の秋好中宮)がこの地に暮らした後、斎王群行をして伊勢に向かう直前に、光源氏が六条御息所を野宮に訪ね、別れを惜しむ場面が場面が描かれています...
地域タグ:京都市
東福寺の塔頭・同聚院は、1006年(寛弘3年)に藤原道長が法性寺の境内に造営した五大堂の遺跡です。本尊は定朝の父・康尚の作といわれる不動明王は「十万不動」と呼ばれ、火災除けのご利益があることで有名です。毎年2月2日「十万」の字を書いた護符が授与されます。同聚院臨済宗東福寺派に属する東福寺の塔頭の一つである。東福寺の寺地一帯は,平安時代中期に藤原忠平が法性寺を建立した所で、寛弘三年(1006)には,藤原道長が...
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京都市北区衣笠街道町にある法音寺平安時代に慈覚大師によって創建したといわれています。その後平安時代中期に花山天皇の勅願所になり、西国三十三ヶ所霊場復興所の本山でもあります。1008年(寛弘5年)には、花山天皇の葬奏が行われたともいわれています。応仁の乱の兵火によって焼失しましたが、その後再建されました。左大文字の発祥地旧大北山村の菩提寺でもあり、五山送り火が行われる8月16日の朝に施設餓思会が行なわれ、そ...
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京都市東山区鷲尾町にある天台宗の寺院雙林寺(そうりんじ)は、延暦24年(805年)に桓武天皇の勅願で左大史・尾張連定鑑(むらじさだみ)により、最澄を開山としてこの地に伽藍が創建され、日本初の護摩祈祷道場として建立されました。平安時代は、護摩祈祷が盛んで、中宮彰子が土御門殿で敦成(あつひら)親王を出産する際、大勢の僧侶を集めて護摩祈祷を行ったことが『紫式部日記』に記されています。また、『源氏物語』第53帖「手...
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京都市南区九条町にある東寺は、真言宗の寺院で、東寺派の大本山。延暦 15 (796) 年平安遷都のとき羅生門の東に創建され、西寺に対して東寺といい、また左大寺、左寺とも。弘仁 14 (823) 年嵯峨天皇から空海に賜わり、真言密教の根本道場となって教王護国寺と号しました。鎌倉時代に文覚が堂舎を修復。文明 18 (1486) 年の火災で堂塔など大部分を焼失しましたが、豊臣氏、徳川氏の助力により再建されました。『紫式部日記』には、...
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現在の京都御苑の仙洞・大宮御所の北側には、藤原道長の邸宅・土御門第がありました。土御門第跡(つちみかどていあと)平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、拡充され南北二町に及び、上東門第(じょうとうもんてい)、京極第(きょうごくてい)などとも呼ばれました。道長の長女彰子(しょうし)が一条天皇のお后となり、里内裏(さとだいり)である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子達も、誕生...
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寛弘5年(1008)、藤原道長は、娘の中宮彰子のために、金峯山で懐妊祈願を行いました。その甲斐あってか、ついに彰子の懐妊が判明。出産のために、彰子が道長の邸である土御門邸へ里下がりすると、4月から5月にかけて、彰子の安産祈願のための法華三十講が行われました。※法華三十講法華経二十八品 (ほん) に開経の無量義経と結経の観普賢経を加えた30巻を、1日に1巻ずつ、または朝夕に1巻ずつ講ずる法会。京都市左京区聖護院山王町...
地域タグ:京都市
清涼寺は、秋の紅葉の名所でもあります。黄金に輝くイチョウ多宝塔と紅葉一昨年の秋、本堂と庭園を見学してきました。本堂を抜けると、渡り廊下が続き、ここから庭園を鑑賞します。弁天堂は、本堂のうしろの池に面して建っています。弁天堂弁天堂は、正面柱間三間、屋根宝形造で、正面に軒唐破風が付いており、建築年代は江戸末期ごろと推定されます。弁天堂のまわりは、池遊式庭園になっています。弁天堂西 川中島観光客の姿はほ...
地域タグ:京都市
本堂の西側には、豊臣秀頼の首塚があります。1980年(昭和55年)大阪城の京橋口三の丸跡から、地中に埋葬され、周囲にシジミやタニシの生貝が敷かれた頭蓋骨が発見されました。その頭蓋骨は、20~25歳の若武者で、首に介錯の跡があり、左耳が不自由だったこと、出土品などから、大阪夏の陣と時期が合うことがから、秀頼のものと推定され、1983年(昭和58年)、秀頼ゆかりの清涼寺に首塚を造って納骨されました。石は小豆島の自然石...
地域タグ:京都市
清涼寺の仁王門を潜ると、左側にあるのが法然上人像です。法然上人像この像の奥には、聖徳太子殿があります。聖徳太子殿法隆寺の夢殿を模したものといいます。この北側には、多宝塔が建っています。多宝塔 江戸護国寺での出開帳の際に寄進され、3年後の元禄16年(1703年)に船で運ばれ再建されました。鐘楼「嵯峨十景・五台の晨鐘」と呼ばれてきたには足利義政・日野富子・足利義尚の名と文明16年(1484年)の日付が刻まれていると...
地域タグ:京都市
嵯峨野の清凉寺は、嵯峨釈迦堂の名で知られる浄土宗の寺院です。仁王門この地には平安前期、嵯峨天皇の皇子で、『源氏物語』の主人公光源氏のモデルとされる左大臣・源融(みなもとのとおる)の別荘・栖霞観(せいかかん)の跡に開かれた棲霞寺にお堂を建立し、釈迦如来を安置したと伝えられています。阿弥陀堂(栖霞観跡)阿弥陀堂は、源融が建立した棲霞観を偲ぶ唯一の建物と言われています。阿弥陀堂の木造阿弥陀三尊坐像は、源融...
地域タグ:京都市
金峯神社は、吉野山最奥の青根ヶ峰のそばにあり、吉野山の地主神を祀る神社です。二の鳥居金峯神社に伝わる経筒は、金峯山から出土したもので国宝となっています。令和6年(2024)には、金峯神社と金峯山寺が所有する藤原道長直筆の「金峯山経塚出土紺紙金字経」が国宝に指定されました。拝殿 吉野神宮の旧拝殿を移築したもの義経隠れ塔源頼朝に追われた源義経がここに隠れていたという塔。その際に追っ手に囲まれてしまい、屋根を蹴...
地域タグ:吉野町
御嶽詣(みたけもうで)とは、吉野郡金峰山(きんぶせん)に参拝すること。藤原宣孝は、正暦元年(990年)3月頃に御嶽詣を行いますが、『枕草子』によると「御嶽は『質素な服装で詣でよ』などと仰らないだろう」といって長男の隆光とともに派手な衣装で参詣したことが書かれています。帰京後の同年8月に筑前守に任ぜられたことから、「あのとき言った通りであった」と噂されたといいます。吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、...
地域タグ:吉野町
宇治駅の近くにある東屋観音に「東屋」の古蹟があります。浮船の母は今は常陸介の後妻になっていた。浮舟には左近少将という求婚者がいたが、少将は、浮舟が介の実子でないと知ると、財力めあてで浮舟の義妹と結婚してしまう。この破談に浮舟を不憫に思った母は、縁を頼って二条院にいる中君に預けることにした。ある夕暮、ふと匂宮は、西対にいる浮舟を見て、その美しさに早速言い寄った。驚いた母は、娘の行く末を案じ、三条あた...
地域タグ:宇治市
彼方神社の脇に「椎本」の古蹟があります。春、花の頃、匂宮は、初瀬詣の帰路、宇治の夕霧の山荘に中宿りし、お迎えの薫君やお供の貴族たちと音楽に興じた。楽の音は対岸の八宮の邸にもよく通い、八宮は都にいられた昔を偲ばせた。薫君から二人の姫君のことを聞き、ゆかしく思っていた匂宮は、宇治に消息を送ったが、返事はいつも妹の中君がなさるのだった。薫君は八宮を仏道の師と仰いで、宇治を訪れ、姉の大君に強く心をひかれて...
地域タグ:宇治市
京都翔英高等学校の近くに「蜻蛉」の古蹟があります。源氏物語宇治十帖(五) 宇治の山荘は、浮舟の失踪で大騒ぎとなった。事情をよく知る女房達は、入水を推察して、世間体を繕うため母を説得し、遺骸の無いまま泣く泣く葬儀を行った。薫君も匂宮も悲嘆の涙に暮れたが、思いはそれぞれ違っていた。 実情を知った薫君は、自らの志の不運を嘆きながらも、手厚く四十九日の法要を営んだ。 六条院では、明石中宮が光源氏や紫上のため...
地域タグ:宇治市
早蕨の古蹟からさわらびの道を進むと宇治上神社があります。さらに進んで行くと、与謝野晶子没後50年と宇治市制40周年を記念して建てられた与謝野晶子の歌碑があります。幼い頃から古典文学に親しんだ晶子は、源氏物語 にひかれ紫式部を師と仰ぎました。そして源氏物語の現代語訳に力を注ぎ、五十四首の詠歌で再構成した「源氏物語礼讃」によって歌人としての天分を発揮したといわれています。歌碑には宇治十帖の十首が晶子の真筆...
地域タグ:宇治市
宇治駅から三室戸寺からに向かう交差点の近くの歩道に「手習」の碑があります。薫27歳から28歳の夏にかけての話。匂宮と薫の板ばさみで追い詰められ、自殺を図った浮舟は宇治川沿いの大木の根元に昏睡状態で倒れていた。たまたま通りかかった横川の僧都一行に発見されて救われる。僧都の80余歳になる母尼(ははあま)が、僧都の50余歳になる妹尼(いもうとあま)との初瀬詣で(長谷寺参詣)の帰途に宇治で急病を患ったため、看護の...
地域タグ:宇治市
現在の京都御苑の仙洞・大宮御所の北側には、藤原道長の邸宅・土御門第がありました。藤原道長の日記『御堂関白記』には、寛弘4年(1007年)道長が、曲水の宴を土御門殿で主催したとあります。平安時代のこの辺りは、公家の屋敷や寺院が建つ土地で、東側には紫式部の邸宅跡・廬山寺、その南の鴨沂高校の辺りには、道長が創建した法成寺もありました。寛仁2(1018)年10月16日、道長の「御堂関白記」に和歌を詠んだ記載があり、その歌...
地域タグ:京都市
平安時代中期、奈良の興福寺別当であった定澄(じょうちょう)。壬生氏の生まれで左京の人。延喜19年(919年)17歳で得度し、仁和寺別当・寛空、興福寺別当・空晴に学ぶ。興福寺に籍を置き、永延2年(988年)の維摩会では講師を務めた。長徳元年(995年)権律師に任じられ、西大寺別当に就任[3][4][1]。長保元年(999年)興福寺権別当となり、翌年には正任の別当に転じ、権少僧都となって龍蓋寺・龍門寺の別当職も兼任した[5][6][7...
地域タグ:奈良市
三室戸寺の鐘楼の脇に「浮舟」の碑があります。これは、寛保年間に「浮舟古跡社」を石碑に改めたものです。その際、古跡社のご本尊「浮舟観音」は当山に移され、浮舟念持仏として、伝えられています。正月、中君のところに宇治から消息があった。浮舟のことを忘れられない匂宮は、家臣に尋ねさせたところ、まさしく浮舟は、薫君に匿われて宇治にいることがわかった。そして、ある夜、闇に乗じ、薫君の風を装って忍んで行く。浮舟が...
地域タグ:宇治市
小倉百人一首を編纂した藤原定家ゆかりの嵯峨野(5)嵯峨嵐山文華館
百人一首は、800年前に藤原定家がここ嵯峨嵐山で優れた和歌を撰んだことから始まると伝えられます。2006年1月から2017年3月まで営業していた百人一首ミュージアム「百人一首殿堂 時雨殿」を改装し、2018年11月1日に「嵯峨嵐山文華館」としてリニューアルオープンしました。常設展では百人一首の歴史やその魅力を伝える展示が行われています。1F 常設展百人一首の歌かるたは江戸時代の初期に誕生。当初は貴族や大名の嫁入り道具の1...
地域タグ:京都市
小倉百人一首を編纂した藤原定家ゆかりの嵯峨野(4) 中院山荘跡
清涼寺から西に約5分、二尊院門前北中院町の通り沿いに、地蔵尊が祀られており、その横に「中院山荘跡」の駒札があります。鎌倉時代のはじめ、僧・蓮生の中院山荘がありました。蓮生の出家前の名は、宇都宮頼綱といい、歌人としても著名で、藤原定家との親交が厚く京都歌壇、鎌倉歌壇に並ぶ宇都宮歌壇を築きました。『英雄百首』(歌川貞秀画)宇都宮頼綱鎌倉時代の武将,歌人。法名蓮生。宇都宮成綱の子。祖父朝綱の公田掠領の罪に...
地域タグ:京都市
二尊院は、平安時代初期の承和年間(834年 - 847年)、嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したとされています。総門慶長18年(1613)に伏見城にあった薬医門を角倉了以によって移築・寄進されたものと伝わっています。総門には文様(装飾のための図柄)があり、唐草模様、数珠入り三つ巴紋、桃の巴蓋瓦などが施されており、室町時代の建築として京都市指定文化財となっています。総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は紅...
地域タグ:京都市
小倉山山腹に位置する常寂光寺にも、藤原定家の小倉山荘跡と伝えられる場所があります。 常寂光寺は、慶長年間(1596〜1614)に大本山本圀寺第16世究竟院日禛上人により開創されました。山門江戸後期に改築されたもので、江戸中期出版の「都名所図会」には、袖に土塀をめぐらした薬医門が図示されています。仁王門仁王門は、もとは本圀寺客殿の南門として貞和年間(1345〜49)に建立されたものが元和二年(1616)に移築されました。 当寺...
地域タグ:京都市
『源氏物語』は、紫式部が生涯で唯一残した物語作品です。平安中期、宮仕えで宮中の内情にも精通した紫式部が、和歌795首を詠み込んだ物語を通して、当時の貴族社会を描きました。『源氏物語』の原本は、今は残されていませんが、現存する最古の写本は、鎌倉時代に藤原定家(ふじわらのさだいえ)が残したものであるといわれており、定家の写本は、以後『源氏物語』の主流となり、広がっていきました。また、定家が京都小倉山の山...
地域タグ:京都市
名和児童公園の前に一条院跡の案内板があります。一条院跡は、もと藤原伊尹(これただ)の邸宅で、その異母弟為光から藤原詮子に伝えられ、のち一条天皇・後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の里内裏となりました。紫式部が一条天皇の中宮彰子に仕えていた期間は、ほとんど一条院が皇居となってします。ゆえに『紫式部日記』で描かれる内裏は、一条院のことと考えられています。一条院は、平安宮の北東に隣接した邸宅で、一条天皇...
地域タグ:京都市
紫式部は、長保4年(1002年)ごろ、『源氏物語』を書き始めたとされています。のちに藤原道長に召し出され、一条天皇の中宮・道長の長女である藤原彰子に女房として仕えることに。女房名は藤式部(とう の しきぶ / ふじ しきぶ)で、後に「紫式部」と呼ばれたとされています。彰子の家庭教師としての役割も果たしたとされ、この間、道長の支援のもとで『源氏物語』を完成させています。『源氏物語』の執筆地として有力なのは石山...
地域タグ:京都市
京都市上京区晴明町にある晴明神社は、平安時代中期の天文学者である安倍晴明をお祀する神社です。一条戻橋のたもとにあった晴明の屋敷跡に鎮座しています。寛弘2年(1005年)に晴明が亡くなると、一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、寛弘4年(1007年)、晴明の屋敷跡に晴明を祀る神社を創建しました。創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通まであり、か...
地域タグ:京都市
京都市上京区の堀川に架けられている一条通の一条戻橋は、「あの世」と「この世」をつなぐ橋とも言われていました。伝説では、安倍晴明の父である安倍保名が殺害された場所であり、晴明が呪法を駆使して保名を蘇生させた場所とも言われています。安倍保名 あべの-やすな古浄瑠璃(こじょうるり)「しのだづま」の登場人物。摂津阿倍野(大阪府)の武士。和泉(いずみ)(大阪府)の信太(信田)(しのだの)森で陰陽師(おんようじ)芦屋道満の弟...
地域タグ:桜井市
仁王門から本堂までの399段の長い登廊を上りきり、やっと長谷寺の本堂に到着。小初瀬山の斜面に建つ国宝の本堂は、慶安3年(1650)、徳川家光により造営された大殿堂。10mを越す本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、本尊を参拝する礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造になっています。ご本尊は、右手に錫杖、左手に水瓶を持って方形の大磐石という台座に立つ長谷寺式十一面観世音菩薩...
地域タグ:桜井市
また、長谷寺は『源氏物語』の「玉鬘(たまかずら)」の舞台としても知られています。仁王門から右の小道に向かうと、『源氏物語』二十二帖「玉鬘」ゆかりの二本の杉があります。幹の根元がくっついた杉の大木です。 謡曲「玉鬘」と二本の杉 謡曲「玉鬘」は源氏物語玉鬘ノ巻に拠ったもので、初瀬詣の旅僧の前に現れた玉鬘の霊が、僧を長谷寺の”二本の杉”の下に案内し、この杉の下で亡母の侍女右近とめぐりあった話を述べるという...
地域タグ:桜井市
奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派の総本山の寺院・長谷寺初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬から5月上旬は150種類以上、7,000株といわれる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されています。牡丹に続いて、6月には紫陽花が見頃を迎え、境内の各所で紫陽花を楽しめます。長谷寺は、朱鳥元(686)年、僧道明上人が天武天皇のために銅板法華説相図(国宝)を西の岡に安置したことが始まりとされています。平安時...
地域タグ:桜井市
京都だけでなく敦賀にも、安倍晴明を祀る晴明神社があります。南北朝時代の金ヶ崎戦、織田信長と朝倉氏との戦火からあつく守られた神社で、以来数々の火災から町を守ったとして、防火の守としても信仰を集めています。晴明は10世紀末に敦賀に移り住み、天文暦学の研究を重ねたといわれており、晴明が陰陽道の研究に使ったとされる「祈念石」がご神体として祭壇の床下に祀られています。祈念石祭壇の下にある小窓から覗き見ることが...
地域タグ:敦賀市
宇治十帖モニュメントから、さわらびの道を進み、宇治神社を越えたところに早蕨の古蹟があります。宇治神社早蕨(さわらび)は、『源氏物語』五十四帖の巻の一つ。第48帖。第三部の一部「宇治十帖」の第4帖にあたる。巻名は、中君が詠んだ和歌「この春は誰にか見せむ 亡き人の形見に摘める 嶺の早蕨」に因む。薫25歳の春の話。宇治の里にまた春がめぐってきた。父八の宮も姉大君も亡くした中君の元に、父の法の師だった宇治山の阿...
地域タグ:宇治市
宇治川に架かる朝霧橋。朝霧橋を渡って、対岸に進んでいます。朝霧橋のたもとには、小舟で橘の小島に向かう浮舟と匂宮との像があります。後ろの屏風型レリーフには、薫が大君・中君を垣間見している「橋姫」の場面が描かれています。ヒカルゲンジという品種のツバキがあるのですね。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご...
地域タグ:宇治市
平等院がある中心地から東へ進んで行くと、宇治川沿いに「宿木」の古蹟があります。宇治駅からだと、歩いて20分。さすがにここまで来ると、観光客の姿は見当たりません。宿木(ヤドリギ)はけやきなどに寄生する植物のことで、宇治川のほとりで目にすることができます。源氏物語宇治十帖(五)宿木亡き大君を忘れかねる薫君は、いつしか現し身の中君におもいをよせるようになった。中君はその真情に絆されはするが「うとましく」も思...
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宇治の橋姫神社は、源氏物語宇治十帖「橋姫」の古跡ともなっています。橋姫は、宇治橋の守り神で、古代より水辺、特に橋は心霊の宿るところとされていました。橋姫神社は、瀬織津比咩尊(橋姫)を祭神とし、水運の神である住吉明神と並んで境内に祀られています。1870(明治3)年の大洪水で流されるまでは宇治西詰にあり、さらに古くは宇治橋三の間に祀られていたと伝えられています。神は川の汚れを流すとされ、苦しみ、悪縁も消...
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『源氏物語』第54帖のうち最後の10帖は、「宇治十帖」と呼ばれ、「橋姫(はしひめ)」「椎本(しいがもと)」「総角(あげまき)」「早蕨(さわらび)」「宿木(やどりぎ)」「東屋(あずまや)」「浮舟(うきふね)」「蜻蛉(かげろう)」「手習(てならい)」「夢浮橋(ゆめのうきはし)」の10帖の総称。主人公薫(かおる)大将と宇治の八の宮の娘、大君(おおきみ)・中君(なかのきみ)、および浮舟との人間模様が語られ、主として宇治の地が舞台となって...
地域タグ:宇治市
五条大橋の南東(下京区木屋町通五条下ル)に源融河原院跡の石碑があります。紫式部の『源氏物語』の光源氏のモデルとなった源融の邸宅・河原院があった地とされています。この辺りは河原院の庭の中の島「籬の島」が鴨川の氾濫によって埋没したものと伝えられた「籬の森」の跡で、石碑の隣にある榎は、森にあった木の最後の1本とされています。源融河原院跡この付近には、嵯峨天皇皇子で『源氏物語』の主人公 光源氏のモデルの一人と...
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藤森神社の境内社です。八幡宮 永享10年(1438年)に足利義教が造営したもの。祖霊社 当社に功労・功績があった者を祀る。七宮社 蔵王社、広田社、諏訪社、厳島社、住吉社、熊野社、天満社大将軍社 永享10年(1438年)に足利義教が造営したもの。天満宮社金太郎像かへし石力石とも呼ばれます。昔、この石を拝殿から鳥居まで転がす 行事があり、力を競い合ったとのこと。自販機自販機にも馬の姿が!「必勝祈願」と書かれると、飲...
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本殿本殿は正徳2年(1712年)に中御門天皇より下賜された宮中賢所(内侍所)。現存する賢所としては最も古く、東殿・中央・西殿の三座から成り、本殿中央には、元からこの地に祀られていた三韓征伐にまつわる7柱を祭っています。素盞嗚命(すさのうのみこと)を主神とし、あわせて神功(じんぐう)皇后、日本武尊(やまとたけるのみこと)など十二柱に及ぶ神々を奉祀し、洛南深草の産土神として崇敬されている古社である。本殿は、正徳2...
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京都市伏見区深草にある藤森神社(ふじのもりじんじゃ)は、社伝では、神功皇后摂政3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国深草の里の藤森に纛旗(とうき = いくさ旗)を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが当社の発祥であるとしています。また、菖蒲(端午)の節句の発祥地として知られています。『源氏物語』第25帖「蛍」では、端午の節句に六条院の馬場で騎射が行われる場面が描かれています。南と西の...
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誠心院は、京都市中京区にある和泉式部ゆかりの寺院で、通称「和泉式部寺」と呼ばれています。新京極通の東側、誓願寺南にあり、華岳山と号し、真言宗泉涌寺派。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、藤原道長がその女上東門院彰子に仕えていた和泉式部のために、東京極今出川いまでがわ南にあった東北とうほく院の一隅に一庵小御堂を結び与えたのが始まりという(貞徳百人一首頭書)。和泉式部は越前守大江雅致の女。和歌に優れ和泉守橘...
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貴船神社は、心願成就信仰としての「丑ノ刻詣(うしのときまいり)」でも知られています。鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「丑の刻参り」昔、宇治の橋姫が丑ノ刻詣りをして男に呪いをかけた伝説があり、これをもとに作られたのが謡曲「鉄輪」です。竜閑斎画『狂歌百物語』より「橋姫」橋姫が頭にのせた鉄輪を老いた鉄輪掛石が貴船口駅の傍らにあるそうです。丑ノ刻詣りというと、単に呪いをかけるというイメージがありますが、本来は...
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思い川から奥宮への参道を進んで行くと、神門が見えて来ます。神門神門をくぐると、左手にあるのが連理の杉。連理の杉連理の杉(御神木)貞明皇后御参拝の折(大正十三年)称賛された連理の杉。連理とは別々の木が重なって一つになる意で、夫婦、男女の仲睦まじいことをいう。この神木は杉と楓が和合したものでひじょうに珍しい。貴船神社のお参りは、本宮、奥宮、結宮の順にお参りする三社詣という慣わしがあります。奥宮は、もともと...
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貴船神社の奥宮の参道に入るところに、思ひ川橋と呼ばれる朱塗りの小さな橋が架かっています。この橋の下を流れるのが思ひ川で、貴船川に合流します。昔、貴船神社本宮がまだ奥宮にあったころ、御物忌(おものいみ)川といって、貴船神社に参拝する際、川で禊(みそぎ)をして心身を清めたと伝えられています。後に和泉式部が参拝し、恋を祈ったことから「おものいみ」川が「思ひ川」になったのではないかといわれています。思ひ川...
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貴船神社の奥宮の手前にそびえる杉の巨木。相生の杉(御神木)同じ根から生えた樹齢1000年の二本の杉。相生は、相老に通じ、夫婦艫に長生きの意味。自然の生命力を感じますね。貴船神社の縁結びのシンボルであるかのように、二本の杉が寄り添うように生えています。貴船神社の末社・「私市社(きさいちしゃ)」「林田社」私市社の御祭神は大國主命林田社の御祭神は少名彦命にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応...
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貴船神社の本宮から結社(中宮)へと向かいます。料理旅館の立ち並ぶ貴船川沿いの道は、秋は紅葉のトンネルとなります。夏には川床が設けられ、涼を求める人達で賑わいます。本宮より歩くこと10分、和泉式部もお参りしたという結社(ゆいやしろ)が見えてきます。結社は、本宮より上流300メートル、山側の小高い地にあり、本宮と奥宮の中間にあるため中宮 (なかみや)とも呼ばれています。御祭神は磐長姫命 (いわながひめのみこと)を...
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貴船神社の社務所には、「水占い」というおみくじが売られています。まずは、紙の中から好きな一枚を選びます。最初は文字が書かれていませんが、境内の霊泉に浮かべると、文字が浮き出できて、普通のおみくじのように、恋愛、出産、病気、転居などの運勢が書かれています特に女性の間で人気があるようです。(私も引いたことがあります(^^;)また、おみくじには、QR Translatorが印刷されていて、外国人観光客は、それぞれの言語で...
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貴船神社の社殿の前に白と黒の神馬の像があります。雨乞いの社として知られる貴船神社は、歴代天皇より、日照りには黒馬、長雨には白馬、または赤馬を献じて、祈願されてきましたは、平安時代の文献によると、時には生馬に換えて板立馬を奉納したと伝えられています。その板立馬が今日の絵馬の原形と言われ、貴船神社には絵馬は、絵馬発祥の地にちなんで黒馬・白馬の絵馬、貴船神社の神様である龍神さまにちなんだ龍絵馬などがあり...
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新京極にある誓願寺は、清少納言、和泉式部、松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺として名高いお寺です。飛鳥時代、天智天皇 6年(667)、天皇の勅願により奈良に創建されました。鎌倉時代に奈良から一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に移転し、天正19年(1591)、秀吉の命により現在の地に移転し、慶長2年(1597)、秀吉の側室・松の丸殿(京極竜子)の援助によって伽藍の再興が完了しました。清少納言も和泉...
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次回の「光る君へ」から和泉式部が登場するようなので、しばらく和泉式部についての記事をアップします。日本三大祭の一つに数えられる祇園祭は、八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)と呼ばれました。八坂神社 西楼門四条通りの突き当たりに建つ切妻造の楼門。南楼門八坂神社の正面門にあたる楼門。舞殿本殿現在の社殿は承応3年(1654)に4代将軍徳川家綱により建立されたもので、拝殿と本殿を大...
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「物語の間」では『源氏物語』のあらすじや、物語の舞台になった宇治の名所について展示されています。『源氏物語』の早わかり表体の動きに反応するセンサー技術を使った体験コーナーでは、『源氏物語』のストーリーを見ながら、グー、チョキをかざしたりするゲーム感覚のコーナーもありますよ。ルーレットで出てきた源氏絵を探す「源氏絵大集合!」六条院にまつわる登場人物の解説を読む「六条院引き出し」「響け!ユーフォニアム...
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「物語の間」では、『源氏物語』の宇治十帖の主要人物「薫」と「匂宮」にちなんだ香りについての展示があります。香りの文化香りの文化は、仏教と深くかかわっています。仏前で香を薫き、清浄な空間にととのえるのもそのひとつです。良い香りの木で、仏像を彫ることも行われました。『源氏物語』の中では、仏前で香を薫ことを「名香(みょうごう)」と表現しています。香りの原料は、中国や東南アジアから渡来した貴重品でした。これ...
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このの細い参道を上って行くと、住宅地の間に宇治陵32号墳があります。この宇治陵32号墳を藤原道長の墓とする説もありますが、誰がどこに埋葬されているかは特定されていないそうです。ここを見学していたら、住人の人が反対側にも陵墓の入口があると説明してくださいました。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お...
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JR・京阪木幡駅付近から北東に広がる丘陵は、藤原氏の墓地が営まれていた所で、宇治陵1号は総遙拝所に当てられています。宇治陵(うじりょう、うじのみささぎ)は、京都府宇治市にある古墳群と、藤原氏とその関係者の陵墓群である。地蔵山および御蔵山に散在する古墳群を総称したもの。地蔵山及びその北側浄妙寺山の南北約1.8キロ、東西0.9キロ、総面積89,332平方メートルに点在する大小320もの陵墓群である。明治10年に宮内庁によ...
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京都市左京区浄土寺真如町にある真如堂は、正式には鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざん しんしょうごくらくじ)といい、永観2年(984年)、比叡山延暦寺の僧である戒算が夢告によって、延暦寺常行堂の本尊である阿弥陀如来を神楽岡東の東三条院詮子(藤原詮子)の離宮に安置したのが始まりであるとされています。『真如堂縁起』)。正暦3年(992年)一条天皇の勅許を得て、本堂が創建されました。東三条院(藤原詮子)は、藤原兼家...
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宇治市源氏物語ミュージアムの平安の間と宇治の間をつなぐ架け橋を歩いて行き、「宇治の間」へ。宇治の間宇治の間は、宇治十帖がテーマ。「宇治十帖」物語シアターは、紗幕や実物大のセットで「宇治十帖」の名場面を紹介しています。宇治十帖登場人物八の宮邸物語の中で、八の宮の一家が暮らしている住まいは、現在の宇治神社から宇治上神社の辺りにあると想定されています。八の宮邸を訪れた薫は、月明かりの中で楽器を奏でる、大...
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即成院は那須与一ゆかりの寺とされ、京都で病にかかった与一が、即成院の阿弥陀如来に祈願したところたちまち回復、以来、阿弥陀如来を肌身はなさず持っていたと伝えられています。また、「屋島の戦い」の時も一心に阿弥陀如来に祈ったところ、見事に扇の的を射る事が出来たといわれています。即成院 与一の手洗い場本堂裏には与一の墓とされる石塔があります。即成院のHPによると「源義経の家来であった那須与一は、義経の命を受...
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今熊野観音寺と同様、泉涌寺の塔頭の即成院は、正暦3年(992)、恵心僧都源信によって建立された光明院を始まりとするという説もありますが、実際の創立者は藤原道長の孫で、藤原頼通の子である歌人・橘俊綱が、伏見桃山に創建したのが始まりと考えられていいます。山門明治時代に現在地に移され、泉涌寺の塔頭となりました。本堂本堂内陣の本尊の阿弥陀如来と二十五菩薩は、寛治8年(1094)に作られたもので重要文化財。毎年10月の...
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泉湧寺の塔頭・今熊野観音寺の正式な寺号は、観音寺(かんのんじ)ですが、「今熊野」の通称で知られています。山号は新那智山。本尊は十一面観音。西国三十三所第15番札所。洛陽三十三所観音霊場第19番札所。熊野権現のお告げを受けた弘法大師(空海)がお堂を建てたのが始まりで、熊野権現を篤く信仰していた後白河天皇が今熊野の地に熊野那智権現を勧請したので新那智山とも呼ばれています。頭痛持ちで苦しんでいた後白河天皇の枕...
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皇室との関係が深いことから御寺と呼ばれる泉涌寺がある月輪地区は、清少納言の父・清原元輔の邸宅があったとされる場所で、清少納言が晩年を過ごしたとされています。境内には、清少納言の供養塔と歌碑が立っています。泉涌寺の創建については、伝承によれば、斉衡3年(856年)、藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣が、自らの山荘に神修上人を開山として草創したという説、空海が天長年間(824年-834年)、この地に草創した法輪...
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一条天皇の皇后・定子の陵墓は、京都市東山区今熊野泉山町にある鳥辺野陵(とりべののみささぎ)とされています。定子と一条天皇『枕草子絵詞』藤原定子(ふじわらのていし/さだこ) (976―1000)一条天皇の皇后、藤原道隆の女(むすめ)。母は高階貴子(たかしなのきし)。正暦元年(990年)1月、14歳で4歳年下の一条天皇に入内、まもなく従四位下に叙せられ、2月には女御、10月中宮となる。長徳2年(996年)、兄・伊周(これちか)、隆家が...
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一条天皇の皇后・藤原定子は、1000年(長保2)12月16日、媄子(びし)内親王を出産した直後、難産のため25歳で崩御、23日、定子の遺体は、六波羅蜜寺に安置され、27日に生前の希望から鳥戸野の南のあたりに土葬されたといいます。定子の死後、中関白家(父・兼家と弟・道長の中継ぎの関白という意味)は人望に欠け没落の一途をたどった。敦康親王が、后腹の第一皇子でありながら即位できなかったのも、それが一因である。定子が儲け...
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平安時代、高松殿址は、 醍醐天皇の皇子・源高明(たかあきら)の御殿・高松殿があったところです。後に高明の娘・源明子が藤原道長の妻となり、高松殿を住居としました。その高松殿内に伊勢から天大神を勧請して祀った鎮守社が高松神明神社の起こりとされています。その後、後白河天皇の内裏となり、保元の乱では後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らがここに参集して白河の地へ攻め込みました。平治の乱により高松殿は焼...
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『源氏物語』の主人公・光源氏の邸宅「六条院」のジオラマ六条院は、『源氏物語』に登場する架空の建築物で、平安京の六条京極付近に四町を占める光源氏の中年以降の邸宅です。広大な寝殿造で、西南部分に六条御息所の邸宅跡を含み、光源氏はここに主だった夫人たちと子女を住まわせました。「焔 (ほのお)」六条御息所と思われる女性を描いた上村松園の絵画光源氏は、六条院を春夏秋冬の4つに分け、それぞれの女君の希望に沿うよ...
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貴族が外出する際に使っていた牛車牛車は馬車とともに中国から伝わったと推定されている。牛車は大きく分けて荷車用と乗用の2つの要素があった。牛車は速度が遅い反面、大量の物資を運ぶのに向いていたため荷車として活用されて『石山寺縁起絵巻』や『方丈記』などにも登場する。運ぶ物資や速達性によって牛車と馬車の使い分けがされていたと推定され、中世に入るとそれぞれ車借・馬借と呼ばれる運送業者が成立することになった。...
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大原野神社は、京都盆地の西縁、西山山地の一峰にあたる小塩山の麓に広がる大原野の地に鎮座しています。紫式部は大原野神社を氏神と崇め、この大原野の地を愛していたといいます。『源氏物語』二十九帖「行幸(みゆき)」の巻には、冷泉帝が大原野へ鷹狩りに向かう華やかな行列を光源氏の養女・玉鬘が見物する様子が描かれいます。また、紫式部が生前に自ら撰んだとされる「紫式部集」に次の歌が詠まれています。長徳2年に越前守とし...
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京都市西京区大原野南春日町にある大原野神社は、延暦3年(784年)に桓武天皇が長岡京へ遷都した際、皇后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神である奈良・春日社(春日大社)の分霊を勧請したのが始まりとされています。嘉祥3年(850年)、藤原冬嗣を祖父に持つ文徳天皇が現社地に社殿を造営。貞観3年(861年)以降、皇后の参拝が再々あり、また円融天皇、一条天皇が度々行幸するなど藤原氏のみならず朝廷からも特別な崇敬を受けるようにな...
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土屋町通に平安宮内裏凝華舎(ぎょうかしゃ)(梅壺)跡・飛香舎(ひぎょうしゃ)(藤壺)跡の案内板があります。飛香舎(ひぎょうしゃ)は、藤原道長の娘で、一条天皇の中宮藤原彰子の御殿です。庭に藤の木が植えられたことから藤壺(ふじつぼ)と呼ばれ、この舎で藤や菊を愛でる宴が行われました。通常非公開ですが、現在の京都御所に復元されています。内裏の後宮七殿五舎の一つ。南庭(壺)に紅白の梅を植えていたので梅壺と呼ばれた。...
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貴族の暮らしと装束男性の装束男性の正装は、束帯です。平安時代以降、男子が参内する際に着用した正式の服装。天皇は即位以外の晴れの儀式に用いる。臣下は参朝の時を始め、大小の公事には必ずこの服装をする。その形状・構成は時代により変遷するが、中心となる構成は冠・袍・半臂(はんぴ)・下襲(したがさね)・衵(あこめ)・単(ひとえ)・表袴(うえのはかま)・大口(おおくち)・石帯(せきたい)・帖紙(たとう)・笏(しゃく)・襪(しと...
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貴族たちの遊び飛鳥・奈良・平安初期にかけては中国大陸の文化を熱心に取り入れていわゆる唐風文化が発達したが、平安中期以後は、摂関政治と荘園制のもとで公家の生活が華やかに展開された。894年遣唐使の廃止により唐文化の影響が弱まったため,それまで摂取した大陸文化を基礎に,安定した貴族生活を背景に国風文化が成立。仮名の発明により,国文学が発達し,女流文学者が出現,物語文学や和歌が発達した。また浄土教の流行に...
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宇治市源氏物語ミュージアムは、1998年に『源氏物語』の最後の10帖「宇治十帖」の舞台となった宇治に開館しました。「平安の間」では光源氏を主人公とする前半の物語がテーマとなっており、六条院の縮小模型、牛車、調度品などが展示され、平安貴族たちの暮らしぶりを知ることができます。平安時代の高貴な貴族女性は、成人すると、男性に顔を見せることが滅多になかったため、男性は垣間見(かいまみ)を機に、恋文を送って求愛し...
地域タグ:宇治市
白峯神宮の境内にある伴緒社は、源為義とその息子である源為朝を祀ってあります。伴緒社(ともおのしゃ)源為義源義親の子。義父である義忠が暗殺され、その犯人とされ逃亡した義綱を14歳で討ち取った。その後藤原摂関家に仕える。保元の乱では、子の頼賢、為朝らと供に上皇側につき、天皇方の義朝、平清盛らと戦ったが、義朝らに敗れた。東国へ落ち延びようとしたが、義朝のもとに降伏、比叡山に出家した。義朝は、為義と弟たちの...
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もとは、蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅地で、手水舎の飛鳥井(あすかい)は、清少納言の『枕草子』の中で、9つの代表的な井戸のひとつに挙げられています。飛鳥井白峯神宮の飛鳥井は平安の昔から有名です。平安時代の歌謡曲の催馬楽「飛鳥井」には「飛鳥井に宿りはすべし、や、おけ、蔭もよし、御水(ミモヒ)も寒し、御秣(ミマクサ)もよし」と謡われていて、オアシスのように人々が憩っていたと想像されます。(や、おけ...
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京都市上京区今出川通にある白峯神社のご祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇。崇徳天皇は、鳥羽天皇の皇子としてご生誕、保安4年に第75代の天皇に即位されましたが、保元の乱により、讃岐に配流され、長寛2年に45歳で崩御、白峰山陵に奉葬されました。讃岐に配流されてからは、髪も剃らず、爪も切らずに日本国の大魔縁になって朝廷を呪い続けたと伝えられています。崩御されてから大火事や不穏な事件が頻繁に起きたため、崇徳天皇の祟...
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下京区夕顔町に夕顔之墳があります。ここは、『源氏物語』第4帖「夕顔」に登場する夕顔の屋敷があった場所とされ、住宅地の一角に立つ石碑には「源語傳説 五條邊 夕顔之墳」と刻まれています。昭和4年に京都史蹟会によって建てられたそうです。夕顔は物語の中の架空の人物ではありますが、当地の地名も夕顔町となっています。「源氏夕顔巻」(月岡芳年『月百姿』)光源氏が夕顔の屋敷に泊まると、深夜に夢に嫉妬したもののけ(六条...
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元三大師堂本尊は元三大師(良源)。他に毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などを安置。毘沙門天は京都七福神の一つ。鐘楼手水社廬山寺(ろざんじ)(廬山天台講寺[ろざんてんだいこうじ])沿革天慶年中、元三大師良源によって草創される。良源は康保3年(966)55歳で第18世天台座主となり、内供奉に補せられて以降、比叡山から宮中に参内するにあたり、現船岡山の麓、現蘆山寺通北に輿願金剛院を建立し、寛和元年(985)正月3...
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京都市上京区北之辺町の廬山寺は、紫式部の邸宅跡として知られています。山門南門(薬医門)遡れば、紫式部の曽祖父である藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅があり、藤原為時に譲り、紫式部はこの邸で生まれ育ち、『源氏物語』を執筆したとされています。廬山寺(ろざんじ)現在の廬山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、ただしくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(938)に慈恵大師良源(じけいだいし りょうげん)...
地域タグ:京都市
藤原宣孝 は、正暦元年(990)、御嶽詣を行い、その年筑前守となりました。紫式部との結婚は998年(長徳4)の末か長保元年(999)のはじめといわれいます。紫式部の父の為時と為輔はいとこであり、宣孝と式部はまたいとこの関係にありました。998年には、石清水臨時祭、賀茂臨時祭の舞人を奉仕、同年山城守を兼任。11月末には豊前国宇佐神宮の奉幣使に任ぜられ、翌年帰京。この年4月平野臨時祭の勅使となり、7月相撲召合にも武官として...
地域タグ:大山崎町
合格門をくぐり、階段を上がっていくと、安倍晴明をお祀りする晴明堂に行き着きます。 晴明堂は、平安時代の陰陽師・安倍晴明をお祀りしています。 当山は安倍一族の寺として古来より安倍晴明信仰の聖地の一つとして数えられています。平成十六年(2004)、安倍晴明千回忌を迎えるにあたり二百年振りに晴明堂が再建されました。 正面にある「如意宝珠」は、いかなる願望も意のままに成就し、また悪を払い、災難を防ぐ功徳がある...
地域タグ:桜井市
石仏石仏群は、江戸時代、境内地に四国八十八所・西国三十三所の本尊仏として祀られていた石仏を一同に安置したものです。その前には弘法大師像と御砂踏み石がお祀りされており、「御砂踏み石」の中には四国八十八所の御砂が奉納されています。(案内板より)白山堂 白山堂は、室町時代に建立されました。流造屋根柿葺(こけらぶき)で美しい曲線の唐破風をもった社殿です。 国の重要文化財にも指定されています。 御祭神は全国の白...
地域タグ:桜井市
続いて、十一面観音をお参りしました。十一面観音 十一面観音は、苦しんでいる人をすぐに見つけるため、頭上に十一のお顔があり常に全方向を見守っています。 奈良時代から多く信仰され、延命、病気治癒などを願って各地でお祀りされるようになりました。 古来より当山に伝えられる十一面観音は昭和五十七年(1982)に、この場所に勧請し建立されました。また十一面観音の周りの側壁には四千五百体の奉納仏がお祀りされています...
地域タグ:桜井市
安倍文殊院の稲荷社は、安倍晴明出生の地として、晴明の母とされる白狐・信太森葛葉稲荷が祀られています。江戸時代までは、境内の西古墳の頂上に稲荷社があったそうですが、現在は晴明が祀られている金閣浮御堂が見える場所に移されています。五穀豊穣・金運財運・商売繁盛・家運隆昌等の御利益が厚いことで信仰されています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴...
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続いて金閣浮御堂へ。金閣浮御堂金閣浮御堂・霊宝館は開運弁財天(大和七福神)、安倍仲麻呂、安倍晴明の御尊像、安倍晴明の御尊軸、方位災難除けの九曜星など、陰陽道に関する宝物をお祀りしている御堂で内陣参拝できます。堂内の壁面には、秘仏の十二天御尊軸(四方(東・西・南・北)と、四隅(東北・東南・西北・西南)の八方、天と地、日と月、すべての方角を司る守護神)がお祀りされています。この御堂は「七まいり」という魔...
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奈良県桜井市阿部にある安倍文殊院は西暦645年に創建された寺院で、京都・天橋立の切戸文殊、山形の亀岡文殊と共に日本三文殊のひとつです。表山門大化の改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂が大化元年(645年)に孝徳天皇の勅願もあって安倍氏の氏寺として安倍山崇敬寺(安倍寺)を建立したのが始まりである。創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300メートルほどのところにあったが、平安時代末期に多武峰の妙楽寺(現、...
地域タグ:桜井市
大津市歴史博物館では、令和6年(2024年)1月から、特集展示「源氏物語と大津」を約1年間にわたって開催されています。私は3月末に見て来ました。エントランスロビーの無料エリアでは、石山寺本堂の「源氏之間」が再現されており、中に入って写真撮影ができるフォトスポットになっています。「源氏之間」再現コーナーこの横には、紫式部になりきれるフォトスポットもあります。デジタル絵巻54帖各巻のあらすじや関係図が楽しめます。...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。平成橋『紫式部日記絵巻』「御産養の夜、中宮(彰子)の前に対座し静かに御簾をあげる紫式部」「御産養の盛儀を覗き見て感激する夜居の僧」蛭子橋『源氏物語絵巻』「柏木(一)女三宮を見舞う朱雀院」「柏木(二)病に伏す柏...
地域タグ:越前市
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。千代鶴橋『紫式部日記絵巻』「新造の竜頭鷁首の舟を下見する道長」この 国安橋の向こうには、千代鶴神社があります。昭和7年(1932年)に建てられた神社で、越前打ち刃物の祖「千代鶴国安」をお祀りしています。千代鶴国安は良...
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嵯峨野の竹林の小径を抜けて行くと、野宮神社があります。野宮神社があるところは、天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清める場所であり、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた清浄の地を選んで建てられました。その様子は源氏物語「賢木の巻」で、六条御息所の娘(後の秋好中宮)がこの地に暮らした後、斎王群行をして伊勢に向かう直前に、光源氏が六条御息所を野宮に訪ね、別れを惜しむ場面が場面が描かれています...
東福寺の塔頭・同聚院は、1006年(寛弘3年)に藤原道長が法性寺の境内に造営した五大堂の遺跡です。本尊は定朝の父・康尚の作といわれる不動明王は「十万不動」と呼ばれ、火災除けのご利益があることで有名です。毎年2月2日「十万」の字を書いた護符が授与されます。同聚院臨済宗東福寺派に属する東福寺の塔頭の一つである。東福寺の寺地一帯は,平安時代中期に藤原忠平が法性寺を建立した所で、寛弘三年(1006)には,藤原道長が...
市バス「わら天神前」下車 東へ200mほど行ったところに花山天皇の紙屋川上陵(かみやがわのほとりのみささぎ)があります。花山天皇は、冷泉天皇の第一皇子(母は藤原懐子)で、円融天皇の譲位を受け、永観二年(984)17歳で即位しました。しかし、寵愛の女御藤原忯子の死を悲しむあまり、藤原兼家・道兼父子らの謀略で、わずか1年10カ月でで退位、山科の元慶寺で出家しました。その後は播磨国書写山の性空(しょうくう)などのもと...
京都市北区衣笠街道町にある法音寺平安時代に慈覚大師によって創建したといわれています。その後平安時代中期に花山天皇の勅願所になり、西国三十三ヶ所霊場復興所の本山でもあります。1008年(寛弘5年)には、花山天皇の葬奏が行われたともいわれています。応仁の乱の兵火によって焼失しましたが、その後再建されました。左大文字の発祥地旧大北山村の菩提寺でもあり、五山送り火が行われる8月16日の朝に施設餓思会が行なわれ、そ...
東福寺駅から歩いて5分ほどのところに夢の浮橋跡があります。夢の浮橋は、泉涌寺に詣でる本道に架けられていました。かつては大路橋や落橋と呼ばれていましたが、『源氏物語』の宇治十帖の「夢の浮橋」に因んで名付けられました。現在橋はなく、コインパーキングの前に、ポツンと石碑が建てられています。「夢浮橋」(ゆめのうきはし)は、『源氏物語』五十四帖の第54帖に描かれています。かつて、この地に夢の浮橋が架かっていた...
京都市東山区鷲尾町にある天台宗の寺院雙林寺(そうりんじ)は、延暦24年(805年)に桓武天皇の勅願で左大史・尾張連定鑑(むらじさだみ)により、最澄を開山としてこの地に伽藍が創建され、日本初の護摩祈祷道場として建立されました。平安時代は、護摩祈祷が盛んで、中宮彰子が土御門殿で敦成(あつひら)親王を出産する際、大勢の僧侶を集めて護摩祈祷を行ったことが『紫式部日記』に記されています。また、『源氏物語』第53帖「手...
京都市南区九条町にある東寺は、真言宗の寺院で、東寺派の大本山。延暦 15 (796) 年平安遷都のとき羅生門の東に創建され、西寺に対して東寺といい、また左大寺、左寺とも。弘仁 14 (823) 年嵯峨天皇から空海に賜わり、真言密教の根本道場となって教王護国寺と号しました。鎌倉時代に文覚が堂舎を修復。文明 18 (1486) 年の火災で堂塔など大部分を焼失しましたが、豊臣氏、徳川氏の助力により再建されました。『紫式部日記』には、...
現在の京都御苑の仙洞・大宮御所の北側には、藤原道長の邸宅・土御門第がありました。土御門第跡(つちみかどていあと)平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、拡充され南北二町に及び、上東門第(じょうとうもんてい)、京極第(きょうごくてい)などとも呼ばれました。道長の長女彰子(しょうし)が一条天皇のお后となり、里内裏(さとだいり)である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子達も、誕生...
寛弘5年(1008)、藤原道長は、娘の中宮彰子のために、金峯山で懐妊祈願を行いました。その甲斐あってか、ついに彰子の懐妊が判明。出産のために、彰子が道長の邸である土御門邸へ里下がりすると、4月から5月にかけて、彰子の安産祈願のための法華三十講が行われました。※法華三十講法華経二十八品 (ほん) に開経の無量義経と結経の観普賢経を加えた30巻を、1日に1巻ずつ、または朝夕に1巻ずつ講ずる法会。京都市左京区聖護院山王町...
清涼寺は、秋の紅葉の名所でもあります。黄金に輝くイチョウ多宝塔と紅葉一昨年の秋、本堂と庭園を見学してきました。本堂を抜けると、渡り廊下が続き、ここから庭園を鑑賞します。弁天堂は、本堂のうしろの池に面して建っています。弁天堂弁天堂は、正面柱間三間、屋根宝形造で、正面に軒唐破風が付いており、建築年代は江戸末期ごろと推定されます。弁天堂のまわりは、池遊式庭園になっています。弁天堂西 川中島観光客の姿はほ...
本堂の西側には、豊臣秀頼の首塚があります。1980年(昭和55年)大阪城の京橋口三の丸跡から、地中に埋葬され、周囲にシジミやタニシの生貝が敷かれた頭蓋骨が発見されました。その頭蓋骨は、20~25歳の若武者で、首に介錯の跡があり、左耳が不自由だったこと、出土品などから、大阪夏の陣と時期が合うことがから、秀頼のものと推定され、1983年(昭和58年)、秀頼ゆかりの清涼寺に首塚を造って納骨されました。石は小豆島の自然石...
清涼寺の仁王門を潜ると、左側にあるのが法然上人像です。法然上人像この像の奥には、聖徳太子殿があります。聖徳太子殿法隆寺の夢殿を模したものといいます。この北側には、多宝塔が建っています。多宝塔 江戸護国寺での出開帳の際に寄進され、3年後の元禄16年(1703年)に船で運ばれ再建されました。鐘楼「嵯峨十景・五台の晨鐘」と呼ばれてきたには足利義政・日野富子・足利義尚の名と文明16年(1484年)の日付が刻まれていると...
嵯峨野の清凉寺は、嵯峨釈迦堂の名で知られる浄土宗の寺院です。仁王門この地には平安前期、嵯峨天皇の皇子で、『源氏物語』の主人公光源氏のモデルとされる左大臣・源融(みなもとのとおる)の別荘・栖霞観(せいかかん)の跡に開かれた棲霞寺にお堂を建立し、釈迦如来を安置したと伝えられています。阿弥陀堂(栖霞観跡)阿弥陀堂は、源融が建立した棲霞観を偲ぶ唯一の建物と言われています。阿弥陀堂の木造阿弥陀三尊坐像は、源融...
金峯神社は、吉野山最奥の青根ヶ峰のそばにあり、吉野山の地主神を祀る神社です。二の鳥居金峯神社に伝わる経筒は、金峯山から出土したもので国宝となっています。令和6年(2024)には、金峯神社と金峯山寺が所有する藤原道長直筆の「金峯山経塚出土紺紙金字経」が国宝に指定されました。拝殿 吉野神宮の旧拝殿を移築したもの義経隠れ塔源頼朝に追われた源義経がここに隠れていたという塔。その際に追っ手に囲まれてしまい、屋根を蹴...
御嶽詣(みたけもうで)とは、吉野郡金峰山(きんぶせん)に参拝すること。藤原宣孝は、正暦元年(990年)3月頃に御嶽詣を行いますが、『枕草子』によると「御嶽は『質素な服装で詣でよ』などと仰らないだろう」といって長男の隆光とともに派手な衣装で参詣したことが書かれています。帰京後の同年8月に筑前守に任ぜられたことから、「あのとき言った通りであった」と噂されたといいます。吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、...
宇治駅の近くにある東屋観音に「東屋」の古蹟があります。浮船の母は今は常陸介の後妻になっていた。浮舟には左近少将という求婚者がいたが、少将は、浮舟が介の実子でないと知ると、財力めあてで浮舟の義妹と結婚してしまう。この破談に浮舟を不憫に思った母は、縁を頼って二条院にいる中君に預けることにした。ある夕暮、ふと匂宮は、西対にいる浮舟を見て、その美しさに早速言い寄った。驚いた母は、娘の行く末を案じ、三条あた...
彼方神社の脇に「椎本」の古蹟があります。春、花の頃、匂宮は、初瀬詣の帰路、宇治の夕霧の山荘に中宿りし、お迎えの薫君やお供の貴族たちと音楽に興じた。楽の音は対岸の八宮の邸にもよく通い、八宮は都にいられた昔を偲ばせた。薫君から二人の姫君のことを聞き、ゆかしく思っていた匂宮は、宇治に消息を送ったが、返事はいつも妹の中君がなさるのだった。薫君は八宮を仏道の師と仰いで、宇治を訪れ、姉の大君に強く心をひかれて...
京都翔英高等学校の近くに「蜻蛉」の古蹟があります。源氏物語宇治十帖(五) 宇治の山荘は、浮舟の失踪で大騒ぎとなった。事情をよく知る女房達は、入水を推察して、世間体を繕うため母を説得し、遺骸の無いまま泣く泣く葬儀を行った。薫君も匂宮も悲嘆の涙に暮れたが、思いはそれぞれ違っていた。 実情を知った薫君は、自らの志の不運を嘆きながらも、手厚く四十九日の法要を営んだ。 六条院では、明石中宮が光源氏や紫上のため...
早蕨の古蹟からさわらびの道を進むと宇治上神社があります。さらに進んで行くと、与謝野晶子没後50年と宇治市制40周年を記念して建てられた与謝野晶子の歌碑があります。幼い頃から古典文学に親しんだ晶子は、源氏物語 にひかれ紫式部を師と仰ぎました。そして源氏物語の現代語訳に力を注ぎ、五十四首の詠歌で再構成した「源氏物語礼讃」によって歌人としての天分を発揮したといわれています。歌碑には宇治十帖の十首が晶子の真筆...
宇治駅から三室戸寺からに向かう交差点の近くの歩道に「手習」の碑があります。薫27歳から28歳の夏にかけての話。匂宮と薫の板ばさみで追い詰められ、自殺を図った浮舟は宇治川沿いの大木の根元に昏睡状態で倒れていた。たまたま通りかかった横川の僧都一行に発見されて救われる。僧都の80余歳になる母尼(ははあま)が、僧都の50余歳になる妹尼(いもうとあま)との初瀬詣で(長谷寺参詣)の帰途に宇治で急病を患ったため、看護の...
帰りは、行きと違うルートで、銅門から退城しました。銅門(あかがねもん)銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、明治3年(1870)の小田原廃城後、明治5年(1872)に解体されるまで、江戸時代を通してそびえていました。往時は、大手筋にあたる馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。銅門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由...
相模の小田原城を拠点とする北条氏は、北条早雲以来5代に亘り、関東に勢力を奮っていました。徳川家康は、次女の督姫を北条氏直に嫁がせており、同盟関係にあったことから、秀吉への仲介役を担当しました。天正16年(1588年)5月21付の北条氏政・氏直父子宛ての起請文では、「関白殿下への謁見を拒否する場合、娘・督姫を離別させる」という内容で秀吉への恭順を促すと、氏政の弟で、家康の旧友の北条氏規(うじのり)を上洛させました...
小田原駅からも小田原城から徒歩で20分ほどのところにある北条稲荷。その名の通り、北条氏ゆかりの神社です。北条3代・北条氏康が亡くなったのは、小田原城内で死んだ老狐の霊が家臣に乗り移り、身辺に不幸を起こしたからだろうと考えた氏康の子・北条4代・北条氏政が城内に老狐の霊を祀って供養をしたのが北条稲荷の起こりと伝えられています。 (諸説あり)北条氏康Wikipediaによると「夏に氏康が高楼で涼んでいると狐が鳴き、こ...
数年前、小田原の町を散策しました。小田原駅小田原駅の前には、北条早雲像が立っています。北条早雲後北条氏の祖。伊勢新九郎長氏と称したが,入道して宗瑞と号した。出自は不明で,室町幕府政所執事伊勢氏の一族とも,鎌倉幕府執権北条氏の子孫ともいい,出身地も伊勢,京,備中などの諸説がある。応仁年間 (1467~69) 今川義忠を頼って駿河に下向し,義忠の死後国内が乱れたときにこれを平定し,興国寺城主となった。延徳3 (91)...
先週末、初めて静岡県の菊川を訪ねました。菊川駅前で、レンタサイクルを借り、応声教院へ。駅かから約4.8キロ、20分ほどで到着。参道の彼岸花が見頃を迎えていました。応声教院(おうしょうきょういん)は、斉衡2年(855)勅願により円仁が創建したとされています。承安5年(1175)法然が浄土宗に改め、法然の師である皇円の菩提をこの寺で弔ったと伝えられています。今回、ここを訪ねたのは、こちらの山門を見るのが目的です。この山門...
また、宝台院は、江戸開城後に、徳川慶喜が1年間近くを謹慎した場所としても知られます。江戸城は、慶応4年(1868)4月11日に新政府軍に明け渡され、彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は、11日午前3時に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かいました。水戸では弘道館の至善堂にて引き続き謹慎した後、7月に徳川家が駿府に移封されると、7月23日、慶喜も駿河の宝台院に移って、明治2年9月28日までの約1年間を宝台院で謹慎されました。これに...
JR静岡駅北口から国道1号線沿いに徒歩10分、葵区常磐町二丁目に宝台院という浄土宗のお寺があります。山号は金米山。寺号は龍泉寺。宝台院は、1509年(永正6年)祐崇によって開かれた寺で、徳川家康の側室で、二代将軍・徳川秀忠の生母於愛の方(西郷局)の菩提寺です。西郷の局は、天正14年(1586)家康とともに駿府城に入りましたが、天正17年(1589)38歳で亡くなり、龍泉寺(宝台院)に葬られました。寛永5年(1628)、秀忠は母...
※今日の「どうする家康」の紀行で、浜松の五社神社が紹介されましたので、再掲します。浜松の心造寺は、徳川家康が、1580(天正8)年7月に徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として五社神社を浜松城内から常寒山(とこさむやま)へと移し、その北側の隣接地に開いたお寺です。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母である西郷局(於愛の方)。西郷局が奉納した鉄灯篭は、戦災で片方が失われ、現在は1つだけ残されてい...
稲姫は徳川家康の家臣である本多忠勝の娘で、家康の養女となり、真田信幸(のち信之)に嫁ぎました。小松姫、小松殿とも称されています。犬伏で、夫の真田信幸と袂を分かった真田昌幸・信繁父子が、上田城に戻る際、沼田城に立ち寄り、舅の昌幸が、孫の顔が見たいので城の中に入れて欲しいと頼みますが、「舅といえども、今は敵。夫の留守中に入れることはできない。」と、稲姫は開門を拒否。この稲姫の行動に、「さすがは武士の妻...
本堂の西側に、上田城主・仙石氏の霊廟があります。霊廟とは、墓とその霊魂を祀るお堂の一体をいうもので、江戸時代初期から中期にかけ、大名たちは家柄や禄高に応じた規模の霊廟をよく菩提寺などに建てていたそうです。仙石氏は三代にわたり、84年間上田に在城しました。真田信幸に代わり上田城主になった小諸城主の仙石忠政は、常福寺を修築し、小諸の菩提寺・宝仙寺をここに移し、その翌年、父・秀久の墓を改装し、秀久の戒名「...
長野県上田市の芳泉寺は、歴代の上田藩主の菩提寺で、真田信幸(之)の正室・稲姫(小松姫)の墓がある寺院です。後に真田氏に代わって、入封した仙石氏が改称するまでは、常福寺という名の寺でした。山門芳泉寺山門には六文銭と三つ葉葵の紋が入っており、徳川・真田の関係を表しています。 真田家の六文銭の紋徳川家の三つ葉葵の紋仙石氏の永楽通宝銭の紋浄土宗月影杏葉の宗紋境内から見た山門不見の岩(別名:天狗の岩)参道に沿...
かつての上田城二ノ丸の堀跡は、昭和になってから上田電鉄が走っていましたが、現在はけやき並木遊歩道として整備されています。現在も電車跡の名残が見られます。上田城は、上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」とも呼ばれていました。この辺りはもろく崩れやすいのがわかりますね。南・西櫓の下段には、享保の洪水後に設置された大規模な石垣があります。南櫓ここから、西...
真田神社は、上田城跡公園内にある神社で、創建は明治13年(1880年)。真田・仙石・松平の歴代の上田藩主を祀っており、主神は真田昌幸と長男の真田信之父子、仙石氏・松平氏を祭神として奉られています。徳川の軍勢を二度も撃退し、大阪の陣で大活躍した真田氏の神霊は「知恵の神様」として崇敬され、真田氏の知略や勝運にあやかろうという人達が多く訪れる人気パワースポットにもなっています。境内には、真田軍のシンボル・赤備...
上田城の3つの櫓の見学を終え、お城の周りをぐるっと散策。花木園では、ツツジ、ハナミズキをはじめ、春の花が満開でした。上田招魂社当招魂社は、戊辰戦役従軍の戦死者をはじめ、日清・日露戦争から大東亜戦争に至る間国家のために亡くなった人々の英霊を祀っています。お濠に沿って歩いていると、隅欠(すみおとし)という看板が見えてきます。隅欠は、上田城の特徴のひとつで、鬼門の方角である北東の隅の土塁を切り込んで、鬼...
天正11年(1583)真田昌幸によって築城された上田城は、第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城として知られています。東虎口櫓門から城内に入ります。櫓門の手前から見た空堀。櫓門をくぐる前、右側の石垣の中に真田石があります。高さ2.5m、幅3mの城内最大の石です。真田信之が上田城から松代に移る際、父の形見として持ち去ろうとしたが動かなかったという伝説が残されています。この楼門は、北櫓と...
まだ寺の小僧だった石田三成と、豊臣秀吉が出会った場所とされている観音寺まで足を延ばしてみました。三成の出生地・石田よりバスで米原方面に向かい、観音寺下車。観音寺は、もとは伊吹山中にあり、僧三修が開いた伊吹四大寺として隆盛を極めていましたが、13世紀に山を降り、現在地に移ったとされています。堂宇は正徳5年(1715)に再建の本堂(国の重要文化財)、薬師堂、鐘楼、山門などからなります。当寺は、鷹狩で立ち寄っ...
石田会館に向かう道を左に曲がると、八幡神社があります。石田神社とも呼ばれ、本殿の裏に石田三成一族と家臣の供養塔があります。 本殿 三成の辞世の歌「筑摩江や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆくわが身なりけり」三成の自筆による歌「残紅葉 散り残る紅葉はことにいとおしき 秋の名残はこればかりとぞ」 墓石出土跡昭和16年まで、石田家に関係があると思われる墓石(関ヶ原の後、この地の人が、徳川方の追及を逃れる...
バス停石田から石田会館とは反対の方向、北へ進み、民家の間に挟まれた道を行くと、石田三成産湯の井戸があります。石田三成の死後、400年の記念事業で、平成12年に復元されました。 三成は、1560年、近江国坂田郡石田村で生まれました。父・正継は、「村の武士」といわれる土着の豪族で、京極家や、浅井家に仕えた後、帰農したとされています。三成は、三男として誕生、幼名は佐吉。長兄は早世し、次兄・正澄は、三成と前後して、...
次回9月17日の「どうする家康」予告を見ると、いよいよ石田三成が登場するようです。そこで、過去の記事より、「石田三成生誕の地」を紹介します。長浜駅を降りると、駅前に「秀吉と三成出逢いの像」があります。長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年...
静岡大河ドラマ館の中を進んで行きます。次は、メインキャストの衣装展示です。今川氏真役:溝端淳平さんの衣装徳川家康(松平元康)と瀬名の婚礼衣装今川義元の衣装続いて、メインキャストの紹介です。徳川家康と瀬名織田信長本多正信、松平信康、今川氏真静岡浅間神社の模型古くから駿河国総社として歴代幕府の崇敬を受けて信仰され、竹千代(家康)が元服式を行ったことから、江戸時代には特に徳川氏の崇敬を受けました。神部(か...