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また1932年には大英帝国外からの全商品に10%の関税を課しつつ、帝国内からの商品には関税を課さないという帝国特恵関税構想に基づく『輸入関税法』を可決させた。この際にチェンバレンは「父ジョゼフの考え方を直接に、しかも正確に受け継いだこの法案が父の愛した庶民院に提出され、しかも父の名声と血を直接に受け継いだ息子2人のうちの1人によって提出されたということを父が知り得たとすれば、絶望した父が安らぎを見出すであろうと信じる」と演説した。これはチェンバレンの生涯を通して唯一の感情的演説であるとされる<ref name="坂井(1977)13">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.13</ref>。 |
また1932年には大英帝国外からの全商品に10%の関税を課しつつ、帝国内からの商品には関税を課さないという帝国特恵関税構想に基づく『輸入関税法』を可決させた。この際にチェンバレンは「父ジョゼフの考え方を直接に、しかも正確に受け継いだこの法案が父の愛した庶民院に提出され、しかも父の名声と血を直接に受け継いだ息子2人のうちの1人によって提出されたということを父が知り得たとすれば、絶望した父が安らぎを見出すであろうと信じる」と演説した。これはチェンバレンの生涯を通して唯一の感情的演説であるとされる<ref name="坂井(1977)13">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.13</ref>。 |
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1933年1月にドイツで[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)が政権を獲得した。チェンバレンは{{仮リンク|駐ドイツ・イギリス大使|en|List of diplomats of the United Kingdom to Germany}}{{仮リンク|サー・ホレース・ランボールド准男爵|en|Sir Horace Rumbold, 9th Baronet}}からの「ヒトラリズム」を危険視する報告書と1934年7月にオーストリア・ナチ党員がオーストリア首相[[エンゲルベルト・ドルフース]]を暗殺した事件を受けてヒトラーを危険視するようになった<ref name="坂井(1977)20">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.20</ref>。 |
1933年1月にドイツで[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)が政権を獲得した。チェンバレンは{{仮リンク|駐ドイツ・イギリス大使|en|List of diplomats of the United Kingdom to Germany}}{{仮リンク|ホレース・ランボールド (第9代准男爵)|label=サー・ホレース・ランボールド准男爵|en|Sir Horace Rumbold, 9th Baronet}}からの「ヒトラリズム」を危険視する報告書と1934年7月にオーストリア・ナチ党員がオーストリア首相[[エンゲルベルト・ドルフース]]を暗殺した事件を受けてヒトラーを危険視するようになった<ref name="坂井(1977)20">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.20</ref>。 |
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チェンバレンは「他国が我々を威嚇できるほど我々が弱体であれば、平和は確保されないであろう」「低地諸国の保全は我々に重大な利益があるので、我々はあらゆる手段を行使してでも、その侵犯に抵抗しなければならない」と演説し、1934年の予算では軍事費を増額し、本国の空軍力を50%増強した<ref name="坂井(1977)20">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.20</ref>。1935年には『防衛白書』を作り、ドイツの非公式の軍拡と青少年に行っている教育がイギリス人の対独不安を増大させているとした<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.22-23</ref>。 |
チェンバレンは「他国が我々を威嚇できるほど我々が弱体であれば、平和は確保されないであろう」「低地諸国の保全は我々に重大な利益があるので、我々はあらゆる手段を行使してでも、その侵犯に抵抗しなければならない」と演説し、1934年の予算では軍事費を増額し、本国の空軍力を50%増強した<ref name="坂井(1977)20">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.20</ref>。 |
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1935年3月には『防衛白書』を作り、ドイツの非公式の軍拡と青少年に行っている教育がイギリス人の対独不安を増大させているとした<ref>[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.22-23</ref>。 |
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=== 第三次ボールドウィン内閣大蔵大臣 === |
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2013年9月29日 (日) 16:20時点における版
ネヴィル・チェンバレン Neville Chamberlain | |
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ファイル:Arthur-Neville-Chamberlain.jpg | |
生年月日 | 1869年3月18日 |
出生地 | イギリス・イングランド・バーミンガム |
没年月日 | 1940年11月9日(71歳没) |
死没地 | イギリス・イングランド・ヘックフィールド |
出身校 | メーソン・サイエンス・カレッジ |
前職 | 実業家 |
所属政党 | 保守党 |
称号 | 王立協会フェロー(FRS) |
配偶者 | アン |
親族 |
ジョゼフ・チェンバレン(父) オースティン・チェンバレン(異母兄) |
サイン |
![]() |
在任期間 | 1937年5月28日 - 1940年5月10日[1] |
国王 | ジョージ6世 |
内閣 |
第1次ボールドウィン内閣 マクドナルド挙国一致内閣 第3次ボールドウィン内閣 |
在任期間 |
1923年8月27日 - 1924年1月22日[2] 1931年11月5日 - 1937年5月28日[2] |
内閣 |
ボナー・ロー内閣 第1次ボールドウィン内閣 第2次ボールドウィン内閣 マクドナルド挙国一致内閣 |
在任期間 |
1923年3月7日 - 1923年8月27日 1924年11月6日 - 1929年6月4日 1931年8月25日 - 1931年11月5日 |
内閣 | ボナー・ロー内閣 |
在任期間 | 1922年 - 1923年[3] |
![]() | |
選挙区 |
バーミンガム・レディウッド選挙区 バーミンガム・エッジバストン選挙区[3] |
在任期間 |
1918年12月14日 - 1929年5月30日 1929年5月30日 - 1940年11月9日[3] |
その他の職歴 | |
![]() (1915年 - 1917年) | |
保守党党首 (1937年5月31日 - 1940年10月5日[4]) | |
![]() (1940年5月11日 - 1940年10月3日) |
アーサー・ネヴィル・チェンバレン(Arthur Neville Chamberlain, FRS、1869年3月18日 - 1940年11月9日)は、イギリスの政治家。
実業家として活躍した後、バーミンガム市長を経て、1918年に保守党議員として中央政界へ移る。スタンリー・ボールドウィンの3度の内閣やラムゼイ・マクドナルドの挙国一致内閣で大蔵大臣や保険大臣を務め、福祉政策に貢献した。1937年のボールドウィンの引退で代わって保守党党首・首相となる。当初ナチス・ドイツに対して宥和政策をとっていたが、1939年のドイツ軍のポーランド侵攻を機に対独開戦に踏み切り、第二次世界大戦を勃発させた。1940年4月から始まった北欧戦でドイツ軍に敗北を喫して引責辞任した。
植民地大臣を務めたジョゼフ・チェンバレンは父、外務大臣を務めたオースティン・チェンバレンは異母兄にあたる。
概要
1869年、後に植民地大臣となる実業家ジョゼフ・チェンバレンの次男として生まれる。異母兄にオースティンがいる。メーソン・サイエンス・カレッジを卒業後、会計事務所に勤務。1891年から7年に渡ってバハマ諸島・アンドロス島でシザル麻栽培のための事業を行うが失敗。その後バーミンガムで実業家として名を上げ、1911年にはバーミンガム市議会議員、1915年にはバーミンガム市長となる。
1918年12月の解散総選挙でバーミンガム・レディウッド選挙区から保守党候補として出馬して当選。1922年にアンドルー・ボナー・ロー内閣の郵政長官に就任。1923年3月には保険大臣に昇進。スタンリー・ボールドウィン内閣でも重用され、1923年8月には大蔵大臣に就任した。
生涯
生い立ち
1869年3月18日、バーミンガムのエッジバストンで生まれた。父は当時バーミンガムの大実業家だったジョゼフ・チェンバレン。母はその後妻フロレンス(旧姓ケンルック)[5]。同母妹が三人いる。また父ジョゼフは先妻との間にも子供を二人儲けており、そのうちの一人がオースティンだった[6]。
6歳の時に母フロレンスが出産が原因で死去し、母のいない家庭で育つことになった。この孤独感がネヴィルの独立心・自制心を形成したという[6]。また母がいない家庭を作ってはならないという信念を強め、後のネヴィルの福祉への積極的な取り組みの思想的背景となった[6]。ラグビー校を卒業後、メーソン・サイエンス・カレッジ(後にこのカレッジはバーミンガム大学のカレッジの一つとなる)に入学し、科学と工学を学んだ[5]。
政治家に転身した父ジョゼフは、理系の道を突き進む次男ネヴィルを見て「ネヴィルは決して政治家にはならないだろう」と予想した。実際、ネヴィルはすぐには政治家にならず、大学卒業後には会計事務所に勤務している。その勤務ぶりは非常に精勤であったという[7]
実業家として
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d3/Arthur_Neville_Chamberlain_03.jpg/180px-Arthur_Neville_Chamberlain_03.jpg)
父ジョゼフは政治に専念するべく、1880年代に実業界から身を引いたが、1890年にはバハマ総督アンブローズ・シーと知り合ったことでバハマ諸島のシザル麻栽培に関心を持ち、1891年に息子のオースティンとネヴィルをバハマ諸島・アンドロス島へ調査に行かせた。結局ジョゼフはここにアンドロス繊維会社を立ち上げることとし、ネヴィルにその経営を任せた。以降7年に渡ってアンドロス島に滞在してシザル麻栽培に尽くすことになる[8]。22歳から28歳までという時期を隔絶された孤独な環境で過ごしたことはチェンバレンの独立心と自制心を一層伸ばしたという[9]。
労働者を雇って土地の開墾の指揮をとりつつ、しばしば自らも斧を振るって開墾に参加したという[10]。だが苦労して作ったシザル麻栽培のための土地は栽培に全く向いておらず、最終的にアンドロス繊維会社は5万ポンドもの損失を出して事業は失敗に終わった[11]。
アンドロス島での事業が失敗に終わるとバーミンガムのエリオット金属会社やホスキンズ・アンド・サン会社(船舶用金属製寝台製造会社)で勤務した[12]。1911年にはアン・コールと結婚した[9]。
やがてバーミンガム産業界の指導的人物となり、1911年にはバーミンガム市議会議員となり、市の都市計画と福祉事業に参画する[13]。
バーミンガム市長
第一次世界大戦中の1915年にはバーミンガム市長に就任した[9]。
バーミンガム市長となったチェンバレンは戦時貯蓄銀行の必要性を感じ、これに反対していた大蔵省金融担当政務次官エドウィン・サミュエル・モンタギュー、ロイド銀行やロンドン・シティ・アンド・ミッドランド銀行などを熱心に説得し、ついに1916年に戦債投資法を庶民院に通過させることに成功した。この法律は貯蓄を戦債に投資させるためのものであり、これによってバーミンガム戦時貯蓄銀行の樹立が可能となった[12]。
中央政界へ
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a0/DirectorOfNationalServiceNevilleChamberlain--nsillustratedwar03londuoft.jpg/180px-DirectorOfNationalServiceNevilleChamberlain--nsillustratedwar03londuoft.jpg)
デビッド・ロイド・ジョージから高く評価されていたチェンバレンは、ロイド・ジョージが首相となった1916年12月に国民兵役担当長官に任じられたが、しかし与えられた権限も組織も明確でなかったため、ロイド・ジョージを見限ってすぐに辞職した[9]。
1918年12月の解散総選挙でバーミンガム・レディウッド選挙区から保守党候補として出馬して初当選を果たす。当時保守党はロイド・ジョージ政権を支えていたが、チェンバレンはロイド・ジョージとは距離を置いていた[9]。
1922年に保守党はロイド・ジョージとの大連立を解消し、ボナー・ローを首相とする単独政権を樹立した。チェンバレンはその内閣に郵政長官として入閣した。1923年3月には保険大臣に転任する。5月にボナー・ローが引退し、スタンリー・ボールドウィンが後任の首相・保守党党首となるが、ボールドウィンからも重用され、8月には大蔵大臣に抜擢された。チェンバレンは父ジョゼフと同様に社会保障の財源として関税を見込んでおり、保護貿易の帝国特権関税制度を支持していた。11月にはボールドウィンも帝国特恵関税制度の必要性を感じて、12月にその是非を問う解散総選挙に打って出た。しかし保守党はその総選挙で敗北したため、チェンバレンも予算に携わる機会のないまま蔵相を辞した[14]。
第二次ボールドウィン内閣保健大臣
1924年11月に成立した第二次ボールドウィン内閣でも保健大臣に再任され、政権が崩壊する1929年6月までの長期にわたって在職した。
1926年には助産婦および産院法制定を主導した。これによって妊婦死亡率は大きく減少した[13]。また1926年から住宅建設を主導し、1929年の退任までに100万戸もの住宅を建設した。またスラム街の一掃にも尽力し、1929年までにイングランドとウェールズで58のスラム街を消滅させることに成功した[13]。
1928年には保健大臣に救貧委員の任命権限を与える『救貧委員怠慢法案』の制定を主導した。この法律は労働党の影響下にある市議会や救貧委員会の浪費を抑えることを主眼としていたため、労働党の強い反発を買った。労働党は悪意ある質問をチェンバレンに集中させた。チェンバレンの方も労働党への憎しみを強め、労働党議員を個人攻撃するようになった。そのやり方の評判がよくなかったため、しばしば首相ボールドウィンから注意された。この後も労働党との対立は根深く続くことになる[15]。
マクドナルド挙国一致内閣大蔵大臣
1931年8月に労働党政権の首相ラムゼイ・マクドナルドは世界大恐慌対策に失業手当と公務員給料の削減による均衡財政を目指したが、失業手当削減をめぐって閣内分裂して政権崩壊した。マクドナルドは労働党大連立派(ごく少数)と保守党と自由党で大連立し、挙国一致内閣を形成した。チェンバレンもこの内閣に保健大臣として入閣。11月には大蔵大臣に転じた。チェンバレンはマクドナルドの均衡財政方針を全面的に支持しており、「予算というものは長期にわたって均衡を図るより、年毎に均衡を図るべきである」と述べていた[16]。
大蔵大臣としての最初の予算案から所得税の増税を行った。また為替平衡勘定を設定することで投棄に歯止めをかけて為替安定を図った。さらに低金利政策を実施し、20億ポンドに及ぶ5分利子の戦時国債を3分5厘に借り換えるか償還するかし、また公定歩合を2%に下げた。この結果、年間3000万ポンドの節約が実現された[17]。
また1932年には大英帝国外からの全商品に10%の関税を課しつつ、帝国内からの商品には関税を課さないという帝国特恵関税構想に基づく『輸入関税法』を可決させた。この際にチェンバレンは「父ジョゼフの考え方を直接に、しかも正確に受け継いだこの法案が父の愛した庶民院に提出され、しかも父の名声と血を直接に受け継いだ息子2人のうちの1人によって提出されたということを父が知り得たとすれば、絶望した父が安らぎを見出すであろうと信じる」と演説した。これはチェンバレンの生涯を通して唯一の感情的演説であるとされる[18]。
1933年1月にドイツでアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を獲得した。チェンバレンは駐ドイツ・イギリス大使サー・ホレース・ランボールド准男爵からの「ヒトラリズム」を危険視する報告書と1934年7月にオーストリア・ナチ党員がオーストリア首相エンゲルベルト・ドルフースを暗殺した事件を受けてヒトラーを危険視するようになった[19]。
チェンバレンは「他国が我々を威嚇できるほど我々が弱体であれば、平和は確保されないであろう」「低地諸国の保全は我々に重大な利益があるので、我々はあらゆる手段を行使してでも、その侵犯に抵抗しなければならない」と演説し、1934年の予算では軍事費を増額し、本国の空軍力を50%増強した[19]。
1935年3月には『防衛白書』を作り、ドイツの非公式の軍拡と青少年に行っている教育がイギリス人の対独不安を増大させているとした[20]。
第三次ボールドウィン内閣大蔵大臣
人物・評価
ハロルド・マクミランは「今日ミュンヘン会談とか、首相としての悲劇な時代と関連させて、チェンバレンを考える人々もいるが、しかしそのような人々は社会改良に関する彼の素晴らしい業績を忘れてはならない」と語っている[21]。
脚注
注釈
出典
- ^ 秦(2001) p.511
- ^ a b 秦(2001) p.512
- ^ a b c HANSARD 1803–2005
- ^ 秦(2001) p.542
- ^ a b 世界伝記大事典(1980)世界編6巻 p.132
- ^ a b c 坂井(1977) p.3
- ^ 坂井(1977) p.14
- ^ 坂井(1977) p.4/6
- ^ a b c d e 世界伝記大事典(1980)世界編6巻 p.133
- ^ 坂井(1977) p.5
- ^ 坂井(1977) p.5-6
- ^ a b 坂井(1977) p.7
- ^ a b c 坂井(1977) p.12
- ^ 坂井(1977) p.13/18
- ^ 坂井(1977) p.15
- ^ 坂井(1977) p.14-15
- ^ 坂井(1977) p.18
- ^ 坂井(1977) p.13
- ^ a b 坂井(1977) p.20
- ^ 坂井(1977) p.22-23
- ^ 坂井(1977) p.12-13
- ^ 早川(1983) p.22-23
- ^ ブレイク(1979) p.218
参考文献
- 朝倉治彦、三浦一郎『世界人物逸話大事典』角川書店、1996年(平成8年)。ISBN 978-4040319001。
- 坂井秀夫『近代イギリス政治外交史4 人間・イメージ・政治』創文社、1977年(昭和52年)。ASIN B000J8Y7CA。
- 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220。
- 早川崇『ジョセフ・チェンバレン 非凡な議会人の生涯と業績』第一法規、1983年(昭和58年)。
- ブレイク男爵 著、早川崇 訳『英国保守党史 ピールからチャーチルまで』労働法令協会、1979年(昭和54年)。ASIN B000J73JSE。
関連項目
公職 | ||
---|---|---|
先代 フレデリック・ケラウェイ |
![]() 1922年-1923年 |
次代 サー・ウィリアム・ジョインソン=ヒックス准男爵 |
先代 サー・アーサー・グリフィス・ボスカウェン |
![]() 1923年 | |
先代 スタンリー・ボールドウィン |
![]() 1923年 - 1924年 |
次代 フィリップ・スノーデン |
先代 ジョン・ウィートリー |
![]() 1924年 - 1929年 |
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![]() 1931年 |
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![]() 第60代:1937年 - 1940年 |
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先代 第7代スタンホープ伯爵 |
![]() 1940年 |
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党職 | ||
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イギリス保守党党首 1937年 - 1940年 |
次代 ウィンストン・チャーチル |