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パリからベルリンへ戻った後、{{仮リンク|ハッツフェルト家|label=ハッツフェルト伯爵家|de|Hatzfeld (Adelsgeschlecht)}}の夫人ゾフィーと知り合った。彼女の夫であるはハッツフェルト伯爵は放蕩者なうえ、妻に様々な迫害を加えていた。そのためゾフィーは伯爵との離婚を希望しており、そのことをラッサールに相談した。ラッサールはこれを「貴族の横暴との闘い」と看做して彼女に代わって伯爵と闘う決意を固めた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.47-49</ref><ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.15-17</ref>。 |
パリからベルリンへ戻った後、{{仮リンク|ハッツフェルト家|label=ハッツフェルト伯爵家|de|Hatzfeld (Adelsgeschlecht)}}の夫人ゾフィーと知り合った。彼女の夫であるはハッツフェルト伯爵は放蕩者なうえ、妻に様々な迫害を加えていた。そのためゾフィーは伯爵との離婚を希望しており、そのことをラッサールに相談した。ラッサールはこれを「貴族の横暴との闘い」と看做して彼女に代わって伯爵と闘う決意を固めた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.47-49</ref><ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.15-17</ref>。 |
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はじめ伯爵に決闘を申し込んだが、伯爵からは「バカなユダヤの小僧」と相手にしてもらえなかった<ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.17-18</ref>。結局離婚訴訟で闘うことになり、ラッサールは1846年から1854年までの長きにわたってこの訴訟に尽力することになる<ref name="江上(1972)54">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.54</ref>。 |
はじめ伯爵に決闘を申し込んだが、伯爵からは「バカなユダヤの小僧」と相手にしてもらえなかった<ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.17-18</ref>。結局離婚訴訟で闘うことになり、ラッサールは1846年から1854年までの長きにわたってこの訴訟に尽力することになる<ref name="江上(1972)54">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.54</ref>。[[猪木正道]]は「学者にとって決定的なのは大学卒業後の数年間であるが、ラッサールはその期間空費とまでは言わないものの、脇道にそれてしまった」として惜しんでいる<ref name="江上(1972)51">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.51</ref>{{#tag:ref|7年後にマルクスはラッサールのハッツフェルト伯爵夫人離婚訴訟への熱の入れようを「ラッサールは本当に偉大な人間はこんな下らないことにも10年の時を費やすのだと言わんばかりに、見境もなく私的陰謀の渦中にあったのだから、自分こそは世界を自分の意思どおりにできると思っていたに違いない」と批判している。またエンゲルスは「我々がこんな事件でラッサールとグルになっていると思われぬよう『[[新ライン新聞]]』は意図的にこの事件を報道しなかった」と述べているが、これはエンゲルスの嘘であり、『新ライン新聞』は小箱窃盗事件の訴訟を事細かに報道していた<ref name="メーリング(1974)300">[[#メーリング(1974)|メーリング(1974)]] p.300</ref>。|group=注釈}}。 |
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訴訟中ラッサールは伯爵の愛人が持っている伯爵が次男に与えるべき財産をその愛人に譲ろうとした文書が入った小箱を盗み出したとされて、1848年2月に窃盗罪容疑で警察に逮捕された<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.57-58</ref>{{#tag:ref|[[フランツ・メーリング]]はマルクスの伝記の中でラッサールの小箱窃盗事件はでっちあげられた罪状としている<ref name="メーリング(1974)299">[[#メーリング(1974)|メーリング(1974)]] p.299</ref>。|group=注釈}}。 |
訴訟中ラッサールは伯爵の愛人が持っている伯爵が次男に与えるべき財産をその愛人に譲ろうとした文書が入った小箱を盗み出したとされて、1848年2月に窃盗罪容疑で警察に逮捕された<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.57-58</ref>{{#tag:ref|[[フランツ・メーリング]]はマルクスの伝記の中でラッサールの小箱窃盗事件はでっちあげられた罪状としている<ref name="メーリング(1974)299">[[#メーリング(1974)|メーリング(1974)]] p.299</ref>。|group=注釈}}。 |
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1850年10月から1851年4月にかけて先の判決が執行され、服役<ref name="江上(1972)69">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.69</ref>。 |
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=== ベルリンでの生活 === |
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1854年、8年に及ぶ訴訟に疲れたハッツフェルト伯爵が和解を求めるようになり、離婚訴訟に勝訴した。これにより伯爵夫人は巨額の財産を獲得し、ラッサールも伯爵夫人から年金4000[[ターレル]]を得られるようになり{{#tag:ref|この金額は当時のプロイセンの大臣の俸給の半分に匹敵する<ref name="江上(1972)75">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.75</ref>。|group=注釈}}、裕福な生活を送るようになった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.74-75</ref>。この年金はラッサールにとって社会主義研究に没頭する上で重要な収入源となった<ref name="幸徳(1904)21">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.21</ref>。 |
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この後、伯爵夫人とラッサールはクリンドワースという男と親しくなった。この人物はロシア皇帝[[ニコライ1世]]やフランス皇帝[[ナポレオン3世]]の御用だったというふれこみの人物だが、本当かどうか定かではない[[山師]]的人物だった。ラッサールはクリンドワースから国際的な情報を流してもらうようになり、それをロンドンのマルクスに手紙で伝えたり、投資を行ったりした<ref name="江上(1972)76">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.76</ref>。またクリンドワースの娘であるアグネス・デニスストリートと情を通じるようになり、二人は子供を儲けるに至った<ref name="江上(1972)77">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.77</ref> |
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2013年4月19日 (金) 10:20時点における版
![]() 1860年のラッサール | |
人物情報 | |
---|---|
生誕 |
1825年4月11日![]() |
死没 |
1864年8月31日(39歳没)![]() |
出身校 | ブレスラウ大学、ベルリン大学 |
学問 | |
時代 | 19世紀中頃 |
学派 | 国家社会主義 |
特筆すべき概念 | 「夜警国家」批判 |
影響を受けた人物 | ヘラクレイトス[1]、ハイネ[2][3]、ベルネ[2]、ヘーゲル[4]、サン=シモン[5]、フーリエ[5]、ルイ・ブラン[5] |
影響を与えた人物 | ビスマルク、幸徳秋水[6]、片山潜[6] |
フェルディナント・ラッサール (Ferdinand Lassalle、1825年4月11日 - 1864年8月31日)は、ドイツの政治学者、社会主義者、労働運動指導者。
概要
生涯
生い立ち
1825年4月11日にプロイセン王国領ブレスラウに裕福な中産階級に属する絹商人のユダヤ人の息子として生まれる[7][8]。
ブレスラウをはじめポーランド地方の都市にはユダヤ人が多く暮らしていた。同じプロイセン領でもライン地方のユダヤ人はフランス革命やナポレオン法典の影響で比較的自由主義的な気風の中で生活していたが、ポーランドのユダヤ人は虫けら同然に扱われており、貧しいユダヤ人の多くはゲットーに押し込められていた。ラッサールはゲットー外の裕福なユダヤ人家庭の出身者だが、ユダヤ人に対する激しい差別を見て育ったため、現状を打破したいという強い欲求をもつに至った。1840年5月にダマスカスで大規模なユダヤ人迫害が起こった時にも立ち上がろうとしないユダヤ人に歯がゆい思いをした様子が日記からうかがえる[9][10]。
1840年5月にライプツィヒの商業学校に転校した。しかし簿記・会計の勉強には興味が持てず、思想に入れ込んでいった。ハイネやベルネといったユダヤ人文芸者の著作を通じて、民主主義・共和主義・革命主義の最初の影響を受けた[11]。また封建主義的なドイツ諸国に絶望し、自由主義的なフランスに憧れを持つようになった[12]。
大学時代
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/Ferdinand_Lassalle_%281825-1864%29.jpg/180px-Ferdinand_Lassalle_%281825-1864%29.jpg)
大学で歴史を学びたいと考えるようになったラッサールは父親を説得のうえ、1841年8月に商業学校を退学し、ブレスラウのカトリック系のギムナジウムに転校した。カトリックはプロテスタント国家のプロイセンにおいては少数派だったので同じ少数派のユダヤ人を差別することはないだろうと考えて、この学校を選んだものと思われる[13]。現実はそう甘くなく、様々なユダヤ人差別に遭遇したが、1843年春には試験に合格してブレスラウ大学に入学できた。大学では文献学、ついで哲学を学んだ[14]。
英仏ほどではないとしてもプロイセンの大学でも自由主義の思潮と封建主義打倒の機運が高まっていた。学生の間でのそうした活動はブルシェンシャフトと呼ばれる学生団体によって行われていた。ラッサールもこうした学生団体に加わり、すぐに頭角を現してリーダー的存在となった[15]。この頃、ヘーゲル左派のフォイエルバッハ准教授がプロイセン政府から「危険思想」の持ち主と看做され、大学を追放される事件があった。これに対して急進派学生はラッサールを中心に抵抗運動を展開した。この活動でラッサールは学内随一の雄弁家として名をはせるようになり、大学から危険分子扱いされ一時謹慎処分を受けた[16]。
この後の1844年春、ヘーゲル哲学を本格的に学ぶべく、ベルリン大学へと移籍した[17]。ヘーゲル研究に熱中したが、他にもサン=シモンやフーリエ、ルイ・ブラン等の社会主義者から影響を受けた[5]。
ベルリン大学の卒業論文では古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの研究に取り組んだ。ヘーゲルの弁証法とヘラクレイトスの流転の素因に似たところがあると考えたからだが、同時にヘラクレイトスは難解といわれていたため、困難を前にすると突破したくなるラッサールの闘争心が刺激されたものと考えられている[18]。
1845年秋から1846年1月にかけて、ヘラクレイトス研究のため、フランス・パリを訪問した[19][20]。パリでプルードンやハイネと会見する機会を得た。とりわけ同じユダヤ人のハイネとは意気投合した[21]。
ハッツフェルト伯爵夫人の離婚訴訟
パリからベルリンへ戻った後、ハッツフェルト伯爵家の夫人ゾフィーと知り合った。彼女の夫であるはハッツフェルト伯爵は放蕩者なうえ、妻に様々な迫害を加えていた。そのためゾフィーは伯爵との離婚を希望しており、そのことをラッサールに相談した。ラッサールはこれを「貴族の横暴との闘い」と看做して彼女に代わって伯爵と闘う決意を固めた[22][23]。
はじめ伯爵に決闘を申し込んだが、伯爵からは「バカなユダヤの小僧」と相手にしてもらえなかった[24]。結局離婚訴訟で闘うことになり、ラッサールは1846年から1854年までの長きにわたってこの訴訟に尽力することになる[25]。猪木正道は「学者にとって決定的なのは大学卒業後の数年間であるが、ラッサールはその期間空費とまでは言わないものの、脇道にそれてしまった」として惜しんでいる[26][注釈 1]。
訴訟中ラッサールは伯爵の愛人が持っている伯爵が次男に与えるべき財産をその愛人に譲ろうとした文書が入った小箱を盗み出したとされて、1848年2月に窃盗罪容疑で警察に逮捕された[28][注釈 2]。
1848年革命をめぐって
ラッサールが逮捕された1848年2月にフランス・パリでは革命が発生し、ルイ・フィリップの王政が打倒され、共和政が樹立された。3月には革命の火はプロイセンやオーストリアにも波及した[30]。
これを独房の中で見たラッサールは改めて闘争心を掻き立てられた。8月11日、ケルンの法廷で熱弁をふるって自らの闘争が自由と民主主義のための貴族主義との闘いであることを印象付けた。法廷外でも伯爵夫人が様々な反封建主義集会に参加し、自分はプロレタリアートの代表者であると語って世論を盛り上げ、ラッサールの法廷での闘いをサポートした。革命の渦中であったから法廷の陪審員にもラッサールを支持する者が多く、無罪判決を勝ち取ることができた。釈放されたラッサールは伯爵夫人やその次男とともにデュッセルドルフで暮らした。ラッサールの無罪判決は革命派の勝利として大きな反響を呼び、ラッサールは一躍ライン地方で名を知られるようになった[31][29]。
ラッサールは引き続き伯爵夫人の離婚訴訟を支援しながらライン地方の左翼の革命活動に参加するようになる[32]。またこの時期に『新ライン新聞』を発行して民主主義派を煽っていたマルクスやエンゲルスと初めて出会った。5歳年上のエンゲルスはラッサールの態度を自惚れていると不快感を持ち、また彼がハッツフェルト伯爵夫人の離婚訴訟を革命運動とごっちゃにしていることにも批判的に見ていた。一方7歳年上のマルクスはユダヤ人という連体感もあってか、比較的ラッサールに好意的だった[33]。マルクスは少ない財産の中からハッツフェルト伯爵夫人の支援金を送っている[27]。
ラッサールは8月29日に開催されたフライリヒラート逮捕への抗議集会で初めて大衆の前での演説を行い、以降マルクスと連携してライン地方を奔走し、革命運動を指導して回った[34]。しかし10月から11月にかけて革命は次々と失敗していき、反革命派が攻勢を強め、民主主義派への武力弾圧が本格化した。『新ライン新聞』も禁止処分を受け、マルクスは国外へ亡命していった。ラッサールは11月22日にデュッセルドルフで官憲に逮捕された[35][36]。
1849年5月に民主主義の影響を受けた陪審員たちから無罪判決を受けて釈放されるも、裁判所がこの判決に反発し、釈放直後に再逮捕された。7月には改めて禁固6カ月の判決を受けたが、しばらく判決の執行は猶予され、一時釈放された[37]。この間、ほとんど一文無しでロンドンに亡命していたマルクスがラッサールに金の無心をしている。ラッサールも楽な経済状態ではなかったが、マルクスのために幾らか用立ててやり、またマルクス支援の募金活動を起こしたが、マルクスは自分の惨めな生活を世間に知られたくなかったらしく、この募金運動の件を聞いて憤慨した[38]。
1850年10月から1851年4月にかけて先の判決が執行され、服役[39]。
ベルリンでの生活
1854年、8年に及ぶ訴訟に疲れたハッツフェルト伯爵が和解を求めるようになり、離婚訴訟に勝訴した。これにより伯爵夫人は巨額の財産を獲得し、ラッサールも伯爵夫人から年金4000ターレルを得られるようになり[注釈 3]、裕福な生活を送るようになった[41]。この年金はラッサールにとって社会主義研究に没頭する上で重要な収入源となった[42]。
この後、伯爵夫人とラッサールはクリンドワースという男と親しくなった。この人物はロシア皇帝ニコライ1世やフランス皇帝ナポレオン3世の御用だったというふれこみの人物だが、本当かどうか定かではない山師的人物だった。ラッサールはクリンドワースから国際的な情報を流してもらうようになり、それをロンドンのマルクスに手紙で伝えたり、投資を行ったりした[43]。またクリンドワースの娘であるアグネス・デニスストリートと情を通じるようになり、二人は子供を儲けるに至った[44]
日本における評価
幸徳秋水にとってラッサールは憧れの人であり、明治37年(1904年)にはラッサールの伝記を著している。その著作の中で秋水は「想ふに日本今日の時勢は、当時の独逸と極めて相似て居るのである。(略)今日の日本は第二のラッサールを呼ぶの必要が有るのではないか」と書いている。また「近代革命の急先鋒として、社会的に政治的に、血性男児の本領を最も如何なく発揮し得た者が二人ある。日本に於ては吉田松陰、西洋に於ては即ち此に伝せんとするフェルヂナンド・ラッサールである」として吉田松陰とラッサールの類似性を主張し、「若し松陰をして当時の独逸に生まれしめば、矢張ラッサールと同一の事業を為したかも知れぬ」と結論した。他方で二人の違いとして「ラッサールは一面において華奢風流の才子であった、松陰は何処までも木強の田舎漢であった、前者が戯曲を作るの間に、後者は孔孟の道徳を講じ、前者が評花品柳の楽しみに耽るの間に、後者は常に父母兄弟姉妹の温情に泣て居た」と書いている[45][46]。
小泉信三と河合栄次郎は反マルクス主義の立場からマルクスの対立者であるラッサールに深い関心を寄せ、彼に関する評伝を残した[6]。
後に共産主義者となったコミンテルンの片山潜も一時期ラッサールの国家社会主義に深く傾倒し、ラッサールを指して「前の総理大臣ビスマルク侯に尊重せられし人なり。然り、彼は曹てビスマルクに独乙一統の経営策を与え、又た進んでビスマルクをして後日社会主義の労働者制度を執らしめたる偉人物」と評したことがある[47]。
参考文献
- 江上照彦『ある革命家の華麗な生涯 フェルディナント・ラッサール』社会思想社、1972年(昭和47年)。ASIN B000J9G1V4。
- 幸徳秋水『社会民主党建設者ラサール』平民社、1904年(明治37年) 。
- 林健太郎『ドイツ史論文集 (林健太郎著作集)』山川出版社、1993年(平成5年)。ISBN 978-4634670303。
- ゲオルグ・ブランデス 著、尾崎士郎 訳『フェルディナンド・ラッサルレ』黎明閣、1923年(大正12年) 。
- フランツ・メーリング 著、栗原佑 訳『マルクス伝1』大月書店〈国民文庫440a〉、1974年(昭和49年)。ASIN B000J9G1V4。
脚注
注釈
- ^ 7年後にマルクスはラッサールのハッツフェルト伯爵夫人離婚訴訟への熱の入れようを「ラッサールは本当に偉大な人間はこんな下らないことにも10年の時を費やすのだと言わんばかりに、見境もなく私的陰謀の渦中にあったのだから、自分こそは世界を自分の意思どおりにできると思っていたに違いない」と批判している。またエンゲルスは「我々がこんな事件でラッサールとグルになっていると思われぬよう『新ライン新聞』は意図的にこの事件を報道しなかった」と述べているが、これはエンゲルスの嘘であり、『新ライン新聞』は小箱窃盗事件の訴訟を事細かに報道していた[27]。
- ^ フランツ・メーリングはマルクスの伝記の中でラッサールの小箱窃盗事件はでっちあげられた罪状としている[29]。
- ^ この金額は当時のプロイセンの大臣の俸給の半分に匹敵する[40]。
出典
- ^ ブランデス(1923) p.14
- ^ a b 江上(1972) p.18
- ^ ブランデス(1923) p.31
- ^ 江上(1972) p.35
- ^ a b c d 江上(1972) p.39
- ^ a b c 江上(1972) p.7
- ^ 江上(1972) p.11-16
- ^ 幸徳(1904) p.9
- ^ 江上(1972) p.13-14
- ^ 幸徳(1904) p.11
- ^ 江上(1972) p.17-18
- ^ 江上(1972) p.19
- ^ 江上(1972) p.23
- ^ 江上(1972) p.24
- ^ 江上(1972) p.26-27
- ^ 江上(1972) p.27-28
- ^ 江上(1972) p.24/28
- ^ 江上(1972) p.41
- ^ 江上(1972) p.43
- ^ 幸徳(1904) p.13-14
- ^ 江上(1972) p.44-45
- ^ 江上(1972) p.47-49
- ^ 幸徳(1904) p.15-17
- ^ 幸徳(1904) p.17-18
- ^ 江上(1972) p.54
- ^ 江上(1972) p.51
- ^ a b メーリング(1974) p.300
- ^ 江上(1972) p.57-58
- ^ a b メーリング(1974) p.299
- ^ 江上(1972) p.59
- ^ 江上(1972) p.59-62
- ^ 江上(1972) p.62
- ^ 江上(1972) p.63-64
- ^ 江上(1972) p.64
- ^ 江上(1972) p.64-65
- ^ メーリング(1974) p.306
- ^ 江上(1972) p.65-67
- ^ 江上(1972) p.67
- ^ 江上(1972) p.69
- ^ 江上(1972) p.75
- ^ 江上(1972) p.74-75
- ^ 幸徳(1904) p.21
- ^ 江上(1972) p.76
- ^ 江上(1972) p.77
- ^ 江上(1972) p.9-10
- ^ 幸徳(1904) p.5-8
- ^ 江上(1972) p.7-8