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パリからベルリンへ戻った後、ヘラクレイトスの執筆を開始しようとしたが、{{仮リンク|ハッツフェルト家|label=ハッツフェルト伯爵家|de|Hatzfeld (Adelsgeschlecht)}}の伯爵夫人{{仮リンク|ゾフィー・フォン・ハッツフェルト|label=ゾフィー|de|Sophie von Hatzfeldt}}と知り合ったことでその研究は10年近く中断されることになる<ref name="メーリング(1968)上388"/><ref name="幸徳(1904)15">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.15</ref>。
パリからベルリンへ戻った後、ヘラクレイトスの執筆を開始しようとしたが、{{仮リンク|ハッツフェルト家|label=ハッツフェルト伯爵家|de|Hatzfeld (Adelsgeschlecht)}}の伯爵夫人{{仮リンク|ゾフィー・フォン・ハッツフェルト|label=ゾフィー|de|Sophie von Hatzfeldt}}と知り合ったことでその研究は10年近く中断されることになる<ref name="メーリング(1968)上388"/><ref name="幸徳(1904)15">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.15</ref>。


彼女の夫であるエドムント・フォン・ハッツフェルト(Edmund von Hatzfeldt)伯爵は放蕩者なうえ、妻ゾフィーに様々な迫害を加えていた。ゾフィーは伯爵との離婚を希望していたが許してもらえずにいた。そのことをラッサールに相談したところ、彼はこれを「封建主義の横暴に対する闘争」と看做し、彼女に代わって伯爵と闘う決意を固めた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.47-49</ref><ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.15-17</ref>{{#tag:ref|伯爵夫人とラッサールの肉体関係の有無については定かではない。当時伯爵夫人は40歳、ラッサールは20歳であり、年齢差があるが、伯爵夫人は美人で知られていた。ラッサール自身は後年に「ハッツフェルト伯爵夫人の弁護を引き受けるにあたって浮いた気持など微塵もなかった」「自分を駆りたてた動機は騎士道精神である」と語っている<ref name="メーリング(1968)上388">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.388</ref>。一方で後年にヘレーネ・フォン・デンニゲスが「伯爵夫人はその頃魅力的だったのでしょうし、貴方は若かった。恋に落ちて何かあったのね。でも今はあの方もすっかりお年寄り。なのに貴方はまだ若いのですから、今はただのお友達というところでしょう」と述べたのに対して、ラッサールは「まあ大体君の言うとおりだよ」と答えたことがあるという<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.48/78</ref>。|group=注釈}}。
彼女の夫であるエドムント・フォン・ハッツフェルト(Edmund von Hatzfeldt)伯爵は放蕩者なうえ、妻ゾフィーに様々な迫害を加えていた。ゾフィーは伯爵との離婚を希望していたが許してもらえずにいた。そのことをラッサールに相談したところ、彼はこれを「封建主義の横暴に対する闘争」と看做し、彼女に代わって伯爵と闘う決意を固めた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.47-49</ref><ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.15-17</ref>{{#tag:ref|伯爵夫人とラッサールの肉体関係の有無については定かではない。当時伯爵夫人は40歳、ラッサールは20歳であり、年齢差があるが、伯爵夫人は美人で知られていた。ラッサール自身は後年に「ハッツフェルト伯爵夫人の弁護を引き受けるにあたって浮いた気持など微塵もなかった」「自分を駆りたてた動機は騎士道精神である」と語っている<ref name="メーリング(1968)上388">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.388</ref>。一方で後年には、ヘレーネ・フォン・デンニゲスが「伯爵夫人はその頃魅力的だったのでしょうし、貴方は若かった。恋に落ちて何かあったのね。でも今はあの方もすっかりお年寄り。なのに貴方はまだ若いのですから、今はただのお友達というところでしょう」と述べたのに対して、ラッサールは「まあ大体君の言うとおりだよ」と答えたという<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.48/78</ref>。|group=注釈}}。


ラッサールははじめ伯爵に決闘を申し込んだが、「バカなユダヤの小僧」と相手にしてもらえなかった<ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.17-18</ref>。結局離婚訴訟で闘うことになり、ラッサールは1846年から[[1854年]]までの長きにわたってこの訴訟に尽力することになる<ref name="江上(1972)54">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.54</ref>{{#tag:ref|これについて[[猪木正道]]は「学者にとって決定的なのは大学卒業後の数年間であるが、ラッサールはその期間を空費とまでは言わないものの、脇道にそれてしまった」として惜しんでいる<ref name="江上(1972)51">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.51</ref>。またマルクスは後年にラッサールのハッツフェルト伯爵夫人離婚訴訟への熱の入れようを「ラッサールは本当に偉大な人間はこんな下らないことにも10年の時を費やすのだと言わんばかりに、見境もなく私的陰謀の渦中にあったのだから、自分こそは世界を自分の意思どおりにできると思っていたに違いない」と批判している。またエンゲルスは「我々がこんな事件でラッサールとグルになっていると思われぬよう『[[新ライン新聞]]』は意図的にこの事件を報道しなかった」と述べているが、これはエンゲルスの嘘であり、『新ライン新聞』は革命派から注目を集めていた小箱窃盗事件の訴訟を事細かに報道していた<ref name="メーリング(1974)300">[[#メーリング(1974)|メーリング(1974)]] p.300</ref>。[[フランツ・メーリング]]は「訴訟を始めた当時のラッサールには1848年に革命が起こるとは知りえなかったし、またプロイセン封建主義の腐敗ぶりが酷過ぎたために裁判が長期化したのであり、ラッサールを責めるのは不当」と弁護している<ref name="メーリング(1968)上389">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.389</ref>。|group=注釈}}。
ラッサールははじめ伯爵に決闘を申し込んだが、「バカなユダヤの小僧」と相手にしてもらえなかった<ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.17-18</ref>。結局離婚訴訟で闘うことになり、ラッサールは1846年から[[1854年]]までの長きにわたってこの訴訟に尽力することになる<ref name="江上(1972)54">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.54</ref>{{#tag:ref|これについて[[猪木正道]]は「学者にとって決定的なのは大学卒業後の数年間であるが、ラッサールはその期間を空費とまでは言わないものの、脇道にそれてしまった」として惜しんでいる<ref name="江上(1972)51">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.51</ref>。またマルクスは後年にラッサールのハッツフェルト伯爵夫人離婚訴訟への熱の入れようを「ラッサールは本当に偉大な人間はこんな下らないことにも10年の時を費やすのだと言わんばかりに、見境もなく私的陰謀の渦中にあったのだから、自分こそは世界を自分の意思どおりにできると思っていたに違いない」と批判している。またエンゲルスは「我々がこんな事件でラッサールとグルになっていると思われぬよう『[[新ライン新聞]]』は意図的にこの事件を報道しなかった」と述べているが、これはエンゲルスの嘘であり、『新ライン新聞』は革命派から注目を集めていた小箱窃盗事件の訴訟を事細かに報道していた<ref name="メーリング(1974)300">[[#メーリング(1974)|メーリング(1974)]] p.300</ref>。[[フランツ・メーリング]]は「訴訟を始めた当時のラッサールには1848年に革命が起こるとは知りえなかったし、またプロイセン封建主義の腐敗ぶりが酷過ぎたために裁判が長期化したのであり、ラッサールを責めるのは不当」と弁護している<ref name="メーリング(1968)上389">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.389</ref>。|group=注釈}}。
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=== 1848年革命をめぐって ===
=== 1848年革命をめぐって ===
ラッサールが逮捕された1848年2月にフランス・パリでは革命が発生し、[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の[[7月王政|王政]]が打倒され、[[フランス第二共和政|共和政]]が樹立された。3月にはプロイセンや[[オーストリア帝国|オーストリア]]にも革命が波及した<ref name="江上(1972)59">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.59</ref>。
ラッサールが逮捕された1848年2月にフランス・パリでは革命が発生し、[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の[[7月王政|王政]]が打倒され、[[フランス第二共和政|共和政]]が樹立された。3月にはプロイセンや[[オーストリア帝国|オーストリア]]にも革命が波及した(3月革命)<ref name="江上(1972)59">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.59</ref>。


独房の中からその様子を見たラッサールは改めて闘争心を掻き立てられた。8月11日の[[ケルン]]の法廷では熱弁をふるって自らの闘争が自由と民主主義のための封建主義との闘いであることを印象付けた。法廷外でも伯爵夫人が様々な反封建主義集会に参加して世論を盛り上げ、ラッサールの法廷での闘いをサポートした。革命の渦中であったから[[陪審員]]にもラッサールを支持する者が多く、無罪判決を勝ち取ることができた。釈放されたラッサールは伯爵夫人やその次男とともに[[デュッセルドルフ]]で暮らすようになった。ラッサールの無罪判決は革命派の勝利として大きな反響を呼び、ラッサールは一躍ライン地方の有名人となった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.59-62</ref><ref name="メーリング(1974)299">[[#メーリング(1974)|メーリング(1974)]] p.299</ref>。
独房の中からその様子を見たラッサールは改めて闘争心を掻き立てられた。8月11日の[[ケルン]]の法廷では熱弁をふるって自らの闘争が自由と民主主義のための封建主義との闘いであることを印象付けた。法廷外でも伯爵夫人が様々な反封建主義集会に参加して世論を盛り上げ、ラッサールの法廷での闘いをサポートした。革命の渦中であったから[[陪審員]]にもラッサールを支持する者が多く、無罪判決を勝ち取ることができた。釈放されたラッサールは伯爵夫人やその次男とともに[[デュッセルドルフ]]で暮らすようになった。ラッサールの無罪判決は革命派の勝利として大きな反響を呼び、ラッサールは一躍ライン地方の有名人となった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.59-62</ref><ref name="メーリング(1974,1)299">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974)1巻]] p.299</ref>。


ラッサールは引き続き伯爵夫人の離婚訴訟を支援しながらライン地方の民主主義派の革命活動に参加するようになる<ref name="江上(1972)62">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.62</ref>。また『[[新ライン新聞]]』を発行していた[[カール・マルクス|マルクス]]や[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]とも初会見した。5歳年上のエンゲルスは初対面からラッサールの「鼻持ちならない態度」に不快感を持ったが、一方7歳年上のマルクスはユダヤ人としての連体感もあってか、当時はラッサールに好意的であり<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.63-64</ref>、彼の少ない財産の中から伯爵夫人の支援金を拠出してくれた<ref name="メーリング(1974)300">[[#メーリング(1974)|メーリング(1974)]] p.300</ref>。
ラッサールは引き続き伯爵夫人の離婚訴訟を支援しながらライン地方の民主主義派{{#tag:ref|民主主義派とは自由主義の中でも極端な急進派のこと。大ブルジョワは保守派と妥協的な自由主義者が多かったが、小ブルジョワや下層民は急進的自由主義者になりやすく、彼らを民主主義派と呼んで一般の自由主義派と区別した。社会主義派はもともと民主主義派の最左翼であった<ref name="望田(1972)29">[[#望田(1972)|望田(1972)]] p.29</ref>。|group=注釈}}の革命活動に参加するようになる<ref name="江上(1972)62">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.62</ref>。また『[[新ライン新聞]]』を発行していた[[カール・マルクス|マルクス]]や[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]とも初会見した。5歳年上のエンゲルスは初対面からラッサールの「鼻持ちならない態度」に不快感を持ったが、一方7歳年上のマルクスはユダヤ人としての連体感もあってか、当時はラッサールに好意的であり<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.63-64</ref>、彼の少ない財産の中から伯爵夫人の支援金を拠出してくれた<ref name="メーリング(1974,1)300">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974)1巻]] p.300</ref>。


ラッサールは[[8月29日]]に開催された[[フェルディナント・フライリヒラート|フライリヒラート]]逮捕への抗議集会で初めて大衆の前での演説を行い、以降マルクスと連携してライン地方を奔走し、革命運動を指導して回った<ref name="江上(1972)64">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.64</ref>。しかし10月から11月にかけて革命は次々と失敗していき、反革命派による民主主義派への武力弾圧が本格化した。これに対抗すべく民主主義派は消極的抵抗から武力抵抗へ転換し、ラッサールもデュッセルドルフで武装抵抗を促す演説を行ったため、11月22日には官憲に逮捕された<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.64-65</ref><ref name="メーリング(1974)306">[[#メーリング(1974)|メーリング(1974)]] p.306</ref><ref name="メーリング(1968)上391">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.391</ref>。
ラッサールは[[8月29日]]に開催された[[フェルディナント・フライリヒラート|フライリヒラート]]逮捕への抗議集会で初めて大衆の前での演説を行い、以降マルクスと連携してライン地方を奔走し、革命運動を指導して回った<ref name="江上(1972)64">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.64</ref>。しかし10月から11月にかけて革命は次々と失敗していき、反革命派による民主主義派への武力弾圧が本格化した。11月には{{仮リンク|プロイセン国民議会|de|Preußische Nationalversammlung}}も閉会させられた。これに対抗すべく民主主義派は消極的抵抗から武力抵抗へ転換し、ラッサールもデュッセルドルフで武装抵抗を促す演説を行ったため、11月22日には官憲に逮捕された<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.64-65</ref><ref name="メーリング(1974,1)306">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974)1巻]] p.306</ref><ref name="メーリング(1968)上391">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.391</ref><ref name="幸徳(1904)24">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.24</ref>。


「王権に対する武装抵抗の教唆」という重罪に問われたため長期間未決拘留された。[[1849年]][[5月3日]]にようやく[[陪審制]]の裁判にかけられたが、陪審員にも民主主義派が多かったため、無罪判決が下り、ラッサールは釈放された<ref name="メーリング(1968)上392">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.392</ref><ref name="江上(1972)66">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.66</ref>。これに対抗して裁判所は[[一事不再理]]の原則に反する形で「軍隊および役人に対する武装抵抗の教唆」の容疑でラッサールをふたたび逮捕した。今度は職業裁判官による裁判にかけられ、7月には禁固6カ月の判決を受けた<ref name="江上(1972)67">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.67</ref><ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.392/394</ref>。判執行しの間だけ延期され釈放された<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.65-67</ref>。
「王権に対する武装抵抗の教唆」という重罪に問われたため長期間未決拘留された。[[1849年]][[5月3日]]にようやく[[陪審制]]の裁判にかけられたが、陪審員にも民主主義派が多かったため、無罪判決が下り、ラッサールは釈放された<ref name="メーリング(1968)上392">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.392</ref><ref name="江上(1972)66">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.66</ref>。これに対抗して裁判所は[[一事不再理]]の原則に反する形で「軍隊および役人に対する武装抵抗の教唆」の容疑でラッサールをふたたび逮捕した。今度は職業裁判官による裁判にかけられ、7月には禁固6カ月の判決を受けた<ref name="江上(1972)67">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.67</ref><ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.392/394</ref>。でラッサールは「国王が市民憲法を蹂躙して、その子どもを殺し、その娘を辱めている時に、市民王の暴虐に抵抗て自己を防衛する権利を持たないであろうか(略)いかなる時も人民が武器を取ることを禁じるのは現代にあるべからず恥辱であり代のことである。3月革命以前の専制を存続させようという者こそがこの席立たされるべきである」と演説した<ref>[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.25-26</ref>。


この間、革命の失敗でほとんど一文無しでロンドンに亡命していたマルクスから最初の金の無心を受けた。ラッサールも楽な経済状態ではなかったが、マルクスのために幾らか用立ててやり、またマルクス支援の募金活動を起こしたが、マルクスは自分の惨めな生活を世間に知られたくなかったらしく、この募金運動の件を聞いて憤慨した<ref name="江上(1972)67">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.67</ref>。
判決の執行は少しの間だけ延期され、一時的に釈放された<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.65-67</ref>。この間、革命の失敗でほとんど一文無しでロンドンに亡命していたマルクスから最初の金の無心を受けた。ラッサールも楽な経済状態ではなかったが、マルクスのために幾らか用立ててやり、またマルクス支援の募金活動を起こしたが、マルクスは自分の惨めな生活を世間に知られたくなかったらしく、この募金運動の件を聞いて憤慨した<ref name="江上(1972)67">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.67</ref>。


[[1850年]]10月から[[1851年]]4月にかけて先の判決が執行され、服役した<ref name="江上(1972)69">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.69</ref>。
[[1850年]]10月から[[1851年]]4月にかけて先の判決が執行され、服役した<ref name="江上(1972)69">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.69</ref>。


=== 離婚訴訟勝訴と『ヘラクレイトスの哲学』で成功 ===
=== 離婚訴訟勝訴と『ヘラクレイトスの哲学』で成功 ===
[[1854年]]、8年に及ぶ訴訟に疲れたハッツフェルト伯爵は、夫人に対して彼女が持つべき財産を返還すると和解を申し出た結果、[[1854年]]に離婚訴訟は終了した。これにより伯爵夫人は巨額の財産を獲得し、ラッサールも伯爵夫人から年金4000[[ターレル]]を得られるようになり{{#tag:ref|この金額は当時のプロイセンの大臣の俸給の半分に匹敵する<ref name="江上(1972)75">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.75</ref>。|group=注釈}}、裕福な生活を送るようになった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.74-75</ref>。この年金はラッサールにとって社会主義研究に没頭する上で重要な収入源となった<ref name="幸徳(1904)21">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.21</ref>。
[[1854年]]、8年に及ぶ訴訟に疲れたハッツフェルト伯爵夫人に対して彼女が持つべき財産を返還すると和解を申し出た結果、[[1854年]]に離婚訴訟は終了した。これにより伯爵夫人は巨額の財産を獲得し、ラッサールも伯爵夫人から年金4000[[ターレル]]を得られるようになり{{#tag:ref|この金額は当時のプロイセンの大臣の俸給の半分に匹敵する<ref name="江上(1972)75">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.75</ref>。|group=注釈}}、裕福な生活を送るようになった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.74-75</ref>。この年金はラッサールにとって社会主義研究に没頭する上で重要な収入源となった<ref name="幸徳(1904)21">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.21</ref>。


金銭的にも時間的にも余裕ができたラッサールは、大学の卒業論文として書き始めてそのままになっていたヘラクレイトスに関する著作の執筆を再開し、[[1855年]]から[[1857年]]にかけてこれを完成させた<ref name="江上(1972)81">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.81</ref><ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.457/477</ref>。
金銭的にも時間的にも余裕ができたラッサールは、大学の卒業論文として書き始めてそのままになっていたヘラクレイトスに関する著作の執筆を再開し、[[1855年]]から[[1857年]]にかけてこれを完成させた<ref name="江上(1972)81">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.81</ref><ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.457/477</ref>。


伯爵夫人との関係が悪くなることはなかったが、訴訟が終わったことで以前よりは疎遠になり、ラッサールもデュッセルドルフの伯爵夫人邸に居心地の悪さを感じるようになり、プロイセン王都[[ベルリン]]への移住を希望するようになった。しかし革命家であるため当局からの許可はなかなか下りなかった。[[1855年]]3月にはこっそりベルリンへ移住するも警察に逮捕され、強制送還されている<ref name="江上(1972)79">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.79</ref>。しかし[[1857年]]2月になって突然ベルリンへの移住許可がおりた。伯爵夫人とラッサールを切り離してライン地方の革命運動の力を弱め、またラッサールをベルリンに置いて監視を強化しようという官憲の企図だったという。これによって同年5月からベルリン・ポツダム街に移住した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.86-87</ref>。
伯爵夫人との関係が悪くなることはなかったが、訴訟が終わったことで以前よりは疎遠になり、ラッサールもデュッセルドルフの伯爵夫人邸に居心地の悪さを感じるようになり、プロイセン王都[[ベルリン]]への移住を希望するようになった。しかし1848年革命に参加した革命家であるため当局からの許可はなかなか下りなかった。[[1855年]]3月にはこっそりベルリンへ移住するも警察に逮捕され、強制送還されている<ref name="江上(1972)79">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.79</ref><ref name="幸徳(1904)28">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.28</ref>。しかし[[1857年]]2月になって突然ベルリンへの移住許可がおりた。伯爵夫人とラッサールを切り離してライン地方の革命運動の力を弱め、またラッサールをベルリンに置いて監視を強化しようという官憲の企図だったという。これによって同年5月からベルリン・ポツダム街に移住した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.86-87</ref>。


出版業者{{仮リンク|フランツ・ドゥンカー|de|Franz Duncker}}と親しくなり、彼の書店から『ヘラクレイトスの哲学(Die Philosophie Herakleitos Des Dunklen Von Ephesos)』を出版してもらった。この本はたちまちのうちに評判になり、ラッサールはベルリン哲学学会の会員に迎え入れられ、華々しい社交生活を開始できるようになった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.87/94</ref>。ラッサールはロンドンのマルクスにも『ヘラクレイトスの哲学』を送って批評を求めたが、極貧生活に陥っていたマルクスはすっかり上流階級の仲間入りをしたラッサールを妬み、エンゲルスへの手紙の中で「ラッサールは労働運動を離婚訴訟に私的に利用した」「訴訟は終わったのにラッサールはいつまでも伯爵夫人から独立しようとしない」「ラッサールのベルリン行きは大紳士に成りあがり、[[サロン]]を開くためだ」と怒りをぶちまけている<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.88-92</ref>。
出版業者{{仮リンク|フランツ・ドゥンカー|de|Franz Duncker}}と親しくなり、彼の書店から『ヘラクレイトスの哲学(Die Philosophie Herakleitos Des Dunklen Von Ephesos)』を出版してもらった。この本はたちまち評判になり、ラッサールはベルリン哲学学会の会員に迎え入れられ、華々しい社交生活を開始できるようになった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.87/94</ref>。ラッサールはロンドンのマルクスにも『ヘラクレイトスの哲学』を送って批評を求めたが、極貧生活に陥っていたマルクスはすっかり上流階級の仲間入りをしたラッサールを妬み、エンゲルスへの手紙の中で「ラッサールは労働運動を離婚訴訟に私的に利用した」「訴訟は終わったのにラッサールはいつまでも伯爵夫人から独立しようとしない」「ラッサールのベルリン行きは大紳士に成りあがり、[[サロン]]を開くためだ」と怒りをぶちまけている<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.88-92</ref>。


1857年9月にアグネス・デニスストリートとの間に儲けた娘が死去し、彼女との関係が疎遠になった。その後フランツ・ドゥンカー夫人リナと情を通じるようになったが、彼女には崇拝者が多かったため、ラッサールはファブリスという官僚から待ち伏せされて夜襲を受けた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.97-99</ref>。持っていたステッキで撃退することに成功したものの、この夜襲に憤慨したラッサールはファブリスに決闘を申し込むことを希望し、マルクスにもそのことを相談したが、マルクスは「決闘は特権階級の因習であり、反革命的行動」として反対した。伯爵夫人もラッサールの身を案じて反対したため、結局断念した<ref name="江上(1972)100">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.100</ref>。
1857年9月にアグネス・デニスストリートとの間に儲けた娘が死去し、彼女との関係が疎遠になった。その後フランツ・ドゥンカー夫人リナと情を通じるようになったが、彼女には崇拝者が多かったため、ラッサールはファブリスという官僚から待ち伏せされて夜襲を受けた。持っていたステッキで撃退することに成功したものの、この夜襲に憤慨したラッサールはファブリスに決闘を申し込むことを希望し、マルクスにもそのことを相談したが、マルクスは「決闘は特権階級の因習であり、反革命的行動」として反対した。伯爵夫人もラッサールの身を案じて反対したため、結局断念した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.97-100</ref>。


この一件でラッサールはベルリン警察に睨まれるようになり、[[1858年]]6月にはベルリン追放命令を受けた<ref name="メーリング(1968)上457">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.457</ref>。ラッサールは[[スイス]]へ逃れつつ、この頃自由主義勢力と関係を持っていた皇太弟[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム]]に助けを求めた。折しもヴィルヘルムが[[摂政]]となり、自由主義的保守派によって構成される「{{仮リンク|新時代|de|Neue Ära}}」内閣が発足していたこともあり、10月にはベルリンに戻ることができた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.102-103</ref>。
ラッサールの夜襲撃退劇は世間の評判になり、歴史家フリードリヒ・フェルスターからは[[ロベスピエール]]のステッキを送られた<ref name="幸徳(1904)32">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.32</ref><ref name="江上(1972)101">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.101</ref>。この一件でラッサールはベルリン警察に睨まれるようになり、[[1858年]]6月にはベルリン追放命令を受けた<ref name="メーリング(1968)上457">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.457</ref>。ラッサールは[[スイス]]へ逃れつつ、この頃自由主義勢力と関係を持っていた皇太弟[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム]]に助けを求めた。折しもヴィルヘルムが[[摂政]]となり、自由主義的保守派によって構成される「{{仮リンク|新時代|de|Neue Ära}}」内閣が発足していたこともあり、10月にはベルリンに戻ることができた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.102-103</ref>。


=== マルクスとの亀裂 ===
=== マルクスとの亀裂 ===
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[[1859年]]にはマルクスの『[[経済学批判]]』をドゥンカー書店から出版できるよう取り計らった。一方でこの頃からマルクスのラッサール不信は強まっていく。
[[1859年]]にはマルクスの『[[経済学批判]]』をドゥンカー書店から出版できるよう取り計らった。一方でこの頃からマルクスのラッサール不信は強まっていく。


同年ラッサールは史劇『フランツ・フォン・ジッキンゲン』を書き上げ、これをベルリンの宮廷劇場に匿名で送ったが、革命的精神を謳う台詞が冗長で、またヘーゲル式議論が難解すぎるとして劇場からは採用してもらえなかった。ラッサールはこの脚本をマルクスに批評してほしがり、彼にも脚本を送ったが、当時のマルクスに舞台の脚本など読んでる暇はなく、また『経済学批判』出版が遅れていることに苛立っていた時期だったので「反動的封建階級に属する者を中心として描いたことは誤りである。主人公は全て農民一揆の農民指導者から選ばねばならない」という不評の返事を突き返された<ref name="江上(1972)106">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.106</ref>。
同年ラッサールは史劇『フランツ・フォン・ジッキンゲン』を書き上げ、これをベルリンの宮廷劇場に匿名で送ったが、革命的精神を謳う台詞が冗長で、またヘーゲル式議論が難解すぎるとして劇場からは採用してもらえなかった。ラッサールはこの脚本をマルクスに批評してほしがり、彼にも脚本を送ったが、当時のマルクスに舞台の脚本など読んでる暇はなく、また『経済学批判』出版が遅れていることに苛立っていた時期だったので「反動的封建階級に属する者を中心として描いたことは誤りである。主人公は全て農民一揆の農民指導者から選ばねばならない」という冷たい返事を突き返された<ref name="江上(1972)106">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.106</ref>。


しかしもっと大きかったのは[[イタリア統一戦争]]{{#tag:ref|1859年4月に皇帝[[ナポレオン3世]]率いる[[フランス第二帝政|フランス帝国]]と宰相[[カミッロ・カヴール]]率いる[[サルデーニャ王国]]が同盟してイタリア北部を支配する[[オーストリア帝国]]を排除するために開始した戦争。|group=注釈}}をめぐって見解が相違したことだった。
1859年4月に皇帝[[ナポレオン3世]]率いる[[フランス第二帝政|フランス帝国]]と宰相[[カミッロ・カヴール]]率いる[[サルデーニャ王国]]が同盟してイタリア北部を支配する[[オーストリア帝国]]を相手に[[イタリア統一戦争]]を開始した。この戦争をめぐるエンゲルスの著作『ポー河とライン河』のドゥンカー書店からの出版を斡旋した後、ラッサール自身もドゥンカー書店から『イタリア戦争とプロイセンの義務、民主主義の呼び声(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens: eine Stimme aus der Demokratie)』と題した小冊子を著した。この著作の中でラッサールはドイツとイタリアの統一の必要性、オーストリアがイタリア北部を支配していることの不当性を訴え、またナポレオン3世は利己心のみで行動していることを指摘した。ここまではマルクスやエンゲルスの見解と同じであった<ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.501/503</ref>。だがその一方でラッサールは利己的な専制君主であっても民主主義的原理に媚を売ろうとするナポレオン3世は「反動の権化」オーストリアよりはましだと考えており、ナポレオン3世を擁護するかのような主張もした<ref name="メーリング(1968)上504">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.504</ref><ref name="江上(1972)107">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.107</ref>{{#tag:ref|ラッサールは「ナポレオン3世の野心を過大評価すべきではない。彼は世間で言われているほど盤石ではない。ライン川を獲得するためにフランス軍がドイツに侵攻するなどということはありえず、ナポレオン3世が狙っているのはせいぜいフランス的な[[サヴォイ]]の併合だけである。ナポレオン3世は国内では反動を支持し、国外では自由主義を支持するという矛盾した行動をとっているがゆえに早晩イタリア問題の収拾に失敗するだろう。なのにプロイセンがフランスを攻撃すればフランスは皇帝のもとに団結してしまい、専制政治を延命させてしまうことになる。一方オーストリアを攻撃すればドイツ統一への絶好のチャンスが開ける。だが今のプロイセンにそのようなことを実行できる大人物はいないので結局今回の戦争では中立の立場を取った方が良い。もしフランスが南ヨーロッパの地図を塗り替えるような真似をするならば、プロイセンは北方の[[シュレースヴィヒ公国]]と[[ホルシュタイン公国]]を併合すべきである」という趣旨の主張を行った<ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.505-506</ref><ref name="江上(1972)107-108">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.107-108</ref>。|group=注釈}}。これはナポレオン3世を「無産階級最大の敵」と定義し、ナポレオン3世に抵抗するためならばプロイセンとオーストリアの連合さえも考慮に入れるべきと主張するマルクスとは相いれない立場であり、マルクスから「私と私の同僚(エンゲルス)は貴方の意見に全く賛成できない」と拒絶の返事を送られた<ref name="江上(1972)107-108"/>。

この戦争をめぐってはエンゲルスが小冊子『ポー川とライン川』を執筆し、ラッサールの斡旋でドゥンカー書店から出版した<ref name="メーリング(1974,2)126">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.126</ref>。この著作の中でエンゲルスは「確かにイタリア統一は正しいし、オーストリアが[[ポー川]](北イタリア)を支配しているのは不当だが、今度の戦争はナポレオン3世が自己の利益、あるいは反独的利益のために介入してきてるのが問題である。ナポレオン3世の最終目標は[[ライン川]](西ドイツ)であり、したがってドイツ人はライン川を守るためにポー川も守らねばならない」としてオーストリアの戦争遂行を支持した。マルクスもこの見解を支持した<ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.126-128</ref>。

しかしラッサールはこれに疑問を感じた。専制君主であっても常にナショナリズムや民主主義の原理に媚を売ろうとするナポレオン3世はナショナリズムを踏みにじり続ける専制王朝国家オーストリアよりはマシに思えたからである<ref name="メーリング(1968)上504">[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.504</ref><ref name="江上(1972)107">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.107</ref>。そのためラッサールも独自に『イタリア戦争とプロイセンの義務、民主主義の呼び声(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens: eine Stimme aus der Demokratie)』と題した小冊子をドゥンカー書店から出版した。その中でラッサールは「イタリア統一の成功はドイツ統一にも大きく影響する」「ナポレオン3世が嫌いだからとイタリア統一の邪魔をする愚を犯すべきではない。」「もしナポレオン3世がそれによって何か利己的な目的を図ろうとしているなら、我々の側でそうはさせないだけの話。」「ライン川獲得のためにドイツに侵攻するなどありえず、ナポレオン3世が狙っているのはせいぜいフランス的な[[サヴォイ]]の併合だけだろう。」「オーストリアが弱体化してもドイツ国民にはほとんど打撃にならない。むしろオーストリアが徹底的に粉砕されることがドイツ統一への近道」「ナポレオン3世が民族自決に従って南ヨーロッパの地図を塗り替えるなら、プロイセンは北方で同じことをすればいい。[[シュレースヴィヒ公国]]と[[ホルシュタイン公国]]を併合するのだ。」と述べた<ref>[[#メーリング(1968)上|メーリング(1968)上巻]] p.505-506</ref><ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.128-130</ref><ref name="江上(1972)107-108">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.107-108</ref>。このラッサールの主張は後年ビスマルクが実際にたどったドイツ統一の経緯を予言したものとして称賛された<ref name="メーリング(1974,2)131">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.131</ref>。

しかしこれはナポレオン3世を「無産階級最大の敵」と定義し、ナポレオン3世に抵抗するためならばプロイセンとオーストリアの連合さえも考慮に入れるべきと主張するマルクスとは相いれない立場であり、マルクスから「私と私の同僚(エンゲルス)は貴方の意見に全く賛成できない」と拒絶の返事を送られた<ref name="江上(1972)107-108"/>。


マルクスの態度が冷淡になってきていると感じたラッサールは彼との友情を取り戻そうと弁明の手紙を送った。その中でラッサールは「私の小冊子を額面どおり受け取らないでほしい。私の本当の気持ちはプロイセンがフランスに勝利したとしても、それはプロイセン人民に望ましい形にはならず、反革命勢力の勝利に終わるだけということだ。逆にフランスが勝利すれば[[ホーエンツォレルン家]]他、ドイツ支配層の没落につながり、ドイツ人民の解放と革命戦線の連合は進むだろう」と訴えたが、この説明にマルクスが得心することはなかったようである<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.108-109</ref>。
マルクスの態度が冷淡になってきていると感じたラッサールは彼との友情を取り戻そうと弁明の手紙を送った。その中でラッサールは「私の小冊子を額面どおり受け取らないでほしい。私の本当の気持ちはプロイセンがフランスに勝利したとしても、それはプロイセン人民に望ましい形にはならず、反革命勢力の勝利に終わるだけということだ。逆にフランスが勝利すれば[[ホーエンツォレルン家]]他、ドイツ支配層の没落につながり、ドイツ人民の解放と革命戦線の連合は進むだろう」と訴えたが、この説明にマルクスが得心することはなかったようである<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.108-109</ref>。
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マルクスがこのような喧嘩腰で及んだため、会談の空気も概して悪く、マルクスが唯一ラッサールに示した好意的な態度はアメリカのドイツ語新聞のベルリン通信員になってほしいという要請だったが、これについてはラッサールの方から断っている。ラッサールはアメリカを軽蔑しており、アメリカ人とは関わり合いになりたくなかったという<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.152-153</ref>。マンチェスターで暮らしているエンゲルスも一応訪問を勧めてくれてはいたが、マルクスとの会談の実りの無さに失望していたラッサールは、マンチェスターまで行く気にはなれず、早々にベルリンへ帰国した。
マルクスがこのような喧嘩腰で及んだため、会談の空気も概して悪く、マルクスが唯一ラッサールに示した好意的な態度はアメリカのドイツ語新聞のベルリン通信員になってほしいという要請だったが、これについてはラッサールの方から断っている。ラッサールはアメリカを軽蔑しており、アメリカ人とは関わり合いになりたくなかったという<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.152-153</ref>。マンチェスターで暮らしているエンゲルスも一応訪問を勧めてくれてはいたが、マルクスとの会談の実りの無さに失望していたラッサールは、マンチェスターまで行く気にはなれず、早々にベルリンへ帰国した。


帰国後、またしてもマルクスから手紙で金の無心を受けた。今度は60ポンドの手形の引き受け人になってほしいという要請だった。マルクスの友情と協力を求めて、長いことマルクスに要求されるがままに金をやり続けたラッサールだったが、ロンドン訪問も実りなく終わった今、さすがにこれ以上金を融通してやる気にはなれなかった。ラッサールははじめて「エンゲルスに頼んだかどうか」と冷たい返事を送った。
帰国後、またしてもマルクスから手紙で金の無心を受けた。今度は60ポンドの手形の引き受け人になってほしいという要請だった。マルクスの友情と協力を求めて、長いことマルクスに要求されるがままに金をやり続けたラッサールだったが、ロンドン訪問も実りなく終わった今、さすがにこれ以上金を融通してやる気にはなれなかった。ラッサールははじめて「エンゲルスに頼んだかどうか」と冷たい返事を送った<ref name="江上(1972)153">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.153</ref>


これにはマルクスもびっくりしたらしく、12月にプライドの高いマルクスにしては珍しい冗長に憐みを乞う調子の手紙てきた。「貴方はわたしがエンゲルスに無断で事を運んでいるように思っていると私は考えたのですが、貴方の手紙を読み返してそれが勘違いだと分かりました。なるほど、私は貴方への手紙でこれにはまったく触れませんでした。私の現実の苦しみを私の手紙に表明も示唆もしなかったことも認めます。ですから、貴方の私の手紙の読み方は間違っており、またそんな風に書いたことで私も間違いを犯して誤解の種をまいたわけです。これが我々を不仲にするのでしょうか。我々の友情はもっとしっかりしたもので、このくらいのショックでダメになるものではないと信じます。私が合理的動物と言えないほどに自制心を失っていた事も認めます。しかし私が自分の頭を撃ち抜いてしまおうかとさえ思っている時に、あたかも検察官のようにふるまうのは寛大な貴方らしくないでしょう。我々の古い友情がなお続いていくことを希望します」。この手紙がマルクス・ラッサール間の最後の手紙となった。ラッサールはもはや一切返事を出さなかったのである。これをもってマルクスとの腐れ縁は終わった<ref name="江上(1972)154">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.154</ref>。
これにはマルクスもびっくりしたらしく、12月にプライドの高いマルクスにしては珍しい冗長に憐みを乞う調子の手紙られてきた{{#tag:ref|マルクスとしては毎回エンゲルスに頼みにくかったので、またラッサールから金の無心をしようと思いついたようである。マルクスの手紙は次の通り。「貴方はわたしがエンゲルスに無断で事を運んでいるように思っていると私は考えたのですが、貴方の手紙を読み返してそれが勘違いだと分かりました。なるほど、私は貴方への手紙でこれにはまったく触れませんでした。私の現実の苦しみを私の手紙に表明も示唆もしなかったことも認めます。ですから、貴方の私の手紙の読み方は間違っており、またそんな風に書いたことで私も間違いを犯して誤解の種をまいたわけです。これが我々を不仲にするのでしょうか。我々の友情はもっとしっかりしたもので、このくらいのショックでダメになるものではないと信じます。私が合理的動物と言えないほどに自制心を失っていた事も認めます。しかし私が自分の頭を撃ち抜いてしまおうかとさえ思っている時に、あたかも検察官のようにふるまうのは寛大な貴方らしくないでしょう。我々の古い友情がなお続いていくことを希望します」<ref name="江上(1972)154">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.154</ref>。|group=注釈}}。この手紙がマルクス・ラッサール間の最後の手紙となった。ラッサールは返事を出さなかったのである。これをもってマルクスとの腐れ縁は終わった<ref name="江上(1972)154">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.154</ref>。


=== 政治運動への本格的参入 ===
=== 政治運動への本格的参入 ===
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ラコヴィツアは恋敵の立場ではあるものの、そもそもヘレーネとラッサールを引き離したのは彼ではなくデンニゲスなのだから決闘としては筋違いの感もあったが、デンニゲスは決闘を申し込まれた直後にベルリンに逃げて行方をくらましていた。だからといって決闘を断念できるほど怒りの火は小さくなかった。あるいは半ば自殺のつもりで相手は誰でも良かった可能性もある<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.255-256</ref>。
ラコヴィツアは恋敵の立場ではあるものの、そもそもヘレーネとラッサールを引き離したのは彼ではなくデンニゲスなのだから決闘としては筋違いの感もあったが、デンニゲスは決闘を申し込まれた直後にベルリンに逃げて行方をくらましていた。だからといって決闘を断念できるほど怒りの火は小さくなかった。あるいは半ば自殺のつもりで相手は誰でも良かった可能性もある<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.255-256</ref>。


== 人物 ==

身長は5フィート6インチ(約168センチ)、髪は縮れ毛の[[鳶色]]、目は黒っぽい青色、額が広めで鼻は長い方だったという<ref name="幸徳(1904)29">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.29</ref>。幸徳秋水によれば「威風堂々としており、悪くいえば気取った高慢なところが見えたが、その天才と精力が十分に発揮されていて男らしかった」という<ref name="幸徳(1904)30">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.30</ref>。また話術が巧みだったといい、複数回にわたってラッサールと会見したビスマルクは「あんな愉快な男はいない。いつまで話していても飽きなかった」と語ったという<ref name="幸徳(1904)30">[[#幸徳(1904)|幸徳(1904)]] p.30</ref>。


== ラッサールとマルクス ==
== ラッサールとマルクス ==
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== ラッサールの著作 ==
== ラッサールの著作 ==
*『ヘラクレイトスの哲学(Die Philosophie Herakleitos Des Dunklen Von Ephesos)』
*『イタリア戦争とプロイセンの義務、民主主義の呼び声』(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens: eine Stimme aus der Demokratie)
*『イタリア戦争とプロイセンの義務、民主主義の呼び声』(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens: eine Stimme aus der Demokratie)
*『既得権の体系』(Das System der erworbenen Rechte)
*『既得権の体系』(Das System der erworbenen Rechte)

2013年5月3日 (金) 14:38時点における版

フェルディナント・ラッサール
Ferdinand Lassalle
1860年のラッサール
人物情報
生誕 1825年4月11日
プロイセンの旗 プロイセン王国ブレスラウ
死没 (1864-08-31) 1864年8月31日(39歳没)
スイスの旗 スイスカルージュ
出身校 ブレスラウ大学ベルリン大学
学問
時代 19世紀中頃
学派 国家社会主義
特筆すべき概念 夜警国家、賃金鉄則、生産組合
主要な作品 『ヘラクレイトスの哲学』
『既得権の体系』
『労働者綱領』
公開回答書ドイツ語版
『間接税と労働者階級』
影響を受けた人物 ヘラクレイトス[1]ハイネ[2][3]ベルネ[2]ヘーゲル[4]サン=シモン[5]フーリエ[5]ルイ・ブラン[5]ワーグナー[6]
影響を与えた人物 ビスマルク幸徳秋水[7]片山潜[7]
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フェルディナント・ラッサール Ferdinand Lassalle1825年4月11日 - 1864年8月31日)は、プロイセン政治学者、哲学者、法学者、社会主義者、労働運動指導者。

ドイツ社会主義労働者党の母体となる全ドイツ労働者同盟の創設者である。革命ではなく既存の国家権力を通じての穏健な社会主義改革を目指し、時のプロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクと連携した。彼のこの立場は国家社会主義と呼ばれた。

また社会政策を行わない自由主義的国家を「夜警国家」と定義して批判したことでも知られる。

概要

1825年、裕福なユダヤ人絹商人の息子としてプロイセン王国ブレスラウに生まれる。1840年からライプツィヒの商業学校に通うも商業に関心を持てず、1841年からギムナジウムに転校し、大学入学資格を取得。1843年にブレスラウ大学に入学した。

生涯

生い立ち

1825年4月11日プロイセン王国ブレスラウに裕福な改革派ユダヤ教徒の絹商人の息子として生まれる[8][9][10]

ブレスラウをはじめポーランド地方の都市にはユダヤ人が多く暮らしていた。同じプロイセン領でもライン地方のユダヤ人はかつてのフランス革命ナポレオン法典の影響で比較的自由主義的気風の中で生活していたが、ポーランドのユダヤ人は虫けら同然に扱われており、貧しいユダヤ人の多くはゲットーに押し込められていた。ラッサールはゲットー外の裕福なユダヤ人家庭の出身者だが、ユダヤ人に対する激しい差別を見て育つことになった[11][12]。1840年5月にオスマン=トルコ帝国ダマスカスで大規模なユダヤ人迫害が起こった際には迫害者より立ち上がろうとしないユダヤ人に苛立った様子が日記から窺える[13][14][15]

1840年5月にライプツィヒの商業学校に入学した[16][15]。しかし商業にはまるで関心を持てず、文芸や古典に惹かれていった。ゲーテシラーヴォルテールバイロンハイネベルネなどに読み耽った[15]。とくに同じユダヤ人のハイネとベルネからは民主主義共和主義革命主義の最初の影響を受けた[2]

大学で歴史を学びたいと考えるようになったラッサールは父親を説得のうえ、1841年8月に商業学校を退学し、ブレスラウのカトリックギムナジウムに転校した。カトリックはプロテスタント国家であるプロイセンにおいては少数派だったので同じ少数派のユダヤ人を差別することはないだろうと考えて、この学校を選んだものと思われる[17]。ギムナジウムで猛勉強し、大学入学資格を取得した[18]

大学時代

若き日のラッサール。

1843年春にはブレスラウ大学に入学できた。大学では文献学、ついで哲学を学んだ[19]。特に古典とヘーゲル哲学を熱心に勉強した[18]

英仏ほどではないとしてもプロイセンの大学でも自由主義の思潮と封建主義打倒の機運が高まっていた。学生たちのそうした活動はブルシェンシャフトと呼ばれる学生団体によって行われていた。ラッサールもそうした学生団体に加わり、すぐに頭角を現してリーダー的存在となった[20]。この頃、ブレスラウ大学ではヘーゲル左派フォイエルバッハ准教授がプロイセン政府から「危険思想の持ち主」と看做され、大学を追放される事件があった。これに対して急進派学生はラッサールを中心に抵抗運動を展開した。この活動を通じてラッサールは学内随一の雄弁家として名をはせるようになった。大学からも「危険分子」と看做され、一時謹慎処分を受けている[21]

1844年春、ヘーゲル哲学を本格的に学ぶべく、ベルリン大学へと移籍した[22]。ヘーゲル研究に最も熱中していたが、他にもサン=シモンフーリエルイ・ブランといった社会主義者から影響を受けた[5]

ベルリン大学の卒業論文では古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの研究に取り組んだ。ヘーゲルの弁証法とヘラクレイトスの流転の素因に似たところがあるからだが、同時にヘラクレイトスは難解といわれていたため、困難を突破したがるラッサールの闘争心が刺激されたものと考えられている[23]

1845年秋から1846年1月にかけて、ヘラクレイトス研究のため、フランス・パリを訪問した[24][25][26]。パリでプルードンやハイネと会見する機会を得た。とりわけ同じユダヤ人のハイネとは意気投合した[27]。ちょうど同じころにカール・マルクスがパリから追放されているが、この時点でマルクスと顔を合わせることはなかったようである[28]

ハッツフェルト伯爵夫人の離婚訴訟

ハッツフェルト伯爵夫人ゾフィードイツ語版

パリからベルリンへ戻った後、ヘラクレイトスの執筆を開始しようとしたが、ハッツフェルト伯爵家ドイツ語版の伯爵夫人ゾフィードイツ語版と知り合ったことでその研究は10年近く中断されることになる[28][29]

彼女の夫であるエドムント・フォン・ハッツフェルト(Edmund von Hatzfeldt)伯爵は放蕩者なうえ、妻ゾフィーに様々な迫害を加えていた。ゾフィーは伯爵との離婚を希望していたが許してもらえずにいた。そのことをラッサールに相談したところ、彼はこれを「封建主義の横暴に対する闘争」と看做し、彼女に代わって伯爵と闘う決意を固めた[30][31][注釈 1]

ラッサールははじめ伯爵に決闘を申し込んだが、「バカなユダヤの小僧」と相手にしてもらえなかった[33]。結局離婚訴訟で闘うことになり、ラッサールは1846年から1854年までの長きにわたってこの訴訟に尽力することになる[34][注釈 2]

訴訟中ラッサールは伯爵が次男に与えるべき財産を愛人に譲ろうとした伯爵の背信行為を証明する文書が入った小箱を愛人から盗み出したとされて、1848年2月に窃盗罪容疑で警察に逮捕された[38]

1848年革命をめぐって

ラッサールが逮捕された1848年2月にフランス・パリでは革命が発生し、ルイ・フィリップ王政が打倒され、共和政が樹立された。3月にはプロイセンやオーストリアにも革命が波及した(3月革命)[39]

独房の中からその様子を見たラッサールは改めて闘争心を掻き立てられた。8月11日のケルンの法廷では熱弁をふるって自らの闘争が自由と民主主義のための封建主義との闘いであることを印象付けた。法廷外でも伯爵夫人が様々な反封建主義集会に参加して世論を盛り上げ、ラッサールの法廷での闘いをサポートした。革命の渦中であったから陪審員にもラッサールを支持する者が多く、無罪判決を勝ち取ることができた。釈放されたラッサールは伯爵夫人やその次男とともにデュッセルドルフで暮らすようになった。ラッサールの無罪判決は革命派の勝利として大きな反響を呼び、ラッサールは一躍ライン地方の有名人となった[40][41]

ラッサールは引き続き伯爵夫人の離婚訴訟を支援しながらライン地方の民主主義派[注釈 3]の革命活動に参加するようになる[43]。また『新ライン新聞』を発行していたマルクスエンゲルスとも初会見した。5歳年上のエンゲルスは初対面からラッサールの「鼻持ちならない態度」に不快感を持ったが、一方7歳年上のマルクスはユダヤ人としての連体感もあってか、当時はラッサールに好意的であり[44]、彼の少ない財産の中から伯爵夫人の支援金を拠出してくれた[45]

ラッサールは8月29日に開催されたフライリヒラート逮捕への抗議集会で初めて大衆の前での演説を行い、以降マルクスと連携してライン地方を奔走し、革命運動を指導して回った[46]。しかし10月から11月にかけて革命は次々と失敗していき、反革命派による民主主義派への武力弾圧が本格化した。11月にはプロイセン国民議会ドイツ語版も閉会させられた。これに対抗すべく民主主義派は消極的抵抗から武力抵抗へ転換し、ラッサールもデュッセルドルフで武装抵抗を促す演説を行ったため、11月22日には官憲に逮捕された[47][48][49][50]

「王権に対する武装抵抗の教唆」という重罪に問われたため長期間未決拘留された。1849年5月3日にようやく陪審制の裁判にかけられたが、陪審員にも民主主義派が多かったため、無罪判決が下り、ラッサールは釈放された[51][52]。これに対抗して裁判所は一事不再理の原則に反する形で「軍隊および役人に対する武装抵抗の教唆」の容疑でラッサールをふたたび逮捕した。今度は職業裁判官による裁判にかけられ、7月には禁固6カ月の判決を受けた[53][54]。裁判でラッサールは「国王が市民の憲法を蹂躙して、その子どもを殺し、その娘を辱めている時に、市民は王の暴虐に抵抗して自己を防衛する権利を持たないのであろうか(略)いかなる時も人民が武器を取ることを禁じるのは現代にあるべからず恥辱であり、前時代のことである。3月革命以前の専制を存続させようという者こそがこの席に立たされるべきである」と演説した[55]

判決の執行は少しの間だけ延期され、一時的に釈放された[56]。この間、革命の失敗でほとんど一文無しでロンドンに亡命していたマルクスから最初の金の無心を受けた。ラッサールも楽な経済状態ではなかったが、マルクスのために幾らか用立ててやり、またマルクス支援の募金活動を起こしたが、マルクスは自分の惨めな生活を世間に知られたくなかったらしく、この募金運動の件を聞いて憤慨した[53]

1850年10月から1851年4月にかけて先の判決が執行され、服役した[57]

離婚訴訟勝訴と『ヘラクレイトスの哲学』で成功

1854年、8年に及ぶ訴訟に疲れたハッツフェルト伯爵が夫人に対して彼女が持つべき財産を返還すると和解を申し出た結果、1854年に離婚訴訟は終了した。これにより伯爵夫人は巨額の財産を獲得し、ラッサールも伯爵夫人から年金4000ターレルを得られるようになり[注釈 4]、裕福な生活を送るようになった[59]。この年金はラッサールにとって社会主義研究に没頭する上で重要な収入源となった[60]

金銭的にも時間的にも余裕ができたラッサールは、大学の卒業論文として書き始めてそのままになっていたヘラクレイトスに関する著作の執筆を再開し、1855年から1857年にかけてこれを完成させた[61][62]

伯爵夫人との関係が悪くなることはなかったが、訴訟が終わったことで以前よりは疎遠になり、ラッサールもデュッセルドルフの伯爵夫人邸に居心地の悪さを感じるようになり、プロイセン王都ベルリンへの移住を希望するようになった。しかし1848年革命に参加した革命家であるため当局からの許可はなかなか下りなかった。1855年3月にはこっそりベルリンへ移住するも警察に逮捕され、強制送還されている[63][64]。しかし1857年2月になって突然ベルリンへの移住許可がおりた。伯爵夫人とラッサールを切り離してライン地方の革命運動の力を弱め、またラッサールをベルリンに置いて監視を強化しようという官憲の企図だったという。これによって同年5月からベルリン・ポツダム街に移住した[65]

出版業者フランツ・ドゥンカードイツ語版と親しくなり、彼の書店から『ヘラクレイトスの哲学(Die Philosophie Herakleitos Des Dunklen Von Ephesos)』を出版してもらった。この本はたちまち評判になり、ラッサールはベルリン哲学学会の会員に迎え入れられ、華々しい社交生活を開始できるようになった[66]。ラッサールはロンドンのマルクスにも『ヘラクレイトスの哲学』を送って批評を求めたが、極貧生活に陥っていたマルクスはすっかり上流階級の仲間入りをしたラッサールを妬み、エンゲルスへの手紙の中で「ラッサールは労働運動を離婚訴訟に私的に利用した」「訴訟は終わったのにラッサールはいつまでも伯爵夫人から独立しようとしない」「ラッサールのベルリン行きは大紳士に成りあがり、サロンを開くためだ」と怒りをぶちまけている[67]

1857年9月にアグネス・デニスストリートとの間に儲けた娘が死去し、彼女との関係が疎遠になった。その後フランツ・ドゥンカー夫人リナと情を通じるようになったが、彼女には崇拝者が多かったため、ラッサールはファブリスという官僚から待ち伏せされて夜襲を受けた。持っていたステッキで撃退することに成功したものの、この夜襲に憤慨したラッサールはファブリスに決闘を申し込むことを希望し、マルクスにもそのことを相談したが、マルクスは「決闘は特権階級の因習であり、反革命的行動」として反対した。伯爵夫人もラッサールの身を案じて反対したため、結局断念した[68]

ラッサールの夜襲撃退劇は世間の評判になり、歴史家フリードリヒ・フェルスターからはロベスピエールのステッキを送られた[69][70]。この一件でラッサールはベルリン警察に睨まれるようになり、1858年6月にはベルリン追放命令を受けた[71]。ラッサールはスイスへ逃れつつ、この頃自由主義勢力と関係を持っていた皇太弟ヴィルヘルムに助けを求めた。折しもヴィルヘルムが摂政となり、自由主義的保守派によって構成される「新時代」内閣が発足していたこともあり、10月にはベルリンに戻ることができた[72]

マルクスとの亀裂

「腐れ縁」と化していく友人カール・マルクス

1859年にはマルクスの『経済学批判』をドゥンカー書店から出版できるよう取り計らった。一方でこの頃からマルクスのラッサール不信は強まっていく。

同年ラッサールは史劇『フランツ・フォン・ジッキンゲン』を書き上げ、これをベルリンの宮廷劇場に匿名で送ったが、革命的精神を謳う台詞が冗長で、またヘーゲル式議論が難解すぎるとして劇場からは採用してもらえなかった。ラッサールはこの脚本をマルクスに批評してほしがり、彼にも脚本を送ったが、当時のマルクスに舞台の脚本など読んでる暇はなく、また『経済学批判』出版が遅れていることに苛立っていた時期だったので「反動的封建階級に属する者を中心として描いたことは誤りである。主人公は全て農民一揆の農民指導者から選ばねばならない」という冷たい返事を突き返された[73]

しかしもっと大きかったのはイタリア統一戦争[注釈 5]をめぐって見解が相違したことだった。

この戦争をめぐってはエンゲルスが小冊子『ポー川とライン川』を執筆し、ラッサールの斡旋でドゥンカー書店から出版した[74]。この著作の中でエンゲルスは「確かにイタリア統一は正しいし、オーストリアがポー川(北イタリア)を支配しているのは不当だが、今度の戦争はナポレオン3世が自己の利益、あるいは反独的利益のために介入してきてるのが問題である。ナポレオン3世の最終目標はライン川(西ドイツ)であり、したがってドイツ人はライン川を守るためにポー川も守らねばならない」としてオーストリアの戦争遂行を支持した。マルクスもこの見解を支持した[75]

しかしラッサールはこれに疑問を感じた。専制君主であっても常にナショナリズムや民主主義の原理に媚を売ろうとするナポレオン3世はナショナリズムを踏みにじり続ける専制王朝国家オーストリアよりはマシに思えたからである[76][77]。そのためラッサールも独自に『イタリア戦争とプロイセンの義務、民主主義の呼び声(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens: eine Stimme aus der Demokratie)』と題した小冊子をドゥンカー書店から出版した。その中でラッサールは「イタリア統一の成功はドイツ統一にも大きく影響する」「ナポレオン3世が嫌いだからとイタリア統一の邪魔をする愚を犯すべきではない。」「もしナポレオン3世がそれによって何か利己的な目的を図ろうとしているなら、我々の側でそうはさせないだけの話。」「ライン川獲得のためにドイツに侵攻するなどありえず、ナポレオン3世が狙っているのはせいぜいフランス的なサヴォイの併合だけだろう。」「オーストリアが弱体化してもドイツ国民にはほとんど打撃にならない。むしろオーストリアが徹底的に粉砕されることがドイツ統一への近道」「ナポレオン3世が民族自決に従って南ヨーロッパの地図を塗り替えるなら、プロイセンは北方で同じことをすればいい。シュレースヴィヒ公国ホルシュタイン公国を併合するのだ。」と述べた[78][79][80]。このラッサールの主張は後年ビスマルクが実際にたどったドイツ統一の経緯を予言したものとして称賛された[81]

しかしこれはナポレオン3世を「無産階級最大の敵」と定義し、ナポレオン3世に抵抗するためならばプロイセンとオーストリアの連合さえも考慮に入れるべきと主張するマルクスとは相いれない立場であり、マルクスから「私と私の同僚(エンゲルス)は貴方の意見に全く賛成できない」と拒絶の返事を送られた[80]

マルクスの態度が冷淡になってきていると感じたラッサールは彼との友情を取り戻そうと弁明の手紙を送った。その中でラッサールは「私の小冊子を額面どおり受け取らないでほしい。私の本当の気持ちはプロイセンがフランスに勝利したとしても、それはプロイセン人民に望ましい形にはならず、反革命勢力の勝利に終わるだけということだ。逆にフランスが勝利すればホーエンツォレルン家他、ドイツ支配層の没落につながり、ドイツ人民の解放と革命戦線の連合は進むだろう」と訴えたが、この説明にマルクスが得心することはなかったようである[82]

またこの時期マルクスは、カール・フォークトドイツ語版批判運動に熱中しており、ラッサールにはその先頭に立つことを期待していたのだが、ラッサールがいまいち乗り気でないことにも不満を持っていた[83][注釈 6]。加えてラッサールはこの頃、株式投機で大損しており、マルクスからの金の無心に対して渋るような態度をとっていたこともマルクスの不信を加速させた。ラッサールはマルクスに金銭事情を説明したものの、マルクスは信じてくれなかった[85]

『既得権の体系』

1860年中に大著『既得権の体系(Das System der erworbenen Rechte)』の執筆を行い、1861年に全2巻で出版した。伯爵夫人の離婚訴訟で培った法律の知識が結実した本であった[86]

この本の中でラッサールは「法が個人の意志的行為を媒介としてのみ個人に関わる限り、その法は遡及作用してはならない」「個人の意志活動の媒介によってのみ個人に関わる法は決して遡及作用しないという命題から、かかる自由意志的な行為の介入なしで個人に関わる法は必ず遡及作用するという命題が導かれる」という遡及作用理論を立てて古代ローマから1850年のプロイセンまでの既得権の法制度を解き明かした[87]。そして「一般に法の歴史が文化史的進化を遂げるとともに、ますます個人の所有範囲は制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」という社会主義的結論を導き出している[88][86][注釈 7]

しかしこの著作は難解すぎて『ヘラクレイトスの哲学』の時のような称賛は得られなかった。法学者にとっては哲学的要素が、哲学者にとっては法学的要素が多すぎた。また革命家たちにとっては思弁過剰だった。マルクスは全く読もうとせず、エンゲルスは「自然法に対する迷信的信仰」などと批判した[90]

マルクスの帰国騒動

1861年1月に摂政ヴィルヘルム王子が正式にヴィルヘルム1世としてプロイセン国王に即位した。ヴィルヘルム1世は政治的亡命者に対して大赦を発した[91]。これを聞いたラッサールはマルクスにプロイセンへの帰国を勧めた[91][92]

マルクスも満更ではなく、4月1日にはラッサールとハッツフェルト伯爵夫人の援助でプロイセンに帰国し、ベルリンのラッサール宅に滞在した。ラッサールと伯爵夫人はマルクスが様々な社交場で一流の人士と歓談できるよう取り計らってやり、オペラハウスでは国王ヴィルヘルム1世が座っている最高席から数フィートという距離の位置のボックス席にマルクスを座らせてやった。だが反君主主義者のマルクスにはこういう貴族的歓待は不快以外の何物でもなかったらしい。マルクスがこういう生活に耐えていたのはプロイセン市民権を回復するためだったが、4月10日にはマルクスの市民権回復申請は警察長官から正式に却下された[93]。これを知るとマルクスはラッサールから40ポンド借りてロンドンへ帰っていった[94]

この一件以来マルクスはますますラッサールの「虚栄的生活」にムカムカするようになった。この頃、マルクスはラッサールが色黒なのを捉えて「(ラッサールは)モーセがユダヤ人を連れてエジプトから脱出した際に同行したニグロの子孫だろう。(略)この男のしつこさは紛れもなくニガーのそれである」と珍妙な人種観に基づく人種差別をしている[95]

ラッサールのロンドン訪問とマルクスとの交友断絶

マルクスからの手紙は長く途絶えていたが、1862年6月に突然マルクスから「借金を返す目途が立たなかったので手紙を書きにくかった」という無沙汰を詫びる手紙が届いた。ラッサールも久々にマルクスに返事を書き、「金で友も金も失う愚は侵したくないから、そのような配慮は御無用に」と述べつつ、ロンドン万博見学のついでにロンドンを巡りたいという希望を伝えた。そして「その動機の一つは美人と名高い貴方のお嬢さんに会いたいからです」と締めくくった。マルクスから歓迎するとの返事が届くと早速7月にロンドンを訪問した[96]

ラッサールのロンドン訪問の記録は断片的にしか残っていないが、そのわずかな資料から分かる事はこの訪問で二人の友情が戻るどころか、余計に関係が悪くなったことである。ラッサールがブルー・ブック英語版(英国議会・枢密院の報告書)を20ポンドもポンと出して買っているのを見たマルクスはこれを妬んだ[97]。またマルクスはエンゲルス宛の手紙の中で「奴のせいで大変に時間を取られて困る。私がよほど暇人で奴のために時間の全てを捧げることが当然だと思っているらしい」などと述べている[97]

マルクスがこのような喧嘩腰で及んだため、会談の空気も概して悪く、マルクスが唯一ラッサールに示した好意的な態度はアメリカのドイツ語新聞のベルリン通信員になってほしいという要請だったが、これについてはラッサールの方から断っている。ラッサールはアメリカを軽蔑しており、アメリカ人とは関わり合いになりたくなかったという[98]。マンチェスターで暮らしているエンゲルスも一応訪問を勧めてくれてはいたが、マルクスとの会談の実りの無さに失望していたラッサールは、マンチェスターまで行く気にはなれず、早々にベルリンへ帰国した。

帰国後、またしてもマルクスから手紙で金の無心を受けた。今度は60ポンドの手形の引き受け人になってほしいという要請だった。マルクスの友情と協力を求めて、長いことマルクスに要求されるがままに金をやり続けたラッサールだったが、ロンドン訪問も実りなく終わった今、さすがにこれ以上金を融通してやる気にはなれなかった。ラッサールははじめて「エンゲルスに頼んだかどうか」と冷たい返事を送った[99]

これにはマルクスもびっくりしたらしく、12月にプライドの高いマルクスにしては珍しい冗長に憐みを乞う調子の手紙が送られてきた[注釈 8]。この手紙がマルクス・ラッサール間の最後の手紙となった。ラッサールは返事を出さなかったのである。これをもってマルクスとの腐れ縁は終わった[100]

政治運動への本格的参入

ラッサールの同志ローター・ブーハードイツ語版

1861年9月から12月にかけて伯爵夫人とともにスイスとイタリアを旅行し、11月14日にはカプレラ島ジュゼッペ・ガリバルディを訪ねた[101]。ガリバルディ率いるイタリア行動党のオーストリアに対する攻撃計画に関心を持ったという[102]

帰国後のラッサールはガリバルディの影響で直接的な政治運動が増えていった。学究活動や文芸活動は減り、演説の草稿書きが主となっていく[103]。この頃、政界ではブルジョワを中心とする自由主義左派政党ドイツ進歩党がプロイセン議会下院の多数派を握っていた。ラッサールは進歩党の名士とも交友関係があったものの、彼らが社会政策に関心を持っていないことは明らかだった。結局進歩党に批判的な1848年革命の革命家たち、ローター・ブーハードイツ語版フランツ・ツィーグラードイツ語版ヨハン・ロードベルトゥスなどと連携を深めていった[104]。とりわけブハーとは親しくなり、彼と会合を重ね、社会主義の大衆運動の形成について語りあった[105]。だが1862年代のラッサールにはまだブルジョワ自由主義の封建勢力との戦いをサポートする意思があった[106]

ラッサールは1862年春のプロイセン下院解散総選挙の際に2つの演説を行った。この2つの演説を後に出版したものが『労働者綱領』であった。最初の演説はベルリンにおいて自由主義派の地域団体に向けて行った憲法に関する講演だった。この演説の中でラッサールは「ブルジョワはもはや意志なく支配される群衆たることを望まない。むしろ彼らは自ら支配し、王侯を自分の道具にすることを望んでいる。そのために彼らは一国の諸制度や統治原則を一つの紙に記載しようとする」「しかしより大きいはずのブルジョワの権力は組織されていなかったため、より小さいが組織されている権力、つまり王が軍において所有している権力に対抗できない」「国王は事実上の力関係を握っている限り、リベラルな成文憲法を喜んで制定できた。王は『現実の憲法』が重力の法則と同じ必然性で『成文の憲法』をなし崩しにできると確信していた。」「憲法問題は法の問題ではなく力の問題だ。一国の現実の憲法は、その国に存在する現実の、事実上の力関係の中にしか存在しない。成文の憲法が価値と持続力を発揮するのは、それが社会の中にある現在の力関係の正確な表現である場合のみである」と語り、自由主義ブルジョワに1848年革命の失敗を繰り返さないよう訴えた[107]

ついで4月12日にオラニエンブルクで機械製造工たちを前に「現代という歴史的時代と労働者階級の理念との特殊な関連」と題した演説を行った。この演説でラッサールはまず、資本主義が封建主義に取って代わり、さらに第四身分(無産階級)が登場してくる歴史的経緯を語った。つづいてブルジョワ自由主義の原理と労働者階級の原理の比較について語った。ヘーゲルによれば国家は道徳的理想と自由を実現するものであるはずなのに自由主義ブルジョワの自由放任主義は不道徳と搾取しかもたらさない、このような自己の利益を保全することのみにしか興味を示さない自由放任主義国家は「夜警国家」であり、不適切であるとした。一方労働者階級の階級全体の改善を図ろうという原理は普遍的で国家の支配原理となるのにふさわしいと説いた[108]。そしてその支配原理を実現する手段は普通選挙直接選挙であるとした[109]。6月にこの2つの演説を小冊子にまとめたものが『労働者綱領』だった[注釈 9]

演説では「ブルジョワの富は適法に手に入れたものである限り守られるべき」と述べるなど『既得権の体系』に反するような私有財産制擁護の表現も入れたが、これはプロイセン秘密警察の監視を逃れるためと思われる[111]。しかしそれでも結局この演説を機に官憲に目をつけられるようになった。警察に踏み込まれて『労働者綱領』を全て没収されたうえ、「国民の間に憎悪と軽悔の念を惹起することにより公共の秩序を危うくする」ことを禁じる刑法100条により起訴され、1863年1月16日にベルリンの裁判所で裁判にかけられ、禁固4か月の判決を受けている[112]

ビスマルクの登場と憲法闘争の勃発

軍制改革を盛り込んだ予算案をめぐってプロイセン議会衆議院が紛糾する中、無予算統治で軍制改革を断行することを決意した国王ヴィルヘルム1世は、1862年9月にユンカー出身の外交官オットー・フォン・ビスマルクを宰相に任じた。宰相となったビスマルクはまず進歩党のナショナリズムを煽って懐柔することを狙い、衆議院予算委員会において鉄血演説を行い、小ドイツ主義統一のためにはプロイセンの軍事力を増強しなければならないことを訴えた。

進歩党の議員たちもラッサールもドイツ統一は支持していたが、それはビスマルクのような「反動保守」によって君主主義的に行われるべき物ではなかった。この時点ではラッサールも伯爵夫人あての手紙の中で「彼は反動的なユンカーであり、彼に期待しうるのは反動的措置のみです。(略)さも戦争が差し迫っているかのような口実を設けて、 ―まさか国民はそれを鵜呑みにはしないでしょうが― 剣をガチャつかせて軍制改革予算を通そうとするか、あるいはドイツ統一への何らかの反動的処方を料理しようとするでしょう。しかしドイツ統一が反動的な土壌の上でできるはずはありません」と書いてビスマルクを批判している[113]

鉄血演説は進歩党議員からも評判が悪く、ビスマルクがこの演説で得たのは「鉄血宰相」の異名だけだった。進歩党の取り込みに失敗したと見たビスマルクは、無予算統治を開始し、軍制改革を強行したため、これを違憲として批判する進歩党とビスマルク政府の間に憲法闘争ドイツ語版が勃発した[114]

このような中の1862年11月にラッサールは「今何をするべきか」と題した憲法に関する第二演説を行った。その中でラッサールは「もはや封建主義は社会的な力ではブルジョワに勝てないのでエセ立憲主義で延命を図っているのであり、エセ立憲主義の仮面さえ剥いでしまえば封建主義は全社会と対立して滅亡することになる。したがって進歩党は護憲闘争をただちに停止し、むしろ封建主義が今やそれなしでは権力を維持できなくなっているエセ立憲主義を破壊することを目指すべき」と訴えた。具体的には「議会は自ら無期限休会を決議し、政府が無予算統治を放棄するまで休会し続けることである。強力なブルジョワ階級を持つようになった今のプロイセンでは議会なしで統治などできないので、いずれ封建主義は音を上げることになり、その時に国民は真の憲法を勝ち取ることができる」と語った[115]

1863年1月13日に議会が招集された際、進歩党代議士会においてラッサールの上記の提案がマルティーニという進歩党議員によって提出された。しかし進歩党の立憲主義・議会主義(今の憲法や議会がエセかどうかは別にして)は根強いものがあり、このマルティーニの動議は代議士会で却下された[116]。ラッサールは最後までブルジョワとの連携を重視し、1月16日の裁判でも「ブルジョワジーと労働者、我々は一つの国民を構成するものであり、我々の抑圧者に対して完全に一致している」と演説している。しかし進歩党の方はラッサールへの敵意をむき出しにし、「ラッサールは権力を法より優先させろと主張している。つまり保守反動の手先である」といった罵倒を行った[117]

進歩党との決別と全ドイツ労働者同盟結成

ブルジョワ自由主義の頑迷さにうんざりしたラッサールは彼らと決別して独自に労働運動を組織する決意を固めた[118]

ちょうどこの頃、ライプツィヒ中央委員会議長ユリウス・ファールタイヒドイツ語版がラッサールに指導を求めてきた。ラッサールはその返事として1863年3月1日に『公開回答書ドイツ語版』を出版した[119][120][121]。その中でラッサールはまず政治的方針を立て「進歩党は憲法闘争で見せた態度から分かるように自由のために何ら貢献することはできない。労働者階級は普通平等直接選挙を旗印に進歩党から独立した政党を作らねばならない。この新しい労働者の政党は利害の一致する範囲で進歩党を支持しても、進歩党が道を違えたらただちに同党を見限り、敵対せねばならない。」と述べた[122][123]

つづいて社会政策の方針について語り、その中で営業の自由や移住の自由を求める運動について、それは50年前の議論であり、今日の労働者運動において取り上げるべき問題ではなく、粛々と布告すればいいだけだとして退けた。貯蓄組合や疾病基金の構想は労働者を困窮に堪え易くするだけでそれ以上は期待できないとする[122][124]

また進歩党議員ヘルマン・シュルツェ=デーリチュが主張していた協同組合構想も否定した。シュルツェ=デーリチュは社会政策など歯牙にもかけないブルジョワ政党の中にあって労働者階級や小ブルジョワ層に支持を広げていくべきと主張していた人物である[125]。彼は「共助的結合による自助」を提唱し、協同組合(信用組合消費組合、手工業限定で原料組合倉庫組合)を作って弱小企業が大量の仕入れを出来るように補ってやることの必要性を訴えていた[126]。これに対してラッサールは進歩党議員でありながら、国民に尽くそうというシュルツェの姿勢を評価しながらも、信用組合・原料組合・倉庫組合は小手工業者の保護にしかならず、独立していない労働者階級の保護にはつながらないことを指摘した。また消費組合も価格を下げることはできるかもしれないが、その場合「賃金の鉄則」で給料も下がるからやっぱり労働者保護にはならないとした[127][128]

ではどうすればいいのか。その答えとしてラッサールは労働者階級自らが企業家になることを提唱した。労働者の自由な同盟と国家の援助によって企業体「生産組合」を結成させ、賃金と企業利得を一致させることで「賃金の鉄則」から離れて労働者階級の状況を改善させられると考えた[127][129]。この生産組合においては労働者は毎週慣習に従った賃金を受けつつ、年末には営業収益の分配を受けることになる[130]。国家は定款の認可と業績確保のための介入を行う。そして国家にこのような強力な干渉を行わせるには、国民が自ら選んだ立法府の存在、つまり普通選挙が不可欠であるとする[130][131]

以上のラッサールの『公開答弁書』は、3月17日のライプツィヒ中央委員会で採択され、つづく3月24日の全国労働者会議でも採択され、これを基にして全ドイツ労働者同盟を結成するための新委員会創設が決議された[132][133]。だがライプツィヒ以外に支持を拡大できるかは不透明であり、またこの頃にブーハーが雇用主に脅されてラッサールや労働運動と距離を取るようになり、これはラッサールにとって大きな痛手だった。だがラッサールは東奔西走して演説し、支持を拡大していった[134]。その甲斐あって1863年5月23日にはライプツィヒにドレスデンハンブルクハールブルクドイツ語版ケルンエルバーフェルトデュッセルドルフバーメンドイツ語版ゾーリンゲンフランクフルトマインツの労働者代表が集まり、ラッサールが起草した綱領を採択のうえ、ラッサールを指導者とする全ドイツ労働者同盟を正式に発足させることができた[135][136]

ビスマルクへの接近

「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルク

ちょうどこの頃からプロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクとラッサールの接触が始まった。最初の接触はビスマルクが1863年5月11日付けの手紙でラッサールに「現在の労働者階級の状況に関する諸懸案について、この問題に関係ある独立の緒家の専門的な意見が聞きたい」と要請したことだった[137][138]

ラッサールの遺稿集を編纂したグスタフ・マイアードイツ語版によると資料から確認できる限り、ビスマルクとラッサールは少なくとも5回は会見したという[139]

最初の会談は上記のビスマルクの要請によって行われた物で、ラッサールの手紙やスケジュールから考察して恐らく5月12日か13日と見られる[139]。この会談でラッサールは「労働者階級は必ずしも君主制に否定的ではない」と語り、根っからの君主主義者たるビスマルクを喜ばせたという。後年のドイツ帝国議会においてもビスマルクは「ラッサールは君主主義者だった」と語っている[140][注釈 10]。一方ビスマルクの方は現在の三等級選挙制度を廃止して普通選挙法を欽定する意志があることをラッサールに告げたようである[142][注釈 11]

二度目の会談は6月8日付けのビスマルク宛の手紙でラッサールが要請したことによって行われた。会談の日時は定かでないが、ラッサールが旅行に出る6月28日より以前に行われたと見られる。ラッサールはこの会談でビスマルクが出した新聞弾圧命令を「改良主義ではなく暴力革命に道を開くもの」と評してビスマルクを諌めた[144]

この後ラッサールはスイス、イタリア、ベルギー歴訪の旅行に出るも9月にはドイツへ戻り、ライン地方の各都市で全ドイツ労働者同盟支持を広げるための遊説を開始した。ゾーリンゲンでの遊説では数千人もの労働者を聴衆として集めたが、これを危険視した進歩党所属のゾーリンゲン市長が憲兵と警察官を率いて集会場に現れ、集会の解散を命じた。これに激怒したラッサールはすぐに近くの電信局へ飛びこみ、結社法を無視する進歩党市長の無法性と合法的救済を求める電報をビスマルクに送った。ビスマルクは関係部局に取り計らってやった。この一件は二人の関係について世間の注目を集めた[145][146]

三度目の会談は10月24日に行われた。この会談はゾーリンゲン市長の報告書がビスマルクに提出されたと聞いたラッサールが、ビスマルクに再度の請願を行う必要性を感じて会談を申し入れた結果、実現したものだった。この会談はゾーリンゲン事件についてのラッサールの報告が主となったようだが、他の問題にも話は及んだ。その中でビスマルクは保守派と労働者は進歩党という共通の敵を持つのだから次の選挙では保守派を支援するよう求めたが、ラッサールは「今は保守派と労働者は等しく進歩党と闘争しているが、本来両者は激しい敵同士である」と答えており、この段階では保守派と組むことへの慎重姿勢を崩さなかった[147]

ラッサールのその姿勢が転換したのは1864年1月12日に行われた四度目の会談である。この会談は普通選挙法の欽定の噂を聞いたラッサールが「その噂が事実なら条文が決定される前に私と会談してほしい」とビスマルクに手紙で請願した結果、実現した。資料が少なく会談の具体的な内容は不明だが、普通選挙が主題になったことだけは間違いない。ビスマルクが普通選挙の欽定をラッサールに明言したかどうかは諸説あって定かではない。会談翌日の13日付けのビスマルク宛の手紙の中でラッサールは「昨日閣下に申し上げるのを忘れたが、選挙資格は是非あらゆるドイツ人に与えてほしい。それが道徳的なドイツ統一となる。」と改めて嘆願し、また「選挙の具体的方法と棄権防止の成案をまとめるのでもう一度会談してほしい」と要請した[148]

最後の会談は普通選挙を熱望するラッサールの強い要請で1864年1月末から2月初めころに行われた。この会談でラッサールは対デンマーク戦争を始める前に普通選挙法を欽定すべきと訴えたが、ビスマルクは戦争前に普通選挙法を欽定することはないと返答した。これに対してラッサールは戦争が泥沼化してビスマルクが解任された場合、普通選挙法欽定がお流れになるのではという懸念を表明している。ついにラッサールは反動保守の国家権力者が失脚することを恐れるまでに至ったのである[149]。一方最後の会談におけるビスマルクの態度は全体的に冷淡だったが、これはビスマルクが対デンマーク戦争を通じて進歩党をナショナリズムのもとに屈服させることを目指すようになり、さしあたって労働者勢力との連携は必要なくなったためと考えられる[150]

ヘレーネ・フォン・デンニゲスとの恋愛騒動

1864年7月にバイエルン王国の貴族外交官ヴィルヘルム・フォン・デンニゲスドイツ語版の娘ヘレーネ・フォン・デンニゲスドイツ語版と恋仲になり、婚約した。しかし彼女には既に婚約者としてルーマニア貴族の御曹司ヤンコ・フォン・ラコヴィツア(Janko von Racowitza)がいた[151]。彼女は8月3日にスイス・ジュネーブにいる両親にラッサールと婚約したことを打ち明けたが、デンニゲス家は保守的な一家だったので父も母も社会主義者との結婚には強く反対し、予定通りラコヴィツアと結婚するよう要求した。納得しないヘレーネに激怒した父親は彼女を部屋に監禁したが、彼女はすぐに家から抜け出し、ラッサールと落ち合った。彼女はそのまま駆け落ちすることを希望したが、ラッサールの方は貴方の御両親を説得してみせると言い張った。そして彼女を追ってきた母親と話し合おうとしたが、母親は半ばヒステリー状態に陥っており、とても冷静に話し合い出来そうな空気ではなかったのでヘレーネにお願いしてひとまず家に帰ってもらうことにした。そしてラッサールは母親に「お嬢さんをお返しします。しかし短期間ということをご承知おきください。彼女は私の頼みで帰ることにしたのです。それをお忘れなく」と伝えた[152]

その日の夜、ラッサールのところにデンニゲス家の使者がやって来てヘレーネのことは諦めてただちにジュネーブから立ち去るよう告げられた。驚いたラッサールは翌日、デンニゲスに会見を申し込んだが、返答はなかった。その後、再びデンニゲス家の使者がやって来て前と同じ通告をしたが、今度はそれがヘレーネの意志であると伝えてきた。ラッサールははじめ信じなかったが、暗澹たる気分の中で本当にそれがヘレーネの意志なのかという疑念にも捕らわれるようになった。一方ヘレーネの方は相変わらず父親に監禁されており、メイドから「ラッサールは諦めてジュネーブを去った」という誤情報を伝えられ、絶望の淵に沈み、家族とともに一時ジュネーブを離れた[153]

これを噂で知ったラッサールもジュネーブを離れ、8月15日にバイエルン王国王都ミュンヘンに行き、デンニゲスの上司であるバイエルン外務大臣カール・フォン・シュレンク・フォン・ノツィングドイツ語版男爵と会見した。彼はラッサールに好意的で弁護士のヘンレ博士を自分の代理としてデンニゲスとの会談に同行させてくれることになった[154]

ちょうどその頃、ヘレーネがジュネーブに戻り、ジュネーブでラッサールの代理人をしているリュストウが「私はヤンコ・フォン・ラコヴィツアと和解しましたので、今後私と貴方の間には何らの関係もありえないことを私の自由な意思によりここに宣言します」というヘレーネの手紙をラッサールに届けにきた。ラッサールは凄まじいショックを受けた。家族に強要されて書いた手紙と信じたかったが、彼女への疑念もますます強まった。「もしヘレーネがナイン(ノー)というなら万事休す。私の苦労は全部お笑い草です。デンニゲスの立場は正当化され、私の希望は打ち砕かれ、この不実な女の持つ刃が私の心臓を貫くでしょう」「もしヘレーネに私の惨めさの千分の一でも想像する力があったなら、心変わりできるはずもないのですが…」と伯爵夫人に弱音を吐いている[155]

8月25日、ラッサールはヘンレ博士とともにバイエルン外相の書状を持ってジュネーブを再訪した。ここまで準備されてはさすがのデンニゲスも門前払いはできなかった。ラッサールの「公証人の前でヘレーネの意志を正式に宣言させるべきである。その前にヘレーネの意志表明が真実かつ自由であることを確認するため、私に彼女との二時間以内の会談を許されるべし」という要望書をヘンレ博士とリュストウがデンニゲス邸に持参した。ヘンレ博士とリュストウの証言によると、デンニゲスは「ヘレーネが望むならそれもいいだろう」と語り、ヘレーネ本人を呼び出したという。ところが彼女はもうすっかりラッサールに対して冷めた様子だったという。以前ラッサールに告げた愛の言葉は「時のはずみでそう言っただけ」と切り捨て、ラッサールの要望も拒否したという[156][注釈 12]

リュストウとヘンレ博士の報告を受けたラッサールは絶望した。彼のロマンスは粉々になり、いまや自分は世界中から笑い物にされていると感じるようになった。悩みや苦しみは怒りに代わり、雪辱をはらさずにはおけない心境となった。ヘレーネに宛てて「私の運命は貴女の手中にあります。しかしもし貴女が抗い難い卑劣な裏切りで私を破滅させるなら、私の運命は貴女の上に舞い戻り、私の呪いは墓場まで貴女を追っていくでしょう。それは、最も真実の心、貴女のために無残に打ちひしがれた心、そして貴女が恥ずかしげもなく弄んだ心の呪いです。」という怒りを露わにした最期の手紙を送った[158]

決闘死

ラッサールはデンニゲスにも手紙を送り、「リュストウ氏ならびにヘンレ博士の報告により、貴方の娘が取るに足らない娼婦であることが明らかになりました。私はもはや彼女と結婚して身を汚そうとは思いません。私にはもはや貴方の様々な侮辱に対する報復を遠慮すべき理由もありません。」として決闘を申し込んだ。デンニゲスは自分に代わってラコヴィツアが決闘に応じると返答した。ラッサールもそれを承諾した[159]

ラコヴィツアは恋敵の立場ではあるものの、そもそもヘレーネとラッサールを引き離したのは彼ではなくデンニゲスなのだから決闘としては筋違いの感もあったが、デンニゲスは決闘を申し込まれた直後にベルリンに逃げて行方をくらましていた。だからといって決闘を断念できるほど怒りの火は小さくなかった。あるいは半ば自殺のつもりで相手は誰でも良かった可能性もある[160]

人物

身長は5フィート6インチ(約168センチ)、髪は縮れ毛の鳶色、目は黒っぽい青色、額が広めで鼻は長い方だったという[161]。幸徳秋水によれば「威風堂々としており、悪くいえば気取った高慢なところが見えたが、その天才と精力が十分に発揮されていて男らしかった」という[162]。また話術が巧みだったといい、複数回にわたってラッサールと会見したビスマルクは「あんな愉快な男はいない。いつまで話していても飽きなかった」と語ったという[162]

ラッサールとマルクス

フリードリヒ・アルベルト・ランゲはマルクスの『資本論』とラッサールの『既得権の体系』を比較し、「この二つの著作の共通点は他のどの著作でも達成されていないような、思索的な要素と実証的な資料との相互浸透が見られる事である。しかし両者は次の点で異なる。ラサールは思索の根本に関しては自分の師匠(ヘーゲル)に対して、より自由、かつ生まれながらの哲学者としてより独立的にふるまいながら、他方彼の著作の法律上の素材は、稀に見る才能をもってであるが、ともかくこの仕事の目的に合わせて作りかえられている。これに反してマルクスは、経済学上の内容は驚嘆すべき専門的知識の材料を稀に見る自由さで使いこなすことから自然に出てきていながら、他方思索の形式は哲学上の模範(ヘーゲル)に密着しており、苦労して対象に取り組んでいるものの、著作のかなり多くの部分において著作の効果を損なっている」と述べている[163]


猪木正道は「史上最初の本格的社会主義政党であるドイツ社会民主党がマルクスやエンゲルスの『共産党宣言』ではなく、ラッサールの『公開回答書』から誕生したことは興味深い」と評している[164]

日本における評価

幸徳秋水にとってラッサールは憧れの人であり、明治37年(1904年)にはラッサールの伝記を著している。その著作の中で秋水は「想ふに日本今日の時勢は、当時の独逸と極めて相似て居るのである。(略)今日の日本は第二のラッサールを呼ぶの必要が有るのではないか」と書いている。また吉田松陰とラッサールの類似性を主張して「若し松陰をして当時の独逸に生まれしめば、矢張ラッサールと同一の事業を為したかも知れぬ」と述べる。他方で二人の違いとして「ラッサールは一面において華奢風流の才子であった、松陰は何処までも木強の田舎漢であった、前者が戯曲を作るの間に、後者は孔孟の道徳を講じ、前者が評花品柳の楽しみに耽るの間に、後者は常に父母兄弟姉妹の温情に泣て居た」としている[165][166]

コミンテルン片山潜も一時期ラッサールの国家社会主義に深く傾倒し、ラッサールについて「前の総理大臣ビスマルク侯に尊重せられし人なり。然り、彼は曹てビスマルクに独乙一統の経営策を与え、又た進んでビスマルクをして後日社会主義の労働者制度を執らしめたる偉人物」と評していた[167]

小泉信三河合栄次郎は反マルクス主義の立場からマルクスの対立者であるラッサールに深い関心を寄せ、彼に関する評伝を残した[7]

ラッサールの著作

  • 『ヘラクレイトスの哲学(Die Philosophie Herakleitos Des Dunklen Von Ephesos)』
  • 『イタリア戦争とプロイセンの義務、民主主義の呼び声』(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens: eine Stimme aus der Demokratie)
  • 『既得権の体系』(Das System der erworbenen Rechte)
  • 『労働者綱領』(Zur Arbeiterfrage)(1863年)
    邦訳:小泉信三訳『勞働者綱領』(1946年岩波書店)、森田勉訳『憲法の本質・労働者綱領』(1981年法律文化社
  • 『公開回答書』(Offenes Antwortschreiben)(1863年)
    邦訳:猪木正道訳『学問と労働者・公開答状』(1953年創元社

脚注

注釈

  1. ^ 伯爵夫人とラッサールの肉体関係の有無については定かではない。当時伯爵夫人は40歳、ラッサールは20歳であり、年齢差があるが、伯爵夫人は美人で知られていた。ラッサール自身は後年に「ハッツフェルト伯爵夫人の弁護を引き受けるにあたって浮いた気持など微塵もなかった」「自分を駆りたてた動機は騎士道精神である」と語っている[28]。一方で後年には、ヘレーネ・フォン・デンニゲスが「伯爵夫人はその頃魅力的だったのでしょうし、貴方は若かった。恋に落ちて何かあったのね。でも今はあの方もすっかりお年寄り。なのに貴方はまだ若いのですから、今はただのお友達というところでしょう」と述べたのに対して、ラッサールは「まあ大体君の言うとおりだよ」と答えたという[32]
  2. ^ これについて猪木正道は「学者にとって決定的なのは大学卒業後の数年間であるが、ラッサールはその期間を空費とまでは言わないものの、脇道にそれてしまった」として惜しんでいる[35]。またマルクスは後年にラッサールのハッツフェルト伯爵夫人離婚訴訟への熱の入れようを「ラッサールは本当に偉大な人間はこんな下らないことにも10年の時を費やすのだと言わんばかりに、見境もなく私的陰謀の渦中にあったのだから、自分こそは世界を自分の意思どおりにできると思っていたに違いない」と批判している。またエンゲルスは「我々がこんな事件でラッサールとグルになっていると思われぬよう『新ライン新聞』は意図的にこの事件を報道しなかった」と述べているが、これはエンゲルスの嘘であり、『新ライン新聞』は革命派から注目を集めていた小箱窃盗事件の訴訟を事細かに報道していた[36]フランツ・メーリングは「訴訟を始めた当時のラッサールには1848年に革命が起こるとは知りえなかったし、またプロイセン封建主義の腐敗ぶりが酷過ぎたために裁判が長期化したのであり、ラッサールを責めるのは不当」と弁護している[37]
  3. ^ 民主主義派とは自由主義の中でも極端な急進派のこと。大ブルジョワは保守派と妥協的な自由主義者が多かったが、小ブルジョワや下層民は急進的自由主義者になりやすく、彼らを民主主義派と呼んで一般の自由主義派と区別した。社会主義派はもともと民主主義派の最左翼であった[42]
  4. ^ この金額は当時のプロイセンの大臣の俸給の半分に匹敵する[58]
  5. ^ 1859年4月に皇帝ナポレオン3世率いるフランス帝国と宰相カミッロ・カヴール率いるサルデーニャ王国が同盟してイタリア北部を支配するオーストリア帝国を排除するために開始した戦争。
  6. ^ カール・フォークトはスイスの大学で教授をしていた左翼学者だが、イタリア統一戦争に際しては「プロイセンは中立の立場を取るべき」と主張した。このことでマルクスやヴィルヘルム・リープクネヒトは「フォークトはナポレオン3世から金をもらっている」という批判を行った。フォークトはマルクスたちを名誉棄損で訴え、勝訴したが、それだけでは我慢ならず、「マルクスは強請で金を稼いでいる男である」と批判し返した。異常にプライドが高いマルクスはこれに激昂し、ラッサールなど友人たちに総動員をかけてフォークトとの全面闘争を開始した。しかしこの頃のラッサールはベルリン社交界で確固たる立場を築く文士・学者になっていたから、こういう喧嘩事に全精力を注ぐようなことをしたくなかった[84]
  7. ^ これはつまり初めに人間はこの世の全部が自分の物だと思い込んでいたが、やがて限界を知るようになったということである。たとえば神仏崇拝は神仏が私有財産から離れたということ、また農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者になったことで農民が私有財産から離れたということ、ギルドの廃止や自由競争も独占権は私有財産ではないと認識されるようになったことを意味している。だからやがて今のブルジョワ的私有財産制も崩壊し、共同所有社会がやってくるという考えである[89]
  8. ^ マルクスとしては毎回エンゲルスに頼みにくかったので、またラッサールから金の無心をしようと思いついたようである。マルクスの手紙は次の通り。「貴方はわたしがエンゲルスに無断で事を運んでいるように思っていると私は考えたのですが、貴方の手紙を読み返してそれが勘違いだと分かりました。なるほど、私は貴方への手紙でこれにはまったく触れませんでした。私の現実の苦しみを私の手紙に表明も示唆もしなかったことも認めます。ですから、貴方の私の手紙の読み方は間違っており、またそんな風に書いたことで私も間違いを犯して誤解の種をまいたわけです。これが我々を不仲にするのでしょうか。我々の友情はもっとしっかりしたもので、このくらいのショックでダメになるものではないと信じます。私が合理的動物と言えないほどに自制心を失っていた事も認めます。しかし私が自分の頭を撃ち抜いてしまおうかとさえ思っている時に、あたかも検察官のようにふるまうのは寛大な貴方らしくないでしょう。我々の古い友情がなお続いていくことを希望します」[100]
  9. ^ マルクスは『労働者綱領』について「私が共産党宣言でしばしば言ったことの卑俗化に過ぎない」として剽窃本だと批判しているが[97]、これに対してフランツ・メーリングは剽窃ではなく独自に考え抜かれた著作であると反論している[110]
  10. ^ これに対してドイツ社会民主突党首アウグスト・ベーベルは自伝の中で「ラッサールが君主主義者だったなどというのはビスマルクの身勝手な嘘であり、反駁する価値もない」と一蹴している[141]
  11. ^ 納税額に応じた三等級選挙制度は当初保守派貴族を有利にすべく制定されたものだったが、実際には進歩党をはじめとする自由主義ブルジョワを台頭させる結果となった。プロイセンで多数を占める農業労働者は地主に強く従属していたから、ビスマルクはむしろ普通選挙の方が保守派に都合がいい選挙制度と考えるようになっていたのである[143]
  12. ^ これに対してヘレーネは後年に「リュストウが自分に激しい憎しみを寄せていたせいである。ヘンレ博士ともう一度話せたら、多分自分は再びラッサールに抱かれただろう」と証言している。また彼女が以前リュストウに手渡したラッサールとの絶縁の手紙についても「父に強制されて書かされた物であり、リュストウの態度が冷たいから私の本心を彼に伝えられなかった」と証言している。ただしこれらはラッサールの名声が高まった後に行われた証言であるため、ラッサールと愛し合った女性としてヘレーネが自分を宣伝しようとした可能性が指摘されている[157]

出典

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参考文献

関連項目