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{{政治家
{{Infobox_学者
|人名 = ネヴィル・チェンバレン
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|各国語表記 = Neville Chamberlain
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}}
}}
'''フェルディナント・ラッサール '''('''Ferdinand Lassalle'''、[[1825年]][[411日]] - [[1864年]][[831日]])は、[[プロセン]]の[[政治学]]者、[[社会主義]]者、労働運動指導者
'''アーサー・ネヴィ・チェンバレン'''('''Arthur Neville Chamberlain''', {{Post-nominals|post-noms=[[王立協会|FRS]]}}、[[1869年]][[318日]] - [[1940年]][[119日]])は、[[イギリス]]の政治


実業家として活躍した後、{{仮リンク|バーミンガム市長|en|List of Lord Mayors of Birmingham}}を経て、[[1918年]]に[[保守党 (イギリス)|保守党]]議員として中央政界へ移る。[[スタンリー・ボールドウィン]]の3度の内閣や[[ラムゼイ・マクドナルド]]の[[挙国一致内閣]]で[[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]や{{仮リンク|保険大臣 (イギリス)|label=保険大臣|en|Secretary of State for Health}}を務め、福祉政策に貢献した。[[1937年]]5月のボールドウィンの引退で代わって保守党党首・[[イギリスの首相|首相]]となる。当初[[ナチス・ドイツ]]に対して[[宥和政策]]をとっていたが、[[1939年]]の[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]の[[ポーランド侵攻]]を機に対独開戦に踏み切り、[[第二次世界大戦]]を勃発させた。しかし1940年4月から始まった[[ヴェーザー演習作戦|北欧戦]]でドイツ軍に惨敗を喫して引責辞任した。
[[ドイツ社会主義労働者党]]の母体となる{{仮リンク|全ドイツ労働者同盟|de|Allgemeiner Deutscher Arbeiterverein}}の創設者である。革命ではなく既存の国家権力を通じての穏健な社会主義改革を目指し、時の[[プロイセン王国]]宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]と連携した。彼のこの立場は[[国家社会主義]]と呼ばれた。

また社会政策を行わない自由主義的国家を「夜警国家」と定義して批判したことでも知られる。


植民地大臣を務めた[[ジョゼフ・チェンバレン]]は父、外務大臣を務めた[[オースティン・チェンバレン]]は異母兄にあたる。
== 概要 ==
== 概要 ==
[[1869年]]、後に植民地大臣となる実業家[[ジョゼフ・チェンバレン]]の次男として生まれる。異母兄に[[オースティン・チェンバレン|オースティン]]がいる。{{仮リンク|メーソン・サイエンス・カレッジ|en|Mason Science College}}を卒業後、会計事務所に勤務。[[1891年]]から7年に渡って[[バハマ諸島]]・[[アンドロス島 (バハマ)|アンドロス島]]で[[サイザルアサ|シザル麻]]栽培のための事業を行うが失敗。その後バーミンガムで実業家として名を上げ、[[1911年]]にはバーミンガム市議会議員、[[1915年]]には{{仮リンク|バーミンガム市長|en|List of Lord Mayors of Birmingham}}となる。
1825年、裕福なユダヤ人絹商人の息子として[[プロイセン王国]][[ヴロツワフ|ブレスラウ]]に生まれる。1840年からライプツィヒの商業学校に通うも商業に関心を持てず、1841年から[[ギムナジウム]]に転校し、大学入学資格を取得。1843年に[[ヴロツワフ大学|ブレスラウ大学]]に入学した。

[[1918年]]12月の[[1918年イギリス総選挙|解散総選挙]]で{{仮リンク|バーミンガム・レディウッド選挙区|en|Birmingham Ladywood (UK Parliament constituency)}}から[[保守党 (イギリス)|保守党]]候補として出馬して当選。[[1922年]]に[[アンドルー・ボナー・ロー]]内閣の{{仮リンク|郵政長官|en|Postmaster General of the United Kingdom}}に就任。[[1923年]]3月には{{仮リンク|保険大臣 (イギリス)|label=保険大臣|en|Secretary of State for Health}}に昇進。続く第一次[[スタンリー・ボールドウィン]]内閣でも重用され、同年8月には[[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]に就任した。

1924年11月から1929年6月の第二次ボールドウィン内閣にも保健大臣として入閣し、妊婦死亡率の減少や住宅建設に尽力した。1931年8月から1935年5月の[[ラムゼイ・マクドナルド]][[挙国一致内閣]]に大蔵大臣として入閣し、[[世界大恐慌]]対策に[[均衡財政]]を目指した。しかしドイツで[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[国家社会主義ドイツ労働者党]]が政権を獲得し、再軍備を進めるようになると軍事費の増額を目指すようになった。


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== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
[[1869年]][[3月18日]]、[[バーミンガム]]の{{仮リンク|エッジバストン|en|Edgbaston}}で生まれた。父は当時バーミンガムの大実業家だった[[ジョゼフ・チェンバレン]]。母はその後妻フロレンス(旧姓ケンルック)<ref name="世界伝記大事典(1980,6)132">[[#世界伝記大事典(1980,6)|世界伝記大事典(1980)世界編6巻]] p.132</ref>。同母妹が三人いる。また父ジョゼフは先妻との間にも子供を二人儲けており、そのうちの一人が[[オースティン・チェンバレン|オースティン]]だった<ref name="坂井(1977)3">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.3</ref>。
[[1825年]][[4月11日]]に[[プロイセン王国]]領[[ヴロツワフ|ブレスラウ]]に裕福な[[改革派 (ユダヤ教)|改革派]][[ユダヤ教徒]]の絹商人の息子として生まれる<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.11-16</ref><ref name="幸徳(1904)9">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.9</ref><ref name="メーリング(1968)上382">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.382</ref>。


6歳の時に母フロレンスが出産が原因で死去し、母のいない家庭で育つことになった。この孤独感がネヴィルの独立心・自制心を形成したという<ref name="坂井(1977)3"/>。また母がいない家庭を作ってはならないという信念を強め、後のネヴィルの福祉への積極的な取り組みの思想的背景となった<ref name="坂井(1977)3">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.3</ref>。[[ラグビー校]]を卒業後、{{仮リンク|メーソン・サイエンス・カレッジ|en|Mason Science College}}(後にこのカレッジは[[バーミンガム大学]]のカレッジの一つとなる)に入学し、[[科学]]と[[工学]]を学んだ<ref name="世界伝記大事典(1980,6)132"/>。
ブレスラウをはじめ[[ポーランド]]地方の都市には[[ユダヤ人]]が多く暮らしていた。同じプロイセン領でも[[ライン地方]]のユダヤ人はかつての[[フランス革命]]や[[ナポレオン法典]]の影響で比較的自由主義的気風の中で生活していたが、ポーランドのユダヤ人は虫けら同然に扱われており、貧しいユダヤ人の多くは[[ゲットー]]に押し込められていた。ラッサールはゲットー外の裕福なユダヤ人家庭の出身者だが、ユダヤ人に対する激しい差別を見て育つことになった<ref name="江上(1972)13">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.13</ref><ref name="メーリング(1968)上383">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.383</ref>。1840年5月に[[ダマスカス]]で大規模なユダヤ人迫害が起こった際には迫害者より立ち上がろうとしないユダヤ人に苛立った様子が日記から窺える<ref name="江上(1972)14">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.14</ref><ref name="幸徳(1904)11">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.11</ref><ref name="メーリング(1968)上384">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.384</ref>。


政治家に転身した父ジョゼフは、理系の道を突き進む次男ネヴィルを見て「ネヴィルは決して政治家にはならないだろう」と予想した。実際、ネヴィルはすぐには政治家にならず、大学卒業後には会計事務所に勤務している。その勤務ぶりは非常に精勤であったという<ref name="坂井(1977)14">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.14</ref>
[[1840年]]5月に[[ライプツィヒ]]の商業学校に入学した<ref name="江上(1972)17">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.17</ref><ref name="メーリング(1968)上384"/>。しかし商業にはまるで関心を持てず、文芸や古典に惹かれていった。[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]や[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]、[[ヴォルテール]]、[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]、[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]、[[ルートヴィヒ・ベルネ|ベルネ]]などに読み耽った<ref name="メーリング(1968)上384"/>。とくに同じユダヤ人のハイネとベルネからは[[民主主義]]・[[共和主義]]・[[革命主義]]の最初の影響を受けた<ref name="江上(1972)18">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.18</ref>。


=== 実業家として ===
大学で歴史を学びたいと考えるようになったラッサールは父親を説得のうえ、[[1841年]]8月に商業学校を退学し、ブレスラウの[[カトリック]]系の[[ギムナジウム]]に転校した。カトリックは[[プロテスタント]]国家のプロイセンにおいては少数派だったので同じ少数派のユダヤ人を差別することはないだろうと考えて、この学校を選んだものと思われる<ref name="江上(1972)23">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.23</ref>。ギムナジウムで猛勉強し、大学入学資格を取得した<ref name="メーリング(1968)上385">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.385</ref>。
[[File:Arthur Neville Chamberlain 03.jpg|180px|thumb|若き日のネヴィル・チェンバレン]]
父ジョゼフは政治に専念するべく、1880年代に実業界から身を引いたが、1890年には{{仮リンク|バハマ総督|en|Governor of the Bahamas}}{{仮リンク|アンブローズ・シー|en|Ambrose Shea}}と知り合ったことで[[バハマ諸島]]の[[サイザルアサ|シザル麻]]栽培に関心を持ち、[[1891年]]に息子のオースティンとネヴィルをバハマ諸島・[[アンドロス島 (バハマ)|アンドロス島]]へ調査に行かせた。結局ジョゼフはここにアンドロス繊維会社を立ち上げることとし、ネヴィルにその経営を任せた。以降7年に渡ってアンドロス島に滞在してシザル麻栽培に尽くすことになる<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.4/6</ref>。


22歳から28歳という多感な青年期を隔絶された孤独な環境で過ごしたことはチェンバレンの独立心と自制心を一層育てたという<ref name="世界伝記大事典(1980,6)133">[[#世界伝記大事典(1980,6)|世界伝記大事典(1980)世界編6巻]] p.133</ref>。
=== 大学時代 ===
[[File:Ferdinand Lassalle (1825-1864).jpg|180px|thumb|若き日のラッサール。]]
[[1843年]]春には[[ヴロツワフ大学|ブレスラウ大学]]に入学できた。大学では[[文献学]]、ついで[[哲学]]を学んだ<ref name="江上(1972)24">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.24</ref>。特に古典と[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]哲学を熱心に勉強した<ref name="メーリング(1968)上385"/>。


労働者を雇って土地の開墾の指揮をとりつつ、しばしば自らも[[斧]]を振るって開墾に参加したという<ref name="坂井(1977)5">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.5</ref>。だが苦労して作ったシザル麻栽培のための土地は栽培に全く向いておらず、最終的にアンドロス繊維会社の事業は5万ポンドもの損失を出して失敗に終わった<ref name="坂井(1977)5-6">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.5-6</ref>。
英仏ほどではないとしてもプロイセンの大学でも自由主義の思潮と封建主義打倒の機運が高まっていた。学生たちのそうした活動は[[ブルシェンシャフト]]と呼ばれる学生団体によって行われていた。ラッサールもそうした学生団体に加わり、すぐに頭角を現してリーダー的存在となった<ref name="江上(1972)26-27">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.26-27</ref>。この頃、ブレスラウ大学では[[ヘーゲル左派]]の[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]准教授がプロイセン政府から「危険思想」の持ち主と看做され、大学を追放される事件があった。これに対して急進派学生はラッサールを中心に抵抗運動を展開した。この活動でラッサールは学内随一の雄弁家として名をはせるようになり、大学からも「危険分子」と看做されるようになり、一時謹慎処分を受けた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.27-28</ref>。


アンドロス島から帰還するとバーミンガムのエリオット金属会社やホスキンズ・アンド・サン会社(船舶用金属製寝台製造会社)に勤務するようになった<ref name="坂井(1977)7">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.7</ref>。[[1911年]]には{{仮リンク|アン・チェンバレン|label=アン・コール|en|Anne Chamberlain}}と結婚した<ref name="世界伝記大事典(1980,6)133"/>。
[[1844年]]春、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]哲学を本格的に学ぶべく、[[ベルリン大学]]へと移籍した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.24/28</ref>。ヘーゲル研究に熱中したが、他にも[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]や[[シャルル・フーリエ|フーリエ]]、[[ルイ・ブラン]]といった社会主義者から影響を受けた<ref name="江上(1972)39">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.39</ref>。


やがてバーミンガム産業界の指導的人物となり、1911年にはバーミンガム市議会議員となり、市の都市計画と福祉事業に参画する<ref name="坂井(1977)12">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.12</ref>。
ベルリン大学の卒業論文では[[古代ギリシャ]]の哲学者[[ヘラクレイトス]]の研究に取り組んだ。ヘーゲルの[[弁証法]]とヘラクレイトスの流転の素因に似たところがあるからだが、同時にヘラクレイトスは難解といわれていたため、困難を突破したがるラッサールの闘争心が刺激されたものと考えられている<ref name="江上(1972)41">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.41</ref>。


=== バーミンガム市長 ===
[[1845年]]秋から[[1846年]]1月にかけて、ヘラクレイトス研究のため、フランス・[[パリ]]を訪問した<ref name="江上(1972)43">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.43</ref><ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.13-14</ref><ref name="メーリング(1968)上387">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.387</ref>。パリで[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]やハイネと会見する機会を得た。とりわけ同じユダヤ人のハイネとは意気投合した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.44-45</ref>。ちょうど同じころに[[カール・マルクス]]がパリから追放されているが、この時点でマルクスと顔を合わせることはなかったようである<ref name="メーリング(1968)上388">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.388</ref>。
[[第一次世界大戦]]中の1915年には{{仮リンク|バーミンガム市長|en|List of Lord Mayors of Birmingham}}に就任した<ref name="世界伝記大事典(1980,6)133"/>。
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バーミンガム市長となったチェンバレンは戦時貯蓄銀行の必要性を感じ、これに反対していた{{仮リンク|大蔵省金融担当政務次官 (イギリス)|label=大蔵省金融担当政務次官|en|Financial Secretary to the Treasury}}{{仮リンク|エドウィン・サミュエル・モンタギュー|en|Edwin Samuel Montagu}}、[[ロイズTSB|ロイド銀行]]や{{仮リンク|ミッドランド銀行|label=ロンドン・シティ・アンド・ミッドランド銀行|en|Midland Bank}}などを熱心に説得し、ついに[[1916年]]に戦債投資法を庶民院に通過させることに成功した。この法律は貯蓄を戦債に投資させるためのものであり、これによってバーミンガム戦時貯蓄銀行の樹立が可能となった<ref name="坂井(1977)7">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.7</ref>。
=== ハッツフェルト伯爵夫人の離婚訴訟 ===
[[File:Sophie von Hatzfeldt 1805 - 1881b.jpg|180px|thumb|ハッツフェルト伯爵夫人{{仮リンク|ゾフィー・フォン・ハッツフェルト|label=ゾフィー|de|Sophie von Hatzfeldt}}]]
パリからベルリンへ戻った後、ヘラクレイトスの執筆を開始しようとしたが、{{仮リンク|ハッツフェルト家|label=ハッツフェルト伯爵家|de|Hatzfeld (Adelsgeschlecht)}}の伯爵夫人{{仮リンク|ゾフィー・フォン・ハッツフェルト|label=ゾフィー|de|Sophie von Hatzfeldt}}と知り合ったことでその研究は10年近く中断されることになる<ref name="メーリング(1968)上388"/><ref name="幸徳(1904)15">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.15</ref>。


[[デビッド・ロイド・ジョージ]]はチェンバレンと会ったことはなかったが、市長としての業績を高く評価し、ロイド・ジョージが首相となった1916年12月に国民兵役担当長官に任じられた。しかしロイド・ジョージとの関係がうまくいかず、まもなく辞職した<ref name="世界伝記大事典(1980,6)133"/><ref name="ブレイク(1979)266">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.266</ref>。{{-}}
彼女の夫であるエドムント・フォン・ハッツフェルト(Edmund von Hatzfeldt)伯爵は放蕩者なうえ、妻ゾフィーに様々な迫害を加えていた。ゾフィーは伯爵との離婚を希望していたが許してもらえずにいた。そのことをラッサールに相談したところ、彼はこれを「封建主義の横暴に対する闘争」と看做し、彼女に代わって伯爵と闘う決意を固めた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.47-49</ref><ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.15-17</ref>{{#tag:ref|伯爵夫人とラッサールの肉体関係の有無については定かではない。当時伯爵夫人は40歳、ラッサールは20歳であり、年齢差があるが、伯爵夫人は美人で知られていた。ラッサール自身は後年に「ハッツフェルト伯爵夫人の弁護を引き受けるにあたって浮いた気持など微塵もなかった」「自分を駆りたてた動機は騎士道精神である」と語っている<ref name="メーリング(1968)上388">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.388</ref>。一方で後年にヘレーネ・フォン・デンニゲスが「伯爵夫人はその頃魅力的だったのでしょうし、貴方は若かった。恋に落ちて何かあったのね。でも今はあの方もすっかりお年寄り。なのに貴方はまだ若いのですから、今はただのお友達というところでしょう」と述べたのに対して、ラッサールは「まあ大体君の言うとおりだよ」と答えたことがあるという<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.48/78</ref>。|group=注釈}}。


=== 中央政界へ ===
ラッサールははじめ伯爵に決闘を申し込んだが、「バカなユダヤの小僧」と相手にしてもらえなかった<ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.17-18</ref>。結局離婚訴訟で闘うことになり、ラッサールは1846年から1854年までの長きにわたってこの訴訟に尽力することになる<ref name="江上(1972)54">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.54</ref>{{#tag:ref|これについて[[猪木正道]]は「学者にとって決定的なのは大学卒業後の数年間であるが、ラッサールはその期間を空費とまでは言わないものの、脇道にそれてしまった」として惜しんでいる<ref name="江上(1972)51">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.51</ref>。またマルクスは後年にラッサールのハッツフェルト伯爵夫人離婚訴訟への熱の入れようを「ラッサールは本当に偉大な人間はこんな下らないことにも10年の時を費やすのだと言わんばかりに、見境もなく私的陰謀の渦中にあったのだから、自分こそは世界を自分の意思どおりにできると思っていたに違いない」と批判している。またエンゲルスは「我々がこんな事件でラッサールとグルになっていると思われぬよう『[[新ライン新聞]]』は意図的にこの事件を報道しなかった」と述べているが、これはエンゲルスの嘘であり、『新ライン新聞』は小箱窃盗事件の訴訟を事細かに報道していた<ref name="メーリング(1974)300">[[#メーリング(1974)|メーリング(1974)]] p.300</ref>。[[フランツ・メーリング]]は「訴訟を始めた当時のラッサールには1848年に革命が起こるとは知りえなかったし、またプロイセン封建主義の腐敗ぶりが酷過ぎたために裁判が長期化したのであり、ラッサールを責めるのは不当」と弁護している<ref name="メーリング(1968)上389">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.389</ref>。|group=注釈}}。
[[File:DirectorOfNationalServiceNevilleChamberlain--nsillustratedwar03londuoft.jpg|thumb|180px|1917年のネヴィル・チェンバレン]]
[[1918年]]12月の[[1918年イギリス総選挙|解散総選挙]]で{{仮リンク|バーミンガム・レディウッド選挙区|en|Birmingham Ladywood (UK Parliament constituency)}}から[[保守党 (イギリス)|保守党]]候補として出馬して初当選を果たす。当時保守党はロイド・ジョージ政権を支えていたが、チェンバレンはロイド・ジョージとは距離を置いていた<ref name="世界伝記大事典(1980,6)133"/>。


1922年に保守党はロイド・ジョージとの大連立を解消し、[[アンドルー・ボナー・ロー|ボナー・ロー]]を首相とする単独政権を樹立した。チェンバレンはその内閣に{{仮リンク|郵政長官|en|Postmaster General of the United Kingdom}}として入閣した<ref name="世界伝記大事典(1980,6)133"/>。ボナー・ローとしてはチェンバレンに彼の兄である[[オースティン・チェンバレン|オースティン]]との橋渡し役を期待していたという<ref name="ブレイク(1979)266">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.266</ref>。
訴訟中ラッサールは伯爵の愛人が持っている伯爵が次男に与えるべき財産をその愛人に譲ろうとした文書が入った小箱を盗み出したとされて、1848年2月に窃盗罪容疑で警察に逮捕された<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.57-58</ref>。


1923年3月には{{仮リンク|保険大臣 (イギリス)|label=保険大臣|en|Secretary of State for Health}}に転任する。5月にボナー・ローが引退し、[[スタンリー・ボールドウィン]]が後任の首相・保守党党首となるが、ボールドウィンからも重用され、8月には[[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]に抜擢された。チェンバレンは父ジョゼフと同様に社会保障の財源として関税を見込んでおり、保護貿易の{{仮リンク|帝国特恵関税制度|en|Imperial Preference}}を支持していた。11月にはボールドウィンも帝国特恵関税制度の必要性を感じて、12月にその是非を問う[[1923年イギリス総選挙|解散総選挙]]に打って出た。しかし保守党はその総選挙で敗北したため、チェンバレンも予算に携わる機会のないまま蔵相を辞した<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.13/18</ref>。
=== 1848年革命をめぐって ===
ラッサールが逮捕された1848年2月にフランス・パリでは革命が発生し、[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の[[7月王政|王政]]が打倒され、[[フランス第二共和政|共和政]]が樹立された。3月にはプロイセンや[[オーストリア帝国|オーストリア]]にも革命が波及した<ref name="江上(1972)59">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.59</ref>。


=== 第二次ボールドウィン内閣保健大臣 ===
独房の中からその様子を見たラッサールは改めて闘争心を掻き立てられた。8月11日の[[ケルン]]の法廷では熱弁をふるって自らの闘争が自由と民主主義のための封建主義との闘いであることを印象付けた。法廷外でも伯爵夫人が様々な反封建主義集会に参加して世論を盛り上げ、ラッサールの法廷での闘いをサポートした。革命の渦中であったから[[陪審員]]にもラッサールを支持する者が多く、無罪判決を勝ち取ることができた。釈放されたラッサールは伯爵夫人やその次男とともに[[デュッセルドルフ]]で暮らすようになった。ラッサールの無罪判決は革命派の勝利として大きな反響を呼び、ラッサールは一躍ライン地方の有名人となった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.59-62</ref><ref name="メーリング(1974)299">[[#メーリング(1974)|メーリング(1974)]] p.299</ref>。
1924年11月に成立した第二次ボールドウィン内閣でも保健大臣に再任され、政権が崩壊する1929年6月までの長期にわたって在職した。


1926年には助産婦および産院法制定を主導した。これによって妊婦死亡率は大きく減少した<ref name="坂井(1977)12">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.12</ref>。また1926年から住宅建設を主導し、1929年の退任までに100万戸もの住宅を建設した。またスラム街の一掃にも尽力し、1929年までにイングランドとウェールズで58のスラム街を消滅させることに成功した<ref name="坂井(1977)12"/>。
ラッサールは引き続き伯爵夫人の離婚訴訟を支援しながらライン地方の民主主義派の革命活動に参加するようになる<ref name="江上(1972)62">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.62</ref>。また『[[新ライン新聞]]』を発行していた[[カール・マルクス|マルクス]]や[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]とも初会見した。5歳年上のエンゲルスは初対面からラッサールに不快感を持ったが、一方7歳年上のマルクスはユダヤ人としての連体感もあってか、ラッサールに好意的であり<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.63-64</ref>、少ない財産の中からハッツフェルト伯爵夫人の支援金を送ってくれた<ref name="メーリング(1974)300">[[#メーリング(1974)|メーリング(1974)]] p.300</ref>。


1928年には保健大臣に救貧委員の任命権限を与える『救貧委員怠慢法案』の制定を主導した。この法律は労働党の影響下にある市議会や救貧委員会の浪費を抑えることを主眼としていたため、労働党の強い反発を買った。労働党は悪意ある質問をチェンバレンに集中させた。チェンバレンの方も労働党への憎しみを強め、労働党議員を個人攻撃するようになった。そのやり方の評判がよくなかったため、しばしば首相ボールドウィンから注意された。この後も労働党との対立は根深く続くことになる<ref name="坂井(1977)15">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.15</ref>。
ラッサールは[[8月29日]]に開催された[[フェルディナント・フライリヒラート|フライリヒラート]]逮捕への抗議集会で初めて大衆の前での演説を行い、以降マルクスと連携してライン地方を奔走し、革命運動を指導して回った<ref name="江上(1972)64">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.64</ref>。しかし10月から11月にかけて革命は次々と失敗していき、反革命派による民主主義派への武力弾圧が本格化した。これに対抗すべく民主主義派は消極的抵抗から武力抵抗へ転換し、ラッサールもデュッセルドルフで武装抵抗を促す演説を行ったため、11月22日には官憲に逮捕された<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.64-65</ref><ref name="メーリング(1974)306">[[#メーリング(1974)|メーリング(1974)]] p.306</ref><ref name="メーリング(1968)上391">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.391</ref>。


この保健相在任中に保守党内におけるナンバーツーの座を確立していった<ref name="ブレイク(1979)267">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.267</ref>。
「王権に対する武装抵抗」という重罪に問われたため長期間未決拘留された。[[1849年]][[5月3日]]にようやく[[陪審制]]の裁判にかけられたが、陪審員にも民主主義派が多かったため、無罪判決が下り、ラサールは釈放された<ref name="メーリング(1968)上392">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.392</ref><ref name="江上(1972)66">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.66</ref>。これに対抗して裁判所は[[一事不再理]]の原則に反する形で「軍隊および役人に対する武装抵抗の教唆」の容疑でラサールをふたたび逮捕した。今度は職業裁判官による裁判にかけられ、7月には禁固6カ月の判決を受けた<ref name="江上(1972)67">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.67</ref><ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.392/394</ref>。判決の執行は少しの間だけ延期され、一時的に釈放された<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.65-67</ref>。


=== マクドナルド挙国一致内閣大蔵大臣 ===
この間、革命の失敗でほとんど一文無しでロンドンに亡命していたマルクスから最初の金の無心を受けた。ラッサールも楽な経済状態ではなかったが、マルクスのために幾らか用立ててやり、またマルクス支援の募金活動を起こしたが、マルクスは自分の惨めな生活を世間に知られたくなかったらしく、この募金運動の件を聞いて憤慨した<ref name="江上(1972)67">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.67</ref>。
1931年8月に労働党政権の首相[[ラムゼイ・マクドナルド]]は[[世界大恐慌]]対策に失業手当と公務員給料の削減による[[均衡財政]]を目指したが、失業手当削減をめぐって閣内分裂して政権崩壊した。マクドナルドは労働党大連立派(ごく少数)と保守党と自由党で大連立し、挙国一致内閣を形成した。チェンバレンもこの内閣に保健大臣として入閣。11月には大蔵大臣に転じた。チェンバレンはマクドナルドの均衡財政方針を全面的に支持しており、「予算というものは長期にわたって均衡を図るより、年毎に均衡を図るべきである」と述べていた<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.14-15</ref>。


大蔵大臣としての最初の予算案から所得税の増税を行った。また為替平衡勘定を設定することで投棄に歯止めをかけて為替安定を図った。さらに低金利政策を実施し、20億ポンドに及ぶ5分利子の戦時国債を3分5厘に借り換えるか償還するかし、また[[公定歩合]]を2%に下げた。この結果、年間3000万ポンドの節約が実現された<ref name="坂井(1977)18">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.18</ref>。
1850年10月から1851年4月にかけて先の判決が執行され、服役した<ref name="江上(1972)69">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.69</ref>。


また1932年には大英帝国外からの全商品に10%の関税を課しつつ、帝国内からの商品には関税を課さないという帝国特恵関税構想に基づく『輸入関税法』を可決させた。この際にチェンバレンは「父ジョゼフの考え方を直接に、しかも正確に受け継いだこの法案が父の愛した庶民院に提出され、しかも父の名声と血を直接に受け継いだ息子2人のうちの1人によって提出されたということを父が知り得たとすれば、絶望した父が安らぎを見出すであろうと信じる」と演説した。これはチェンバレンの生涯を通して唯一の感情的演説であるとされる<ref name="坂井(1977)13">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.13</ref>。
=== 離婚訴訟勝訴と『ヘラクレイトスの哲学』で成功 ===
8年に及ぶ訴訟に疲れたハッツフェルト伯爵が和解を求めた結果、[[1854年]]に離婚訴訟に勝訴した。これにより伯爵夫人は巨額の財産を獲得し、ラッサールも伯爵夫人から年金4000[[ターレル]]を得られるようになり{{#tag:ref|この金額は当時のプロイセンの大臣の俸給の半分に匹敵する<ref name="江上(1972)75">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.75</ref>。|group=注釈}}、裕福な生活を送るようになった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.74-75</ref>。この年金はラッサールにとって社会主義研究に没頭する上で重要な収入源となった<ref name="幸徳(1904)21">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.21</ref>。


1933年1月にドイツで[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)が政権を獲得した。チェンバレンは{{仮リンク|駐ドイツ・イギリス大使|en|List of diplomats of the United Kingdom to Germany}}{{仮リンク|ホレース・ランボールド (第9代准男爵)|label=サー・ホレース・ランボールド准男爵|en|Sir Horace Rumbold, 9th Baronet}}のヒトラーの軍拡方針とナショナリズムを危険視した報告書と1934年7月にオーストリア・ナチ党員がオーストリア首相[[エンゲルベルト・ドルフース]]を暗殺した事件を見て、ヒトラーを危険視するようになった<ref name="坂井(1977)20">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.20</ref>。
金銭的にも時間的にも余裕ができたラッサールは、大学の卒業論文として書き始めてそのままになっていたヘラクレイトスに関する著作の執筆を再開し、[[1855年]]から[[1857年]]にかけてこれを完成させた<ref name="江上(1972)81">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.81</ref><ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.457/477</ref>。


チェンバレンは1934年度予算から軍事費を大幅に増額していった<ref name="坂井(1977)20">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.20</ref>。
ラッサールと伯爵夫人の関係が悪くなることはなかったが、訴訟が終わったことで以前よりは疎遠になることは避けられず、ラッサールもデュッセルドルフの伯爵夫人邸に居心地の悪さを感じるようになり、プロイセン王都[[ベルリン]]への移住を希望するようになった。しかし革命家であるため当局からの許可はなかなか下りなかった。[[1855年]]3月にはこっそりベルリンへ移住するも警察に逮捕され、強制送還されている<ref name="江上(1972)79">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.79</ref>。しかし[[1857年]]2月になって突然ベルリンへの移住許可がおりた。伯爵夫人とラッサールを切り離し、またラッサールをベルリンに置いて監視を強化しようという官憲の企図だったという。これによって同年5月にベルリン・ポツダム街に移住した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.86-87</ref>。


=== 第三次ボールドウィン内閣大蔵大臣 ===
出版業者{{仮リンク|フランツ・ドゥンカー|de|Franz Duncker}}と親しくなり、彼の書店から『ヘラクレイトスの哲学(Die Philosophie Herakleitos Des Dunklen Von Ephesos)』を出版してもらった。この本はたちまちのうちに評判になり、ラッサールはベルリン哲学学会の会員に迎え入れられ、華々しい社交生活を開始できるようになった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.87/94</ref>。ラッサールはロンドンのマルクスにも『ヘラクレイトスの哲学』を送ったが、極貧生活に陥っていたマルクスはすっかり上流階級の仲間入りをしたラッサールを妬み、エンゲルスへの手紙の中で「ラッサールは労働運動を離婚訴訟に私的に利用した」「訴訟は終わったのにラッサールはいつまでも伯爵夫人から独立しようとしない」「ラッサールのベルリン行きは大紳士に成りあがり、[[サロン]]を開くためだ」と書いている<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.88-92</ref>。
1935年6月、マクドナルド首相が引退し、ボールドウィンが首相となる<ref name="河合(1998)237">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.237</ref>。チェンバレンは引き続き大蔵大臣を務めた<ref name="秦(2001)512"/>。この最後のボールドウィン内閣の最高指導者は事実上チェンバレンであり、とりわけ軍事問題については彼が最大の影響力を持った<ref name="ブレイク(1979)279">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.279</ref>。


チェンバレンは毎年軍事費を上昇させ続けた。当初は均衡財政にも固執して道路基金からの借入や所得税や茶税の引き上げなどで軍事費急上昇に対応したが、それだけでは軍拡の維持は難しくなり、1937年2月には防衛国債法案を成立させて国債で軍事費を賄うようになった<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.25-26</ref>。
1857年9月にアグネス・デニスストリートとの間に儲けた娘が死去し、彼女との関係が疎遠になった。その後フランツ・ドゥンカー夫人リナと情を通じるようになったが、彼女には崇拝者が多かったため、ラッサールはファブリスという官僚から待ち伏せされて夜襲を受けた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.97-99</ref>。ステッキで撃退することに成功したものの、この夜襲に憤慨したラッサールはファブリスに決闘を申し込むことを希望し、マルクスにもそのことを相談したが、マルクスは「決闘は特権階級の因習であり、反革命的行動」として反対した。伯爵夫人もラッサールの身を案じて反対したため、結局断念した<ref name="江上(1972)100">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.100</ref>。


一方ヒトラーもドイツの軍拡を急ピッチで進めていた。やがてドイツ再軍備が既成事実化してしまうとチェンバレンはいつまでも形骸化した[[ヴェルサイユ条約]]や[[ロカルノ条約]]に固執していても仕方ないと考えるようになり、ドイツへの宥和的対応も必要という立場に転じていった<ref name="坂井(1977)35">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.35</ref>。またドイツが強力になればソ連共産主義に対する防波堤の役割を果たしてくれるという期待感も持つようになった<ref name="坂井(1977)51">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.51</ref>。
この一件でラッサールはベルリン警察に睨まれるようになり、1858年6月にはベルリン追放命令を受けた<ref name="メーリング(1968)上457">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.457</ref>。ラッサールは[[スイス]]へ逃れつつ、この頃自由主義勢力と関係を持っていた皇太弟[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム]]に助けを求めた。折しもヴィルヘルムが[[摂政]]となり、自由主義的な「{{仮リンク|新時代|de|Neue Ära}}」内閣が発足していたこともあり、1858年10月にはベルリンへ戻ることができた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.102-103</ref>。


1936年3月にヒトラーは{{仮リンク|仏ソ相互援助条約|fr|Traité franco-soviétique d'assistance mutuelle (2 mai 1935)}}を理由に[[ヴェルサイユ条約]]で非武装地帯に定められていた[[ラインラント]]へ進駐したが、イギリス国内ではドイツの領土にドイツ軍が入っていただけとして融和ムードが強かった<ref name="河合(1998)241">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.241</ref>。チェンバレンも同様の考えであり、イギリスに伺いを立てに来た[[外務大臣 (フランス)|フランス外相]]{{仮リンク|ピエール=エティエンヌ・フランダン|fr|Pierre-Étienne Flandin}}に対して「イギリスの世論はどのような対独制裁も支持しないであろう」と返答している。外相[[アンソニー・イーデン]]がこの方針を「ヨーロッパの宥和」政策としてまとめ、チェンバレンもそれに賛成した結果、以降チェンバレンの対独譲歩政策は宥和政策と呼ばれるようになった<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.36-37</ref>。
=== マルクスとの亀裂 ===
[[File:Marx4.jpg|180px|thumb|[[カール・マルクス]]]]
1859年にはマルクスの『[[経済学批判]]』をドゥンカー書店から出版できるよう取り計らった。一方でこの頃からマルクスのラッサール不信は強まっていく。


1936年7月に[[スペイン]]で、左翼政府「[[スペイン人民戦線|人民戦線]]」と[[フランシス・フランコ|フランコ]]将軍率いる右派の武力衝突が発生し、ソ連が左翼政府を、ドイツ・イタリアが右派を支援した([[スペイン内戦]])。この戦争に対してイーデン外相はイギリスの不干渉方針を表明し、チェンバレンもこの方針に賛同した。チェンバレンの考えるところ、不干渉方針は独ソを潰し合わせてイギリスが漁夫の利を得ることができるうまい手段であった。一方、野党労働党は左翼政府を支持しており、政府の不干渉政策を批判したが、イギリス世論の大半は戦争に引きずり込まれることを望んでおらず、政府の不干渉方針を支持する者が多かった<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.42-45</ref>。
同年ラッサールは史劇『フランツ・フォン・ジッキンゲン』を書き上げ、これをベルリンの宮廷劇場に匿名で送ったが、革命的精神を謳う台詞が冗長で、またヘーゲル式議論が難解すぎるとして劇場からは採用してもらえなかった。ラッサールはこの脚本をマルクスに批評してほしがり、彼にも脚本を送ったが、当時のマルクスに舞台の脚本など読んでる暇はなく、また『経済学批判』出版が遅れていることに苛立っていた時期だったので「反動的封建階級に属する者を中心として描いたことは誤りである。主人公は全て農民一揆の農民指導者から選ばねばならない」という不評の返事を突き返された<ref name="江上(1972)106">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.106</ref>。


=== チェンバレン内閣 ===
1859年4月にフランス皇帝[[ナポレオン3世]]率いる[[フランス第二帝政|フランス帝国]]とサルデーニャ宰相[[カミッロ・カヴール]]率いる[[サルデーニャ王国]]が同盟してイタリア北部を支配する[[オーストリア帝国]]を相手に[[イタリア統一戦争]]を開始した。この戦争をめぐるエンゲルスの著作『ポー河とライン河』のドゥンカー書店からの出版を斡旋した後、ラッサール自身もドゥンカー書店から『イタリア戦争とプロイセンの義務、民主主義の呼び声(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens: eine Stimme aus der Demokratie)』と題したパンフレットを著した。この著作の中でラッサールはドイツとイタリアの統一の必要性とオーストリアがイタリア北部を支配していることの不当性を訴え、またナポレオン3世は利己心でのみ行動していることを指摘した。これはマルクスやエンゲルスの見解と同じであった<ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.501/503</ref>。だがその一方でラッサールは利己的な専制君主であっても民主主義的原理に媚を売ろうとするナポレオン3世の方が「反動の権化」のオーストリアよりはましだと考えており、ナポレオン3世を擁護するかのような主張もした<ref name="メーリング(1968)上504">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.504</ref><ref name="江上(1972)107">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.107</ref>{{#tag:ref|ラッサールは「ナポレオン3世の野心を過大評価すべきではない。彼は世間で言われているほど盤石ではない。ライン川を獲得するためにフランスがドイツに侵攻するなどということはありえず、ナポレオン3世が狙っているのはせいぜいフランス的な[[サヴォイ]]の併合である。ナポレオン3世は国内では反動を支持し、国外では自由主義を支持するという矛盾した行動をとっているがゆえに早晩イタリア問題の収拾に失敗するだろう。プロイセンがフランスを攻撃すればフランスは皇帝のもとに団結するだろう。一方オーストリアを攻撃すればドイツ統一への絶好のチャンスが開ける。だが今のプロイセンにそのようなことを実行できる大人物はいないので結局今回の戦争では中立の立場を取った方が良い。もしフランスが南ヨーロッパの地図を塗り替えるような真似をするならば、プロイセンは北方の[[シュレースヴィヒ公国]]と[[ホルシュタイン公国]]を併合すべきである」という趣旨の主張を行った<ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.505-506</ref><ref name="江上(1972)107-108">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.107-108</ref>。|group=注釈}}。これはナポレオン3世を「無産階級最大の敵」と定義し、ナポレオン3世に抵抗するためならばプロイセンとオーストリアの連合さえも考慮に入れるべきと主張するマルクスとは相いれない立場であり、マルクスから「私と私の同僚(エンゲルス)は貴方の意見に全く賛成できない」と拒絶の返事を送られた<ref name="江上(1972)107-108"/>。
[[1937年]]5月にボールドウィンが引退したとき、チェンバレンが後任の保守党首・首相となることに反対する者は党内にいなかった。党内の反執行部分子になっていた[[ウィンストン・チャーチル]]さえも反対しなかった(ただしチャーチルは「党内の反対意見に耳を貸す」ことを新党首に要求した)<ref name="河合(1998)247">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.247</ref>。


宥和政策を続行する意思であったチェンバレンは、1937年11月に{{仮リンク|E.F.L.ウッド (初代ハリファックス子爵)|label=ハリファックス卿|en|E. F. L. Wood, 1st Earl of Halifax}}をドイツに派遣した。彼とヒトラーの会談からドイツと友好関係を保つことは可能との自信を強めた<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.51-52</ref>。
マルクスの態度が冷淡になっていると感じたラッサールは彼との友情を取り戻そうと弁明の手紙を送った。その中でラッサールは「私のパンフレットを額面どおり受け取らないでほしい。私の本当の気持ちはプロイセンがフランスに勝利したとしても、それはプロイセン人民に望ましい形にはならず、反革命勢力の勝利に終わるだけということだ。逆にフランスが勝利すればホーエンツォレルン家他、ドイツ支配層の没落につながり、ドイツ人民の解放と革命戦線の連合は進むだろう」と訴えたが、マルクスがこの説明に得心することはなかったようである<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.108-109</ref>。


他方でイタリアをドイツから引き離すことでドイツを孤立させることも企図し、イタリアの[[ベニト・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]首相と接近を図った。外相イーデンはスペイン問題でイタリアが何度も約束を反故にしたことからイタリアに不信感を持っており、これに反対したが、チェンバレンから受け入れられなかったため、1938年2月に辞職した。チェンバレンはイーデンの後任にハリファックス卿を任じ、4月にもイタリアとの間に、[[地中海]]の現状維持、イタリアの[[エチオピア]]植民地化の承認、イタリア義勇軍のスペインからの撤収を約定した[[英伊協定]]を締結した<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.53-54</ref>。
またこの時期マルクスは、{{仮リンク|カール・フォークト|de|Karl Vogt}}批判運動に熱中しており、ラッサールにはその先頭に立つことを期待していたのだが、ラッサールが乗り気でないことに不満を高めていた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.110-111</ref>{{#tag:ref|カール・フォークトはスイスの大学で教授をしていた左翼学者だが、イタリア統一戦争に際しては「プロイセンは中立の立場を取るべき」と主張した。このことでマルクスや[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]は「フォークトはナポレオン3世から金をもらっている」という批判を行った。フォークトはマルクスたちを名誉棄損で訴え、勝訴したが、それだけでは我慢ならず、「マルクスは強請で金を稼いでいる男である」と批判し返した。異常にプライドが高いマルクスはこれに激昂し、ラッサールなど友人たちに総動員をかけてフォークトとの全面闘争を開始した。しかしこの頃のラッサールはベルリン社交界で確固たる立場を築く文士・学者になっていたから、こういう喧嘩に全精力を注ぐようなことをしたくなかった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.110-111</ref>。|group=注釈}}。


しかしその間の1938年3月12日にヒトラーは[[ドイツ民族]]国家[[オーストリア]]をドイツに併合した([[アンシュルス]])。チェンバレンは「オーストリア問題は今や邪魔にならない」として捨て置いた。庶民院では野党やチャーチルら保守党反執行部派から「傍観した」という批判を受けたが、チェンバレンは「もしこれを阻止しようとするなら軍事力を行使する以外になかった」と反論して反戦世論に訴えかけ理解を求めた<ref name="坂井(1977)76">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.76</ref>。
加えてラッサールはこの頃、株式投機で大損しており、マルクスからの金の無心に対して渋るような態度をとったこともマルクスの不信を強めたようである。ラッサールはマルクスに事情を説明したものの、マルクスは信じようとしなかった<ref name="江上(1972)112">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.112</ref>。


アンシュルス後、[[ソビエト連邦]]の独裁者[[ヨシフ・スターリン]]がチェンバレンに接触を図ってきたが、チェンバレンはソ連との連携を拒否した<ref name="坂井(1977)78">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.78</ref>。彼はスターリンの動機を疑っていたし、[[赤軍|ソ連赤軍]]は[[大粛清]]により軍部のほとんどが皆殺しにされ、機能不全状況に陥っていたので同盟を結んだところでまともな戦力になると思えなかった。いたずらにヒトラーに孤立への不安を与えて先鋭化させ、またドイツと[[日独防共協定|防共協定]]を結ぶ[[日本]]も警戒してドイツへの接近を推し進めるという結果になる恐れが高かった<ref name="坂井(1977)78"/><ref name="河合(1998)248">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.248</ref>。
=== 『既得権の体系』 ===
1860年中に大著『既得権の体系(Das System der erworbenen Rechte)』の執筆を行い、1861年に全2巻で出版した。伯爵夫人の離婚訴訟で培った法律の知識が結実した本であった。


この本の中でラッサールは「法が個人の意志的行為を媒介としてのみ個人に関わる限り、その法は遡及作用してはならない」「個人の意志活動の媒介によってのみ個人に関わる法は決して遡及作用しないという命題から、かかる自由意志的な行為の介入なしで個人に関わる法は必ず遡及作用するという命題が導かれる」という遡及作用理論を立てて古代ローマから1850年のプロイセンまでの既得権の法制度を解き明かした<ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.485-488</ref>。そして「一般に法の歴史が文化史的進化を遂げるとともに、ますます個人の所有範囲は制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」という社会主義的結論を導き出している<ref name="メーリング(1968)上491">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.491</ref><ref name="江上(1972)116">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.116</ref>。これはつまり初めに人間はこの世の全部が自分の物だと思い込んでいたが、やがて限界を知るようになったということである。たとえば神仏崇拝は神仏が私有財産から離れたということ、また農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者になったことで農民が私有財産から離れたということ、ギルドの廃止や自由競争も独占権は私有財産ではないと認識されるようになったことを意味している。だからやがて今のブルジョワ的私有財産制も崩壊し、共同所有社会がやってくるという考えである<ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.491-492</ref>。


しかしこの著作は難解すぎて『ヘラクレイトスの哲学』の時のような称賛は得られなかった。法学者にとっては哲学的要素が、哲学者にとっては法学的要素が多すぎた。また革命家たちにとっては思弁過剰だった。マルクスは全く読まず、エンゲルスは「自然法に対する迷信的信仰」などと批判した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.116/131</ref>。


== 人物・評価 ==
=== マルクスの帰国騒動 ===
[[ハロルド・マクミラン]]は「今日ミュンヘン会談とか、首相としての悲劇な時代と関連させて、チェンバレンを考える人々もいるが、しかしそのような人々は社会改良に関する彼の素晴らしい業績を忘れてはならない」と語っている<ref name="坂井(1977)12-13">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.12-13</ref>。一方{{仮リンク|ロバート・ブレイク (ブレイク男爵)|label=ブレイク男爵|en|Robert Blake, Baron Blake}}はチェンバレンは社会改革論者であったが、既存制度の緩和に留まっており、干渉論的資本主義者ではなかったとしている<ref name="ブレイク(1979)277">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.277</ref>。
1861年1月に摂政ヴィルヘルム王子が正式にヴィルヘルム1世としてプロイセン国王に即位した。ヴィルヘルム1世は政治的亡命者に対して大赦を発した<ref name="ウィーン(2002)296">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.296</ref>。これを聞いたラッサールはマルクスにプロイセンへの帰国を勧めた<ref name="ウィーン(2002)296"/><ref name="江上(1972)132">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.132</ref>。


<ref name="早川(1983)132">[[#早川(1983)|早川(1983)]] p.22-23</ref>
マルクスも満更ではなく、4月1日に はラッサールとハッツフェルト伯爵夫人の援助でプロイセンに帰国し、ベルリンのラッサール宅に滞在した。ラッサールと伯爵夫人はマルクスが様々な社交場で一流の人士と歓談できるよう取り計らってやり、オペラハウスでは国王ヴィルヘルム1世が座っている最高席から数フィートという距離の位置のボックス席にマルクスを座らせてやった。だが反君主主義者のマルクスにはこういう貴族的歓待は不快以外の何物でもなかったらしい。マルクスがこういう生活に耐えていたのはプロイセン市民権を回復するためだったが、4月10日にはマルクスの市民権回復申請は警察長官から正式に却下された<ref>[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.297-298</ref>。これを知るとマルクスはラッサールから40ポンド借りてロンドンへ帰っていった<ref name="江上(1972)133">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.133</ref>。


この一件以来マルクスはますますラッサールの「虚栄的生活」にムカムカするようになった。この頃、マルクスはラッサールが色黒なのを捉えて「(ラッサールは)[[モーセ]]がユダヤ人を連れてエジプトから脱出した際に同行した[[ニグロ]]の子孫だろう。(略)この男のしつこさは紛れもなく[[ニガー]]のそれである」と珍妙な人種観に基づく人種差別をしている<ref name="ウィーン(2002)299">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.299</ref>。


=== 政治運動への本格的参入 ===
[[File:Bücher 001.jpg|180px|thumb|ラッサールの同志{{仮リンク|ローター・ブーハー|de|Lothar Bucher}}。]]
1861年9月から12月にかけて伯爵夫人とともにスイス、イタリア旅行を行った。11月14日には[[カプレラ島]]の[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]を訪ねた<ref name="江上(1972)135">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.135</ref>。ガリバルディ率いるイタリア行動党のオーストリアに対する攻撃計画に関心を持ったという<ref name="メーリング(1968)上525">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.525</ref>。

帰国後のラッサールはガリバルディの影響を受けて直接的な政治運動が増えていった。学究活動や文芸活動は減り、演説の草稿書きが主となっていく<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.140-141</ref>。この頃、政界ではブルジョワを中心とする自由主義左派政党{{仮リンク|ドイツ進歩党|de|Deutsche Fortschrittspartei}}がプロイセン議会下院の多数派を握っていた。ラッサールは進歩党の名士とも交友関係があったものの、彼らが社会政策に関心を持っていないことは明らかだった。結局進歩党に批判的な1848年革命の革命家たち、{{仮リンク|ローター・ブーハー|de|Lothar Bucher}}、{{仮リンク|フランツ・ツィーグラー|de|Franz Ziegler (Fortschrittspartei)}}、[[ヨハン・ロードベルトゥス]]などと連携を深めていった<ref name="メーリング(1968)上526">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.526</ref>。とりわけブハーとは親しくなり、彼と会合を重ね、社会主義の大衆運動の形成について語りあった<ref name="メーリング(1968)上528">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.528</ref>。だが1862年代のラッサールにはまだブルジョワ自由主義の封建勢力との戦いをサポートする意思があった<ref name="メーリング(1968)上532">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.532</ref>。

ラッサールは1862年春のプロイセン下院解散総選挙の際に2つの演説を行った。一つはベルリンにおいて自由主義派の地域団体に向けて行った憲法に関する講演だった。この演説の中でラッサールは「ブルジョワはもはや意志なく支配される群衆たることを望まない。むしろ彼らは自ら支配し、王侯を自分の道具にすることを望んでいる。そのために彼らは一国の諸制度や統治原則を一つの紙に記載しようとする」「しかしより大きいはずのブルジョワの権力は組織されていなかったため、より小さいが組織されている権力、つまり王が軍において所有している権力に対抗できない」「国王は事実上の力関係を握っている限り、リベラルな成文憲法を喜んで制定できた。王は『現実の憲法』が重力の法則と同じ必然性で『成文の憲法』をなし崩しにできると確信していた。」「憲法問題は法の問題ではなく力の問題だ。一国の現実の憲法は、その国に存在する現実の、事実上の力関係の中にしか存在しない。成文の憲法が価値と持続力を発揮するのは、それが社会の中にある現在の力関係の正確な表現である場合のみである」と語り、自由主義ブルジョワに1848年の失敗を繰り返さないよう教訓を与えた<ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.533-536</ref>。

ついで4月12日に[[オラニエンブルク]]で機械製造工たちを前に「現代という歴史的時代と労働者階級の理念との特殊な関連」と題した演説を行った(この演説が後に『労働者綱領』という小冊子にまとめられたものだった)。この演説でラッサールはまず、資本主義が封建主義に取って代わり、さらに第四身分(無産階級)が登場してくる歴史的経緯を語った。ここの叙述は『[[共産党宣言]]』に依拠しているが、剽窃ではなく独自に考え抜かれている<ref name="メーリング(1968)上536">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.536</ref>。さらに国家とは論理的な全体としての諸個人の統一であるのに、ブルジョワの思い描く自由主義的国家は個人の財産権しか保護しない「'''夜警国家'''」であり、一方労働者階級の階級全体の改善を図ろうという原理の方が国家の支配原理となるのにふさわしいと説いた<ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.538-539</ref>。そしてその支配原理を実現する手段は[[普通選挙]]・[[直接選挙]]であるとした<ref name="メーリング(1968)上538">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.538</ref>。


=== 宰相ビスマルクとの接近 ===
[[File:General Otto von Bismarck.jpg|180px|thumb|「鉄血宰相」[[オットー・フォン・ビスマルク]]]]
1862年



{{-}}

== マルクスとラッサール ==
[[フリードリヒ・アルベルト・ランゲ]]はマルクスの『資本論』とラッサールの『既得権の体系』を比較し、「この二つの著作の共通点は他のどの著作でも達成されていないような、思索的な要素と実証的な資料との相互浸透が見られる事である。しかし両者は次の点で異なる。ラサールは思索の根本に関しては自分の師匠(ヘーゲル)に対して、より自由、かつ生まれながらの哲学者としてより独立的にふるまいながら、他方彼の著作の法律上の素材は、稀に見る才能をもってであるが、ともかくこの仕事の目的に合わせて作りかえられている。これに反してマルクスは、経済学上の内容は驚嘆すべき専門的知識の材料を稀に見る自由さで使いこなすことから自然に出てきていながら、他方思索の形式は哲学上の模範(ヘーゲル)に密着しており、苦労して対象に取り組んでいるものの、著作のかなり多くの部分において著作の効果を損なっている」と述べている<ref name="メーリング(1968)上459">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.459</ref>




== 日本における評価 ==
[[幸徳秋水]]にとってラッサールは憧れの人であり、[[明治]]37年(1904年)には[[#幸徳(1904)|ラッサールの伝記]]を著している。その著作の中で秋水は「想ふに日本今日の時勢は、当時の独逸と極めて相似て居るのである。(略)今日の日本は第二のラッサールを呼ぶの必要が有るのではないか」と書いている。また[[吉田松陰]]とラッサールの類似性を主張し、「若し松陰をして当時の独逸に生まれしめば、矢張ラッサールと同一の事業を為したかも知れぬ」と述べている。他方で二人の違いとして「ラッサールは一面において華奢風流の才子であった、松陰は何処までも木強の田舎漢であった、前者が戯曲を作るの間に、後者は孔孟の道徳を講じ、前者が評花品柳の楽しみに耽るの間に、後者は常に父母兄弟姉妹の温情に泣て居た」と書いている<ref name="江上(1972)9-10">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.9-10</ref><ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.5-8</ref>。

[[コミンテルン]]の[[片山潜]]も一時期ラッサールの国家社会主義に深く傾倒し、ラッサールを指して「前の総理大臣ビスマルク侯に尊重せられし人なり。然り、彼は曹てビスマルクに独乙一統の経営策を与え、又た進んでビスマルクをして後日社会主義の労働者制度を執らしめたる偉人物」と評した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.7-8</ref>。

[[小泉信三]]と[[河合栄次郎]]は反マルクス主義の立場からマルクスの対立者であるラッサールに深い関心を寄せ、彼に関する評伝を残した<ref name="江上(1972)7">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.7</ref>。

== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[フランシス・ウィーン]]|translator=[[田口俊樹]]|date=2002年(平成14年)|title=カール・マルクスの生涯|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=978-4022577740|ref=ウィーン(2002)}}
*{{Cite book|和書|author=[[江上照彦]]|date=1972年(昭和47年)|title=ある革命家の華麗な生涯 フェルディナント・ラッサール|publisher=[[社会思想社]]|asin=B000J9G1V4|ref=江上(1972)}}
*{{Cite book|和書|author=[[幸徳秋水]]|date =1904年(明治37年)|title=社会民主党建設者ラサール|url=http://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=40019384|publisher=[[平民社]]|ref=幸徳(1904)}}
*{{Cite book|和書|author=[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]|date=1993年(平成5年)|title=ドイツ史論文集 (林健太郎著作集)|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634670303|ref=林(1993)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ゲオルグ・ブランデス]]|translator=[[尾崎士郎]]|date =1923年(大正12年)|title=フェルディナンド・ラッサルレ|url=http://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=43035797|publisher=[[黎明閣]]|ref=ブランデス(1923)}}
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*{{Cite book|和書|author=フランツ・メーリング|translator=[[栗原佑]]|date =1974年(昭和49年)|title=マルクス伝1|series=[[国民文庫]]440a|publisher=[[大月書店]]|asin=B000J9D4WI|ref=メーリング(1974,1)}}
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== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|3}}</div>
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[朝倉治彦]]、[[三浦一郎]]|date=1996年(平成8年)|title=世界人物逸話大事典|publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4040319001|ref=朝倉(1996)}}
*{{Cite book|和書|author=[[河合秀和]]|date=1998年(平成10年)|title=チャーチル イギリス現代史を転換させた一人の政治家 増補版|series= [[中公新書]]530|publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4121905307|ref=河合(1998)}}
*{{Cite book|和書|author=坂井秀夫|date=1977年(昭和52年)|title=近代イギリス政治外交史4 人間・イメージ・政治|publisher=創文社|asin=B000J8Y7CA|ref=坂井(1977)}}
*{{Cite book|和書|date=2001年(平成13年)|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=[[秦郁彦]]編|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=秦(2001)}}
*{{Cite book|和書|author=[[早川崇]]|date=1983年(昭和58年)|title=ジョセフ・チェンバレン 非凡な議会人の生涯と業績|publisher=[[第一法規]]|ref=早川(1983)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・ブレイク (ブレイク男爵)|label=ブレイク男爵|en|Robert Blake, Baron Blake}}|translator=[[早川崇]]|date=1979年(昭和54年)|title=英国保守党史 ピールからチャーチルまで|publisher=[[労働法令協会]]|asin=B000J73JSE|ref=ブレイク(1979)}}
== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{commons|Neville Chamberlain}}
{{Commonscat|Ferdinand Lassalle}}
*[[イギリスの首相一覧]]
*[[国家社会主義]]
*[[保守党 (イギリス)|保守党]]
*[[夜警国家]]
*[[ジョゼフ・チェンバレン]]
*{{仮リンク|全ドイツ労働者同盟|de|Allgemeiner Deutscher Arbeiterverein}}
*[[オースティン・チェンバレン]]
*[[ドイツ社会主義労働者党]]
*[[スタンリー・ボールドウィン]]
*[[ドイツ社会民主党]]
*[[オッー・フォン・ビスマ]]
*[[ウィンストン・チャーチル]]
*[[カール・マルクス]]
*[[アドヒトラー]]
{{start box}}
*{{仮リンク|ゾフィー・フォン・ハッツフェルト|de|Sophie von Hatzfeldt}}
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*{{仮リンク|ロタール・ブハー|de|Lothar Bucher}}
{{s-bef|before={{仮リンク|フレデリック・ケラウェイ|en|Frederick Kellaway}}}}
*[[幸徳秋水]]
{{s-ttl|title={{flagicon|GBR}} {{仮リンク|郵政長官|en|Postmaster General of the United Kingdom}}|years=[[1922年]]-[[1923年]]}}
{{s-aft|rows=2|after={{仮リンク|ウィリアム・ジョインソン=ヒックス (初代ブレントフォード子爵)|label=サー・ウィリアム・ジョインソン=ヒックス准男爵|en|William Joynson-Hicks, 1st Viscount Brentford}}}}
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2023年2月9日 (木) 10:52時点における最新版

ネヴィル・チェンバレン
Neville Chamberlain
生年月日 1869年3月18日
出生地 イギリスイングランドバーミンガム
没年月日 (1940-11-09) 1940年11月9日(71歳没)
死没地 イギリス・イングランド・ヘックフィールド
出身校 メーソン・サイエンス・カレッジ英語版
前職 実業家
所属政党 保守党
称号 王立協会フェロー(FRS)
配偶者 アン英語版
親族 ジョゼフ・チェンバレン(父)
オースティン・チェンバレン(異母兄)
サイン

在任期間 1937年5月28日 - 1940年5月10日[1]
国王 ジョージ6世

内閣 第1次ボールドウィン内閣
マクドナルド挙国一致内閣
第3次ボールドウィン内閣
在任期間 1923年8月27日 - 1924年1月22日[2]
1931年11月5日 - 1937年5月28日[2]

内閣 ボナー・ロー内閣
第1次ボールドウィン内閣
第2次ボールドウィン内閣
マクドナルド挙国一致内閣
在任期間 1923年3月7日 - 1923年8月27日
1924年11月6日 - 1929年6月4日
1931年8月25日 - 1931年11月5日

内閣 ボナー・ロー内閣
在任期間 1922年 - 1923年[3]

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 バーミンガム・レディウッド選挙区英語版
バーミンガム・エッジバストン選挙区英語版[3]
在任期間 1918年12月14日 - 1929年5月30日
1929年5月30日 - 1940年11月9日[3]

その他の職歴
バーミンガム市長英語版
1915年 - 1917年
保守党党首
1937年5月31日 - 1940年10月5日[4]
イギリスの旗 枢密院議長
1940年5月11日 - 1940年10月3日
テンプレートを表示

アーサー・ネヴィル・チェンバレンArthur Neville Chamberlain, FRS1869年3月18日 - 1940年11月9日)は、イギリスの政治家。

実業家として活躍した後、バーミンガム市長英語版を経て、1918年保守党議員として中央政界へ移る。スタンリー・ボールドウィンの3度の内閣やラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣大蔵大臣保険大臣英語版を務め、福祉政策に貢献した。1937年5月のボールドウィンの引退で代わって保守党党首・首相となる。当初ナチス・ドイツに対して宥和政策をとっていたが、1939年ドイツ軍ポーランド侵攻を機に対独開戦に踏み切り、第二次世界大戦を勃発させた。しかし1940年4月から始まった北欧戦でドイツ軍に惨敗を喫して引責辞任した。

植民地大臣を務めたジョゼフ・チェンバレンは父、外務大臣を務めたオースティン・チェンバレンは異母兄にあたる。

概要

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1869年、後に植民地大臣となる実業家ジョゼフ・チェンバレンの次男として生まれる。異母兄にオースティンがいる。メーソン・サイエンス・カレッジ英語版を卒業後、会計事務所に勤務。1891年から7年に渡ってバハマ諸島アンドロス島シザル麻栽培のための事業を行うが失敗。その後バーミンガムで実業家として名を上げ、1911年にはバーミンガム市議会議員、1915年にはバーミンガム市長英語版となる。

1918年12月の解散総選挙バーミンガム・レディウッド選挙区英語版から保守党候補として出馬して当選。1922年アンドルー・ボナー・ロー内閣の郵政長官英語版に就任。1923年3月には保険大臣英語版に昇進。続く第一次スタンリー・ボールドウィン内閣でも重用され、同年8月には大蔵大臣に就任した。

1924年11月から1929年6月の第二次ボールドウィン内閣にも保健大臣として入閣し、妊婦死亡率の減少や住宅建設に尽力した。1931年8月から1935年5月のラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣に大蔵大臣として入閣し、世界大恐慌対策に均衡財政を目指した。しかしドイツでアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党が政権を獲得し、再軍備を進めるようになると軍事費の増額を目指すようになった。

生涯

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生い立ち

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1869年3月18日バーミンガムエッジバストン英語版で生まれた。父は当時バーミンガムの大実業家だったジョゼフ・チェンバレン。母はその後妻フロレンス(旧姓ケンルック)[5]。同母妹が三人いる。また父ジョゼフは先妻との間にも子供を二人儲けており、そのうちの一人がオースティンだった[6]

6歳の時に母フロレンスが出産が原因で死去し、母のいない家庭で育つことになった。この孤独感がネヴィルの独立心・自制心を形成したという[6]。また母がいない家庭を作ってはならないという信念を強め、後のネヴィルの福祉への積極的な取り組みの思想的背景となった[6]ラグビー校を卒業後、メーソン・サイエンス・カレッジ英語版(後にこのカレッジはバーミンガム大学のカレッジの一つとなる)に入学し、科学工学を学んだ[5]

政治家に転身した父ジョゼフは、理系の道を突き進む次男ネヴィルを見て「ネヴィルは決して政治家にはならないだろう」と予想した。実際、ネヴィルはすぐには政治家にならず、大学卒業後には会計事務所に勤務している。その勤務ぶりは非常に精勤であったという[7]

実業家として

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若き日のネヴィル・チェンバレン

父ジョゼフは政治に専念するべく、1880年代に実業界から身を引いたが、1890年にはバハマ総督アンブローズ・シー英語版と知り合ったことでバハマ諸島シザル麻栽培に関心を持ち、1891年に息子のオースティンとネヴィルをバハマ諸島・アンドロス島へ調査に行かせた。結局ジョゼフはここにアンドロス繊維会社を立ち上げることとし、ネヴィルにその経営を任せた。以降7年に渡ってアンドロス島に滞在してシザル麻栽培に尽くすことになる[8]

22歳から28歳という多感な青年期を隔絶された孤独な環境で過ごしたことはチェンバレンの独立心と自制心を一層育てたという[9]

労働者を雇って土地の開墾の指揮をとりつつ、しばしば自らもを振るって開墾に参加したという[10]。だが苦労して作ったシザル麻栽培のための土地は栽培に全く向いておらず、最終的にアンドロス繊維会社の事業は5万ポンドもの損失を出して失敗に終わった[11]

アンドロス島から帰還するとバーミンガムのエリオット金属会社やホスキンズ・アンド・サン会社(船舶用金属製寝台製造会社)に勤務するようになった[12]1911年にはアン・コール英語版と結婚した[9]

やがてバーミンガム産業界の指導的人物となり、1911年にはバーミンガム市議会議員となり、市の都市計画と福祉事業に参画する[13]

バーミンガム市長

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第一次世界大戦中の1915年にはバーミンガム市長英語版に就任した[9]

バーミンガム市長となったチェンバレンは戦時貯蓄銀行の必要性を感じ、これに反対していた大蔵省金融担当政務次官英語版エドウィン・サミュエル・モンタギュー英語版ロイド銀行ロンドン・シティ・アンド・ミッドランド銀行英語版などを熱心に説得し、ついに1916年に戦債投資法を庶民院に通過させることに成功した。この法律は貯蓄を戦債に投資させるためのものであり、これによってバーミンガム戦時貯蓄銀行の樹立が可能となった[12]

デビッド・ロイド・ジョージはチェンバレンと会ったことはなかったが、市長としての業績を高く評価し、ロイド・ジョージが首相となった1916年12月に国民兵役担当長官に任じられた。しかしロイド・ジョージとの関係がうまくいかず、まもなく辞職した[9][14]

中央政界へ

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1917年のネヴィル・チェンバレン

1918年12月の解散総選挙バーミンガム・レディウッド選挙区英語版から保守党候補として出馬して初当選を果たす。当時保守党はロイド・ジョージ政権を支えていたが、チェンバレンはロイド・ジョージとは距離を置いていた[9]

1922年に保守党はロイド・ジョージとの大連立を解消し、ボナー・ローを首相とする単独政権を樹立した。チェンバレンはその内閣に郵政長官英語版として入閣した[9]。ボナー・ローとしてはチェンバレンに彼の兄であるオースティンとの橋渡し役を期待していたという[14]

1923年3月には保険大臣英語版に転任する。5月にボナー・ローが引退し、スタンリー・ボールドウィンが後任の首相・保守党党首となるが、ボールドウィンからも重用され、8月には大蔵大臣に抜擢された。チェンバレンは父ジョゼフと同様に社会保障の財源として関税を見込んでおり、保護貿易の帝国特恵関税制度英語版を支持していた。11月にはボールドウィンも帝国特恵関税制度の必要性を感じて、12月にその是非を問う解散総選挙に打って出た。しかし保守党はその総選挙で敗北したため、チェンバレンも予算に携わる機会のないまま蔵相を辞した[15]

第二次ボールドウィン内閣保健大臣

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1924年11月に成立した第二次ボールドウィン内閣でも保健大臣に再任され、政権が崩壊する1929年6月までの長期にわたって在職した。

1926年には助産婦および産院法制定を主導した。これによって妊婦死亡率は大きく減少した[13]。また1926年から住宅建設を主導し、1929年の退任までに100万戸もの住宅を建設した。またスラム街の一掃にも尽力し、1929年までにイングランドとウェールズで58のスラム街を消滅させることに成功した[13]

1928年には保健大臣に救貧委員の任命権限を与える『救貧委員怠慢法案』の制定を主導した。この法律は労働党の影響下にある市議会や救貧委員会の浪費を抑えることを主眼としていたため、労働党の強い反発を買った。労働党は悪意ある質問をチェンバレンに集中させた。チェンバレンの方も労働党への憎しみを強め、労働党議員を個人攻撃するようになった。そのやり方の評判がよくなかったため、しばしば首相ボールドウィンから注意された。この後も労働党との対立は根深く続くことになる[16]

この保健相在任中に保守党内におけるナンバーツーの座を確立していった[17]

マクドナルド挙国一致内閣大蔵大臣

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1931年8月に労働党政権の首相ラムゼイ・マクドナルド世界大恐慌対策に失業手当と公務員給料の削減による均衡財政を目指したが、失業手当削減をめぐって閣内分裂して政権崩壊した。マクドナルドは労働党大連立派(ごく少数)と保守党と自由党で大連立し、挙国一致内閣を形成した。チェンバレンもこの内閣に保健大臣として入閣。11月には大蔵大臣に転じた。チェンバレンはマクドナルドの均衡財政方針を全面的に支持しており、「予算というものは長期にわたって均衡を図るより、年毎に均衡を図るべきである」と述べていた[18]

大蔵大臣としての最初の予算案から所得税の増税を行った。また為替平衡勘定を設定することで投棄に歯止めをかけて為替安定を図った。さらに低金利政策を実施し、20億ポンドに及ぶ5分利子の戦時国債を3分5厘に借り換えるか償還するかし、また公定歩合を2%に下げた。この結果、年間3000万ポンドの節約が実現された[19]

また1932年には大英帝国外からの全商品に10%の関税を課しつつ、帝国内からの商品には関税を課さないという帝国特恵関税構想に基づく『輸入関税法』を可決させた。この際にチェンバレンは「父ジョゼフの考え方を直接に、しかも正確に受け継いだこの法案が父の愛した庶民院に提出され、しかも父の名声と血を直接に受け継いだ息子2人のうちの1人によって提出されたということを父が知り得たとすれば、絶望した父が安らぎを見出すであろうと信じる」と演説した。これはチェンバレンの生涯を通して唯一の感情的演説であるとされる[20]

1933年1月にドイツでアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を獲得した。チェンバレンは駐ドイツ・イギリス大使英語版サー・ホレース・ランボールド准男爵英語版のヒトラーの軍拡方針とナショナリズムを危険視した報告書と1934年7月にオーストリア・ナチ党員がオーストリア首相エンゲルベルト・ドルフースを暗殺した事件を見て、ヒトラーを危険視するようになった[21]

チェンバレンは1934年度予算から軍事費を大幅に増額していった[21]

第三次ボールドウィン内閣大蔵大臣

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1935年6月、マクドナルド首相が引退し、ボールドウィンが首相となる[22]。チェンバレンは引き続き大蔵大臣を務めた[2]。この最後のボールドウィン内閣の最高指導者は事実上チェンバレンであり、とりわけ軍事問題については彼が最大の影響力を持った[23]

チェンバレンは毎年軍事費を上昇させ続けた。当初は均衡財政にも固執して道路基金からの借入や所得税や茶税の引き上げなどで軍事費急上昇に対応したが、それだけでは軍拡の維持は難しくなり、1937年2月には防衛国債法案を成立させて国債で軍事費を賄うようになった[24]

一方ヒトラーもドイツの軍拡を急ピッチで進めていた。やがてドイツ再軍備が既成事実化してしまうとチェンバレンはいつまでも形骸化したヴェルサイユ条約ロカルノ条約に固執していても仕方ないと考えるようになり、ドイツへの宥和的対応も必要という立場に転じていった[25]。またドイツが強力になればソ連共産主義に対する防波堤の役割を果たしてくれるという期待感も持つようになった[26]

1936年3月にヒトラーは仏ソ相互援助条約フランス語版を理由にヴェルサイユ条約で非武装地帯に定められていたラインラントへ進駐したが、イギリス国内ではドイツの領土にドイツ軍が入っていただけとして融和ムードが強かった[27]。チェンバレンも同様の考えであり、イギリスに伺いを立てに来たフランス外相ピエール=エティエンヌ・フランダンフランス語版に対して「イギリスの世論はどのような対独制裁も支持しないであろう」と返答している。外相アンソニー・イーデンがこの方針を「ヨーロッパの宥和」政策としてまとめ、チェンバレンもそれに賛成した結果、以降チェンバレンの対独譲歩政策は宥和政策と呼ばれるようになった[28]

1936年7月にスペインで、左翼政府「人民戦線」とフランコ将軍率いる右派の武力衝突が発生し、ソ連が左翼政府を、ドイツ・イタリアが右派を支援した(スペイン内戦)。この戦争に対してイーデン外相はイギリスの不干渉方針を表明し、チェンバレンもこの方針に賛同した。チェンバレンの考えるところ、不干渉方針は独ソを潰し合わせてイギリスが漁夫の利を得ることができるうまい手段であった。一方、野党労働党は左翼政府を支持しており、政府の不干渉政策を批判したが、イギリス世論の大半は戦争に引きずり込まれることを望んでおらず、政府の不干渉方針を支持する者が多かった[29]

チェンバレン内閣

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1937年5月にボールドウィンが引退したとき、チェンバレンが後任の保守党首・首相となることに反対する者は党内にいなかった。党内の反執行部分子になっていたウィンストン・チャーチルさえも反対しなかった(ただしチャーチルは「党内の反対意見に耳を貸す」ことを新党首に要求した)[30]

宥和政策を続行する意思であったチェンバレンは、1937年11月にハリファックス卿英語版をドイツに派遣した。彼とヒトラーの会談からドイツと友好関係を保つことは可能との自信を強めた[31]

他方でイタリアをドイツから引き離すことでドイツを孤立させることも企図し、イタリアのムッソリーニ首相と接近を図った。外相イーデンはスペイン問題でイタリアが何度も約束を反故にしたことからイタリアに不信感を持っており、これに反対したが、チェンバレンから受け入れられなかったため、1938年2月に辞職した。チェンバレンはイーデンの後任にハリファックス卿を任じ、4月にもイタリアとの間に、地中海の現状維持、イタリアのエチオピア植民地化の承認、イタリア義勇軍のスペインからの撤収を約定した英伊協定を締結した[32]

しかしその間の1938年3月12日にヒトラーはドイツ民族国家オーストリアをドイツに併合した(アンシュルス)。チェンバレンは「オーストリア問題は今や邪魔にならない」として捨て置いた。庶民院では野党やチャーチルら保守党反執行部派から「傍観した」という批判を受けたが、チェンバレンは「もしこれを阻止しようとするなら軍事力を行使する以外になかった」と反論して反戦世論に訴えかけ理解を求めた[33]

アンシュルス後、ソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンがチェンバレンに接触を図ってきたが、チェンバレンはソ連との連携を拒否した[34]。彼はスターリンの動機を疑っていたし、ソ連赤軍大粛清により軍部のほとんどが皆殺しにされ、機能不全状況に陥っていたので同盟を結んだところでまともな戦力になると思えなかった。いたずらにヒトラーに孤立への不安を与えて先鋭化させ、またドイツと防共協定を結ぶ日本も警戒してドイツへの接近を推し進めるという結果になる恐れが高かった[34][35]


人物・評価

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ハロルド・マクミランは「今日ミュンヘン会談とか、首相としての悲劇な時代と関連させて、チェンバレンを考える人々もいるが、しかしそのような人々は社会改良に関する彼の素晴らしい業績を忘れてはならない」と語っている[36]。一方ブレイク男爵英語版はチェンバレンは社会改革論者であったが、既存制度の緩和に留まっており、干渉論的資本主義者ではなかったとしている[37]

[38]


脚注

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注釈

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出典

[編集]

参考文献

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  • 朝倉治彦三浦一郎『世界人物逸話大事典』角川書店、1996年(平成8年)。ISBN 978-4040319001 
  • 河合秀和『チャーチル イギリス現代史を転換させた一人の政治家 増補版』中央公論社中公新書530〉、1998年(平成10年)。ISBN 978-4121905307 
  • 坂井秀夫『近代イギリス政治外交史4 人間・イメージ・政治』創文社、1977年(昭和52年)。ASIN B000J8Y7CA 
  • 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220 
  • 早川崇『ジョセフ・チェンバレン 非凡な議会人の生涯と業績』第一法規、1983年(昭和58年)。 
  • ブレイク男爵英語版 著、早川崇 訳『英国保守党史 ピールからチャーチルまで』労働法令協会、1979年(昭和54年)。ASIN B000J73JSE 

関連項目

[編集]
公職
先代
フレデリック・ケラウェイ英語版
イギリスの旗 郵政長官英語版
1922年-1923年
次代
サー・ウィリアム・ジョインソン=ヒックス准男爵英語版
先代
サー・アーサー・グリフィス・ボスカウェン英語版
イギリスの旗 保険大臣英語版
1923年
先代
スタンリー・ボールドウィン
イギリスの旗 大蔵大臣
1923年 - 1924年
次代
フィリップ・スノーデン英語版
先代
ジョン・ウィートリー英語版
イギリスの旗 保険大臣
1924年 - 1929年
次代
アーサー・グリーンウッド英語版
先代
アーサー・グリーンウッド英語版
イギリスの旗 保険大臣
1931年
次代
エドワード・ヒルトン・ヤング英語版
先代
フィリップ・スノーデン英語版
イギリスの旗 大蔵大臣
1931年 - 1937年
次代
ジョン・シモン英語版
先代
スタンリー・ボールドウィン
イギリスの旗 首相
1937年 - 1940年
次代
ウィンストン・チャーチル
先代
第7代スタンホープ伯爵英語版
イギリスの旗 枢密院議長
1940年
次代
ジョン・アンダーソン英語版
党職
先代
スタンリー・ボールドウィン
イギリス保守党党首
1937年 - 1940年
次代
ウィンストン・チャーチル