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{{政治家
{{Infobox_学者
|人名 = ネヴィル・チェンバレン
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|各国語表記 = Neville Chamberlain
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}}
}}
'''フェルディナント・ラッサール '''('''Ferdinand Lassalle'''、[[1825年]][[411日]] - [[1864年]][[831日]])は、[[プロセン]]の[[政治学]]者、[[哲学]]者、[[法学]]者、[[社会主義]]者、労働運動指導者
'''アーサー・ネヴィ・チェンバレン'''('''Arthur Neville Chamberlain''', {{Post-nominals|post-noms=[[王立協会|FRS]]}}、[[1869年]][[318日]] - [[1940年]][[119日]])は、[[イギリス]]の政治


実業家として活躍した後、{{仮リンク|バーミンガム市長|en|List of Lord Mayors of Birmingham}}を経て、[[1918年]]に[[保守党 (イギリス)|保守党]]議員として中央政界へ移る。[[スタンリー・ボールドウィン]]の3度の内閣や[[ラムゼイ・マクドナルド]]の[[挙国一致内閣]]で[[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]や{{仮リンク|保険大臣 (イギリス)|label=保険大臣|en|Secretary of State for Health}}を務め、福祉政策に貢献した。[[1937年]]5月のボールドウィンの引退で代わって保守党党首・[[イギリスの首相|首相]]となる。当初[[ナチス・ドイツ]]に対して[[宥和政策]]をとっていたが、[[1939年]]の[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]の[[ポーランド侵攻]]を機に対独開戦に踏み切り、[[第二次世界大戦]]を勃発させた。しかし1940年4月から始まった[[ヴェーザー演習作戦|北欧戦]]でドイツ軍に惨敗を喫して引責辞任した。
[[ドイツ社会主義労働者党]]の母体となる{{仮リンク|全ドイツ労働者同盟|de|Allgemeiner Deutscher Arbeiterverein}}の創設者である。革命ではなく既存の国家権力を通じての穏健な社会主義改革を目指し、時の[[プロイセン王国]]宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]と連携した。彼のこの立場は[[国家社会主義]]と呼ばれた。

また社会政策を行わない自由主義的国家を「夜警国家」と定義して批判したことでも知られる。


植民地大臣を務めた[[ジョゼフ・チェンバレン]]は父、外務大臣を務めた[[オースティン・チェンバレン]]は異母兄にあたる。
== 概要 ==
== 概要 ==
[[1869年]]、後に植民地大臣となる実業家[[ジョゼフ・チェンバレン]]の次男として生まれる。異母兄に[[オースティン・チェンバレン|オースティン]]がいる。{{仮リンク|メーソン・サイエンス・カレッジ|en|Mason Science College}}を卒業後、会計事務所に勤務。[[1891年]]から7年に渡って[[バハマ諸島]]・[[アンドロス島 (バハマ)|アンドロス島]]で[[サイザルアサ|シザル麻]]栽培のための事業を行うが失敗。その後バーミンガムで実業家として名を上げ、[[1911年]]にはバーミンガム市議会議員、[[1915年]]には{{仮リンク|バーミンガム市長|en|List of Lord Mayors of Birmingham}}となる。
1825年、裕福なユダヤ教徒の絹商人の息子として[[プロイセン王国]]{{仮リンク|シュレージエン県|de|Provinz Schlesien}}[[ヴロツワフ|ブレスラウ]]に生まれる。1840年からライプツィヒの商業学校に通うも商業に関心を持てず、1841年から[[ギムナジウム]]に転校し、大学入学資格を取得。1843年に[[ヴロツワフ大学|ブレスラウ大学]]に入学した。1844年に[[ベルリン大学]]に転校した。

1846年から1854年にかけて{{仮リンク|ゾフィー・フォン・ハッツフェルト|de|Sophie von Hatzfeldt}}伯爵夫人の離婚訴訟に尽力した。この訴訟は封建領主に対する民主主義闘争として革命家の間で評判となり、[[1848年革命]]の際には[[カール・マルクス]]らとともに[[ライン地方]]で革命を指導し、11月に官憲に逮捕された。一方マルクスは一文無しで[[ロンドン]]へ亡命し、以降マルクスからしばしば金の無心を受けるようになり、そのたびに用立ててやることになる。

1854年に伯爵と伯爵夫人の和解が成立し、伯爵夫人が巨額の財産を獲得し、ラッサールも彼女から年金を受けるようになり、裕福な生活を送るようになった。時間と金銭に余裕ができると大学時代の論文の執筆に戻り、『ヘラクレイトスの哲学』を著した。1859年には小冊子『イタリア戦争とプロイセンの義務』を出版し、[[イタリア統一戦争]]について親[[ナポレオン3世]]的とも取れそうな反オーストリア的主張を行い、反ナポレオン3世にこだわるマルクスとの関係を悪化させた。1861年には『既得権の体系』を著し、法の発展とともに私有財産は制限されていく方向にあることを説いた。

1861年にプロイセン国王に即位した[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]が政治犯の大赦を発するとマルクスにプロイセン帰国を勧め、マルクスのプロイセン市民権回復に尽力したが失敗した。しかもこの際にベルリンのラッサール邸に滞在していたマルクスに貴族的歓待をしたことで反君主主義者・反貴族主義者のマルクスの不興を買った。1863年のラッサールのロンドン訪問でもマルクスと話がかみ合わず、二人の距離感は広がった。ロンドンからの帰国後、マルクスから60ポンドの手形の引受人になることを求められたが、拒否したことで二人の交友は終わった。

1862年春の演説で憲法は法の問題ではなく、権力問題であることを説き、また[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]の国家観をより反映しているのは自由主義ブルジョワの目指す「夜警国家」ではなく、労働者階級が目指す社会政策を行う国家であることを説いた。この演説を『労働者綱領』としてまとめて出版した。この本が危険視されて再び官憲に逮捕されたが、罰金刑で済んだ。


[[1918年]]12月の[[1918年イギリス総選挙|解散総選挙]]で{{仮リンク|バーミンガム・レディウッド選挙区|en|Birmingham Ladywood (UK Parliament constituency)}}から[[保守党 (イギリス)|保守党]]候補として出馬して当選。[[1922年]]に[[アンドルー・ボナー・ロー]]内閣の{{仮リンク|郵政長官|en|Postmaster General of the United Kingdom}}に就任。[[1923年]]3月には{{仮リンク|保険大臣 (イギリス)|label=保険大臣|en|Secretary of State for Health}}に昇進。続く第一次[[スタンリー・ボールドウィン]]内閣でも重用され、同年8月には[[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]に就任した。
1862年9月に[[オットー・フォン・ビスマルク]]がプロイセン宰相に就任し、無予算統治で軍制改革を断行して憲法闘争が発生すると、憲法は法の問題ではなく権力問題であるから、ブルジョワは封建主義勢力より社会的力が上であることを利用し、議会を自ら休会して封建主義勢力を追い詰めるよう進歩党に要求したが、拒否された。これを機にブルジョワ自由主義を見限り、独自の労働者組織の創設を目指すようになった。1863年3月に『{{仮リンク|公開回答書|de|Offenes Antwortschreiben}}』を著し、生産組合と普通選挙の必要性を訴えた。5月にはラッサールの作った綱領のもとに{{仮リンク|全ドイツ労働者同盟|de|Allgemeiner Deutscher Arbeiterverein}}が創設され、ラッサールがその指導者となった。


1924年11月から1929年6月の第二次ボールドウィン内閣にも保健大臣として入閣し、妊婦死亡率の減少や住宅建設に尽力した。1931年8月から1935年5月の[[ラムゼイ・マクドナルド]][[挙国一致内閣]]に大蔵大臣として入閣し、[[世界大恐慌]]対策に[[均衡財政]]を目指した。しかしドイツで[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[国家社会主義ドイツ労働者党]]が政権を獲得し、再軍備を進めるようになると軍事費の増額を目指すようになった。
1863年5月から1864年1月にかけて5回ほどビスマルクと会談した。対自由主義者という共通の利害、社会政策、普通選挙などについて語り合った。ラッサール自身は1864年8月に恋愛問題に絡む決闘で命を落としたが、彼の親ビスマルク路線は新たに全ドイツ労働者同盟指導者となった{{仮リンク|ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー|de|Johann Baptist von Schweitzer}}にも継承された。その立場はヘーゲル的観点から国家の道義性を信じて社会主義改革を目指す主張として'''[[国家社会主義]]'''と呼ばれるようになる。


全ドイツ労働者同盟はドイツ統一後の1875年にマルクス系のアイゼナハ派と合同し、[[ドイツ社会主義労働者党]]を結成した(1890年に[[ドイツ社会民主党]](SPD)と改名)。
{{-}}
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== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
[[1869年]][[3月18日]]、[[バーミンガム]]の{{仮リンク|エッジバストン|en|Edgbaston}}で生まれた。父は当時バーミンガムの大実業家だった[[ジョゼフ・チェンバレン]]。母はその後妻フロレンス(旧姓ケンルック)<ref name="世界伝記大事典(1980,6)132">[[#世界伝記大事典(1980,6)|世界伝記大事典(1980)世界編6巻]] p.132</ref>。同母妹が三人いる。また父ジョゼフは先妻との間にも子供を二人儲けており、そのうちの一人が[[オースティン・チェンバレン|オースティン]]だった<ref name="坂井(1977)3">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.3</ref>。
[[1825年]][[4月11日]]に[[プロイセン王国]]{{仮リンク|シュレージエン県|de|Provinz Schlesien}}[[ヴロツワフ|ブレスラウ]]に裕福な[[改革派 (ユダヤ教)|改革派]][[ユダヤ教徒]]の絹商人ハイマン・ラッサール(Heyman)の第2子として生まれる<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.11-16</ref><ref name="幸徳(1904)9">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.9</ref><ref name="西尾(1986)13">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.13</ref><ref name="メーリング(1968)上382">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.382</ref>。母はその妻ロザリエ(Rosalie)<ref name="西尾(1986)14">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.14</ref>。


6歳の時に母フロレンスが出産が原因で死去し、母のいない家庭で育つことになった。この孤独感がネヴィルの独立心・自制心を形成したという<ref name="坂井(1977)3"/>。また母がいない家庭を作ってはならないという信念を強め、後のネヴィルの福祉への積極的な取り組みの思想的背景となった<ref name="坂井(1977)3">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.3</ref>。[[ラグビー校]]を卒業後、{{仮リンク|メーソン・サイエンス・カレッジ|en|Mason Science College}}(後にこのカレッジは[[バーミンガム大学]]のカレッジの一つとなる)に入学し、[[科学]]と[[工学]]を学んだ<ref name="世界伝記大事典(1980,6)132"/>。
ブレスラウをはじめ[[ポーランド]]地方の都市には[[ユダヤ人]]が多く暮らしていた。同じプロイセン領でも[[ライン地方]]のユダヤ人はかつての[[フランス革命]]や[[ナポレオン法典]]の影響で比較的自由主義的気風の中で生活していたが、ポーランドのユダヤ人は虫けら同然に扱われており、貧しいユダヤ人の多くは[[ゲットー]]に押し込められていた。ラッサールはゲットー外の裕福なユダヤ人家庭の出身者だが、ユダヤ人に対する激しい差別を見て育つことになった<ref name="江上(1972)13">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.13</ref><ref name="メーリング(1968)上383">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.383</ref>。この点は同じユダヤ人であっても自由主義的な[[トリーア]]で育ち、ユダヤ人迫害をほとんど体験しなかったマルクスと決定的に違う点であった<ref name="西尾(1986)19">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.19</ref>。


政治家に転身した父ジョゼフは、理系の道を突き進む次男ネヴィルを見て「ネヴィルは決して政治家にはならないだろう」と予想した。実際、ネヴィルはすぐには政治家にならず、大学卒業後には会計事務所に勤務している。その勤務ぶりは非常に精勤であったという<ref name="坂井(1977)14">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.14</ref>
ラッサールは幼いころから優秀な神童として注目され、父親も「未来のユダヤ人解放者」として将来を嘱望していた<ref name="西尾(1986)17">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.17</ref>。ラッサールはユダヤ人の自覚を強く持ちつつも、ユダヤ人ににうんざりさせられることが多かった。1840年5月に[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]]領[[ダマスカス]]で大規模なユダヤ人迫害が起こった際には迫害者より立ち上がろうとしないユダヤ人に苛立った様子が日記から窺える<ref name="江上(1972)14">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.14</ref><ref name="幸徳(1904)11">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.11</ref><ref name="メーリング(1968)上384">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.384</ref>。その中でラッサールは「天は自ら動く者を助ける」と書いている<ref name="西尾(1986)20">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.20</ref>。


=== 実業家として ===
[[1840年]]5月に[[ライプツィヒ]]の商業学校に入学した<ref name="江上(1972)17">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.17</ref><ref name="メーリング(1968)上384"/><ref name="西尾(1986)18">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.18</ref>。しかし商業にはまるで関心を持てず、文芸や古典に惹かれていった。[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]や[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]、[[ヴォルテール]]、[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]、[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]、[[ルートヴィヒ・ベルネ|ベルネ]]などに読み耽った<ref name="メーリング(1968)上384"/>。とくに同じユダヤ人のハイネとベルネからは[[民主主義]]・[[共和主義]]・[[革命主義]]の最初の影響を受けた<ref name="江上(1972)18">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.18</ref>。
[[File:Arthur Neville Chamberlain 03.jpg|180px|thumb|若き日のネヴィル・チェンバレン]]
父ジョゼフは政治に専念するべく、1880年代に実業界から身を引いたが、1890年には{{仮リンク|バハマ総督|en|Governor of the Bahamas}}{{仮リンク|アンブローズ・シー|en|Ambrose Shea}}と知り合ったことで[[バハマ諸島]]の[[サイザルアサ|シザル麻]]栽培に関心を持ち、[[1891年]]に息子のオースティンとネヴィルをバハマ諸島・[[アンドロス島 (バハマ)|アンドロス島]]へ調査に行かせた。結局ジョゼフはここにアンドロス繊維会社を立ち上げることとし、ネヴィルにその経営を任せた。以降7年に渡ってアンドロス島に滞在してシザル麻栽培に尽くすことになる<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.4/6</ref>。


22歳から28歳という多感な青年期を隔絶された孤独な環境で過ごしたことはチェンバレンの独立心と自制心を一層育てたという<ref name="世界伝記大事典(1980,6)133">[[#世界伝記大事典(1980,6)|世界伝記大事典(1980)世界編6巻]] p.133</ref>。
大学で歴史を学びたいと考えるようになったラッサールは父親を説得のうえ、[[1841年]]8月に商業学校を退学し、ブレスラウの[[カトリック]]系[[ギムナジウム]]に転校した。カトリックは[[プロテスタント]]国家であるプロイセンにおいては少数派だったので同じ少数派のユダヤ人を差別することはないだろうと考えて、この学校を選んだものと思われる<ref name="江上(1972)23">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.23</ref>。ギムナジウムで猛勉強し、1842年中に[[アビトゥーア]]に合格した<ref name="メーリング(1968)上385">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.385</ref><ref name="西尾(1986)21">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.21</ref>。


労働者を雇って土地の開墾の指揮をとりつつ、しばしば自らも[[斧]]を振るって開墾に参加したという<ref name="坂井(1977)5">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.5</ref>。だが苦労して作ったシザル麻栽培のための土地は栽培に全く向いておらず、最終的にアンドロス繊維会社の事業は5万ポンドもの損失を出して失敗に終わった<ref name="坂井(1977)5-6">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.5-6</ref>。
=== 大学時代 ===
[[File:Ferdinand Lassalle (1825-1864).jpg|180px|thumb|若き日のラッサール。]]
[[1843年]]10月には[[ヴロツワフ大学|ブレスラウ大学]]に入学できた<ref name="西尾(1986)22">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.22</ref>。大学では[[文献学]]、ついで[[哲学]]を学んだ<ref name="江上(1972)24">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.24</ref>。特に古典と[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]哲学を熱心に勉強した<ref name="メーリング(1968)上385"/>。


アンドロス島から帰還するとバーミンガムのエリオット金属会社やホスキンズ・アンド・サン会社(船舶用金属製寝台製造会社)に勤務するようになった<ref name="坂井(1977)7">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.7</ref>。[[1911年]]には{{仮リンク|アン・チェンバレン|label=アン・コール|en|Anne Chamberlain}}と結婚した<ref name="世界伝記大事典(1980,6)133"/>。
しかしプロイセン王国ではユダヤ人に出世の道は開かれておらず、ラッサールもキリスト教に改宗して出世を目指そうなどという意思はなかったのでラッサールが反体制派になっていくのは自然の流れだった<ref name="西尾(1986)22-23">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.22-23</ref>。英仏ほどではないとしてもプロイセンの大学でも自由主義の思潮と封建主義打倒の機運が高まっていた。学生たちのそうした活動は[[ブルシェンシャフト]]と呼ばれる学生団体によって行われていた。ラッサールもそうした学生団体に加わり、すぐに頭角を現してリーダー的存在となった<ref name="江上(1972)26-27">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.26-27</ref>。この頃、ブレスラウ大学では[[ヘーゲル左派]]の[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]准教授がプロイセン政府から「危険思想の持ち主」と看做され、大学を追放される事件があった。これに対して急進派学生はラッサールを中心に抵抗運動を展開した。この活動を通じてラッサールは学内随一の雄弁家として名をはせるようになった。大学からも「危険分子」と看做され、一時謹慎処分を受けている<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.27-28</ref>。


やがてバーミンガム産業界の指導的人物となり、1911年にはバーミンガム市議会議員となり、市の都市計画と福祉事業に参画する<ref name="坂井(1977)12">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.12</ref>。
[[1844年]]春、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]哲学を本格的に学ぶべく、[[ベルリン大学]]へと移籍した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.24/28</ref><ref name="西尾(1986)23">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.23</ref>。ヘーゲル研究に最も熱中していたが、他にも[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]や[[シャルル・フーリエ|フーリエ]]、[[ルイ・ブラン]]といった社会主義者から影響を受けた<ref name="江上(1972)39">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.39</ref>。この頃からユダヤ人のみならず、あらゆる被抑圧者の解放を志すようになり、社会主義者となっていった<ref name="西尾(1986)23">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.23</ref>。


=== バーミンガム市長 ===
ベルリン大学の卒業論文では[[古代ギリシャ]]の哲学者[[ヘラクレイトス]]の研究に取り組んだ。ヘーゲルの[[弁証法]]とヘラクレイトスの流転の素因に似たところがあるからだが、同時にヘラクレイトスは難解といわれていたため、困難を突破したがるラッサールの闘争心が刺激されたものと考えられている<ref name="江上(1972)41">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.41</ref>。
[[第一次世界大戦]]中の1915年には{{仮リンク|バーミンガム市長|en|List of Lord Mayors of Birmingham}}に就任した<ref name="世界伝記大事典(1980,6)133"/>。


バーミンガム市長となったチェンバレンは戦時貯蓄銀行の必要性を感じ、これに反対していた{{仮リンク|大蔵省金融担当政務次官 (イギリス)|label=大蔵省金融担当政務次官|en|Financial Secretary to the Treasury}}{{仮リンク|エドウィン・サミュエル・モンタギュー|en|Edwin Samuel Montagu}}、[[ロイズTSB|ロイド銀行]]や{{仮リンク|ミッドランド銀行|label=ロンドン・シティ・アンド・ミッドランド銀行|en|Midland Bank}}などを熱心に説得し、ついに[[1916年]]に戦債投資法を庶民院に通過させることに成功した。この法律は貯蓄を戦債に投資させるためのものであり、これによってバーミンガム戦時貯蓄銀行の樹立が可能となった<ref name="坂井(1977)7">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.7</ref>。
[[1845年]]秋から[[1846年]]1月にかけて、ヘラクレイトス研究のため、フランス・[[パリ]]を訪問した<ref name="江上(1972)43">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.43</ref><ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.13-14</ref><ref name="メーリング(1968)上387">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.387</ref>。パリで[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]やハイネと会見する機会を得た。とりわけ同じユダヤ人のハイネとは意気投合した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.44-45</ref>。ちょうど同じころに[[カール・マルクス]]がパリから追放されているが、この時点でマルクスと顔を合わせることはなかったようである<ref name="メーリング(1968)上388">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.388</ref>。このパリ滞在中に「Lassal」姓をフランス風の「Lassalle」に変更した。フランスへの憧れとLassalがユダヤ姓だからといわれる<ref name="江上(1972)15">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.15</ref><ref name="西尾(1986)13">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.13</ref>。
{{-}}


[[デビッド・ロイド・ジョージ]]はチェンバレンと会ったことはなかったが、市長としての業績を高く評価し、ロイド・ジョージが首相となった1916年12月に国民兵役担当長官に任じられた。しかしロイド・ジョージとの関係がうまくいかず、まもなく辞職した<ref name="世界伝記大事典(1980,6)133"/><ref name="ブレイク(1979)266">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.266</ref>。{{-}}
=== ハッツフェルト伯爵夫人の離婚訴訟 ===
[[File:Sophie von Hatzfeldt 1805 - 1881b.jpg|180px|thumb|ハッツフェルト伯爵夫人{{仮リンク|ゾフィー・フォン・ハッツフェルト|label=ゾフィー|de|Sophie von Hatzfeldt}}]]
パリからベルリンへ戻った後、ヘラクレイトスの執筆を開始しようとしたが、{{仮リンク|ハッツフェルト家|label=ハッツフェルト伯爵家|de|Hatzfeld (Adelsgeschlecht)}}の伯爵夫人{{仮リンク|ゾフィー・フォン・ハッツフェルト|label=ゾフィー|de|Sophie von Hatzfeldt}}と知り合ったことでその研究は10年近く中断されることになる<ref name="メーリング(1968)上388"/><ref name="幸徳(1904)15">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.15</ref>。


=== 中央政界へ ===
彼女の夫であるエドムント・フォン・ハッツフェルト(Edmund von Hatzfeldt)伯爵は放蕩者なうえ、妻ゾフィーに様々な迫害を加えていた。ゾフィーは伯爵との離婚を希望していたが許してもらえずにいた。そのことをラッサールに相談したところ、彼はこれを「封建主義の横暴に対する闘争」と看做し、彼女に代わって伯爵と闘う決意を固めた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.47-49</ref><ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.15-17</ref>{{#tag:ref|伯爵夫人とラッサールの肉体関係の有無については定かではない。当時伯爵夫人は40歳、ラッサールは20歳であり、年齢差があるが、伯爵夫人は美人で知られていた。ラッサール自身は後年に「ハッツフェルト伯爵夫人の弁護を引き受けるにあたって浮いた気持など微塵もなかった」「自分を駆りたてた動機は騎士道精神である」と語っている<ref name="メーリング(1968)上388">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.388</ref>。一方で後年には、ヘレーネ・フォン・デンニゲスが「伯爵夫人はその頃魅力的だったのでしょうし、貴方は若かった。恋に落ちて何かあったのね。でも今はあの方もすっかりお年寄り。なのに貴方はまだ若いのですから、今はただのお友達というところでしょう」と述べたのに対して、ラッサールは「まあ大体君の言うとおりだよ」と答えたという<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.48/78</ref>。|group=注釈}}。
[[File:DirectorOfNationalServiceNevilleChamberlain--nsillustratedwar03londuoft.jpg|thumb|180px|1917年のネヴィル・チェンバレン]]
[[1918年]]12月の[[1918年イギリス総選挙|解散総選挙]]で{{仮リンク|バーミンガム・レディウッド選挙区|en|Birmingham Ladywood (UK Parliament constituency)}}から[[保守党 (イギリス)|保守党]]候補として出馬して初当選を果たす。当時保守党はロイド・ジョージ政権を支えていたが、チェンバレンはロイド・ジョージとは距離を置いていた<ref name="世界伝記大事典(1980,6)133"/>。


1922年に保守党はロイド・ジョージとの大連立を解消し、[[アンドルー・ボナー・ロー|ボナー・ロー]]を首相とする単独政権を樹立した。チェンバレンはその内閣に{{仮リンク|郵政長官|en|Postmaster General of the United Kingdom}}として入閣した<ref name="世界伝記大事典(1980,6)133"/>。ボナー・ローとしてはチェンバレンに彼の兄である[[オースティン・チェンバレン|オースティン]]との橋渡し役を期待していたという<ref name="ブレイク(1979)266">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.266</ref>。
ラッサールははじめ伯爵に決闘を申し込んだが、「バカなユダヤの小僧」と相手にしてもらえなかった<ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.17-18</ref>。結局離婚訴訟で闘うことになり、ラッサールは1846年から[[1854年]]までの長きにわたってこの訴訟に尽力することになる<ref name="江上(1972)54">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.54</ref>{{#tag:ref|これについて[[猪木正道]]は「学者にとって決定的なのは大学卒業後の数年間であるが、ラッサールはその期間を空費とまでは言わないものの、脇道にそれてしまった」として惜しんでいる<ref name="江上(1972)51">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.51</ref>。またマルクスは後年にラッサールのハッツフェルト伯爵夫人離婚訴訟への熱の入れようを「ラッサールは本当に偉大な人間はこんな下らないことにも10年の時を費やすのだと言わんばかりに、見境もなく私的陰謀の渦中にあったのだから、自分こそは世界を自分の意思どおりにできると思っていたに違いない」と批判している。またエンゲルスは「我々がこんな事件でラッサールとグルになっていると思われぬよう『[[新ライン新聞]]』は意図的にこの事件を報道しなかった」と述べているが、これはエンゲルスの嘘であり、『新ライン新聞』は革命派から注目を集めていた小箱窃盗事件の訴訟を事細かに報道していた<ref name="メーリング(1974)300">[[#メーリング(1974)|メーリング(1974)]] p.300</ref>。[[フランツ・メーリング]]は「訴訟を始めた当時のラッサールには1848年に革命が起こるとは知りえなかったし、またプロイセン封建主義の腐敗ぶりが酷過ぎたために裁判が長期化したのであり、ラッサールを責めるのは不当」と弁護している<ref name="メーリング(1968)上389">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.389</ref>。|group=注釈}}。


1923年3月には{{仮リンク|保険大臣 (イギリス)|label=保険大臣|en|Secretary of State for Health}}に転任する。5月にボナー・ローが引退し、[[スタンリー・ボールドウィン]]が後任の首相・保守党党首となるが、ボールドウィンからも重用され、8月には[[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]に抜擢された。チェンバレンは父ジョゼフと同様に社会保障の財源として関税を見込んでおり、保護貿易の{{仮リンク|帝国特恵関税制度|en|Imperial Preference}}を支持していた。11月にはボールドウィンも帝国特恵関税制度の必要性を感じて、12月にその是非を問う[[1923年イギリス総選挙|解散総選挙]]に打って出た。しかし保守党はその総選挙で敗北したため、チェンバレンも予算に携わる機会のないまま蔵相を辞した<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.13/18</ref>。
訴訟中の1848年2月、ラッサールは伯爵が次男に与えるべき財産を愛人に譲ろうとした伯爵の背信行為を証明する文書が入った小箱を愛人から盗み出したとされて、窃盗罪容疑で警察に逮捕された<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.57-58</ref>。


=== 第二次ボールドウィン内閣保健大臣 ===
=== 1848年革命をめぐって ===
1924年11月に成立した第二次ボールドウィン内閣でも保健大臣に再任され、政権が崩壊する1929年6月までの長期にわたって在職した。
ラッサールが逮捕された1848年2月にフランス・パリでは革命が発生し、[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の[[7月王政|王政]]が打倒され、[[フランス第二共和政|共和政]]が樹立された。3月にはプロイセンや[[オーストリア帝国|オーストリア]]にも革命が波及した(3月革命)<ref name="江上(1972)59">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.59</ref>。


1926年には助産婦および産院法制定を主導した。これによって妊婦死亡率は大きく減少した<ref name="坂井(1977)12">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.12</ref>。また1926年から住宅建設を主導し、1929年の退任までに100万戸もの住宅を建設した。またスラム街の一掃にも尽力し、1929年までにイングランドとウェールズで58のスラム街を消滅させることに成功した<ref name="坂井(1977)12"/>。
独房の中からその様子を見たラッサールは改めて闘争心を掻き立てられた。8月11日の[[ケルン]]の法廷では熱弁をふるって自らの闘争が自由と民主主義のための封建主義との闘いであることを印象付けた。法廷外でも伯爵夫人が様々な反封建主義集会に参加して世論を盛り上げ、ラッサールの法廷での闘いをサポートした。革命の渦中であったから[[陪審員]]にもラッサールを支持する者が多く、無罪判決を勝ち取ることができた。釈放されたラッサールは伯爵夫人やその次男とともに[[デュッセルドルフ]]で暮らすようになった。ラッサールの無罪判決は革命派の勝利として大きな反響を呼び、ラッサールは一躍ライン地方の有名人となった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.59-62</ref><ref name="メーリング(1974,1)299">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974)1巻]] p.299</ref>。


1928年には保健大臣に救貧委員の任命権限を与える『救貧委員怠慢法案』の制定を主導した。この法律は労働党の影響下にある市議会や救貧委員会の浪費を抑えることを主眼としていたため、労働党の強い反発を買った。労働党は悪意ある質問をチェンバレンに集中させた。チェンバレンの方も労働党への憎しみを強め、労働党議員を個人攻撃するようになった。そのやり方の評判がよくなかったため、しばしば首相ボールドウィンから注意された。この後も労働党との対立は根深く続くことになる<ref name="坂井(1977)15">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.15</ref>。
ラッサールは引き続き伯爵夫人の離婚訴訟を支援しながらライン地方の民主主義派{{#tag:ref|民主主義派とは自由主義の中でも極端な急進派のこと。大ブルジョワは保守派と妥協的な自由主義者が多かったが、小ブルジョワや下層民は急進的自由主義者になりやすく、彼らを民主主義派と呼んで一般の自由主義派と区別した。社会主義派はもともと民主主義派の最左翼であった<ref name="望田(1972)29">[[#望田(1972)|望田(1972)]] p.29</ref>。|group=注釈}}の革命活動に参加するようになる<ref name="江上(1972)62">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.62</ref>。また『[[新ライン新聞]]』を発行していた[[カール・マルクス|マルクス]]や[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]とも初会見した。5歳年上のエンゲルスは初対面からラッサールの「鼻持ちならない態度」に不快感を持ったが、一方7歳年上のマルクスはユダヤ人としての連体感もあってか、当時はラッサールに好意的であり<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.63-64</ref>、彼の少ない財産の中から伯爵夫人の支援金を拠出してくれた<ref name="メーリング(1974,1)300">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974)1巻]] p.300</ref>。


この保健相在任中に保守党内におけるナンバーツーの座を確立していった<ref name="ブレイク(1979)267">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.267</ref>。
ラッサールは[[8月29日]]に開催された[[フェルディナント・フライリヒラート|フライリヒラート]]逮捕への抗議集会で初めて大衆の前での演説を行い、以降マルクスと連携してライン地方を奔走し、革命運動を指導して回った<ref name="江上(1972)64">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.64</ref>。しかし10月から11月にかけて革命は次々と失敗していき、反革命派による民主主義派への武力弾圧が本格化した。11月には{{仮リンク|プロイセン国民議会|de|Preußische Nationalversammlung}}も閉会させられた。これに対抗すべく民主主義派は消極的抵抗から武力抵抗へ転換し、ラッサールもデュッセルドルフで武装抵抗を促す演説を行ったため、11月22日には官憲に逮捕された<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.64-65</ref><ref name="メーリング(1974,1)306">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974)1巻]] p.306</ref><ref name="メーリング(1968)上391">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.391</ref><ref name="幸徳(1904)24">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.24</ref>。


=== マクドナルド挙国一致内閣大蔵大臣 ===
「王権に対する武装抵抗の教唆」という重罪に問われたため長期間未決拘留された。[[1849年]][[5月3日]]にようやく[[陪審制]]の裁判にかけられたが、陪審員にも民主主義派が多かったため、無罪判決が下り、ラッサールは釈放された<ref name="メーリング(1968)上392">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.392</ref><ref name="江上(1972)66">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.66</ref>。これに対抗して裁判所は[[一事不再理]]の原則に反する形で「軍隊および役人に対する武装抵抗の教唆」の容疑でラッサールをふたたび逮捕した。今度は職業裁判官による裁判にかけられ、7月には禁固6カ月の判決を受けた<ref name="江上(1972)67">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.67</ref><ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.392/394</ref>。
1931年8月に労働党政権の首相[[ラムゼイ・マクドナルド]]は[[世界大恐慌]]対策に失業手当と公務員給料の削減による[[均衡財政]]を目指したが、失業手当削減をめぐって閣内分裂して政権崩壊した。マクドナルドは労働党大連立派(ごく少数)と保守党と自由党で大連立し、挙国一致内閣を形成した。チェンバレンもこの内閣に保健大臣として入閣。11月には大蔵大臣に転じた。チェンバレンはマクドナルドの均衡財政方針を全面的に支持しており、「予算というものは長期にわたって均衡を図るより、年毎に均衡を図るべきである」と述べていた<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.14-15</ref>。


大蔵大臣としての最初の予算案から所得税の増税を行った。また為替平衡勘定を設定することで投棄に歯止めをかけて為替安定を図った。さらに低金利政策を実施し、20億ポンドに及ぶ5分利子の戦時国債を3分5厘に借り換えるか償還するかし、また[[公定歩合]]を2%に下げた。この結果、年間3000万ポンドの節約が実現された<ref name="坂井(1977)18">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.18</ref>。
判決の執行は少しの間だけ延期され、一時的に釈放された<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.65-67</ref>。この間、革命の失敗でほとんど一文無しでロンドンに亡命していたマルクスから最初の金の無心を受けた。ラッサールも楽な経済状態ではなかったが、マルクスのために幾らか用立ててやり、またマルクス支援の募金活動を起こしたが、マルクスは自分の惨めな生活を世間に知られたくなかったらしく、この募金運動の件を聞いて憤慨した<ref name="江上(1972)67">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.67</ref>。


また1932年には大英帝国外からの全商品に10%の関税を課しつつ、帝国内からの商品には関税を課さないという帝国特恵関税構想に基づく『輸入関税法』を可決させた。この際にチェンバレンは「父ジョゼフの考え方を直接に、しかも正確に受け継いだこの法案が父の愛した庶民院に提出され、しかも父の名声と血を直接に受け継いだ息子2人のうちの1人によって提出されたということを父が知り得たとすれば、絶望した父が安らぎを見出すであろうと信じる」と演説した。これはチェンバレンの生涯を通して唯一の感情的演説であるとされる<ref name="坂井(1977)13">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.13</ref>。
[[1850年]]10月から[[1851年]]4月にかけて先の判決が執行され、服役した<ref name="江上(1972)69">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.69</ref>。


1933年1月にドイツで[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)が政権を獲得した。チェンバレンは{{仮リンク|駐ドイツ・イギリス大使|en|List of diplomats of the United Kingdom to Germany}}{{仮リンク|ホレース・ランボールド (第9代准男爵)|label=サー・ホレース・ランボールド准男爵|en|Sir Horace Rumbold, 9th Baronet}}のヒトラーの軍拡方針とナショナリズムを危険視した報告書と1934年7月にオーストリア・ナチ党員がオーストリア首相[[エンゲルベルト・ドルフース]]を暗殺した事件を見て、ヒトラーを危険視するようになった<ref name="坂井(1977)20">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.20</ref>。
=== 離婚訴訟勝訴と『ヘラクレイトスの哲学』で成功 ===
[[1854年]]、8年に及ぶ訴訟に疲れたハッツフェルト伯爵が夫人に対して彼女が持つべき財産を返還すると和解を申し出た結果、[[1854年]]に離婚訴訟は終了した。これにより伯爵夫人は巨額の財産を獲得し、ラッサールも伯爵夫人から年金4000[[ターレル]]を得られるようになり{{#tag:ref|この金額は当時のプロイセンの大臣の俸給の半分に匹敵する<ref name="江上(1972)75">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.75</ref>。|group=注釈}}、裕福な生活を送るようになった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.74-75</ref>。この年金はラッサールにとって社会主義研究に没頭する上で重要な収入源となった<ref name="幸徳(1904)21">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.21</ref>。


チェンバレンは1934年度予算から軍事費を大幅に増額していった<ref name="坂井(1977)20">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.20</ref>。
金銭的にも時間的にも余裕ができたラッサールは、大学の卒業論文として書き始めてそのままになっていたヘラクレイトスに関する著作の執筆を再開し、[[1855年]]から[[1857年]]にかけてこれを完成させた<ref name="江上(1972)81">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.81</ref><ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.457/477</ref>。


=== 第三次ボールドウィン内閣大蔵大臣 ===
伯爵夫人との関係が悪くなることはなかったが、訴訟が終わったことでデュッセルドルフの伯爵夫人邸にいつまでも居候することに居心地の悪さを感じるようになり、プロイセン王都[[ベルリン]]への移住を希望するようになった。しかし1848年革命に参加した革命家であるため当局からの許可はなかなか下りなかった。[[1855年]]3月にはこっそりベルリンへ移住するも警察に逮捕され、強制送還されている<ref name="江上(1972)79">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.79</ref><ref name="幸徳(1904)28">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.28</ref>。しかし[[1857年]]2月になって突然ベルリンへの移住許可がおりた。伯爵夫人とラッサールを切り離してライン地方の革命運動を弱め、またラッサールをベルリンに置いて監視を強化しようという官憲の企図だったという。ともかくこれにより同年5月からベルリン・ポツダム街に移住した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.86-87</ref>。
1935年6月、マクドナルド首相が引退し、ボールドウィンが首相となる<ref name="河合(1998)237">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.237</ref>。チェンバレンは引き続き大蔵大臣を務めた<ref name="秦(2001)512"/>。この最後のボールドウィン内閣の最高指導者は事実上チェンバレンであり、とりわけ軍事問題については彼が最大の影響力を持った<ref name="ブレイク(1979)279">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.279</ref>。


チェンバレンは毎年軍事費を上昇させ続けた。当初は均衡財政にも固執して道路基金からの借入や所得税や茶税の引き上げなどで軍事費急上昇に対応したが、それだけでは軍拡の維持は難しくなり、1937年2月には防衛国債法案を成立させて国債で軍事費を賄うようになった<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.25-26</ref>。
出版業者{{仮リンク|フランツ・ドゥンカー|de|Franz Duncker}}と親しくなり、彼の書店から『ヘラクレイトスの哲学(Die Philosophie Herakleitos Des Dunklen Von Ephesos)』を出版してもらった。この本はたちまち評判になり、ラッサールはベルリン哲学学会の会員に迎え入れられ、華々しい社交生活を開始した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.87/94</ref>。ラッサールはロンドンのマルクスにも『ヘラクレイトスの哲学』を送って批評を求めたが、極貧生活に陥っていたマルクスはすっかり上流階級の仲間入りをしたラッサールを妬み、エンゲルスへの手紙の中で「博識の法外なひけらかし」「大学教授のお偉方がこの本を評価したのは世に偉大な革命家として名を馳せた青年が随分と古風だったことに喜んだからだろう」「ラッサールは労働運動を離婚訴訟に私的に利用した」「訴訟は終わったのにラッサールはいつまでも伯爵夫人から独立しようとしない」「ラッサールのベルリン行きは大紳士に成りあがり、[[サロン]]を開くためだ」と怒りをぶちまけている<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.88-92</ref><ref name="メーリング(1974,2)105">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.105</ref>。


一方ヒトラーもドイツの軍拡を急ピッチで進めていた。やがてドイツ再軍備が既成事実化してしまうとチェンバレンはいつまでも形骸化した[[ヴェルサイユ条約]]や[[ロカルノ条約]]に固執していても仕方ないと考えるようになり、ドイツへの宥和的対応も必要という立場に転じていった<ref name="坂井(1977)35">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.35</ref>。またドイツが強力になればソ連共産主義に対する防波堤の役割を果たしてくれるという期待感も持つようになった<ref name="坂井(1977)51">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.51</ref>。
一方マルクスの不興を買い始めていることを知らぬラッサールは、ベルリンでフランツ・ドゥンカー夫人リナと情を通じるようになっていた。彼女には崇拝者が多かったため、ファブリスという官僚から[[ブランデンブルク門]]で待ち伏せされて夜襲を受けたが、持っていたステッキで撃退することに成功した。この件は社交界でも評判になり、歴史家フリードリヒ・フェルスターからは[[ロベスピエール]]のステッキを送られ、ラッサールは生涯これを大切にしたという<ref name="幸徳(1904)32">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.32</ref><ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.97-101</ref>。


1936年3月にヒトラーは{{仮リンク|仏ソ相互援助条約|fr|Traité franco-soviétique d'assistance mutuelle (2 mai 1935)}}を理由に[[ヴェルサイユ条約]]で非武装地帯に定められていた[[ラインラント]]へ進駐したが、イギリス国内ではドイツの領土にドイツ軍が入っていただけとして融和ムードが強かった<ref name="河合(1998)241">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.241</ref>。チェンバレンも同様の考えであり、イギリスに伺いを立てに来た[[外務大臣 (フランス)|フランス外相]]{{仮リンク|ピエール=エティエンヌ・フランダン|fr|Pierre-Étienne Flandin}}に対して「イギリスの世論はどのような対独制裁も支持しないであろう」と返答している。外相[[アンソニー・イーデン]]がこの方針を「ヨーロッパの宥和」政策としてまとめ、チェンバレンもそれに賛成した結果、以降チェンバレンの対独譲歩政策は宥和政策と呼ばれるようになった<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.36-37</ref>。
しかし同時にベルリン警察から目をつけられるようになり、[[1858年]]6月にはベルリン追放命令を受けた<ref name="メーリング(1968)上457">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.457</ref>。ラッサールは[[スイス]]へ逃れつつ、この頃自由主義勢力と関係を持っていた皇太弟[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム]]に助けを求めた。折しもヴィルヘルムが[[摂政]]となり、自由主義的保守派によって構成される「{{仮リンク|新時代|de|Neue Ära}}」内閣が発足していたこともあり、10月にはベルリンに戻ることができた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.102-103</ref>。


1936年7月に[[スペイン]]で、左翼政府「[[スペイン人民戦線|人民戦線]]」と[[フランシス・フランコ|フランコ]]将軍率いる右派の武力衝突が発生し、ソ連が左翼政府を、ドイツ・イタリアが右派を支援した([[スペイン内戦]])。この戦争に対してイーデン外相はイギリスの不干渉方針を表明し、チェンバレンもこの方針に賛同した。チェンバレンの考えるところ、不干渉方針は独ソを潰し合わせてイギリスが漁夫の利を得ることができるうまい手段であった。一方、野党労働党は左翼政府を支持しており、政府の不干渉政策を批判したが、イギリス世論の大半は戦争に引きずり込まれることを望んでおらず、政府の不干渉方針を支持する者が多かった<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.42-45</ref>。
=== マルクスとの亀裂 ===
[[File:Marx4.jpg|180px|thumb|「腐れ縁」と化していく友人[[カール・マルクス]]]]
[[1859年]]にはマルクスの『[[経済学批判]]』をドゥンカー書店から出版できるよう取り計らった。一方でこの頃からマルクスのラッサール不信は強まっていく。


=== チェンバレン内閣 ===
同年ラッサールは史劇『フランツ・フォン・ジッキンゲン』を書き上げ、これをベルリンの宮廷劇場に匿名で送ったが、革命的精神を謳う台詞が冗長で、またヘーゲル式議論が難解すぎるとして劇場からは採用してもらえなかった。ラッサールはこの脚本をマルクスに批評してほしがり、彼にも脚本を送ったが、当時のマルクスに舞台の脚本など読んでる暇はなく、また『経済学批判』出版が遅れていることに苛立っていた時期だったので「反動的封建階級に属する者を中心として描いたことは誤りである。主人公は全て農民一揆の農民指導者から選ばねばならない」という冷たい返事を突き返された<ref name="江上(1972)106">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.106</ref>。
[[1937年]]5月にボールドウィンが引退したとき、チェンバレンが後任の保守党首・首相となることに反対する者は党内にいなかった。党内の反執行部分子になっていた[[ウィンストン・チャーチル]]さえも反対しなかった(ただしチャーチルは「党内の反対意見に耳を貸す」ことを新党首に要求した)<ref name="河合(1998)247">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.247</ref>。


宥和政策を続行する意思であったチェンバレンは、1937年11月に{{仮リンク|E.F.L.ウッド (初代ハリファックス子爵)|label=ハリファックス卿|en|E. F. L. Wood, 1st Earl of Halifax}}をドイツに派遣した。彼とヒトラーの会談からドイツと友好関係を保つことは可能との自信を強めた<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.51-52</ref>。
しかしもっと大きかったのは[[イタリア統一戦争]]{{#tag:ref|1859年4月に皇帝[[ナポレオン3世]]率いる[[フランス第二帝政|フランス帝国]]と宰相[[カミッロ・カヴール]]率いる[[サルデーニャ王国]]が同盟してイタリア北部を支配する[[オーストリア帝国]]を排除するために開始した戦争。|group=注釈}}をめぐって見解が相違したことだった。


他方でイタリアをドイツから引き離すことでドイツを孤立させることも企図し、イタリアの[[ベニト・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]首相と接近を図った。外相イーデンはスペイン問題でイタリアが何度も約束を反故にしたことからイタリアに不信感を持っており、これに反対したが、チェンバレンから受け入れられなかったため、1938年2月に辞職した。チェンバレンはイーデンの後任にハリファックス卿を任じ、4月にもイタリアとの間に、[[地中海]]の現状維持、イタリアの[[エチオピア]]植民地化の承認、イタリア義勇軍のスペインからの撤収を約定した[[英伊協定]]を締結した<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.53-54</ref>。
この戦争をめぐってはエンゲルスが小冊子『ポー川とライン川』を執筆し、ラッサールの斡旋でドゥンカー書店から出版した<ref name="メーリング(1974,2)126">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.126</ref>。この著作の中でエンゲルスは「確かにイタリア統一は正しいし、オーストリアが[[ポー川]](北イタリア)を支配しているのは不当だが、今度の戦争はナポレオン3世が自己の利益、あるいは反独的利益のために介入してきてるのが問題である。ナポレオン3世の最終目標は[[ライン川]](西ドイツ)であり、したがってドイツ人はライン川を守るためにポー川も守らねばならない」といった趣旨の主張を行い、オーストリアの戦争遂行を支持した。マルクスもこの見解を支持した<ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.126-128</ref>。


しかしその間の1938年3月12日にヒトラーは[[ドイツ民族]]国家[[オーストリア]]をドイツに併合した([[アンシュルス]])。チェンバレンは「オーストリア問題は今や邪魔にならない」として捨て置いた。庶民院では野党やチャーチルら保守党反執行部派から「傍観した」という批判を受けたが、チェンバレンは「もしこれを阻止しようとするなら軍事力を行使する以外になかった」と反論して反戦世論に訴えかけ理解を求めた<ref name="坂井(1977)76">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.76</ref>。
しかしラッサールはこれに疑問を感じた。専制君主であっても常にナショナリズムや民主主義の原理に媚を売ろうとするナポレオン3世はナショナリズムを踏みにじり続ける専制王朝国家オーストリアよりはマシに思えたからである<ref name="メーリング(1968)上504">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.504</ref><ref name="江上(1972)107">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.107</ref>。そのためラッサールも独自に『イタリア戦争とプロイセンの義務(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens)』と題した小冊子をドゥンカー書店から出版した。その中でラッサールは「イタリア統一の成功はドイツ統一にも大きく影響する」「ナポレオン3世が嫌いだからとイタリア統一の邪魔をするべきではない。」「もしナポレオン3世がそれによって何か利己的な目的を図ろうとしているなら、我々の側でそうはさせないだけの話。」「ライン川獲得のためにフランスがドイツに侵攻するなどありえず、ナポレオン3世が狙っているのはせいぜいフランス的な[[サヴォイ]]の併合だけ。」「オーストリアが弱体化してもドイツ統一の打撃にはならない。むしろオーストリアが徹底的に粉砕されることがドイツ統一への近道」「ナポレオン3世が民族自決に従って南方の地図を塗り替えるなら、プロイセンは北方で同じことをすればいい。[[シュレースヴィヒ公国]]と[[ホルシュタイン公国]]を併合するのだ。」といった趣旨の主張を行った<ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.505-506</ref><ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.128-130</ref><ref name="江上(1972)107-108">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.107-108</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)441">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.441</ref>。このラッサールの主張は後年ビスマルクが実際に行ったドイツ統一の経緯を予言したものとして称賛された<ref name="メーリング(1974,2)131">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.131</ref>。


アンシュルス後、[[ソビエト連邦]]の独裁者[[ヨシフ・スターリン]]がチェンバレンに接触を図ってきたが、チェンバレンはソ連との連携を拒否した<ref name="坂井(1977)78">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.78</ref>。彼はスターリンの動機を疑っていたし、[[赤軍|ソ連赤軍]]は[[大粛清]]により軍部のほとんどが皆殺しにされ、機能不全状況に陥っていたので同盟を結んだところでまともな戦力になると思えなかった。いたずらにヒトラーに孤立への不安を与えて先鋭化させ、またドイツと[[日独防共協定|防共協定]]を結ぶ[[日本]]も警戒してドイツへの接近を推し進めるという結果になる恐れが高かった<ref name="坂井(1977)78"/><ref name="河合(1998)248">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.248</ref>。
しかしこれはナポレオン3世を「無産階級最大の敵」と定義し、ナポレオン3世に抵抗するためならばプロイセンとオーストリアの連合さえも考慮に入れるべきと主張するマルクスとは決定的に相いれない立場であり、マルクスから「私と私の同僚(エンゲルス)は貴方の意見に全く賛成できない」と拒絶の返事を送られた<ref name="江上(1972)107-108"/>。


またこの時期マルクスは、{{仮リンク|カール・フォークト|de|Karl Vogt}}批判運動に熱中しており、ラッサールにはその先頭に立つことを期待していたのだが、ラッサールがいまいち乗り気でないことにも不満を持っていた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.110-111</ref>{{#tag:ref|カール・フォークトはスイスの大学で教授をしていた左翼学者だが、イタリア統一戦争に際しては「プロイセンは中立の立場を取るべき」と主張した。このことでマルクスや[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]は「フォークトはナポレオン3世から金をもらっている」という批判を行った。フォークトはマルクスたちを名誉棄損で訴え、勝訴したが、それだけでは我慢ならず、「マルクスは強請で金を稼いでいる男である」と批判し返した。異常にプライドが高いマルクスはこれに激昂し、ラッサールなど友人たちに総動員をかけてフォークトとの全面闘争を開始した。しかしこの頃のラッサールはベルリン社交界で確固たる立場を築く文士・学者になっていたから、こういう喧嘩事に全精力を注ぐようなことをしたくなかった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.110-111</ref>。|group=注釈}}。加えてラッサールはこの頃、株式投機で大損しており、マルクスからの金の無心に対して渋るような態度をとっていたこともマルクスの不信を加速させた。ラッサールはマルクスに自身の金銭事情を説明したものの、マルクスは信じてくれなかった<ref name="江上(1972)112">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.112</ref>。


=== 『既得権の体系』 ===
[[1860年]]中に大著『既得権の体系(Das System der erworbenen Rechte)』の執筆を行い、[[1861年]]に全2巻で出版した。伯爵夫人の離婚訴訟で培った法律の知識が結実した本であった<ref name="江上(1972)116">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.116</ref>。


== 人物・評価 ==
この本の中でラッサールは「法が個人の意志的行為を媒介としてのみ個人に関わる限り、その法は遡及作用してはならない」「個人の意志活動の媒介によってのみ個人に関わる法は決して遡及作用しないという命題から、かかる自由意志的な行為の介入なしで個人に関わる法は必ず遡及作用するという命題が導かれる」という遡及作用理論を立てて古代ローマから1850年のプロイセンまでの既得権の法制度を解き明かした<ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.485-488</ref>。そして「一般に法の歴史が文化史的進化を遂げるとともに、ますます個人の所有範囲は制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」という社会主義的結論を導き出している<ref name="メーリング(1968)上491">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.491</ref><ref name="江上(1972)116"/>{{#tag:ref|これはつまり初めに人間はこの世の全部が自分の物だと思い込んでいたが、やがて限界を知るようになったということである。たとえば神仏崇拝は神仏が私有財産から離れたということ、また農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者になったことで農民が私有財産から離れたということ、ギルドの廃止や自由競争も独占権は私有財産ではないと認識されるようになったことを意味している。だからやがて今のブルジョワ的私有財産制も崩壊し、共同所有社会がやってくるという考えである<ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.491-492</ref>。|group=注釈}}。
[[ハロルド・マクミラン]]は「今日ミュンヘン会談とか、首相としての悲劇な時代と関連させて、チェンバレンを考える人々もいるが、しかしそのような人々は社会改良に関する彼の素晴らしい業績を忘れてはならない」と語っている<ref name="坂井(1977)12-13">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.12-13</ref>。一方{{仮リンク|ロバート・ブレイク (ブレイク男爵)|label=ブレイク男爵|en|Robert Blake, Baron Blake}}はチェンバレンは社会改革論者であったが、既存制度の緩和に留まっており、干渉論的資本主義者ではなかったとしている<ref name="ブレイク(1979)277">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.277</ref>。


<ref name="早川(1983)132">[[#早川(1983)|早川(1983)]] p.22-23</ref>
しかしこの著作は難解すぎて『ヘラクレイトスの哲学』の時のような称賛は得られなかった。法学者にとっては哲学的要素が、哲学者にとっては法学的要素が多すぎた。また革命家たちにとっては思弁過剰だった。マルクスは全く読もうとせず、エンゲルスは「[[自然法]]に対する迷信的信仰」などと批判した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.116/131</ref>。


=== マルクスの帰国騒動 ===
1861年1月に摂政ヴィルヘルム王子が正式に[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]としてプロイセン国王に即位した。ヴィルヘルム1世は政治的亡命者に対して大赦を発した<ref name="ウィーン(2002)296">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.296</ref>。これを聞いたラッサールはマルクスにプロイセンへの帰国を勧めた<ref name="ウィーン(2002)296"/><ref name="江上(1972)132">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.132</ref>。

マルクスも満更ではなく、4月1日にはラッサールとハッツフェルト伯爵夫人の援助でプロイセンに帰国し、ベルリンのラッサール宅に滞在した。ラッサールと伯爵夫人はマルクスが様々な社交場で一流の人士と歓談できるよう取り計らってやり、オペラハウスでは国王ヴィルヘルム1世が座っている最高席から数フィートという距離の位置のボックス席にマルクスを座らせてやった。だが反君主主義者のマルクスにはこういう貴族的歓待は不快以外の何物でもなかったらしい<ref name="ウィーン(2002)297">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.297</ref>。

マルクスがこういう生活に耐えていたのはプロイセン市民権を回復するためだったが、4月10日にはマルクスの市民権回復申請は警察長官から正式に却下され、マルクスは単なる外国人に過ぎないことが改めて宣告された<ref>[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.297-298</ref>。これを知るとマルクスはラッサールから40ポンド借りて早々にロンドンへ帰っていった<ref name="江上(1972)133">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.133</ref>。

この一件以来マルクスはますますラッサールの「虚栄的生活」にムカムカするようになった。この頃、マルクスはラッサールが色黒なのを捉えて「(ラッサールは)[[モーセ]]がユダヤ人を連れてエジプトから脱出した際に同行した[[ニグロ]]の子孫だろう。(略)この男のしつこさは紛れもなく[[ニガー]]のそれである」と珍妙な人種観に基づく人種差別をしている<ref name="ウィーン(2002)299">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.299</ref>。

=== 政治運動への本格的参入 ===
[[File:Bücher 001.jpg|180px|thumb|ラッサールの同志{{仮リンク|ローター・ブーハー|de|Lothar Bucher}}。]]
1861年9月から12月にかけて伯爵夫人とともにスイスとイタリアを旅行し、[[11月14日]]には[[カプレラ島]]で[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]と会見した<ref name="江上(1972)135">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.135</ref>。ガリバルディ率いるイタリア行動党のオーストリアに対する攻撃計画に関心を持ったという<ref name="メーリング(1968)上525">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.525</ref>。

帰国後のラッサールはガリバルディの影響で直接的な政治運動が増えていった。学究活動や文芸活動は減り、演説の草稿書きが主となっていく<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.140-141</ref>。この頃、政界ではブルジョワを中心とする自由主義左派政党{{仮リンク|ドイツ進歩党|de|Deutsche Fortschrittspartei}}がプロイセン議会下院の多数派を握っていた。ラッサールは進歩党の名士とも交友関係があったものの、ブルジョワである彼らが[[社会政策]]に関心を持っていないことは明らかだった。結局進歩党に批判的な1848年革命の革命家たち、{{仮リンク|ローター・ブーハー|de|Lothar Bucher}}、{{仮リンク|フランツ・ツィーグラー|de|Franz Ziegler (Fortschrittspartei)}}、[[ヨハン・ロードベルトゥス]]らとの連携を深めていった<ref name="メーリング(1968)上526">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.526</ref>。とりわけブハーと親しくなり、彼と会合を重ね、社会主義の大衆運動の形成について語りあった<ref name="メーリング(1968)上528">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.528</ref>。だが1862年代のラッサールにはまだブルジョワ自由主義の封建勢力との戦いをサポートする意思があった<ref name="メーリング(1968)上532">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.532</ref>。

ラッサールは1862年春のプロイセン下院解散総選挙の際に2つの演説を行った。この2つの演説を後に出版したものが『労働者綱領』であった。最初の演説はベルリンにおいて自由主義派の地域団体に向けて行った憲法に関する講演だった。この演説の中でラッサールは「憲法問題は法の問題ではなく力の問題だ。一国の現実の憲法は、その国に存在する現実の、事実上の力関係の中にしか存在しない。成文の憲法が価値と持続力を発揮するのは、それが社会の中にある現在の力関係の正確な表現である場合のみである」と主張した。つまり国王が事実上の力関係を握っている以上、いくらリベラルな成文憲法を制定しても簡単になし崩しにされてしまうということであり、自由主義ブルジョワに1848年革命の失敗を繰り返さないよう訴えたものであった<ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.533-536</ref><ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.35-36</ref><ref name="前田(1980)375">[[#前田(1980)|前田(1980)]] p.375</ref>。

ついで4月12日に[[オラニエンブルク]]で機械製造工たちを前に「現代という歴史的時代と労働者階級の理念との特殊な関連」と題した演説を行った。この演説でラッサールは、ヘーゲルによれば国家は道徳的理想と自由を実現するものであるはずなのに自由主義ブルジョワの自由放任主義は不道徳と搾取しかもたらさない。このような自己の利益を保全するだけの自由放任主義国家は「'''夜警国家'''」であり、不適切であるとした。一方労働者階級の階級全体の改善を図ろうという原理は普遍的で国家の支配原理となるのにふさわしいと説いた<ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.538-539</ref>。そしてその支配原理を実現する手段は[[普通選挙]]・[[直接選挙]]であるとした<ref name="メーリング(1968)上538">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.538</ref>。

演説では「ブルジョワの富は適法に手に入れたものである限り守られるべき」と述べるなど『既得権の体系』に反するような私有財産制擁護の表現も入れたが、これはプロイセン秘密警察の監視を逃れるためと思われる<ref name="江上(1972)145">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.145</ref>。しかし結局この演説で官憲に目をつけられるようになった。警察に踏み込まれて3000部の『労働者綱領』を全て没収されたうえ、「国民の間に憎悪と軽悔の念を惹起することにより公共の秩序を危うくする」ことを禁じる刑法100条により起訴され、1863年1月16日にベルリンの裁判所で裁判にかけられ、禁固4か月の判決を受けたが、控訴し、控訴審で罰金刑となった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.148/170</ref><ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.39-46</ref>。

=== ラッサールのロンドン訪問とマルクスとの交友断絶 ===
マルクスからの手紙は長く途絶えていたが、1862年6月に突然マルクスから「借金を返す目途が立たなかったので手紙を書きにくかった」と無沙汰を詫びる手紙が届いた。ラッサールも久々にマルクスに返事を書き、「金で友も金も失う愚は侵したくないから、そのような配慮は御無用に」と述べつつ、[[ロンドン万国博覧会 (1862年)|ロンドン万博]]見学のついでにロンドンを巡りたいという希望を伝えた。マルクスから歓迎する旨の返事が届くと早速7月にロンドンを訪問した<ref name="江上(1972)149">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.149</ref>。

ラッサールのロンドン訪問の記録は断片的にしか残っていないが、そのわずかな資料から分かるのはこの訪問で二人の友情が戻るどころか、余計に関係が悪くなったことである。ラッサールが{{仮リンク|ブルー・ブック|en|Blue book}}(英国議会・枢密院の報告書)を20ポンドもポンと出して買っているのを見たマルクスはこれを妬んだ<ref name="江上(1972)152">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.152</ref>。またこの間、マルクスはエンゲルス宛の手紙の中で「奴のせいで大変に時間を取られて困る。私がよほど暇人で奴のために時間を全て捧げることが当然だと思っているらしい」「『労働者綱領』など我々が『共産党宣言』でしばしば言ったことの卑俗化に過ぎない」「革命派の[[枢機卿]][[リシュリュー]]」などと陰口をしている<ref name="江上(1972)152"/>。

マルクスの内心がこのような有様だったから、会談の空気も概して悪かった。マルクスが唯一示した好意的な態度はアメリカのドイツ語新聞のベルリン通信員になってほしいという要請だったが、これについてはラッサールの方から断っている。ラッサールはアメリカ人を「理想がない」と軽蔑しており、アメリカとは関わり合いになりたくなかったという。マンチェスターで暮らしているエンゲルスも一応ラッサールに訪問を勧めてくれたが、マルクスとの会談の実りの無さに失望したラッサールは、マンチェスターまで行く気にはなれず、早々にベルリンへ帰国した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.152-153</ref>。

帰国後、再びマルクスから手紙で金の無心を受けた。今度は60ポンドの手形の引き受け人になってほしいという要請だった。マルクスの友情と協力を求めて、長いことマルクスに要求されるがままに金をやり続けたラッサールだったが、ロンドン訪問も実りなく終わった今、さすがにこれ以上融通してやる気にはなれなかった。ラッサールははじめて「エンゲルスに頼んだかどうか」と冷たい返事を送った<ref name="江上(1972)153">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.153</ref>。

これにはマルクスもびっくりしたらしく、12月にプライドの高いマルクスにしては珍しい冗長に憐みを乞う手紙が送られてきた{{#tag:ref|マルクスは当時相当に困窮していたが、毎回エンゲルスに頼みにくかったので、ラッサールから金を無心することを思いついたようである。マルクスの手紙は次の通り。「貴方はわたしがエンゲルスに無断で事を運んでいるように思っていると私は考えたのですが、貴方の手紙を読み返してそれが勘違いだと分かりました。なるほど、私は貴方への手紙でこれにはまったく触れませんでした。私の現実の苦しみを私の手紙に表明も示唆もしなかったことも認めます。ですから、貴方の私の手紙の読み方は間違っており、またそんな風に書いたことで私も間違いを犯して誤解の種をまいたわけです。これが我々を不仲にするのでしょうか。我々の友情はもっとしっかりしたもので、このくらいのショックでダメになるものではないと信じます。私が合理的動物と言えないほどに自制心を失っていた事も認めます。しかし私が自分の頭を撃ち抜いてしまおうかとさえ思っている時に、あたかも検察官のようにふるまうのは寛大な貴方らしくないでしょう。我々の古い友情がなお続いていくことを希望します」<ref name="江上(1972)154">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.154</ref>。|group=注釈}}。ラッサールはこの手紙に返事を出さなかったため、これをもってマルクスとの文通は終わった<ref name="江上(1972)154">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.154</ref>。

=== ビスマルクの登場と憲法闘争の勃発 ===
軍制改革を盛り込んだ予算案をめぐってプロイセン議会衆議院が紛糾する中、無予算統治で軍制改革を断行することを決意した国王ヴィルヘルム1世は、1862年9月に[[ユンカー]]出身の外交官[[オットー・フォン・ビスマルク]]を宰相に任じた。宰相となったビスマルクはまず進歩党のナショナリズムを煽って懐柔することを狙い、衆議院予算委員会において[[鉄血演説]]を行い、[[小ドイツ主義]]統一のためにはプロイセンの軍事力を増強しなければならないことを訴えた。

進歩党の議員たちもラッサールもドイツ統一は支持していたが、それはビスマルクのような「反動保守」によって君主主義的に行われるべき物ではなかった。この時点ではラッサールも伯爵夫人あての手紙の中で「彼は反動的なユンカーであり、彼に期待しうるのは反動的措置のみです。(略)さも戦争が差し迫っているかのような口実を設けて、 ―まさか国民はそれを鵜呑みにはしないでしょうが― 剣をガチャつかせて軍制改革予算を通そうとするか、あるいはドイツ統一への何らかの反動的処方を料理しようとするでしょう。しかしドイツ統一が反動的な土壌の上でできるはずはありません」と書いてビスマルクを批判している<ref name="江上(1972)165">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.165</ref>。

鉄血演説は進歩党議員からも評判が悪く、ビスマルクがこの演説で得たのは「鉄血宰相」の異名だけだった。進歩党の取り込みに失敗したと見たビスマルクは、無予算統治を開始し、軍制改革を強行したため、これを違憲として批判する進歩党とビスマルク政府の間に{{仮リンク|プロイセン憲法闘争|label=憲法闘争|de|Preußischer Verfassungskonflikt}}が勃発した<ref name="林(1993,2)171">[[#林(1993)|林(1993)2巻]] p.171</ref>。

このような中の1862年11月にラッサールは「今何をするべきか」と題した憲法に関する第二演説を行った。その中でラッサールは「もはや封建主義は社会的な力ではブルジョワに勝てないのでエセ立憲主義で延命を図っているのであり、エセ立憲主義の仮面さえ剥いでしまえば封建主義は全社会と対立して滅亡することになる。したがって進歩党は護憲闘争をただちに停止し、むしろ封建主義が今やそれなしでは権力を維持できなくなっているエセ立憲主義を破壊することを目指すべき」と訴えた。具体的には「議会は自ら無期限休会を決議し、政府が無予算統治を放棄するまで休会し続けることである。強力なブルジョワ階級を持つようになった今のプロイセンでは議会なしで統治などできないので、いずれ封建主義は音を上げることになり、その時に国民は真の憲法を勝ち取ることができる」と語った<ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.546-548</ref>。

1863年1月13日に議会が招集された際、進歩党代議士会においてラッサールの上記の提案がマルティーニという進歩党議員によって提出された。しかし進歩党の立憲主義・議会主義(今の憲法や議会がエセかどうかは別にして)は根強いものがあり、このマルティーニの動議は代議士会で却下された<ref name="メーリング(1968)上553">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.553</ref>。ラッサールは最後までブルジョワとの連携を重視し、1月16日の裁判でも「ブルジョワジーと労働者、我々は一つの国民を構成するものであり、我々の抑圧者に対して完全に一致している」と演説している。しかし進歩党の方はラッサールへの敵意をむき出しにし、「ラッサールは権力を法より優先させろと主張している。つまり保守反動の手先である」といった罵倒を行った<ref name="メーリング(1968)上556">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.556</ref>。

=== 進歩党との決別と全ドイツ労働者同盟結成 ===
ブルジョワ自由主義の頑迷さにうんざりしたラッサールは彼らと決別して独自に労働運動を組織する決意を固めた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.167-168</ref>。

ちょうどこの頃、ライプツィヒ中央委員会議長{{仮リンク|ユリウス・ファールタイヒ|de|Julius Vahlteich}}がラッサールに指導を求めてきた。ラッサールはその返事として1863年3月1日に『{{仮リンク|公開回答書|de|Offenes Antwortschreiben}}』を出版した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.175-176</ref><ref>[[#リヒター(1990)|リヒター(1990)]] p.9-10</ref><ref name="メーリング(1969)下23-24">[[#メーリング(1969)下|メーリング(1969)下巻]] p.23-24</ref>。その中でラッサールは政治的方針として「進歩党は憲法闘争で見せた態度から分かるように自由のために何ら貢献することはできない。労働者階級は普通平等直接選挙を旗印に進歩党から独立した政党を作らねばならない。この新しい労働者の政党は利害の一致する範囲で進歩党を支持しても、進歩党が道を違えたらただちに同党を見限り、敵対せねばならない。」と述べた<ref name="メーリング(1969)下24">[[#メーリング(1969)下|メーリング(1969)下巻]] p.24</ref><ref name="リヒター(1990)10">[[#リヒター(1990)|リヒター(1990)]] p.10</ref>。

つづいて社会政策の方針について語り、営業の自由や移住の自由を求める運動について、「それは50年前の議論であり、今日の労働者運動において取り上げるべき問題ではなく、粛々と布告すればいいだけだ」として退けた。貯蓄組合や疾病基金の構想は「労働者を困窮に堪え易くするだけでそれ以上は期待できない」とする<ref name="メーリング(1969)下24"/><ref>[[#リヒター(1990)|リヒター(1990)]] p.10-11</ref>。また進歩党議員{{仮リンク|ヘルマン・シュルツェ=デーリチュ|de|Hermann Schulze-Delitzsch}}が主張していた協同組合構想も否定した。シュルツェ=デーリチュは社会政策など歯牙にもかけないブルジョワ政党の中にあって労働者階級や小ブルジョワ層に支持を広げていくべきと主張していた人物である<ref>[[#リヒター(1990)|リヒター(1990)]] p.4/11</ref>。彼は「共助的結合による自助」を提唱し、協同組合([[信用組合]]、[[消費組合]]、手工業限定で[[原料組合]]と[[倉庫組合]])を作って弱小企業が大量の仕入れを出来るように補ってやることの必要性を訴えていた<ref name="リヒター(1990)7">[[#リヒター(1990)|リヒター(1990)]] p.7</ref>。これに対してラッサールは進歩党議員でありながら、国民に尽くそうというシュルツェの姿勢を評価しながらも、信用組合・原料組合・倉庫組合は小手工業者の保護にしかならず、独立していない労働者階級の保護にはつながらないことを指摘した。また消費組合も価格を下げることはできるかもしれないが、その場合「賃金鉄則」で給料も下がるからやっぱり労働者保護にはならないとした<ref name="リヒター(1990)11">[[#リヒター(1990)|リヒター(1990)]] p.11</ref><ref>[[#メーリング(1969)下|メーリング(1969)下巻]] p.24-27</ref>。

ではどうすればいいのか。その答えとしてラッサールは労働者階級自らが企業家になることを提唱した。労働者の自由な同盟と国家の援助によって企業体「生産組合」を結成させ、賃金と企業利得を一致させることで「賃金鉄則」から離れて労働者階級の状況を改善させられると考えた<ref name="リヒター(1990)11"/><ref name="メーリング(1969)下27">[[#メーリング(1969)下|メーリング(1969)下巻]] p.27</ref>。この生産組合においては労働者は毎週慣習に従った賃金を受けつつ、年末には営業収益の分配を受けることになる<ref name="リヒター(1990)12">[[#リヒター(1990)|リヒター(1990)]] p.12</ref>。国家は定款の認可と業績確保のための介入を行う。そして国家にこのような強力な干渉を行わせるには、国民が自ら選んだ立法府の存在、つまり普通選挙が不可欠であるとする<ref name="リヒター(1990)12"/><ref name="メーリング(1969)下30">[[#メーリング(1969)下|メーリング(1969)下巻]] p.30</ref>。

以上を趣旨とするラッサールの『公開答弁書』は、3月17日のライプツィヒ中央委員会で採択され、つづく3月24日の全国労働者会議でも採択され、これを基にして全ドイツ労働者同盟を結成するための新委員会創設が決議された<ref name="江上(1972)183">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.183</ref><ref name="メーリング(1969)下43">[[#メーリング(1969)下|メーリング(1969)下巻]] p.43</ref>。しかしライプツィヒ以外に支持を拡大できるかは不透明であり、ラッサールは東奔西走して演説し、支持を拡大していった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.183-184/188</ref>。その甲斐あって1863年5月23日にはライプツィヒに[[ドレスデン]]、[[ハンブルク]]、{{仮リンク|ハールブルク|de|Harburg}}、[[ケルン]]、[[エルバーフェルト]]、[[デュッセルドルフ]]、{{仮リンク|バーメン|de|Barmen}}、[[ゾーリンゲン]]、[[フランクフルト]]、[[マインツ]]の労働者代表が集まり、ラッサールが起草した綱領を採択のうえ、ラッサールを指導者とする{{仮リンク|全ドイツ労働者同盟|de|Allgemeiner Deutscher Arbeiterverein}}が正式に発足する運びとなった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.188-189</ref><ref name="メーリング(1969)下58">[[#メーリング(1969)下|メーリング(1969)下巻]] p.58</ref>。

=== ビスマルクへの接近 ===
[[File:General Otto von Bismarck.jpg|180px|thumb|「鉄血宰相」[[オットー・フォン・ビスマルク]]]]
ちょうどこの頃からプロイセン宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]とラッサールの接触が始まった。最初の接触はビスマルクが1863年5月11日付けの手紙でラッサールに「現在の労働者階級の状況に関する諸懸案について、この問題に関係ある独立の緒家の専門的な意見が聞きたい」と要請したことだった<ref name="林(1993,2)267">[[#林(1993)|林(1993)第2巻]] p.267</ref><ref name="江上(1972)184">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.184</ref>。ラッサールの遺稿集を編纂した{{仮リンク|グスタフ・マイアー (歴史家)|label=グスタフ・マイアー|de|Gustav Mayer (Historiker)}}によると資料から確認できる限り、ビスマルクとラッサールは少なくとも5回は会見したという<ref name="林(1993,2)269">[[#林(1993)|林(1993)第2巻]] p.269</ref>。

最初の会談は上記のビスマルクの要請によって行われた物で、ラッサールの手紙やスケジュールから考察して恐らく5月12日か13日と見られる<ref name="林(1993,2)269">[[#林(1993)|林(1993)第2巻]] p.269</ref>。この会談でラッサールは「労働者階級は必ずしも君主制に否定的ではない」と語り、根っからの君主主義者たるビスマルクを喜ばせたという<ref name="林(1993,2)276">[[#林(1993)|林(1993)第2巻]] p.276</ref>。一方ビスマルクの方は現在の三等級選挙制度を廃止して普通選挙法を欽定する意志があることをラッサールに告げたようである<ref>[[#林(1993)|林(1993)第2巻]] p.277-278</ref>{{#tag:ref|納税額に応じた三等級選挙制度は当初保守派貴族を有利にすべく制定されたものだったが、実際には進歩党をはじめとする自由主義ブルジョワを台頭させる結果となった。プロイセンで多数を占める農業労働者は地主に強く従属していたから、ビスマルクはむしろ普通選挙の方が保守派に都合がいい選挙制度と考えるようになっていたのである<ref name="前田(1980)279-280">[[#前田(1980)|前田(1980)]] p.279-280</ref>。|group=注釈}}。

二度目の会談は6月8日付けのビスマルク宛の手紙でラッサールが要請したことによって行われた。会談の日時は定かでないが、ラッサールが旅行に出る6月28日より以前に行われたと見られる。この会談の詳細は不明だが、進歩党を共通の敵とすることを確認し合ったと見られる。またこの頃ビスマルクが出した新聞弾圧命令を「[[社会改良主義]]ではなく暴力革命に道を開くもの」としてビスマルクを諌めたようである<ref>[[#林(1993)|林(1993)第2巻]] p.178/278-279</ref>。

この後ラッサールはスイス、イタリア、ベルギー歴訪の旅行に出るも9月にはドイツへ戻り、ライン地方の各都市で全ドイツ労働者同盟支持を広げるための遊説を開始した。ゾーリンゲンでの遊説では数千人もの労働者を聴衆として集めたが、これを危険視した進歩党所属のゾーリンゲン市長が憲兵と警察官を率いて集会場に現れ、集会の解散を命じた。これに激怒したラッサールはすぐに近くの電信局へ飛びこみ、結社法を無視する進歩党市長の無法性と合法的救済を求める電報をビスマルクに送った。ビスマルクは関係部局に取り計らってやった。この一件は二人の関係について世間の注目を集めた<ref name="鶴見(1935)183">[[#鶴見(1935)|鶴見(1935)]] p.183</ref><ref name="林(1993,2)178">[[#林(1993)|林(1993)2巻]] p.178</ref>。

三度目の会談は10月24日に行われた。この会談は先の一件に関するゾーリンゲン市長の報告書がビスマルクに提出されたと聞いたラッサールが、再度ビスマルクに請願を行う必要を感じて会談を申し入れた結果、実現したものだった。この会談はゾーリンゲン事件についてのラッサールの報告が主となったようだが、他の問題にも話は及んだ。その中でビスマルクは「保守派と労働者は進歩党という共通の敵を持つのだから次の選挙では保守派を支援せよ」と求めたが、ラッサールは「今は保守派と労働者は等しく進歩党と闘争しているが、本来両者は激しい敵同士である」と答えており、この段階では保守派と組むことへの慎重姿勢を崩さなかった<ref>[[#林(1993)|林(1993)2巻]] p.282-283</ref>。

ラッサールのその姿勢が転換したのは1864年1月12日に行われた四度目の会談である。この会談は普通選挙法の欽定の噂を聞いたラッサールが「その噂が事実なら条文が決定される前に私と会談してほしい」とビスマルクに手紙で請願した結果、実現した。資料が少なく会談の具体的な内容は不明だが、普通選挙が主題になったことだけは間違いない。ビスマルクが普通選挙の欽定をラッサールに明言したかどうかは諸説あって定かではない。会談翌日の13日付けのビスマルク宛の手紙の中でラッサールは「昨日閣下に申し上げるのを忘れたが、選挙資格は是非あらゆるドイツ人に与えてほしい。それが道徳的なドイツ統一となる。」と改めて嘆願し、また「選挙の具体的方法と棄権防止の成案をまとめるのでもう一度会談してほしい」と要請した<ref>[[#林(1993)|林(1993)2巻]] p.284-287</ref>。

最後の会談は普通選挙を熱望するラッサールの強い要請で1864年1月末から2月初めころに行われた。この会談でラッサールは対デンマーク戦争を始める前に普通選挙法を欽定すべきと訴えたが、ビスマルクは戦争前に普通選挙法を欽定することはないと返答した。これに対してラッサールは戦争が泥沼化してビスマルクが解任された場合、普通選挙法欽定がお流れになるのではという懸念を表明している<ref name="林(1993,2)288">[[#林(1993)|林(1993)第2巻]] p.288</ref>。最後の会談におけるビスマルクの態度は全体的に冷淡だったが、これはビスマルクが対デンマーク戦争を通じて進歩党をナショナリズムのもとに屈服させることを目指すようになり、さしあたって労働者勢力との連携の必要性は薄くなったためと考えられる<ref name="林(1993,2)289">[[#林(1993)|林(1993)第2巻]] p.289</ref>。

1864年1月21日、またしても官憲が労働者の扇動を行っているとしてラッサールの事務所に強制捜査に入り、ラッサールの演説をまとめた小冊子『ベルリン労働者に告ぐ』を全部没収した。1月29日にはラッサール自身も逮捕された。この際にもラッサールはビスマルクに助けを求め、ビスマルクの圧力でその日の夜には身柄釈放を受けたが、起訴はされた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.212-213</ref>。その裁判においてラッサールは「ビスマルク氏は恐らく1年もたたないうちに[[ロバート・ピール]]の役割を演じて普通選挙を欽定するだろう」と演説している<ref name="林(1993,2)178">[[#林(1993)|林(1993)第2巻]] p.178</ref>。

ビスマルクとラッサールの会談は秘密裏に行われたものであるが、上記のゾーリンゲン事件や裁判での演説により二人の関係は噂にはなっていた<ref name="林(1993,2)179">[[#林(1993)|林(1993)第2巻]] p.179</ref>。そのため進歩党は専制政府と労働者階級に挟撃されるという危機感を抱き、社会主義者を「ビスマルクの雇われ人」と呼ぶようになった<ref name="前田(1980)282">[[#前田(1980)|前田(1980)]] p.282</ref>。

またビスマルクは一部ラッサールの政策をとりいれ、進歩党議員{{仮リンク|レオノール・ライヒェンハイム|de|Leonor Reichenheim}}の{{仮リンク|ヴェステギアースドルフ|de|Wüstegiersdorf}}の工場で13名の織工が解雇された際には彼らを保護し、ヴェステギアースドルフ生産組合を結成させている<ref>[[#リヒター(1990)|リヒター(1990)]] p.88-94</ref>。ただしラッサールは生産組合について大規模であることと普通選挙の存在を前提としていたため、これでは成功しないと見て手を貸さなかった<ref>[[#リヒター(1990)|リヒター(1990)]] p.94-95</ref>。そして案の定、生産組合を監督していた群長と織り工たちの対立、商業的観点の無さなどによりビスマルクの計画は失敗に終わっている<ref name="リヒター(1990)111">[[#リヒター(1990)|リヒター(1990)]] p.111</ref>。
{{-}}

=== ヘレーネ・フォン・デンニゲスとの恋愛騒動 ===
1864年7月に[[バイエルン王国]]の貴族外交官{{仮リンク|ヴィルヘルム・フォン・デンニゲス|de|Wilhelm von Dönniges}}の娘{{仮リンク|ヘレーネ・フォン・デンニゲス|label=ヘレーネ|de|Helene von Dönniges}}と恋仲になり、婚約した。しかし彼女は既にルーマニア貴族の御曹司ヤンコ・フォン・ラコヴィツア(Janko von Racowitza)と婚約していた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.230-232</ref><ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.97-98</ref><ref>[[#ブランデス(1923)|ブランデス(1923)]] p.368-370</ref>。彼女は8月3日にスイス・ジュネーブにいる両親にラッサールと婚約したことを打ち明けたが、デンニゲス家は保守的な一家だったので父も母も社会主義者との結婚には強く反対し、予定通りラコヴィツアと結婚するよう要求した。納得しないヘレーネに激怒した父親は彼女を部屋に監禁したが、彼女はすぐに家から抜け出し、ラッサールと落ち合った。彼女はそのまま[[駆け落ち]]することを希望したが、ラッサールの方は貴方の御両親を説得してみせると言い張った。そして彼女を追ってきた母親と話し合おうとしたが、母親は半ばヒステリー状態に陥っており、とても冷静に話し合い出来そうな空気ではなかったのでヘレーネにお願いしてひとまず家に帰ってもらうことにした<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.234-237</ref><ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.101-102</ref><ref>[[#ブランデス(1923)|ブランデス(1923)]] p.377-378</ref>。

しかしデンニゲスはヘレーネを再び監禁し、ラッサールが求める交渉も拒否した。ラッサールは伯爵夫人とも相談のうえ、8月15日にバイエルン王都[[ミュンヘン]]に赴き、デンニゲスの上司であるバイエルン外務大臣{{仮リンク|カール・フォン・シュレンク・フォン・ノツィング|de|Karl von Schrenck von Notzing}}男爵と会見した。彼はラッサールに好意的でデンニゲス宛ての書状を書いてくれ、さらに弁護士のヘンレ博士を自分の代理としてデンニゲスとの会談に同行させてくれた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.241-245</ref><ref name="ブランデス(1923)380">[[#ブランデス(1923)|ブランデス(1923)]] p.380</ref>。

しかしちょうどその頃、ジュネーブ滞在の友人{{仮リンク|ヴィルヘルム・リュストウ|de|Wilhelm Rüstow}}がヘレーネの手紙をラッサールに届けた。そこには「私はヤンコ・フォン・ラコヴィツアと和解しましたので、今後私と貴方の間には何らの関係もありえないことを私の自由な意思によりここに宣言します」と書いてあった。ラッサールは大変なショックを受けた。家族に強要されて書いた手紙と信じたかったが、彼女への疑念も捨てきれなかった。ラッサールは伯爵夫人への手紙の中で「もしヘレーネがナイン(ノー)というなら万事休す。私の苦労は全部お笑い草です。デンニゲスの立場は正当化され、私の希望は打ち砕かれ、この不実な女の持つ刃が私の心臓を貫くでしょう」「もしヘレーネに私の惨めさの千分の一でも想像する力があったなら、心変わりできるはずもないのですが…」と弱音を吐いている<ref name="江上(1972)246">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.246</ref>。

8月25日、ラッサールはヘンレ博士とともにバイエルン外相の書状を持ってジュネーブを再訪した。ヘンレ博士とリュストウが、ラッサールの「公証人の前でヘレーネの意志を正式に宣言させるべきである。その前にヘレーネの意志表明が真実かつ自由であることを確認するため、私に彼女との二時間以内の会談を許されるべし」という要望書をデンニゲス邸に持参した。ヘンレ博士とリュストウの証言によると、デンニゲスは「ヘレーネが望むならそれもいいだろう」と語り、ヘレーネ本人を呼び出したが、彼女はすっかりラッサールに興味を無くした様子だったという。以前ラッサールに告げた愛の言葉は「時のはずみで言っただけ」と切り捨て、ラッサールの要望も「あの人はおしゃべりです。2時間で済むはずはないわ」といって拒否したという<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.251-252</ref>{{#tag:ref|ヘレーネはこの時の態度について、後年「リュストウが自分に激しい憎しみを寄せていたせいである。ヘンレ博士ともう一度話せたら、多分自分は再びラッサールに抱かれただろう」と証言している。また彼女が以前リュストウに手渡したラッサールとの絶縁の手紙についても「父に強制されて書かされた物であり、リュストウの態度が冷たいから私の本心を彼に伝えられなかった」と証言している。ただしこれらはラッサールの名声が高まった後の証言であるため、「ラッサールと愛し合った女性」として自分を美化して宣伝しようとした可能性も指摘されている<ref name="江上(1972)253">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.253</ref>。|group=注釈}}。

リュストウとヘンレ博士の報告を受けたラッサールは絶望した。彼の恋は破れ、いまや自分は世界中から笑い物にされていると感じるようになった。雪辱をはらさずにはおけない心境となった。ヘレーネに宛てて「私の運命は貴女の手中にあります。しかしもし貴女が抗い難い卑劣な裏切りで私を破滅させるなら、私の運命は貴女の上に舞い戻り、私の呪いは墓場まで貴女を追っていくでしょう。それは、最も真実の心、貴女のために無残に打ちひしがれた心、そして貴女が恥ずかしげもなく弄んだ心の呪いです。」という怒りの手紙を送った<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.253-254</ref>。

=== 決闘死 ===
[[File:Ferdinand Lassalle Totenmaske 1864.jpg|180px|thumb|ラッサールの[[デスマスク]]]]
ラッサールはデンニゲスにも手紙を送り、「貴方の娘が取るに足らない[[娼婦]]であることが明らかになりました。私はもはや彼女と結婚して身を汚そうとは思いません。私にはもはや貴方の様々な侮辱に対する報復を遠慮すべき理由もありません。」として決闘を申し込んだ。デンニゲスは自分に代わってラコヴィツアが決闘に応じると返答し、自身は身を隠した<ref name="江上(1972)254-255">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.254-255</ref><ref name="幸徳(1904)103">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.103</ref><ref name="ブランデス(1923)387">[[#ブランデス(1923)|ブランデス(1923)]] p.387</ref>。

ラコヴィツアは恋敵の立場ではあるものの、そもそもヘレーネとラッサールを引き離したのは彼ではなくデンニゲスなのだから決闘としては筋違いの感もあったが、ラッサールはこれに応じた。半ば自殺のつもりで相手は誰でも良かったのではという指摘もある<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.255-256</ref><ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.103-104</ref>。決闘に先立って遺書を書き、ハッツフェルト伯爵夫人に9万マルクを遺贈し、またローター・ブーハーとリュストウに著作権を遺贈した<ref name="江上(1972)259">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.259</ref>。

8月28日午前7時半、ジュネーブ郊外の[[カルージュ]]でラッサールとラコヴィツアの決闘が行われた。3つ数えて撃ち合う形式の決闘だった。しかし相手のラコヴィツアは「ツヴァイ(2)」のあと「ドライ(3)」を待たずに発砲し、ラッサールは下腹部を撃たれた。その直後にラッサールも発砲したものの当たらなかった。駆け寄ってきた立会人が「負傷したか?」とラッサールに聞くと彼は「ええ」と答えた<ref name="江上(1972)254-255">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.260-261</ref><ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.104-105</ref><ref>[[#ブランデス(1923)|ブランデス(1923)]] p.390-391</ref>。すぐにホテルに運び込まれたものの、3日後の8月31日、駆け付けてきた伯爵夫人に手を取られながら息を引き取った。39歳だった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.261-262</ref><ref name="幸徳(1904)105">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.105</ref><ref>[[#ブランデス(1923)|ブランデス(1923)]] p.391-392</ref>。

伯爵夫人がジュネーブのユダヤ教会でラッサールの葬儀を主催し、4000人が参列した。ラッサールが収められた棺は、当初同盟の支部から支部へ運んでいき、最終的にはベルリンで葬られる予定だったが、警察の妨害があり、結局故郷ブレスラウへと送られ、同地のユダヤ人墓地に葬られた<ref name="メーリング(1969)下134">[[#メーリング(1969)下|メーリング(1969)下巻]] p.134</ref>。墓石には「思想家にして戦士 フェルディナント・ラッサールの亡骸をここに葬る」と刻まれている<ref name="江上(1972)266">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.266</ref><ref name="ブランデス(1923)394">[[#ブランデス(1923)|ブランデス(1923)]] p.394</ref>。

死にあたってはさすがのマルクスとエンゲルスも弔意を表した。エンゲルスはラッサールの死を告げたマルクスへの電報で「ラッサールが個人的に、あるいは思想家・文芸家として、どうだったとしても、彼は疑いもなくドイツにおける最重要人物だった。工場主や進歩党の連中は大喜びだろう。ラッサールは結局ドイツ中で彼らが最も恐れた唯一の男だった」と書いた<ref name="江上(1972)264">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.264</ref>。マルクスはラッサールの後継者となった{{仮リンク|ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー|de|Johann Baptist von Schweitzer}}に宛てた手紙の中で「運動で大きな過誤を犯したとはいえ、ドイツ労働運動を15年に渡るうたた寝から呼び覚ましたことはラッサールの不滅の功績である」と書いた<ref name="メーリング(1974,2)194">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.194</ref><ref name="森(1969)243">[[#森(1969)|森(1969)]] p.243</ref>。死にあたっての二人の態度の軟化は、当時対デンマーク戦争の勝利でブルジョワ自由主義者がビスマルクに屈服し始めたことに対する憤慨も含まれていると思われる<ref name="エンゲルベルク(1996)522">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.522</ref>。もっとも後に二人はラッサールがビスマルクと会談していたことを知るや、生きていたとき以上の激しいラッサール批判を展開することになる。

一方そのビスマルクはラッサールの死後、ラッサールの友人ローター・ブーハーを外務省に招き、側近として重用していく<ref>[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.607-608</ref>。

ラッサール亡き後の全ドイツ労働者同盟はシュヴァイツァーによって指導されたが、ラッサールの親ビスマルク路線は継承された<ref name="林(1993,2)178"/>。これに反発するマルクス系のアイゼナハ派([[アウグスト・ベーベル]]、[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]])と長い抗争となり、ドイツ労働運動に深刻な内部分裂が生じた。しかし[[ドイツ統一]]後のドイツ帝国議会選挙戦、またラッサール派・アイゼナハ派を問わぬ官憲の弾圧により、両者は徐々に結び付いていき、最終的に1875年5月の[[ゴータ]]大会で両派が統一され、[[ドイツ社会主義労働者党]]([[ドイツ社会民主党]]の前身)が結成されるに至った<ref>[[#メーリング(1969)下|メーリング(1969)下巻]] p.339/345/350</ref>。

{{Gallery
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|File:Grobowiec-Lassal.jpg|ブレスラウ、のちワルシャワに移されたフェルディナント・ラッサールの墓。
|File:Schloss-Kalkum 2.JPG|ハッツフェルト伯爵夫人が居城の{{仮リンク|カルクム城|de|Schloss Kalkum}}に設置させたラッサールの記念碑
|File:Düsseldorf, Spee'scher Park, Ferdinand Lasalle, 2012.jpg|[[デュッセルドルフ]]にあるラッサールの頭像
|File:Stamps of Germany (BRD) 1964, MiNr 443.jpg|ラッサールをデザインした[[ドイツ連邦共和国]]の切手
}}
{{-}}

== 人物 ==
[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]や[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]の[[ドイツ観念論]]や[[ロマン主義]]の支配的影響を受けつつ、[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]と[[ルートヴィヒ・ベルネ|ベルネ]]を通じて自由主義から社会主義思想へと導かれ、[[ロレンツ・フォン・シュタイン]]の影響で明確に社会主義思想を持つようになり、マルクスとエンゲルスの[[科学的社会主義]]にも影響されて一個の[[国家社会主義]]者となった人物である<ref name="森(1969)230">[[#森(1969)|森(1969)]] p.230</ref>。3月革命の指導者の一人だが、当時の彼は22歳の多感な若者だったので革命が挫折に終わった後も生涯にわたって革命の夢を追い続けることになった<ref name="西尾(1986)10">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.10</ref>。

社会主義共和政の統一ドイツを理想としたが、ヘーゲル的立場から「国家は論理的全一体の有機体」と考えていたため、たとえ社会主義共和政でなくとも、まずはドイツ統一国家を作ることが大事と考えていた。「連邦か国民的統一かという大きな対立に比すれば君主国か共和国かという対立は比較的無意味である」と述べている<ref name="森(1969)328">[[#森(1969)|森(1969)]] p.328</ref>。また「君主にはあらゆる階級闘争や党派争いを超越した論理的国家意思の全体の表現者という面がある」として君主制に一定の意義を認めている<ref name="森(1969)328">[[#森(1969)|森(1969)]] p.328</ref>。近代国民国家の多くがそうだったように、まずは一人の君主([[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]])を中心としたドイツ統一を進めることが現実的と考えていた<ref name="森(1969)330">[[#森(1969)|森(1969)]] p.330</ref>。

こうした君主制に対する柔軟な考えが保守主義者ビスマルクとの接近を可能とした。ラッサールはビスマルクとの会談で「社会的王権」や「普通選挙の欽定」といった君主主義的ともとれる要請を行っている。これを捉えてビスマルクは後年ドイツ帝国議会において「ラッサールは共和主義者ではなく君主主義者」と述べた。しかしラッサールは基本的に共和主義者であり、「社会的王権」は過渡的なものとして主張していたにすぎなかった<ref name="林(1993,2)309">[[#林(1993)|林(1993)第2巻]] p.309</ref>。なおラッサールは立憲君主制には一切意義を認めていなかった。彼は「[[絶対君主制]]と[[共和主義]]は理解できるが、[[立憲君主制]]は理解できない」「立憲君主制は奇形物であり虚偽だと思う」と語っている<ref name="前田(1980)73">[[#前田(1980)|前田(1980)]] p.73</ref>。

身長は5フィート6インチ(約168センチ)、髪は縮れ毛の[[鳶色]]、目は黒っぽい青色、額が広めで鼻は長い方だったという<ref name="幸徳(1904)29">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.29</ref>。威風堂々としており、悪くいえば気取った高慢なところが見えたが、その天才と精力が十分に発揮されていて男らしかったという<ref name="幸徳(1904)30">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.30</ref>。また話術が巧みだったといい、ビスマルクは「あんな愉快な男はいない。いつまで話していても飽きなかった」「我々の会談は何時間も続いた。それ以来ずっと、それが終わったことが残念でならなかった」と語っている<ref name="幸徳(1904)30">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.30</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)505">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.505</ref>。ラッサールの最も身近な人物の一人であるハッツフェルト伯爵夫人は「やろうとすること全ての物に対して全身全霊を傾けた。一点に対して全存在を賭けるその集中力こそ、大きな事業の中で彼を大変偉大にさせ、すばらしい成功をおさめさせた」と評する<ref name="西尾(1986)12">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.12</ref>。

== 評価 ==
[[File:Arbeiterbew.jpg|250px|thumb|[[ドイツ社会民主党]]の機関誌によりドイツ労働運動の先駆者とされた五人。[[カール・マルクス]](中央)、[[アウグスト・ベーベル]](左上)、[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]](右上)、{{仮リンク|カール・ヴィルヘルム・テルケ|de|Carl Wilhelm Tölcke}}(左下)、ラッサール(右下)]]
[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]や[[ヨハン・ロードベルトゥス|ロードベルトゥス]]の「[[国家社会主義]](Staatssozialismus)」の系譜を継ぐ人物と評価される<ref>[[#森(1969)|森(1969)]] p.236-237</ref>。

[[第一次世界大戦]]後、マルクス主義の「国家の死滅」を謳う無政府主義的国家観が忌避されて、その修正案としてラッサールの国家社会主義が注目されるようになり、社会主義者の間で「ラッサールに帰れ」という脱マルクスの言葉が叫ばれるようになった<ref>[[#森(1969)|森(1969)]] p.237-238</ref>。「民族社会主義(Nationalsozialismus)」の[[ナチ党]]政権下のドイツではヘーゲル精神の復興が叫ばれた。民族社会主義は民族主義思想の一形態なのでユダヤ人であるラッサールが称賛されることはなかったものの、ヘーゲルを再評価する以上、国家社会主義もその道の先にあったはずである<ref name="森(1969)238">[[#森(1969)|森(1969)]] p.238</ref>。

[[第二次世界大戦]]後、世界はマルクス主義の[[東側諸国]]と西欧民主主義の[[西側諸国]]に分裂し、ラッサールの国家社会主義の出る幕はなくなったようにも見えた<ref>[[#森(1969)|森(1969)]] p.238-239</ref>。しかし西側諸国ではマルクスの系譜に属さない社会主義者として再注目され、現在では「[[ドイツ社会民主党|ドイツ社会民主主義]]の創始者」という評価が一般的となった<ref name="西尾(1986)9">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.9</ref>。[[西ドイツ]]の歴史学者たちがラッサールを高く評価することに[[東ドイツ]]の歴史学者が反駁するということもあった<ref name="西尾(1986)10">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.10</ref>。

ラッサールへの批判として多いのが理論家としての独創性がないというものである。法学や哲学の分野ではそれほどではないが、経済思想ではその手の酷評を散々に受けてきた。[[カール・マルクス]]は自分の著書の「無愛想な借用」云々と批判し、{{仮リンク|カール・ディーター|de|Karl Diehl (Ökonom)}}は「完全に折衷屋」と評する。「経済はズブの素人」だの「剽窃」だの「折衷」だのといった行きすぎた批判には[[フランツ・メーリング]]が努めて反論しているが、そのメーリングも経済学者としてはラッサールはマルクスやエンゲルスに比肩すべくもないことを認め、ラッサールは法学・哲学の人だったと語っている<ref>[[#森(1969)|森(1969)]] p.242-243</ref>。ところが哲学の分野でも{{仮リンク|アドルフ・コーウト|de|Adolph Kohut}}や{{仮リンク|パウル・バース|de|Paul Barth (Philosoph)}}などは「ラッサールの理論は完全にヘーゲル哲学で構成されている」と評して独創性がないと主張している<ref name="森(1969)242">[[#森(1969)|森(1969)]] p.242</ref>。{{仮リンク|テオバルト・ツィーグラー|de|Theobald Ziegler}}は「ラッサールの意義は決して個々の思想にあるのではなく、それらの思想は彼に特有な物ではなく、概ね他からの借用である」と評し、[[ロベルト・ミヒェルス]]は「理論的には死せるラッサールは実践的には極めて生きている」と評し、ともに理論家ではなく実践家として評価されるべき人物としている<ref>[[#森(1969)|森(1969)]] p.239-240</ref>。

しかしこのように実践家としての彼だけを評価し、理論家としての彼を黙殺することは「理論家としてのラッサールをあまりに低く評価したものである」と[[森三十郎]]は主張する。森は「(ラッサールは)ヘーゲル哲学の支配的影響を受けているが、単なるヘーゲル亜流として止まらず、これに批判を加え、ヘーゲル離脱の傾向を示している。ヘーゲルの法律哲学や歴史哲学に対する内在的批判、カント的合理主義に対する歴史主義的立場の徹底や、其の歴史哲学的立場による社会主義理論の基礎付け、{{仮リンク|アントン・メルガー|de|Anton Menger}}によって理論的発展を遂げていると伝えられ、[[ゲオルグ・イェリネック]]によって注目されている『[[#政治運動への本格的参入|事実的権力関係]]』の概念等は、そのサヴィニー、シュタール批判などとともに彼が尋常一様の思想家ではなかったと我々に示しているし、{{仮リンク|ルドルフ・シュタムラー|de|Rudolf Stammler}}の『変化する内容の自然法』は既にラッサールの法思想に見出される」「法や国家についての唯物論的階級本位のマルクス主義の考え方には組みし得ない我々は、どこか東洋思想と一脈通じる物を感じさせるギリシャのヘラクレイトスの流れを受けたこのユダヤ人の実践的理想主義、ロマン主義、古典主義の香気を漂えた論理的国家社会主義に何か惹きつけられるものを感じるのである」と評している<ref>[[#森(1969)|森(1969)]] p.245-247</ref>。

ラッサールの理論家としての独創性の無さを批判する者も実践家としては称賛する者が多かった。マルクスは「ラッサールがドイツ労働運動を15年の眠りから呼び起こした」と語り、ツィーグラーも「もし一人の偉大な人物(ラッサール)が現れなかったならば、(ドイツ労働運動の組織化は)はるかに遅れていただろう。ラッサールの意義は実践的に創造するところにある。」と評価している<ref name="森(1969)244">[[#森(1969)|森(1969)]] p.244</ref>。実際に労働者大衆を引きつけることができたのはマルクスではなくラッサールだった。これについて[[猪木正道]]は「史上最初の本格的社会主義政党であるドイツ社会民主党がマルクスやエンゲルスの『共産党宣言』ではなく、ラッサールの『公開回答書』から誕生したことは興味深い」と評した<ref name="江上(1972)176">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.176</ref>。[[河合栄次郎]]は「ラッサールには大衆を引きつける人格的魅力・情熱・雄弁・智謀・事務能力があった」と述べている<ref name="西尾(1986)11">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.11</ref>。

しかし実践家としての彼に対してもマルクスやマルクス教条主義者からは「プロイセンのような封建的な国では自由主義ブルジョワとも組んでいかねばならないのにブルジョワを敵視し、ビスマルクのような反動保守にすり寄っている」、「普通選挙や生産組合を万能薬視している」、「理論をドグマ化して個人崇拝的な労働運動指導を行った」などといった批判がある<ref>[[#不破(2008)|不破(2008)]] p.154-157</ref>。これに対して[[フランツ・メーリング]]は「ラッサールはドイツの労働運動の進路に教条的な処方を押し付けようとしたのではなく、マルクスのいう意味で自己のアジテーションの現実的基礎に実在の階級運動を ―それがドイツに存在した限りで― 置いたのだ。彼は普通選挙権と組合の運動に期待をつないだが、この二つの思想は当時ドイツのプロレタリアートを動かし始めていた」<ref name="メーリング(1969)下32">[[#メーリング(1969)下|メーリング(1969)下巻]] p.32</ref>、「ラッサールはプロレタリア階級闘争のてことしての普通選挙の価値をマルクスやエンゲルスよりも正しく認めていたといえる」<ref name="メーリング(1974,2)190">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.190</ref>、「ラッサールははじめから普通選挙は魔法の杖ではないと言っていた。長い間かかってはじめて効力を発揮する物だと考えていた。」<ref name="メーリング(1969)下32">[[#メーリング(1969)下|メーリング(1969)下巻]] p.32</ref>、「マルクスは生産組合構想をカトリック社会主義者ビュシェからの借用だと思い込んでいたが、実際にはマルクスの『共産党宣言』にある信用の国家への集中と国営工場の設置という主張からとったものだった。そしてラッサールは生産組合を万能薬と見たことはなく、生産の社会化の端緒と見ていた。」<ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.186-187</ref>、「マルクスやエンゲルスはドイツでまだブルジョワ革命が可能だと信じていたから、ラッサールの出馬は全く時を得ないものと思えただろう。しかしラッサールはマルクスたちより事態を近くから見ていたので、マルクスたちより的確に判断し、進歩的ブルジョワの俗物的運動は成功しないという出発点からはじめ、この旗印のもと勝利した」<ref name="メーリング(1974,2)192">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.192</ref>、「ラッサールはブルジョワ革命が不可能である以上、ドイツ統一は王朝的変革とならざるをえないことも予言していた。そして新たな労働者党がこの変革を推進する楔の働きをすると考えたのである。」<ref name="メーリング(1974,2)192">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.192</ref>と言った反論をしている。また[[江上照彦]]は「マルクスはイギリスに住んで表現の自由を謳歌しているが、ラッサールは封建的なプロイセンで警察の厳重な言論監視のもとに著述と運動をするしかなかった」点を指摘している<ref name="江上(1972)193">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.193</ref>。

== 日本におけるラッサール ==
日本における社会主義草創期である[[明治時代]]末にはラッサールは日本社会主義者たちのスターだった<ref name="江上(1972)266">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.266</ref>。[[幸徳秋水]]にとってもラッサールは憧れの人であり、[[明治]]37年(1904年)には[[#幸徳(1904)|ラッサールの伝記]]を著している。その著作の中で秋水は「想ふに日本今日の時勢は、当時の独逸と極めて相似て居るのである。(略)今日の日本は第二のラッサールを呼ぶの必要が有るのではないか」と書いている。また[[吉田松陰]]とラッサールの類似性を主張して「若し松陰をして当時の独逸に生まれしめば、矢張ラッサールと同一の事業を為したかも知れぬ」と述べる。他方で二人の違いとして「ラッサールは一面において華奢風流の才子であった、松陰は何処までも木強の田舎漢であった、前者が戯曲を作るの間に、後者は孔孟の道徳を講じ、前者が評花品柳の楽しみに耽るの間に、後者は常に父母兄弟姉妹の温情に泣て居た」としている<ref name="江上(1972)9-10">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.9-10</ref><ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.5-8</ref>。社会主義的詩人[[児玉花外]]もラッサールの死を悼む詩を作っている<ref name="江上(1972)266">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.266</ref>。[[コミンテルン]]の[[片山潜]]もこの時期にはラッサールの国家社会主義に深く傾倒し、ラッサールについて「前の総理大臣ビスマルク侯に尊重せられし人なり。然り、彼は曹てビスマルクに独乙一統の経営策を与え、又た進んでビスマルクをして後日社会主義の労働者制度を執らしめたる偉人物」と評した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.7-8</ref>。しかし[[ロシア革命]]後には社会主義の本流は[[マルクス=レーニン主義]]との認識が日本社会主義者の間でも強まり、ラッサールは異端視されて社会主義者たちの間で語られることはなくなっていった<ref name="西尾(1986)29">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.29</ref>。

逆に反マルクス主義者の[[小泉信三]]や[[河合栄次郎]]はマルクスの対立者であるラッサールに深い関心を寄せるようになり、彼に関する評伝を書くようになった<ref name="江上(1972)7">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.7</ref>。この二人と二人の研究を引き継いだ[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]が戦前の主なラッサール研究者であった<ref name="西尾(1986)29">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.29</ref>。戦後には林健太郎の門下生の[[猪木正道]]や[[江上照彦]]らにもその研究が引き継がれた<ref name="西尾(1986)31">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.31</ref>。彼らの活動を中心としてラッサールの名は日本でも知られるようになっていった<ref name="西尾(1986)31">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.31</ref>。

{{-}}
== ラッサールの著作 ==
ラッサールの著作は1862年を境に前期と後期に分類することができる。前期は学究の時期に書かれたもので哲学・法学に関する物が多く、ヘーゲルの国家観や歴史観へのこだわりが強く見られる。しかし後期には政治的実践のためのプログラムが多くなる。これらは実践的要求からほとんど準備期間無しで書かれたものなので、そこからラッサールの思想を体系的に理解することは難しいとされている<ref name="西尾(1987)7-8">[[#西尾(1987)|西尾(1987)]] p.7-8</ref>。彼の主な著作は以下の通り。

*『Die Philosophie Herakleitos Des Dunklen Von Ephesos(ヘラクレイトスの哲学 エファソスの暗闘)』([[1857年]]11月)<ref name="西尾(1987)7">[[#西尾(1987)|西尾(1987)]] p.7</ref>
*『Franz von Sickingen(フランツ・フォン・ジッキンゲン)』([[1859年]]1月)<ref name="西尾(1987)7">[[#西尾(1987)|西尾(1987)]] p.7</ref>
*『Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens(イタリア戦争とプロイセンの義務)』(1859年)
*『Gotthold Ephraim Lessing(ゴットホルト・エフライム・レッシング)』(1861年7月)<ref name="西尾(1987)7">[[#西尾(1987)|西尾(1987)]] p.7</ref>
*『Das System der erworbenen Rechte(既得権の体系)』([[1861年]]4月)<ref name="西尾(1987)7-8"/>
*『Die Philosophie Fichtes und die Bedeutung des deutschen Volksgeistes(フィヒテ哲学とドイツ国民精神の意義)』([[1862年]]5月)<ref name="森(1969)240">[[#森(1969)|森(1969)]] p.240</ref><ref name="西尾(1987)8">[[#西尾(1987)|西尾(1987)]] p.8</ref>
*『Zur Arbeiterfrage(労働者綱領)』([[1862年]]6月)<ref name="森(1969)241">[[#森(1969)|森(1969)]] p.241</ref><ref name="西尾(1987)8"/><br/>邦訳:[[小泉信三]]訳『勞働者綱領』([[1946年]]、[[岩波書店]])、[[森田勉]]訳『憲法の本質・労働者綱領』([[1981年]]、[[法律文化社]])
*『Die Wissenschaft und die Arbeiter(学問と労働者)』([[1863年]]1月)<ref name="森(1969)241">[[#森(1969)|森(1969)]] p.241</ref><ref name="西尾(1987)8"/>
*『Offenes Antwortschreiben(公開回答書)』(1863年3月)<ref name="西尾(1987)8"/><br/>邦訳:[[猪木正道]]訳『学問と労働者・公開答状』([[1953年]]、[[創元社]])
*『Die indirekte steuer und die lage der arbeitenden Klassen(間接税と労働者階級の状態)』(1863年6月)<ref name="西尾(1987)8"/><ref name="森(1969)241">[[#森(1969)|森(1969)]] p.241</ref><br/>邦訳:[[大内力]]訳『間接税と労働者階級』([[1960年]]、[[岩波書店]])


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{commons|Neville Chamberlain}}
{{Commonscat|Ferdinand Lassalle}}
*[[イギリスの首相一覧]]
*[[国家社会主義]]
*[[保守党 (イギリス)|保守党]]
*[[夜警国家]]
*[[ジョゼフ・チェンバレン]]
*{{仮リンク|公開回答書|de|Offenes Antwortschreiben}}
*[[オースティン・チェンバレン]]
*{{仮リンク|全ドイツ労働者同盟|de|Allgemeiner Deutscher Arbeiterverein}}
*[[スタンリー・ボールドウィン]]
*[[ドイツ社会主義労働者党]]
*[[ウィンストン・チャーチル]]
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*{{仮リンク|ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー|de|Johann Baptist von Schweitzer}}
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ネヴィル・チェンバレン
Neville Chamberlain
生年月日 1869年3月18日
出生地 イギリスイングランドバーミンガム
没年月日 (1940-11-09) 1940年11月9日(71歳没)
死没地 イギリス・イングランド・ヘックフィールド
出身校 メーソン・サイエンス・カレッジ英語版
前職 実業家
所属政党 保守党
称号 王立協会フェロー(FRS)
配偶者 アン英語版
親族 ジョゼフ・チェンバレン(父)
オースティン・チェンバレン(異母兄)
サイン

在任期間 1937年5月28日 - 1940年5月10日[1]
国王 ジョージ6世

内閣 第1次ボールドウィン内閣
マクドナルド挙国一致内閣
第3次ボールドウィン内閣
在任期間 1923年8月27日 - 1924年1月22日[2]
1931年11月5日 - 1937年5月28日[2]

内閣 ボナー・ロー内閣
第1次ボールドウィン内閣
第2次ボールドウィン内閣
マクドナルド挙国一致内閣
在任期間 1923年3月7日 - 1923年8月27日
1924年11月6日 - 1929年6月4日
1931年8月25日 - 1931年11月5日

内閣 ボナー・ロー内閣
在任期間 1922年 - 1923年[3]

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 バーミンガム・レディウッド選挙区英語版
バーミンガム・エッジバストン選挙区英語版[3]
在任期間 1918年12月14日 - 1929年5月30日
1929年5月30日 - 1940年11月9日[3]

その他の職歴
バーミンガム市長英語版
1915年 - 1917年
保守党党首
1937年5月31日 - 1940年10月5日[4]
イギリスの旗 枢密院議長
1940年5月11日 - 1940年10月3日
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アーサー・ネヴィル・チェンバレンArthur Neville Chamberlain, FRS1869年3月18日 - 1940年11月9日)は、イギリスの政治家。

実業家として活躍した後、バーミンガム市長英語版を経て、1918年保守党議員として中央政界へ移る。スタンリー・ボールドウィンの3度の内閣やラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣大蔵大臣保険大臣英語版を務め、福祉政策に貢献した。1937年5月のボールドウィンの引退で代わって保守党党首・首相となる。当初ナチス・ドイツに対して宥和政策をとっていたが、1939年ドイツ軍ポーランド侵攻を機に対独開戦に踏み切り、第二次世界大戦を勃発させた。しかし1940年4月から始まった北欧戦でドイツ軍に惨敗を喫して引責辞任した。

植民地大臣を務めたジョゼフ・チェンバレンは父、外務大臣を務めたオースティン・チェンバレンは異母兄にあたる。

概要[編集]

1869年、後に植民地大臣となる実業家ジョゼフ・チェンバレンの次男として生まれる。異母兄にオースティンがいる。メーソン・サイエンス・カレッジ英語版を卒業後、会計事務所に勤務。1891年から7年に渡ってバハマ諸島アンドロス島シザル麻栽培のための事業を行うが失敗。その後バーミンガムで実業家として名を上げ、1911年にはバーミンガム市議会議員、1915年にはバーミンガム市長英語版となる。

1918年12月の解散総選挙バーミンガム・レディウッド選挙区英語版から保守党候補として出馬して当選。1922年アンドルー・ボナー・ロー内閣の郵政長官英語版に就任。1923年3月には保険大臣英語版に昇進。続く第一次スタンリー・ボールドウィン内閣でも重用され、同年8月には大蔵大臣に就任した。

1924年11月から1929年6月の第二次ボールドウィン内閣にも保健大臣として入閣し、妊婦死亡率の減少や住宅建設に尽力した。1931年8月から1935年5月のラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣に大蔵大臣として入閣し、世界大恐慌対策に均衡財政を目指した。しかしドイツでアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党が政権を獲得し、再軍備を進めるようになると軍事費の増額を目指すようになった。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1869年3月18日バーミンガムエッジバストン英語版で生まれた。父は当時バーミンガムの大実業家だったジョゼフ・チェンバレン。母はその後妻フロレンス(旧姓ケンルック)[5]。同母妹が三人いる。また父ジョゼフは先妻との間にも子供を二人儲けており、そのうちの一人がオースティンだった[6]

6歳の時に母フロレンスが出産が原因で死去し、母のいない家庭で育つことになった。この孤独感がネヴィルの独立心・自制心を形成したという[6]。また母がいない家庭を作ってはならないという信念を強め、後のネヴィルの福祉への積極的な取り組みの思想的背景となった[6]ラグビー校を卒業後、メーソン・サイエンス・カレッジ英語版(後にこのカレッジはバーミンガム大学のカレッジの一つとなる)に入学し、科学工学を学んだ[5]

政治家に転身した父ジョゼフは、理系の道を突き進む次男ネヴィルを見て「ネヴィルは決して政治家にはならないだろう」と予想した。実際、ネヴィルはすぐには政治家にならず、大学卒業後には会計事務所に勤務している。その勤務ぶりは非常に精勤であったという[7]

実業家として[編集]

若き日のネヴィル・チェンバレン

父ジョゼフは政治に専念するべく、1880年代に実業界から身を引いたが、1890年にはバハマ総督アンブローズ・シー英語版と知り合ったことでバハマ諸島シザル麻栽培に関心を持ち、1891年に息子のオースティンとネヴィルをバハマ諸島・アンドロス島へ調査に行かせた。結局ジョゼフはここにアンドロス繊維会社を立ち上げることとし、ネヴィルにその経営を任せた。以降7年に渡ってアンドロス島に滞在してシザル麻栽培に尽くすことになる[8]

22歳から28歳という多感な青年期を隔絶された孤独な環境で過ごしたことはチェンバレンの独立心と自制心を一層育てたという[9]

労働者を雇って土地の開墾の指揮をとりつつ、しばしば自らもを振るって開墾に参加したという[10]。だが苦労して作ったシザル麻栽培のための土地は栽培に全く向いておらず、最終的にアンドロス繊維会社の事業は5万ポンドもの損失を出して失敗に終わった[11]

アンドロス島から帰還するとバーミンガムのエリオット金属会社やホスキンズ・アンド・サン会社(船舶用金属製寝台製造会社)に勤務するようになった[12]1911年にはアン・コール英語版と結婚した[9]

やがてバーミンガム産業界の指導的人物となり、1911年にはバーミンガム市議会議員となり、市の都市計画と福祉事業に参画する[13]

バーミンガム市長[編集]

第一次世界大戦中の1915年にはバーミンガム市長英語版に就任した[9]

バーミンガム市長となったチェンバレンは戦時貯蓄銀行の必要性を感じ、これに反対していた大蔵省金融担当政務次官英語版エドウィン・サミュエル・モンタギュー英語版ロイド銀行ロンドン・シティ・アンド・ミッドランド銀行英語版などを熱心に説得し、ついに1916年に戦債投資法を庶民院に通過させることに成功した。この法律は貯蓄を戦債に投資させるためのものであり、これによってバーミンガム戦時貯蓄銀行の樹立が可能となった[12]

デビッド・ロイド・ジョージはチェンバレンと会ったことはなかったが、市長としての業績を高く評価し、ロイド・ジョージが首相となった1916年12月に国民兵役担当長官に任じられた。しかしロイド・ジョージとの関係がうまくいかず、まもなく辞職した[9][14]

中央政界へ[編集]

1917年のネヴィル・チェンバレン

1918年12月の解散総選挙バーミンガム・レディウッド選挙区英語版から保守党候補として出馬して初当選を果たす。当時保守党はロイド・ジョージ政権を支えていたが、チェンバレンはロイド・ジョージとは距離を置いていた[9]

1922年に保守党はロイド・ジョージとの大連立を解消し、ボナー・ローを首相とする単独政権を樹立した。チェンバレンはその内閣に郵政長官英語版として入閣した[9]。ボナー・ローとしてはチェンバレンに彼の兄であるオースティンとの橋渡し役を期待していたという[14]

1923年3月には保険大臣英語版に転任する。5月にボナー・ローが引退し、スタンリー・ボールドウィンが後任の首相・保守党党首となるが、ボールドウィンからも重用され、8月には大蔵大臣に抜擢された。チェンバレンは父ジョゼフと同様に社会保障の財源として関税を見込んでおり、保護貿易の帝国特恵関税制度英語版を支持していた。11月にはボールドウィンも帝国特恵関税制度の必要性を感じて、12月にその是非を問う解散総選挙に打って出た。しかし保守党はその総選挙で敗北したため、チェンバレンも予算に携わる機会のないまま蔵相を辞した[15]

第二次ボールドウィン内閣保健大臣[編集]

1924年11月に成立した第二次ボールドウィン内閣でも保健大臣に再任され、政権が崩壊する1929年6月までの長期にわたって在職した。

1926年には助産婦および産院法制定を主導した。これによって妊婦死亡率は大きく減少した[13]。また1926年から住宅建設を主導し、1929年の退任までに100万戸もの住宅を建設した。またスラム街の一掃にも尽力し、1929年までにイングランドとウェールズで58のスラム街を消滅させることに成功した[13]

1928年には保健大臣に救貧委員の任命権限を与える『救貧委員怠慢法案』の制定を主導した。この法律は労働党の影響下にある市議会や救貧委員会の浪費を抑えることを主眼としていたため、労働党の強い反発を買った。労働党は悪意ある質問をチェンバレンに集中させた。チェンバレンの方も労働党への憎しみを強め、労働党議員を個人攻撃するようになった。そのやり方の評判がよくなかったため、しばしば首相ボールドウィンから注意された。この後も労働党との対立は根深く続くことになる[16]

この保健相在任中に保守党内におけるナンバーツーの座を確立していった[17]

マクドナルド挙国一致内閣大蔵大臣[編集]

1931年8月に労働党政権の首相ラムゼイ・マクドナルド世界大恐慌対策に失業手当と公務員給料の削減による均衡財政を目指したが、失業手当削減をめぐって閣内分裂して政権崩壊した。マクドナルドは労働党大連立派(ごく少数)と保守党と自由党で大連立し、挙国一致内閣を形成した。チェンバレンもこの内閣に保健大臣として入閣。11月には大蔵大臣に転じた。チェンバレンはマクドナルドの均衡財政方針を全面的に支持しており、「予算というものは長期にわたって均衡を図るより、年毎に均衡を図るべきである」と述べていた[18]

大蔵大臣としての最初の予算案から所得税の増税を行った。また為替平衡勘定を設定することで投棄に歯止めをかけて為替安定を図った。さらに低金利政策を実施し、20億ポンドに及ぶ5分利子の戦時国債を3分5厘に借り換えるか償還するかし、また公定歩合を2%に下げた。この結果、年間3000万ポンドの節約が実現された[19]

また1932年には大英帝国外からの全商品に10%の関税を課しつつ、帝国内からの商品には関税を課さないという帝国特恵関税構想に基づく『輸入関税法』を可決させた。この際にチェンバレンは「父ジョゼフの考え方を直接に、しかも正確に受け継いだこの法案が父の愛した庶民院に提出され、しかも父の名声と血を直接に受け継いだ息子2人のうちの1人によって提出されたということを父が知り得たとすれば、絶望した父が安らぎを見出すであろうと信じる」と演説した。これはチェンバレンの生涯を通して唯一の感情的演説であるとされる[20]

1933年1月にドイツでアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を獲得した。チェンバレンは駐ドイツ・イギリス大使英語版サー・ホレース・ランボールド准男爵英語版のヒトラーの軍拡方針とナショナリズムを危険視した報告書と1934年7月にオーストリア・ナチ党員がオーストリア首相エンゲルベルト・ドルフースを暗殺した事件を見て、ヒトラーを危険視するようになった[21]

チェンバレンは1934年度予算から軍事費を大幅に増額していった[21]

第三次ボールドウィン内閣大蔵大臣[編集]

1935年6月、マクドナルド首相が引退し、ボールドウィンが首相となる[22]。チェンバレンは引き続き大蔵大臣を務めた[2]。この最後のボールドウィン内閣の最高指導者は事実上チェンバレンであり、とりわけ軍事問題については彼が最大の影響力を持った[23]

チェンバレンは毎年軍事費を上昇させ続けた。当初は均衡財政にも固執して道路基金からの借入や所得税や茶税の引き上げなどで軍事費急上昇に対応したが、それだけでは軍拡の維持は難しくなり、1937年2月には防衛国債法案を成立させて国債で軍事費を賄うようになった[24]

一方ヒトラーもドイツの軍拡を急ピッチで進めていた。やがてドイツ再軍備が既成事実化してしまうとチェンバレンはいつまでも形骸化したヴェルサイユ条約ロカルノ条約に固執していても仕方ないと考えるようになり、ドイツへの宥和的対応も必要という立場に転じていった[25]。またドイツが強力になればソ連共産主義に対する防波堤の役割を果たしてくれるという期待感も持つようになった[26]

1936年3月にヒトラーは仏ソ相互援助条約フランス語版を理由にヴェルサイユ条約で非武装地帯に定められていたラインラントへ進駐したが、イギリス国内ではドイツの領土にドイツ軍が入っていただけとして融和ムードが強かった[27]。チェンバレンも同様の考えであり、イギリスに伺いを立てに来たフランス外相ピエール=エティエンヌ・フランダンフランス語版に対して「イギリスの世論はどのような対独制裁も支持しないであろう」と返答している。外相アンソニー・イーデンがこの方針を「ヨーロッパの宥和」政策としてまとめ、チェンバレンもそれに賛成した結果、以降チェンバレンの対独譲歩政策は宥和政策と呼ばれるようになった[28]

1936年7月にスペインで、左翼政府「人民戦線」とフランコ将軍率いる右派の武力衝突が発生し、ソ連が左翼政府を、ドイツ・イタリアが右派を支援した(スペイン内戦)。この戦争に対してイーデン外相はイギリスの不干渉方針を表明し、チェンバレンもこの方針に賛同した。チェンバレンの考えるところ、不干渉方針は独ソを潰し合わせてイギリスが漁夫の利を得ることができるうまい手段であった。一方、野党労働党は左翼政府を支持しており、政府の不干渉政策を批判したが、イギリス世論の大半は戦争に引きずり込まれることを望んでおらず、政府の不干渉方針を支持する者が多かった[29]

チェンバレン内閣[編集]

1937年5月にボールドウィンが引退したとき、チェンバレンが後任の保守党首・首相となることに反対する者は党内にいなかった。党内の反執行部分子になっていたウィンストン・チャーチルさえも反対しなかった(ただしチャーチルは「党内の反対意見に耳を貸す」ことを新党首に要求した)[30]

宥和政策を続行する意思であったチェンバレンは、1937年11月にハリファックス卿英語版をドイツに派遣した。彼とヒトラーの会談からドイツと友好関係を保つことは可能との自信を強めた[31]

他方でイタリアをドイツから引き離すことでドイツを孤立させることも企図し、イタリアのムッソリーニ首相と接近を図った。外相イーデンはスペイン問題でイタリアが何度も約束を反故にしたことからイタリアに不信感を持っており、これに反対したが、チェンバレンから受け入れられなかったため、1938年2月に辞職した。チェンバレンはイーデンの後任にハリファックス卿を任じ、4月にもイタリアとの間に、地中海の現状維持、イタリアのエチオピア植民地化の承認、イタリア義勇軍のスペインからの撤収を約定した英伊協定を締結した[32]

しかしその間の1938年3月12日にヒトラーはドイツ民族国家オーストリアをドイツに併合した(アンシュルス)。チェンバレンは「オーストリア問題は今や邪魔にならない」として捨て置いた。庶民院では野党やチャーチルら保守党反執行部派から「傍観した」という批判を受けたが、チェンバレンは「もしこれを阻止しようとするなら軍事力を行使する以外になかった」と反論して反戦世論に訴えかけ理解を求めた[33]

アンシュルス後、ソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンがチェンバレンに接触を図ってきたが、チェンバレンはソ連との連携を拒否した[34]。彼はスターリンの動機を疑っていたし、ソ連赤軍大粛清により軍部のほとんどが皆殺しにされ、機能不全状況に陥っていたので同盟を結んだところでまともな戦力になると思えなかった。いたずらにヒトラーに孤立への不安を与えて先鋭化させ、またドイツと防共協定を結ぶ日本も警戒してドイツへの接近を推し進めるという結果になる恐れが高かった[34][35]


人物・評価[編集]

ハロルド・マクミランは「今日ミュンヘン会談とか、首相としての悲劇な時代と関連させて、チェンバレンを考える人々もいるが、しかしそのような人々は社会改良に関する彼の素晴らしい業績を忘れてはならない」と語っている[36]。一方ブレイク男爵英語版はチェンバレンは社会改革論者であったが、既存制度の緩和に留まっており、干渉論的資本主義者ではなかったとしている[37]

[38]


脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 朝倉治彦三浦一郎『世界人物逸話大事典』角川書店、1996年(平成8年)。ISBN 978-4040319001 
  • 河合秀和『チャーチル イギリス現代史を転換させた一人の政治家 増補版』中央公論社中公新書530〉、1998年(平成10年)。ISBN 978-4121905307 
  • 坂井秀夫『近代イギリス政治外交史4 人間・イメージ・政治』創文社、1977年(昭和52年)。ASIN B000J8Y7CA 
  • 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220 
  • 早川崇『ジョセフ・チェンバレン 非凡な議会人の生涯と業績』第一法規、1983年(昭和58年)。 
  • ブレイク男爵英語版 著、早川崇 訳『英国保守党史 ピールからチャーチルまで』労働法令協会、1979年(昭和54年)。ASIN B000J73JSE 

関連項目[編集]

公職
先代
フレデリック・ケラウェイ英語版
イギリスの旗 郵政長官英語版
1922年-1923年
次代
サー・ウィリアム・ジョインソン=ヒックス准男爵英語版
先代
サー・アーサー・グリフィス・ボスカウェン英語版
イギリスの旗 保険大臣英語版
1923年
先代
スタンリー・ボールドウィン
イギリスの旗 大蔵大臣
1923年 - 1924年
次代
フィリップ・スノーデン英語版
先代
ジョン・ウィートリー英語版
イギリスの旗 保険大臣
1924年 - 1929年
次代
アーサー・グリーンウッド英語版
先代
アーサー・グリーンウッド英語版
イギリスの旗 保険大臣
1931年
次代
エドワード・ヒルトン・ヤング英語版
先代
フィリップ・スノーデン英語版
イギリスの旗 大蔵大臣
1931年 - 1937年
次代
ジョン・シモン英語版
先代
スタンリー・ボールドウィン
イギリスの旗 首相
1937年 - 1940年
次代
ウィンストン・チャーチル
先代
第7代スタンホープ伯爵英語版
イギリスの旗 枢密院議長
1940年
次代
ジョン・アンダーソン英語版
党職
先代
スタンリー・ボールドウィン
イギリス保守党党首
1937年 - 1940年
次代
ウィンストン・チャーチル