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高橋信武
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2022/09/15

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  • 鬼ケ城の墓地略図 ※途中ですが。

    銃弾痕のある墓石を調べる際、墓石の分布図があると便利なので略図を作成しました。 左図は頂上にある曲輪1とした部分の右半分です。地面はコンクリートで固められており、周囲はコンクリートブロックで区画されています。墓石は密集して整然と並んでいるので、いつの時点でか並び変えられ、西南戦争時の状態を留めていないようです。曲輪1の左三分の一は1m程度下げられ、現代の野溝家の墓石が建てられており、曲輪1全体の墓石は野溝家のものが大部分のようです。江戸時代の墓石の中には野溝と彫り込まれたものもあります。 曲輪2にも近世の墓石が多く存在し、銃弾痕を残すものが少なからず存在します。 台場跡とした部分は東・南・西が…

  • 鬼ヶ城のある墓石

    2024. 9.24。 鬼ヶ城頂上の墓石群をスマホで3D写真をきれいに撮ったのだが、パソコンへ飛ばして保存する方法が変更されていて、飛ばせなかった。スマホも紙の説明書が欲しい。 冒頭に掲げたある墓石の場合、屋根型の部材に真上から雨でも降ったかのように複数の銃弾痕が残っていた。赤線が銃弾の軌跡。絶対、上図のように台場に持ち込んで弾除けとして利用したはずだ。中間材と基礎石材にも銃弾痕がある。この二つも台場に持ち込まれたと思う。

  • 鬼ヶ城あれこれ

    実質3時間ほど鬼ヶ城の墓石群分布図を作成し、頂上のを半分くらい平面位置だけ記録した。赤白棒を持参したのだが、どこもここもコンクリートで覆われていることが分かった。地表は腐植土で覆われているが、すぐ下はコンクリートだった。墓石群がいやに整然と並んでいるなと思っていたが、二次的な移動が行われた可能性があると確信した。 切通し道と北側の土塁状のもの 今日、気づいた点を記す。切通し道の北側に東向きに土塁状のものが一列ある。北向きの尾根筋の東端に一直線に土塁のようなものが続いている。東側の道に面した崖面を観察すると土塁状のものは厚さ50㎝前後の土層であり、直下に旧表土らしき黒土層が見られる。その下は黄褐…

  • 崩れ岩はどこか?

    下は1965年北村清士著「西南戦争血涙史」に載る竹田市崩れ岩の写真とされるものである。最近、竹田市鬼ヶ城の戦跡観察に何度か出かけたり、記録を読んだりしているのだが、果たして崩れ岩はここでいいのだろうかと疑問をいだくようになった。 次は現在ほぼ同じ方向から撮った写真。 下図は以前、このブログで使用したもので、北村氏にならい崩れ岩の位置を中川神社の東に隣接するとした。 次は「西南戦地取調書 豊後」所収の絵図で、鬼ヶ城や崩れ岩・茶屋の辻などの戦場地名が記されている。 上図を拡大したのが下図。クズレ岩が現在のどこか分かるように矢印で示した。以前、崩れ岩と考えた場所を点線で示すが、場所が全く違う。絵図の…

  • 「西南戦地取調書 豐後」の内、竹田町 ※少しずつ続けようと思ったのですが、これはすでに紹介済だったので撤回します。

    絵図を見ていて既視感があるので、以前のブログを遡ったらやっぱり紹介済でした。

  • 竹田市鬼ヶ城(蛇塚)の戦跡2

    二日続けて鬼ヶ城跡の略図化作業をした。 地図では三ヶ所に頂上があるように見えるが、北側の頂上に約35基の墓石があり(本丸)、そこから南南西に下がる尾根に第二墓地(曲輪2)が、さらにその先に台場跡的な部分(曲輪3)がある。曲輪3と2の平面図略図はほぼ終えた。曲輪2にも主に江戸時代の墓石が多く、明治中頃のも2基ある。曲輪2にも銃弾痕のあるものがいくつかある。 頂上の西に接して一段低くなった墓域があるのは、下図では同じものとして示した。 帰りがけに北部にある堀切も70m程歩いてみた。舗装道路部分から20m西に進むとそこで堀底は少し右折し、50mまっすぐに続く。そこで左折するが左折点まで歩いた。枯れた…

  • 竹田市鬼ヶ城(蛇塚)の戦跡

    臼杵市掻懐の3D写真を撮ったことを契機に、竹田市蛇塚別名鬼ヶ城の銃弾痕も撮りたくなった。今日、久しぶりに出かけ撮影してきた。 岡城を初め一帯は9万年前に阿蘇凝灰岩が埋め尽くし、浸食を経て残ったのが現在の地形となっている。鬼ヶ城の東北側には鴻巣台、北側には茶屋の辻(ここは運動場に造成されたため調査せずに消滅した。地図参照)という西南戦争激戦地がある。鬼ヶ城は北西から南、東側を川がめぐり頂上には江戸時代を主とした墓地がある。頂上には今日数えたところ約35基の墓石が建ち、周辺にも分布する。そして西南戦争時に薩軍側が守り、官軍が攻撃し激戦となった所である。墓石の中には複数の銃弾痕を残すものがある。 墓…

  • 臼杵市掻懐のある仏像

    台風一過といっても予想よりも大したことなかったのですが、今日は先日見に行った臼杵市掻懐の仏像(西南戦争時の銃弾痕が向かって左側の仏像の右目付近にあるとされるもの)の3D撮影に行っってきました。一番下の写真をクリックして、くるくる回したり拡大したりすると面白いのでやってみてください。 scaniverse.com https://scaniverse.com/scan/6icxeoogpowj4psj

  • 「北東方面陸軍航空作戰經過」昭和二十年十一月十五日 第一飛行師團司令部 1

    はじめに 父の遺品を紹介します。父は終戦時には第一飛行師団参謀でした。僕が小さかったころに防衛研究所(当時は別の名称)の人が二人自宅に来て、聞取り調査していたのを覚えています。当時中学生だったかな。数年前、遺品をみた際にこの冊子が出てきたのですが、周知の事実しか書かれていないと思っていました。末尾に終戦時の軍用機数が書かれており、これには興味が沸き、ちょっと図書館で他書を見たりした結果、数値が異なるので、そのうち紹介しておきたいと思いました。今現在も全く調べが進んでいないのですが、単に資料紹介するだけでも世の中には喜んでくれる人が現れるんじゃないかと思い、今回公開します。何回かに分けて少しずつ…

  • (自分の)Xとブログが連結しました。

    練習として上手くいくかこの短文を投稿します。なぜか盆とか 年末年始になると自分のネット環境が改善します。

  • 臼杵史談会での話を終えて

    8月15日に臼杵史談会で二回目の西南戦争の話をしたが、その際会員の方達から史料に登場するもののそれがどこにあるのか分からなかったいくつかの地名の場所を教えていただいた。それらを再検討した結果、今までの想像と異なる部分が生じたのでそれについて述べたい。 川ナシ峠・山ナシ峠・松川越について 西南戦争の際、薩軍が臼杵に侵入したのが6月1日、官軍が北西側の大分市方面から数路線に分かれて進軍し、臼杵攻撃を始めたのが8日だった。9日まで決着がつかなかったので、官軍は薩軍の背後、南側からも攻撃することにした。それが右翼迂回部隊である。陸軍の正式戦記に位置づけられる「征西戰記稿」の記述を引用する。 十日右翼兵…

  • 臼杵史談会での話を終えて

    8月15日に臼杵史談会で二回目の西南戦争の話をしたが、その際会員の方達から史料に登場するもののそれがどこにあるのか分からなかったいくつかの地名の場所を教えていただいた。 川ナシ峠・山ナシ峠・松川越について 西南戦争の際、薩軍が臼杵に侵入したのが6月1日、官軍が北西側の大分市方面から数路線に分かれて進軍し、臼杵攻撃を始めたのが8日だった。9日まで決着がつかなかったので、官軍は薩軍の背後、南側からも攻撃することにした。それが右翼迂回部隊である。陸軍の正式戦記に位置づけられる「征西戰記稿」の記述を引用する。 十日右翼兵ハ大迂回ヲ爲シ臼杵ノ賊ヲ夾擊セン爲メ姫嶽ニ露營シ天明ヲ待ツ午前五時 左翼及ヒ中央ハ…

    地域タグ:臼杵市

  • 臼杵市掻懐の銃弾痕

    8月15日、臼杵史談会で二回目の話をした。場所は臼杵交流プラザ。その際、聴講に来ていた人(織田金一郎さん)から掻懐の仏像に西南戦争時の銃弾痕があると教えてもらったので、翌日の本日、見学に出かけた。 大体の場所は聞いていたが、現地に行くと発見できなかったので付近の民家を訪ね質問してみたところ、現地を案内してくださった。小野ナツ子さんという。小野さんによると昔は現在所在する場所にはなく、道路を挟んだ南側の、今は公民館がある所にあったという。仏像の向きは同じだとの事。 小野さんと仏像。大きさが分かると思う。向かって左側の像に銃弾痕と伝わる傷がある。 基部に「文政云々」と刻まれているので、西南戦争当時…

  • 工作をしてました。

    ブログの更新をしてなかったので、こんな物でも。 臼杵史談会の話は7月18日に第一回目が終了し、その際、各種の銃弾類を持参した。第二回目が8月15日にあるので、以前、山本達也さんから頂いた薩軍の枝弾復元品を見やすいように工作した。

  • 17日、蝉が鳴き始めた

    16日、木の幹に蝉が止まっているのを見つけ、翌17日初めて鳴き始めた。今朝は蝉時雨状態。

  • 臼杵の西南戦争と姫岳・陣山 ※つづく

    臼杵史談会で話す機会を頂いたので最近、話の原稿をパワポで作成している。自分にとってこの数年で西南戦争についてよかった点は「西南戦地取調書 豊後」を入手できたことである。これは明治10年の西南戦争のあと、明治16年に参謀本部員が関係各県を回り、県を窓口として今でいう市町村に戦地の記録を作成させ、その後提出させた原本である。おそらくポツダム宣言受諾直後に焼却される間際に外部に持ち出されたものと考えられ、今は自分が所有している。 パワポにはこの原本を部分的に使用したり、最近積み重ねてきた戦跡分布調査の成果(ほとんどはブログで公開してきた)を取り入れ作成している。 まあ、誰も問題にしないことだが、臼杵…

  • 1877年8月の第十聯隊第三大隊第二中隊 ※8月14日から。

    (8月)十四日午前第二時過キ篝火ヲ消滅シテ松明ニ変シ土人ヲ🔲シテ此地ヲ発シ山谷ヲ蝸🔲ノ如ク行進シ曲折シタル谷川ニ出タリ此両岸ハ峩々タル巌石聳ヘ樹木ハ日光ヲ覆ヒ粛然トシテ人ノ入ルヘキ地ニ在ラサレハ各人ハ茫然トシテ一言ヲ発スル者ナシ亦此川中ニ數株大小ノ岩石稠密シテ凸凹ナラサル処ナク是ヲ右ニ渉リ或ハ左リニ越ヘ大木ノ倒レタル上部ヲ通過スレハ亦渓ニ入リ丘ニ登レハ深淵ヲ渡ル其數敢テ枚挙スルニ遑アラスト雖モ概子(※おおむね)北越ノ千曲川ニ彷彿タリト亦草ハ伸長シテ全身ヲ覆フカ如ク亦何者ノ此叢ラニ伏臥セシヤ各処ニ三尺余円形ニ草ノ倒レタルヲ見亦足趾ノ各処ニ有ルヲ視メタルカ遁賊ノ此間道ヲ経過スル際倦労シテ如斯ナセシ…

  • spring-8見学

    6月25日兵庫県の山の中にあるX線で研究する大規模な施設を見学した。案内の人が分かり易く簡単に説明してくれた。彼の声がイヤホーンから聞こえる仕組みが気に入った。概略説明の後、バスで見学に出かけたが広い敷地内に緑の植物が広がり、野生のシカが何頭も草を食んでいた。緑の草に混じる鹿の茶色がきれいだった。誰も邪魔をしないらしく、鹿は安心して現れるらしい。 ここでは世界一細いx線(最小の物質、原子よりも細いのでそれを透視できるということだった)を放射する放射口が60か所前後あり、それぞれを利用したいと手を挙げた研究者の内、合格した者が利用できるという。外国からも来ると。 こういうのがあるのも知らなかった…

  • 1877年8月の第十聯隊第三大隊第二中隊

    アジア歴史資料センター(アジ歴)史料を眺めていて、これまで存在に気付かなかった史料を見つけたので紹介したい。 8月上旬宮崎県内の美々津川の戦いから中旬の可愛岳の戦いまでを中心に、かつて「西南戦争之記録」や「西南戦争の考古学的研究」で述べたことと重複する部分もあるが内容を読んで新たな情報がないか検討したい。 C09084159300「明治十年 戰鬪景况 戰鬪日誌 第二旅團」1691~防衛省防衛研究所蔵 ※隊長は水野慎大尉 「大阪鎮台歩兵第十聯隊第三大隊第二中隊西南征討日誌」 記述は2月13日から始まるが、今回は8月3日からの部分を紹介する。読み易くするため日付の頭に(8月)を入れることにする。 …

  • 「安政七申年 聞書 三 勝氏米國航海紀行」(2) ※以前の続きをここから再開します。

    貨幣造製官舎ハ市中ニ有至り見る尓金銀分析法ハ初め鑛石を以て細粉となし古れを洗ひ王水或ハ猛水王水ハ硝石精ニ塩酸精を加へしもの猛水ハ則硝石精尓て能く阿らひ解可しめ銀盤塩水を注きて塩酸銀となす此塩酸銀となせしものハ水を入て稀弱セしめ後大桶▢▢行壱尺堅も同樣の中ニ集め水を注きて洗いて毎度もして塩氣の春るを見て大釜ニ入蒸気を用ひて蒸沸セしむ後熔壺経ハ九寸高壱尺斗ニ入連烈火ニ溶解セしめ銀を以て再大桶ニ水を入たる中ニ投して粒銀として純銀ニならしむ此溶解銀を壺より汲み水中ニ注瀉春る尓恰も水の如し試ニ掌を開きて斜ニ此銀を受る尓手ニ熱焼を覚恵須水と同し是工人此事をなして我等尓見せしめたり 金鑛も又大抵盤同様なり通…

  • 小林清親の版画「新聞 鹿児島水股風説」

    先日2月19日御届の版画を紹介したのに続き、20日御届の版画を掲げます。 2月20日はまだ本格的な戦いが始まらない段階でした。15日に鹿児島を出発した薩軍の一部が熊本市南方の川尻の町に到着し、熊本鎮台からは偵察部隊が接触し小戰が起こっています。 黄色い部分には次のように書かれています。 四海波静尓往返の船舶乃希武りも高く萬代楽を謡ふ御代者鹿児島希ん下者士族の暴行なれと実地を水股の其風セつも信用なら春殊尓雷機の私報も止り希春尓士族のヱレキもくづれ是鎮静の近キを記春と云〃 明治十年二月 上記の内、希春尓士族の部分は解読が不確かです。絵は右に官軍とみられる部隊が山中を進行し、海上には太平丸という外輪…

  • 臼杵市ツルガ山・三ツ頭踏査2024.6.1※図・写真を追加予定

    最近の課題だった標記の山を歩いてみた。結論は台場跡なし。 山の入口です。鹿用の金網が山を取り巻き、山道の入口に何か所も扉がある。 最初はこんな感じで緩やかに進む。 測量で入る人が迷わないように巻いたのだろうか木に桃色テープが20m間隔位で続く。黄色や赤もあった。先日の庚申塚手前で見たような幅1m位の平坦な尾根があった。山道はこの右下にある。一直線で登ってきた尾根の一番上に着く。次の写真は尾根を見上げて。ツルガ山の頂上には神社があるが、尾根を左に曲がる先にある。 200m位左に神社がある。正面は南向きで背の低い凝灰岩製の鳥居が前に建つ。裏側に銘文があるような、ないような。神社正面に向かって左側に…

  • 臼杵市水ケ城山南東尾根の踏査 2024.5.26

    一昨日臼杵市水ケ城山の南東にある尾根を歩いて台場跡を探した。 拡大する。水ケ城という山の一部に中世の山城跡「水ケ城 みずがじょう」があります。今回行くところは山の南東側の尾根です。 幸いなことに山の中腹以上まで車で接近できる舗装道路がある。この道の北側に中継塔があるのでそのために造ったようですが。車道を外れ破線の尾根を歩いてみました。なぜか。 下図は「西南戦地取調書」(以前にも何度か利用したが高橋所有の史料。明治18年に大分県が参謀本部の求めで提出した200頁位の冊子原本。ポツダム宣言受諾直後に陸軍は多量の記録を償却したが、その際、心ある人が持ち出したものらしい)にある該当ヶ所周辺地図です。方…

  • 西南戦争が始まったころの版画「鹿児島暴徒圖」

    珍しい西南戦争初頭に描かれた揚洲齊周延の版画を紹介します。 先ず、全体を見ていただくと、これでは文字が読めないので部分的に拡大します。入手した当初から三枚が糊付けされていたので、剥がさないままにしています。 全体の右上に四角で囲った部分があり。これを拡大。 この枠は巻物を模した状態で、このようなものは初めて見た気がします。(今まで気づかなかっただけで、世間には沢山あるのかも知れないナ。)次のように書いています。 鹿児島暴徒圖 河村海軍大輔林内務少輔のニ君暴徒説諭の為め鹿児島湾へ到たり既尓上陸せんとする際激(※人偏)徒四五名小舟尓て漕(※右が曹付け)乗移らんとする故是を斷りし尓数艘の小舟越浮べ来…

  • 岡本真也さん・宮崎拓さん「熊本県内に残存する西南戦争台場調査について」の資料「熊本県南西部の西南戦争台場跡分布図」九州近現代考古談話会で

    下図のような熊本県内の戦跡分布図を沢山使っての発表だった。 岡本さんに送っていただいた。今の段階で熊本県内では合計252基の台場跡を集計しているという。九州には金属探知機で見つけて掘り出した遺物をヤフオクに出品するような盗掘者がいるので、正確な場所は未公表だという。「田原坂で見つけた」とか言いながら、他の県まで盗掘に出かけるやつがいる。熊本県教育委員会としては分布調査をしてこなかったので、全て個人の努力で行われている。 この図の中で現地に行ったことがあるのは吉尾・屋敷野・鉾野峠・四本杉・大関山・ゴットン石・中尾山だけである。 近年では山の尾根筋に風力発電の装置が地形を大規模に壊して設置されるの…

  • 三島神社と姫岳遠望(2024年5月9日の臼杵) 福聚寺の銃弾痕追加

    順番からいうと、初めに姫岳遠景、そして三島神社、最後に福聚寺の順に撮影した。 姫岳 昨日撮影した姫岳と三島神社。山の緑が新しく、また、鯉のぼりの列があったので合わせて撮影した。 三島神社 それから熊崎の三島神社の写真。上とほぼ同じところから西側を向いて撮った。 中央の森が三島神社。画枠の左側に福聚寺がある。西南戦争当時、福聚寺の官軍と三島神社の薩軍が対峙したことがあった。神社には何回も行ったことはあったが、戦跡探しに行くの初めて。しかし、台場跡らしいものはなかった。小山の頂上に神社があり、 周囲は斜面となっている。頂上周囲には台場が築かれただろうが後世に消滅したのだろう。写真左部分に(手前の白…

  • 「安政七申年 聞書 三 勝氏米國航海紀行」 ※少しずつ続けます。

    はじめに 上記の題名の写本を入手した。このブログで前にサンフランシスコの要塞に付いて解説資料を紹介したが、最近たまたまこの写本が売りに出されているのを発見し、購入したものである。同じ販売者には「聞書 五 彦根一件」という同様の体裁・字形のものもあることからして、題名の三は勝氏米國紀行全体を含むようである。 ネットで調べたら和田勤2023「万延元年遣米使節随行艦咸臨丸艦長勝海舟渡米記録の諸写本について」というのがあった。それによると、海舟が記録した渡米記録は「海軍歴史」に活字化されているが、彼自身が自身の記録を抜粋したものを含めその他20数点存在するという。中には公式報告として海舟が作成したもの…

  • 福聚寺の絵 2024.4.24

    昨日の段階がこれです。 そして今日がこれ。空は曇天とした。畑の野菜が増えた。崖にひび割れと影を入れた。その他若干ちょこちょこと。

  • 福聚寺の絵 2024.4.23

    少しだけ手を入れました。畑の地面色をなるべく統一。後で草や野菜を書き加えたら地面も見えにくくなるけど。 下は昨日の段階。 そして次が今日の状態です。凝灰岩の崖の縁にある植物に影を加えました。題字の修正もまだ未完成。久し振りに大分県立埋蔵文化財センターに鉄道展示と新規報告書を見に行った。綿貫俊一さんと話し、次に遇った横沢慈さんがいつも絵を見てくれているとのことだった。新人の古屋さんとあいさつ。(なんか日記みたいになりました。)

  • 福聚寺の絵2024.4.22

    先日の段階がこれ そして今日朝。題字の「之」(古筆風にしてみた。他の字もそのうち)・遠景左の白山の稜線(船底のような稜線は南が高いが、いつも大分市から見てるので逆になっていた)・水田など。

  • 明治11年の軍用水筒 Military canteen from 1878

    明治11年の軍用水筒 に関する記録を掲げる。 C04028260200「明治十一年自三月十九日至五月十日 大日記 自第二百七十二号至第五百三十六号 乾各鎭臺 第五局第八課」防衛研究所蔵0094~0097 第二百八十八号 安乙第二百四拾二号ヲ以武力面桶及水飲蓋之義ニ付御照會之趣致承知候右者御臺於而 修理応用相成度候修理費及ヒ但書ハ御異見之通ニ而可▢候此段及御回答候也 (※分かり易く言い換えてみる。「安乙第242号でブリキ製弁当箱と水筒の蓋について問い合わせがあったことは了解しました。これはそちらの鎮台で修理してください。修理費と但し書きはあなたの御異見の通りです。この件について御回答いたします。…

  • 福聚寺の絵 つづき

    上が前回までの状態。これに左上の山並み輪郭線を加え、寺に鐘撞き堂を描き込んだり。まだ終わりは見えない。

  • 高熊山の岩

    Xを見ていたら鹿児島県伊佐市高熊山頂上にある岩の写真を載せて、弾痕がついているとあった。これは従来言われているとおりです。しかし、この山の斜面にもいくつも同様の岩があり、なぜこの頂上の岩だけを強調するのか疑問です。 皆さんもここを訪問する機会があったら、前後左右や上から観察してみてください。また、周辺の岩も。

  • 明治9年の軍用水筒

    明治9年の軍用水筒に関する記事から。 C07060070600「明治九年四月 大日記 諸黌教導團裁判所之部 防衛 陸軍省第一局」防衛研究所蔵0727・0728 同六日 学第百八十九号 肆第九百四十四号 一水箇 弐百拾個 一食噐菜入付「ガソール 弐百拾個 一輸車 参 輌 右ハ行軍演習施行之儀御許可相成候ハヽ前書之通演習中御渡相成度此段相伺候也 九年三月廿七日 士官学校長代理 中佐長阪昭徳 卿代理 鳥尾大輔殿 伺之通 四月六日 五局ヘ相達ス 明治9年3月以降に士官学校で行軍演習を行うので水筒210個その他を渡して欲しいとの伺い。ガソールは意味不明。弁当箱か。行軍の目的地は次の史料で分かる。 C07…

  • 明治8年の軍用水筒

    これまで軍用水筒について何回か書いてきたが、今回は防衛研究所の史料から明治8年の軍用水筒関係の記録を掲げる。前年は台湾出兵とそれに伴うと考えられる事前の野外演習が複数の部隊で行われたが、この年は関連する記録が少ない。 C04026560600「明治八年十又二月大日記 諸局参謀近衛病院軍馬教師之部 水 陸軍第一局」防衛研究所蔵1731 ※上記の中で「教師之部」の部は不確実。 局二百六十二号 参二千四百六十九号 今般雑司ヶ谷ニ於テ對抗運動 天覧被為在候ニ付ブリツキ面桶及水筒各隊へ御渡シ相成度此段申出候也 指揮長官 十二月廿五日 東伏見嘉彰 山縣有朋殿 申出之通 但各所管ゟ員数ヲ以第五局ニ而可受取候…

  • 鬱金香(tチューリップ )

    鬱金香 赤桃黄色の 順に咲き 根ずっちのように即座になぞかけができるのは、詩人に似ている。冒頭のは単に事実を述べただけ。集めて球根を植えておくと、全てが同時に咲くのではないと分かる。

  • 紫つつじ

    数日前からムラサキつつじが いちりんだけ咲いている。葉が三枚なので、みつばツツジともいう。宇目町の梓山北西尾根から帰りがけに桜の樹形に似た満開の花を見たのは5月下旬だった。その時一緒に行った槙島隆二さんといつか酒を飲みたい、などと思った。

  • 黄色い花が咲いた

    花が散る 昨日の雨が なかりせば 花びらが散り始めた。ソメイヨシノが散るのも早いがチューリップも負けていない。でも、次の黄色い花が咲いた。

  • 福聚寺戦闘復元図

    福聚寺戦記絵の進行途中の状態。 まだこれから色や形が変化していく予想です。へたうま(実は上手だが、へたくそに見える絵)を目指しています。寺のまわりには現在と違って民家はなく、畑の中にポツンとある。竹藪を切って柵を作り、畳を立てかけて銃弾を防ぐ。季節は田植え準備の頃。

  • 注立冨(当て字)ちゅーりっぷ

    このひと群れに十個ぐらいつぼみができたけれど、枯れてしまったのが多い(矢印)。水が足りなかったのか?花の重さと風で折れたのが一個、それは花びらが散り始めた。 scaniverse.com

  • 軍用水筒 ※つづき

    最近まで西南戦争頃の軍用水筒を調べていたが、結論をまとめ終えた。12頁の制限があったので写真を掲げる余裕はなかった。活字になるまで1年かかるのでここで簡単に紹介したい。 画像が薄いけどこれしかないので我慢してください。熊本城跡出土の水筒です。報告書から転載。 上は熊本城百閒櫓跡出土水筒で、欠損し穴が空いています。押し潰されてぺしゃんこです。図示されてないけど青い四角部分には吊具(紐通し)やその痕跡が残っています。 上は熊本城本丸御殿跡出土品を報告書から掲げた。御殿は西南戦争初期に焼けている。他にもかなりの数の破片が出土した。上図の上は水筒が二つ重なった状態である。本体は口部分と胴体部分をハンダ…

  • 今日のチューリップ

    桜の季節になり、チューリップも次々に花が見られるようになった。3Dは不完全だが。 下の画像をクリックして回すと3Dになります。

  • 大分市の春

    今日の大野川右岸、九六位山から麓。杉の植林地帯には桜はない。田んぼの緑が美しい。 背後の標高450m前後の山脈はプレートの付加体で1億年前とかの地層、手前の標高150m前後の低山は100万年前頃の河川堆積層。 山際の集落名は「火降」(ひふり)、古代の狼煙(のろし)は官道のそばの低い山に設けられた。隣の狼煙台が応答しなかったら直ちに駆け付けねばならなかった。それで狼煙台は低い山で、かつ見通しの良い立地が選ばれた。写真中央の小高い山に遺跡があるのだろうか。 少し下流から右岸戸次(へつぎ)の近郊農業地帯。

  • チューリップ

    チューリップの花が開いた。まだたくさんツボミが待ち構えている。

  • 大分市は桜が満開になった

    数キロ離れた山を見たら桜が目立つので、佐賀の関に眺めに出かけた。いつの間に咲いたんだろうか? 人の手が加わった桜、染井吉野の開花予想は行われているけど、本来の桜については予想しないのか。 染井吉野は種子がないので、一つ一つ人の手で植えない限り増えない。山に自然に生えるという事はあり得ない。 途中、田んぼが広がる所の緑と菜の花の緑と黄色、空の色が美しい。

  • チューリップが二輪

    急に撮影が忙しくなった。実際の花色はもう少し黄色味が強いんだが。

  • チューリップが開いた。2024.3.26

    気が付けば赤い花がひとつ開き始めた。この調子なら次々に開花しそうだ。 くるくる回してみてください。

  • 今日のチューリップ

    範囲を広げて撮影。 一番上のつぼみが色づいた。開花するのも まもなくだろう。

  • 大塚進也「白河戊辰戦争における野戦陣地についてー金勝寺山、笹久保山を例にしてー」を読んで

    「福島史学研究」第102号2024年3月25日に掲載の論文を頂いた。 福島県白河市の白河城は奥羽越列藩同盟軍が守っていたが1868年5月1日に新政府軍が奪取して以降、何度も同盟軍が奪い返そうと攻撃をかけたが新政府軍が7月まで守り抜いている。 大塚氏によると従来、兵数で劣る新政府軍が守り抜けた理由は新政府軍側が装備で優っていたと指摘されてきたが、白河城周囲の山地に新政府側が築いた野戦陣地の存在が勝利の要因だったという。これまでの説明では周辺の山上に新政府側が築造した野戦陣地の存在を重視していなかったが、現地を踏査して金勝寺山で2基と笹久保山で4基の台場跡(大塚氏は野戦陣地と称している)を確認して…

  • チューリップ2024.3.15

    つぼみが7個。 立体が重なると写らない部分が多くなる。単純な箱状ならきれいに写るのだろう。

  • 2024.3.11 今日のチューリップ

    単なる2Dの写真。数日前からつぼみが目立ち始めた。

  • 田原坂西南戦争資料館の水筒調査

    2024.3.9。田原坂で展示中の水筒(これは前回の3点とは別の人、作田さん寄贈)を実測に行った。6時半に大分市を出発し、それなりの時間がかかって到着した。今回は岡本真也さんも合流。調査依頼文の提出などに美濃口雅朗さんに、また現物の観察には作田徹さんにお世話になった。 写真は室内で撮影すると色が不自然になったので外で撮影した際のもの。 その後、玉名市の骨董屋に立ち寄った後、阿蘇山のカルデラ西部縁辺部にある二重峠の台場跡を見に行った。これは岡本さんが 道の駅阿蘇 ブログ 西南戦争の激戦地 二重峠台場跡(阿蘇市)に行ってきました! を読んで台場跡があるらしいと知り、一緒に行こうと誘ってくれたためだ…

  • 豊後口征討之内臼杵福聚寺戦記 ※復元図

    「豊後口征討之内」臼杵福聚寺戦記という木版錦絵。全ての錦絵を調べたわけじゃないから、こういう題名の錦絵があったかも知れないし、なかったかも知れない。もしあったなら、こんな絵柄じゃなかったか、という一案で描きます。 復元図の作成過程を掲げます。鉛筆描きなので薄くて見にくい。 次は俵を使った台場図の途中。柵列の築造途中に戦闘になったので、作業員は材料・道具をほったらかして消えてしまった図。少しずつ変化していく画面が楽しい、と思ってください。

  • 今日3月4日のチューリップ

    葉っぱが大きくなると幹の方がうまく撮影できないが、内部の底につぼみができている。 https://scaniverse.com/scan/clk6uiu5ekhcvrvg

  • 大分県臼杵市福聚寺の石垣に残る銃弾痕

    自分の生まれ育った家(臼杵市井村)の背後に臨済宗妙心寺派の福聚寺がある。西南戦争時の銃弾痕があると宗順住職(写真に写る人)から聞いていたのだが、今回再びその場所を教えていただき撮影した。北から南を向いて撮影し、遠景の山は臼杵で一番高い姫岳である。 最近本堂を建て直して東側に廊下を一間拡げたとのことで、写っている門は戦争当時はなかった。漆喰塀は新たに造ったもので、昔はなかったように思う。戦争当時もなかっただろう。 つづく

  • これが本当の健康な空だ(画像2枚を掲げたつもりだったけど、ツイッターも15画面附属してしまった。)

    ひとに指摘された改めて気づく。空がきれいだ。大分県臼杵市の朝。 Tweets by Yui_basssist twitter.com 親戚がライブやるので観てください。上の写真は彼が散歩中に撮ったもの。しかし世の中には汚い空でも美しいと思う人がいる。・・・それは汚れた空ですよ・・・。

  • 今日のチューリップ

    コメントありがとうございます。花屋では温室栽培したチューリップが咲いているが、自然状態では花はまだです。背丈はだいぶ伸びてきました。 scaniverse.com

  • 熊本市内でブリキ製水筒調査

    2023.2.20。初め田原坂西南戦争資料館で同館の作田さんの所蔵ブリキ製水筒を実測。西南戦争時とみられるのは3点あり、2点だけ実測できた。以前、資料館の北側にあった「弾痕の家」で展示していた遺物である。4代前の先祖が収集したとのことを先日電話で伺った。今日は勤務の関係で作田さんには会えず。小宮計則(かずのり)館長が西南戦争に詳しそうだった。写真は館長(右)と高橋(左)。水筒は3点で三種類に分類すべきものだった。 その後、約束の時間もあるので実測を切り上げ、熊本城調査研究センターへ。伝統工芸館の東側。南西側を見上げると壊れた石垣の上方に天守と小天守が。 増田直人さん(下の写真)がこちらが希望し…

  • 西南戦争前後の軍用水筒3

    ガラスで検索すると明治6年には次の一件があった。 C09111477200「明治6年 公文類纂 十二」防衛研究所蔵0186・0187 甲套第五百三十八号 別紙之通鹿児島縣大砲製造所ヨリ申越候ニ付相廻シ候間御回答被下度也 明治六年四月四日 造 兵 司 海 軍 省 御中 記 海軍省依頼之硝子器於當所差支無之ニ付直様製造方為取掛申候諸入費別紙積書之通相及候間若直段之義ニ付差止メニ相成候義モ有之候ハヽ至急御申越有之度此段同省へ御答置被下度候也 鹿児島(※この字はもっと右にあるが移動できない) 明治六年三月廿二日 大砲製造所 造 兵 司 御 中 この場合の硝子器は水筒ではないと思う。

  • 大塚進也さんのXを見て奈良文化財研究所の全国遺跡報告勌総覧で検索

    大塚進也さんのXを見ていたら宇都宮城跡の発掘調査報告書に戊辰戦争時の遺物があるかも、と書いてあったので上記の検索をしたら報告書全文を閲覧できたが遺物は何もなかった。検索の方法は「奈良文化財研究所」⇒どこかにある「全国遺跡報告総覧」⇒「宇都宮城」です。ただし総覧とあるがPDF化してないのも多く、それらは読めない。 PDF化されていない報告書でも国会図書館に行けば見られるだろうが、そこは遠くにあるので「全国遺跡報告総覧」は便利です。 時々「銃弾」・「戊辰戦争」・西南戦争」・「スナイドル」・・・などの単語で検索しています。下の画面では下から七番目です。

  • チューリップ3

    まだ冬なので目立った成長はないが、一つだけ葉っぱに包まれた中にツボミが現れています。 scaniverse.com

  • 西南戦争前後の軍用水筒2

    明治7年、台湾征討という明治政府としては初めての海外出兵があった。この時の水筒に付いて記す。 発端となったのは明治4年10月に年貢を輸送していた琉球御用船が台風の為に遭難し3人が溺死、69人が台湾南東部に漂着し救助を求めたが、原住民により54人が殺害されるという事件である。清国や欧米との協議など途中経過は略すが、明治7年4月政府は大隈重信参議を台湾蛮地事務局長、西郷従道陸軍中将を台湾蛮地事務都督に任命し出兵準備に入った。 4月7日、海軍の軍艦孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍から熊本鎮台所轄歩兵一大隊砲兵一小隊の出兵が命じられ、5月6日には台湾南部に上陸し、間もなく戦闘を交えて占領…

  • チューリップ2

    成長しないので栄養を与えているところです。白い石は間違えて踏まないための用心のため。 scaniverse.com 撮影範囲を拡大してみました。なかなか成長しません。 scaniverse.com

  • 3Dの失敗例;川原内峠北部

    川原内峠の県道よりも北部地域。遺構分布図はまだ載せてないので、分かりにくいと思うが溝状の登山道と台場跡2基、角礫が意味ありげに分布する平場(画板のある周辺)がある。木の影が多すぎる。草木を掃除せずに撮ったうえに二階建てで写った所があり、より分かりにくくしている。曇天に撮影すべきだと分かった。 scaniverse.com

  • 鞆の浦の絵

    誰が描いたのか分からない絵葉書大(16.0㎝×10.9㎝)の水彩肉筆画です。3/1'76と記されている。1976年3月1日のことです。かつて吉田博の版画「鞆之港」を見て現地を見たくなり何かのついでに立ち寄ったことがあった。街並みや歴史民俗資料館なども見て歩き、絵の構想をしてみたけど出来なかった。その後、この絵を見つけて購入した。上手なのに感心しています。

  • 大迫山で3D

    以前紹介した臼杵市大迫山の台場群の一部で3D撮影してきました。今日は二日目。これまでは4基の台場跡を確認していたが、二日前に4号の3D化に出かけて5号を確認した。位置は要再確認。以前は草に覆われていたので台場跡らしいと思いつつそのままになっていた。今回行ってみたら除草されていたので台場跡であることが明確になった。しかし、少しでも草があるときれいに映らないと分かったので、初日は根切りバサミ持参で4時間作業。途中、一団体10人位の人たち(福岡から)と単独の4人が通り過ぎた。うち一人はこの周辺の三角台を守る会の人。その高野美恵子さんと小話。昨日は小雨で、行かず、今日は快晴なので出かけた。二時間ほど除…

  • チュウリップ1 2枚目の小さい写真をクリックすると3Dが見られます。

    踏みつけないように白い石で囲ったチュウリップ。3D記録を開始。 scaniverse.com

  • 3D写真 大分市吉野越(よしのごえ)の台場跡2基

    以前、ブログで紹介した大分市吉野越の台場跡を3D化してみた。車を降りてだらだら坂を上り、10分以内に到着。 背の低い草や枯れたススキなどがあると、地面が写らないことが分かった。次は根切りバサミを持参する必要がある。立ち枯れた木も、どけた方がいい。画面の白い部分は日光。写っている最も高い所が2点とも台場跡の背後となっている。自然に地形の傾斜の通りに写るらしい。※下の地図に間違えて台場印を入れてしまった。3号の左下。 scaniverse.com 画面をくるくる回してみると半円形の台場跡がぼんやり分かってくる。立木が途中で折れて、戦場の跡みたいに見えるが立木の中くらいから上の部分を撮影しなかったし…

  • 熊本城跡飯田丸(いいだまる)で出土した時限(じげん)爆弾(ばくだん)陶器

    一本足でやっと崩壊ほうかいを免まぬがれていた飯田丸の復元櫓やぐら。それを建てる前の発掘調査でこれまで存在が知られていなかった陶器が破片としていくつも出土した(鶴島俊彦他 2014熊本城調査研究センター報告書第1集−「飯田丸の調査」熊本市熊本城調査研究センター熊本城跡発掘調査報告書1)。数年前、陶芸教室で習っていた際、これを復元してみた。 最下段は報告書にある復元図。外面四ヶ所に穴があり、胴部中位の内側に筒状の空間が回る。壺の内側とは一ヶ所の穴で通じている。外側の穴から火縄を入れ、筒を経て内部に詰めていたであろう火薬に点火する仕組みだったとみられる。点火時間を四段階に変えることができる。 出土し…

  • 3D写真第4弾:印鑑

    自刻印鑑「信武」。武の字は戈を両手に持って、歩く(足)形を示す。右手は蛇足で追加。 scaniverse.com

  • 3D写真第3弾:型紙刷り皿(かたがみ ずり さら)

    3D化が面白いので第3弾を投稿します。 型紙刷りの皿。直径約18㎝、高さ約3㎝。この1枚はやや歪んでいる。畳付(たたみつき)の内側にハリ支えが4個。計4枚ある。一つはバコウハンで補修。17世紀前半頃。おそらく型紙刷りとしては大型で希少(きしょう)。30年以上前に小浜市で購入。写真では傷があるように撮れたが、それは写真がそう見えるだけで、実物は無傷。 scaniverse.com scaniverse.com

  • 3D第二弾 珠洲焼の壺

    以前買った珠洲焼の壺。口部分に一ヶ所欠けがあるが他は欠けていない。3Dでは胴部下半に穴が開いているが、現物には穴はない。高さ約19㎝、胴部幅約18㎝。scaniverse.com 中世の珠洲焼によくある外面の横方向叩き痕が特徴的だ。おそらく13世紀頃、鎌倉時代のものだろう。

  • 大分市松原峠の台場跡の立体写真

    携帯の硝子にひびが入りまくっていたのでiphone15pro に買い替えた。それで今日、以前ブログで紹介した大分市と臼杵市との境界尾根にある松原峠の台場跡を撮ってきた。想定のようには撮れなかったが二番目の写真か下のリンク先(青字)をクリックしていただきたい。 3D scan by @goldenempire on Scaniverse 作成できた3D写真よりも広範囲に周囲を何度も回って撮ったつもりだったが、完成品は狭い範囲のものになっていた。3Dよりも写真の方が分かりやすい気がする。そのうち上達するだろう。

  • 新年おめでとうございます

    新年のごあいさつ代わりに大分県臼杵市の写真を投稿します(年賀状を出さなかったので)。臼杵川に架かる橋は大橋寺橋、右岸に大橋寺、向こう側に仏舎利塔の建つ諏訪山と大迫山。左奥は九六位くろくい山脈(自称)。

  • ラーメン

    昔、どことは言わない某所でラーメンを食べたことがある。カウンターの前にすだれがあり、その向こうに小さい隙間があり、調理室がわずかに見える。カウンターの席に着くと両側に仕切りがあり、左右の客と隔てられている。すぐ隣に左右の客がいるのだが。目の前の小さい隙間から一杯のラーメンが差し出される。そうしたら客はひたすら食べることに集中する仕組みになっていた。 その場で思ったのだが、一つずつ仕切られた狭いケージが並び、目の前に餌が配られたらひたすら食べることしかできない養鶏場の鶏になった気がした。 食べ終わって早々に店を出た。二度と行きたくないと思った。こんな状態で食べておいしいと思うのは鈍感なニワトリ脳…

  • 臼杵関連・高原士族田口敬之助

    薩軍兵士田口敬之助は西南戦争の際、大分県臼杵で6月10日に負傷し、翌日官軍熊本鎮台に降伏している。彼は薩軍の状況を自供し、薩軍内部の規律を記した書類一枚を所持していた。防衛研究所にその際の彼に関する資料が残っている。臼杵で降伏した薩軍側の供述等は他にないので、彼らの面影を伝えるものとして掲げておきたい。 原文で二段書きの部分はこのブログではその通りに表示できないので小文字の一段として示す。 C09084044200「戦闘報告原書 明治十年五月一一日~七月十七日 第二旅団」防衛省防衛研究所蔵1059~1068 二号 生捕人 鹿児島縣下日向國諸縣郡高原村 士族 什長南方押伍改称田口敬之助 一旧正月…

  • 重野安繹(しげの やすつぐ)の漢詩軸紹介

    重野安繹の漢詩掛軸2点を紹介したい。2点とも以前購入したもので、読めない字がいくつかあるので先日、大分県立先哲史料館の松尾大輝さんに解読をお願いした。その場でも読めない字は残ったが、読めないまま紹介する。松尾さんには以前もお世話になったが、今回もお礼申し上げたい。 重野安繹について松沢裕作2012「重野安繹と久米邦武」山川出版社から見ておきたい。太陽暦となった明治6年以前は陰暦で書いているらしいが。 重野安繹(1827.11.24-1910.12.6)薩摩藩士。字名は子徳、通称厚之丞、号は成斎。 1839 年藩校造士館入学、1848年―1854年昌平坂学問所。1854年島津斉彬に抜擢され造士館…

  • 中原幹彦2023.12西南戦争「熊本鎮台首脳部」古写真の再検討ー一枚の古写真がつなぐ物語ー の抜刷りをいただきました。

    「歴史玉名」第105号の抜刷りです。 この写真は熊本城内、宇土櫓南側にある広場で撮影されたもので、10人が写っている。そのうち一人は従来誰であるのか不明だったとされていたが、中原さんは陸軍服制図・帽子・正衣・正袴・飾帯・飾緒・臂章(ひしょう)・正剣・軍刀・勲章のほか、異動状況などから考察を加え、不明人物が堀内利國一等軍医正だと推定している。 また、撮影時期は明治11年5月から11月の間であった可能性があるとする。その中でも可能性が高いのは4月頃の籠城開放一周年行事、9月頃の西南戦争終結一周年行事、11月3日の天長節が考えられるなかで、天長節の可能性が最も高いと結論している。 高橋は不明人物はそ…

  • 廣瀬雄一著「対馬海峡をめぐる先史考古学」同成社 2023年11月30日発行

    表題の本をいただきました。 著者の廣瀬雄一さんは慶応大学大学院を卒業。韓国の釜山女子大学客員教授の頃、九州縄文研究会でお会いして以来の交際ですが、近年の高橋は西南戦争戦跡の方に興味が向いたので縄文研究会から足が遠ざかっており最近はお会いすることもなくなった。彼はまもなく佐賀県教育委員会(名護屋城博物館に長く勤務)に勤めていたが定年前に退職し、釜山大学に転職した。その間、ずっと日本の縄文時代と韓国の新石器時代の研究を続け、時々論文の抜き刷りをいただいていた。 日韓の先史時代、特に縄文時代頃に通じた研究者は少なからず存在するが、我が国の考古学だけでなく常時韓国にいてあちらの考古学情報にも精しい人は…

  • 川ナシ峠の記事追加

    先に臼杵市甲﨑山の戦跡②で1977年6月9日に官軍が臼杵攻撃の前に野営した川ナシ峠の所在地について検討し、下図の位置、2基の台場跡がある所付近に想定したが、当時の大分県民はその所在地について知らなかった、という史料が2件あったので掲げる。 その記録は2点とも「明治十年騒擾一件」に記載がある。同書は1972年頃、大分県武徳殿が壊されるとき処分される廃品の山の前を県警吏員であった藤丸正見氏が通りかかり、西南戦争その他に関する古文書が捨てられそうになっているのに気づき回収し、後日出版されたものである。本書の内容を同書凡例から引用する。 (本書は)明治十年西南戦争の勃発から城山陥落の終局後まで、当時の…

  • 海軍の臼杵・津久見攻撃報告

    6月8日から10日前後の海軍による臼杵・津久見攻撃についての報告があるので掲げる。下記では振り仮名部分をその通りに表示できないので( )内に入れている。 CO9080860100「密事探偵報告口供書類」防衛研究所蔵0328~0331 臼杵及津久見攻擊実况御届 本月八日臼杵ノ賊攻撃ノ実况大畧御届仕置候後同日ハ陸兵モ近傍ニ攻メ寄セ昼夜對戦之處同九日早暁陸兵諸道ヨリ盛ニ進擊砲聲ハ遠近ニ響キ素ヨリ當艦ニ者兼テ陸地賊営ノ方向ヲ見計ラセ戦備致シ居候ニ付不絶攻擊折柄日進艦於テハ津久見佐伯等警邏ノ末入湾直ニ陸地間近ク進ミ一層進擊湾内両艦之回轉自由ナラス跡ヨリ回轉日進左ニ砲坐シ當艦右ニ出テ共ニ激發此ノ時陸兵ハ縦…

  • 大分市高崎山の城跡付近で新発見遺構群が報告されました

    2023.11.19、県立図書館に行ったら、埋蔵文化財センター勤務の吉田寛さんに遭遇。9:20から山城の研究会があるというので、午前中参加してみた。 一番興味深かったのは大分市高崎山の城跡付近でこれまで誰も知らなかった中世の山城遺構群の発表(中津市教育委員会の浦井直幸さん)だった。彼が三年か四年前に発見したという。発表の題は「高崎城と加判衆の城郭~豊後・豊前南部を中心に~」。写真は浦井さん。会場が暗かったので鮮明に撮影できなかった。 資料集から図を転載する。 浦井さんは山城と呼ばずに田ノ浦城塞と呼んでいる。今まで誰も気づかなかったとは。県南部も踏査しているというから、そこでも新たな発見があるか…

  • 川原内峠の戦跡➂

    2023.11.12。少し寒くなったので略図作成に出かけた。現地の作業は9時から13時まで行ったが、その間、すぐそばの県道を通過した車は1台だった。ずっと曇天で、帰途で太陽が出る天気になった。 今日は県道の東側、上部にある山みちの台場跡2基と尾根筋を図化した。その前に初めに山みちを利用した台場跡を新たに県道寄りで1基確認。これは今日は図化できなかった。前回見ていなかった尾根の上も少し登ったが、そこには台場跡はなかった。略図はこの調子ではあと何回か出かける必要がある。 峠道の標高は約410m。姫岳は619m。 緑線は尾根上面よりも低い位置を通る山みち。県道で切断されている。 峠の東側。略図化の基…

  • 6月11日前後の姫岳から警固屋村までの官軍哨兵線

    1877年6月10日、臼杵から薩軍が津久見・佐伯方面に敗走した後、官軍は薩軍の再来に備えて哨兵線を布いて備えた。その範囲は津久見市警固屋村前面の山脈から場所不明の建岩、姫岳までである。どの部隊が担当したのか、期日は、などについて分かる範囲で記しておきたい。 先ず前回も引用したが、野津道貫大佐が哨兵線部署を山縣参軍に報告した史料がある。 C09085041300「明治十年三月 探偵書綴 出征別働第一旅團ノ二」防衛省防衛研究所蔵 昨日臼杵ニ屯集スル処ノ賊ヲ掃攘セントスルニ右翼ヨリ大迂回ヲ行ンカ為メ其前夜ヨリ林少佐及ヒ諏訪少佐ノ二大隊ハ深田村ヨリ出発シ「川ナシ峠」ヘ配兵シ露営ス亦海軍ノ艦長伊藤大佐ニ…

  • 川原内(かわらうち)峠の戦跡②

    昨日の報告だけ。まだ図化は半分くらいしか終えていない。 昨日(10月29日)、台場跡の略図作成に行き県道の西側(姫岳側)を不完全ながら図化した。3枚に分けて作図したのを帰って複写し接合したら県道まで含んでいない状態なので分かりにくいと気付いたので、再度出かけるつもりだ。昨日は、県道の反対側を図化しようと調べてみたら、先日見つけておいた残り具合のいい台場跡1基(下の写真。巻き尺を土塁の外裾と土塁上面の外側に置いて撮影。改めて杉山だったと思う)の他に小さな谷の向こう側にももう1基見つけた。二つ並んで下る細尾根に一つずつ台場を築いたのだ。 この二つは山の斜面の途中にあり、背後から襲われたらどうしよう…

  • 川原内峠の戦跡(姫岳の南東側、臼杵市と津久見市の境界) ※追加します。

    1877年6月10日、臼杵の戦いが終わった後、薩軍は津久見を通り抜けて佐伯に移動した。彼らの再来を警戒した官軍は津久見市警固屋南方の山から始まり場所不明の建岩から姫岳までに哨兵を配布している。その時の推定哨兵線は下図に赤破線で示す。前回の投稿でその際、官軍が築いたと考えられる台場跡2基を姫岳で紹介した。今回は姫岳の南東側にあって、臼杵と津久見の境界をなす峠付近の戦跡を探してみた。峠には県道が通過している。 峠の臼杵側にある川原内には数軒の民家があり、偶々路傍の家で石垣作りをしていた男の人二人に峠の名前を訊いたところ、名前はない、昔は隧道があったが今は切通の道になったとのことだった。川原内峠とい…

  • 姫岳の遺構 ※未完。追記中です。

    大分県臼杵市と津久見市に跨る姫岳に残る中世と西南戦争時の遺構に付いて略図を作成したので紹介したい。姫岳は標高619mで周囲から頭一つ飛び出た峰として遠くからでも見分けが容易で、臼杵市内では一番高い山である。 北西側の掻懐から見た姫岳 前回、臼杵市甲﨑山の戦跡②で掲げた姫岳の遺構図作成では、既存の縄張り図に西南戦争時の遺構を書き加えればいいかと考えていたのだが、縄張り図が存在しなかった。前回の踏査では中世の遺構確認を後回しにしたため、今回新たに曲輪を2基確認し、それらも加え図化した(2・3)。 大分県森林基本図5000分の1図の等高線と今回(昨日)作成した遺構配置図とを合成したのだが、森林基本図…

  • 「鞠智城跡内に残存する西南戦争時の塹壕跡 」岡本 真也氏執筆の紹介

    熊本県山鹿市の古代(7世紀)城跡「鞠智城 きくちじょう跡」に存在する西南戦争時に薩軍・官軍が築造した台場群が紹介されています。奈良文化財研究所の「全国遺跡発掘総覧」で検索するとたどり着けます。 (熊本県立装飾古墳館研究紀要 第15集 20222.3.31) 明治10年3月に第三旅団と薩軍が交戦した際の遺構です。これまでほとんど存在が知られていなかったのを、同館勤務の岡本真也さんが探し回って図化し、報告しています。 岡本さんは熊本県内を中心に多数の台場跡を確認しており、今後の発表が楽しみです。

  • 臼杵市甲﨑山の戦跡② ※長くなると読みづらいので②とした。

    6月10日、官軍右翼が大迂回を行い薩軍の背後を攻撃し、これが契機となり臼杵の戦いは官軍の勝利で終わった。その際、迂回した官軍は川ナシ峠へ配兵、露営したとのことだが地名から川ナシ峠がどこにあるのか分からなかったので、今日、下図の南下する矢印の尾根を歩いて調べた。距離にして1.6㎞。楽な方法をあれこれ考えた結果、尾根沿いに走る舗装道路の所々に駐車し、少しずつ尾根に台場跡がないか調べてみた。8時に出発し、16時半に帰宅した。なお、鎮南山と姫岳を結ぶ尾根筋の西半分も今日の後半に歩いた。 上図の赤破線が歩いた尾根。立石山の少し南側から撮ったのが下。 つづく

  • 臼杵市甲﨑山の戦跡

    「西南戦地取調書 豊後」の臼杵市部分も現地を確認していない戦跡がいくつもある。今日は旧野田村(臼杵市福良と野田の境界?)の山を一つ歩いてみた結果台場跡を1基発見した。写真は目的地の少し手前で大迫山・臼杵川下流を撮ったもの。青空がきれいだった。 まず、同書掲載の絵図を掲げる。以前にこのブログで紹介したことがあるが、再び取り上げる。文章の後に絵地図があり、地名がいくつも書き込まれている。文章に登場する地名を青色で示す。 北海部郡野田村 舊四月廿日ヨリ同月廿九日マテ(※「六月一日ヨリ七月九日マテ」の付箋)薩軍隊長姓名不詳四百余十人ヲ率テ臼杵町ニ滞在 但大野郡地方ヨリ襲来リ南海部郡地方ニ去ル 舊四月廿…

  • 西南戦争前後の軍用水筒 ※明治初期・中期・後期に分けて少しずつ加筆修正します。☆を付けてくれたふひとべのべさん感謝

    西南戦争の頃の水筒に興味があって時々調べてきた。整理整頓された話にはならないが、所有する水筒紹介を兼ねて関連事項を書き連ねてみたい。 まず所有する硝子製水筒2個の写真。二つ以上あったと思うが見つからないので、発見したら追加したい。 右をイ、左をロと呼ぶことにする。どちらもガラス瓶を革で両側から包んで縫い付けている。表面尾黒色は漆塗であると理解されている。下部にコップ状の容器がはまっており、固着して外れない。イにはひもと栓が付いているが、ひもは本来の物ではなく、栓の木質部は桐材のようであり、補修して本来の材と交換したのだろう。 現在、ネット情報を閲覧するとこのような水筒は西南戦争から日清戦争の途…

  • 臼杵市望月の尾根を歩く

    絵図に台場が記録されていると何か勘違いをして臼杵市望月の山を歩いてみました(赤い矢印)。臼杵石仏の火祭りの際に北側斜面に京都の如く「王」(大ではない)の字を焼く山の尾根続きです。 杉山になっていて、地表に草がなく歩きやすい往復1時間の運動でした。北部には直径20㎝前後の竹も混じり、特に北斜面は枯れた竹が折り重なって歩きにくい状態でした。 終始、下を通行する車の音が聞こえる状態で、帰りに方向を間違えないだろうか、という恐れは全く抱かない楽な歩きでした。所々に石英の円礫が転がり、中には赤いチャートもみられた。 写真は直径3m位の石英円礫(台場跡を確認した場合に備えて画板に方眼紙を持参) 上の拡大 …

  • 臼杵市井村山の写真を撮ってきました

    臼杵市井村山で以前見つけた台場跡の遠景写真を撮る序に、その北東側の大字井村字桑尾に初めて行ってみました。 桑尾でも例の絵図に一ヶ所薩軍台場があると●が落とされており、それを確認するのも目的でした。途中、まだ大分市の所で、前方の佐賀の関(さがのせき)連山が濃淡で奇麗だったので撮影。帰宅後パノラマにしようとしたら容量が大き過ぎると拒否されたので、単に繋いでみた(次の写真)。佐賀の関連山という名は勝手につけた名称で、他に九六位(くろくい)山脈と呼んだりしています。 次の写真は桑尾に行く途中、南西方向の井村山北部を撮ったもの。手前の道は臼坂BP。6号台場跡と名付けた長大な塹壕の手前まで伐採された状態で…

  • チャット(Bing)で遊んでみました。

    最近、PCに新しい機能が出現しているので、外国語の単語やらを質問して遊んでいます。今回は「明治7年の台湾征討の時、日本軍はどのような水筒を使ったのか」という質問をしてみたところ、その答えは以下の通りでした。 こんにちは、これはBingです。😊 明治7年の台湾征討の時、日本軍はどのような水筒を使ったのかという質問にお答えします。 台湾征討は、明治維新後の日本としては初めての海外派兵であり、約3,600人の兵士が参加しました1。台湾は亜熱帯地域であり、水分補給は重要な課題でした。しかし、当時の日本軍には水筒という装備品はまだありませんでした2。そこで、日本軍は台湾出兵に際して、西洋式の水筒を参考に…

  • 宮崎県の西南戦争調査報告書(概要報告であり、本報告はこれからの予定)

    2020年度から三年間、宮崎県埋蔵文化財センターが西南戦争遺跡の調査を行った分の成果の一部が報告書として公開されています。 確認した台場跡の数は521基、他に墓地や慰霊碑なども調査対象にしています。大分県内では900基前後発見していますが、調査は続いており、確認数で追い越されるのは時間の問題でしょう。実測した台場跡の図はまだ一部しか掲載していないので本格的な報告はこれからのようです。 今年度の報告では8月上旬に両軍が対峙した日向市耳川流域の鳥川台場群が報告されています。 鳥川台場群の周辺では上図には図示されていないが実は多数の両軍の台場跡が確認されている。 上は薩軍の台場跡です。台場跡相互の間…

  • Xを始めました。

    ツイッターを時々拝見していた人達が今何をしているのか、どういう情報発信しているのか知りたくなってX(見るだけ)に参加しました。 そしたら佐倉桜香さんが新たに「しさつ」について投稿しているのが分かったり、その他色々の事が分かり再開してよかった、と思っているところです。

  • 「絵入りロンドン新聞」354 THE ILLUSTRATED LONDON NEWS ARRIL 14、1877の紹介

    日本で「絵入りロンドン新聞」と呼ばれるこの情報誌は1842年に創刊し、1971年までは週刊紙だった。その後は月間や隔月に刊行されていたが2003年に休刊したという。題名の如くロンドンで発行されていた。 西南戦争の記事と絵がある資料の存在は皆さん御存知だろうが、あえて紹介したい。この号は1877年4月14日刊行である。冒頭の354の意味は不明。通巻番号かも知れないが。裏と表に印刷され、文字面を表とすると裏面には上下に版画が置かれ、どちらも西南戦争関連の絵柄である。 西南戦争に関する記事が表面冒頭にあり全体の1/5以上の面積を占めているが、他にもLEGAL EDUCATION. (法学教育)・TH…

  • 「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」7月から ※少しずつ追加・加筆していきます。

    しばらく遠ざかっていたが、前回の続きとして7月からの小川日記「陣中日誌稿(明治十年戰争日記)」を跡付けていく。 七月一日晴天夜第四中隊ノ左小隊長田村エ出張ス ※長田村は場所不明 七月二日晴天賊下赤及矢立峠ニ出没ス ※下赤は佐伯市宇目の水ケ谷の南側にある宮崎県の集落で、8月中旬には熊本鎮台の川上操六が宿泊していた。矢立峠は宮崎県の桑原山を南東側に下った尾根にある峠。大分県側にある梓山他に官軍が陣取っており、北川の谷を挟んで矢立峠の薩軍が対峙していた。 七月三日晴天午前第三時頃第二中隊持塲梓峠ニ賊兵五百計リ暁霧ニ乗シ襲來ス依テ我兵奮擊之ヲ防クト雖ノモ衆寡敵セス終ニ守リヲ失フ是ヨリ先キ急戰ノ報ヲ得若…

  • PCのメール機能復活

    outlook で送受信できなかったメールが今日から復活した。ワンドライブとか何とかに保存されていたけど、容量が一杯とかで新たに受け入れなかったとか何とか。デスクトップのアプリワード・エクセルなどに×印が付いていたのもなくなり、元通りになった感じがする。 2023.8.16

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