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2015年10月20日 (火) 03:16時点における版
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翁長 雄志 おなが たけし | |
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生年月日 | 1950年10月2日(73歳) |
出生地 |
![]() (現:那覇市) |
出身校 | 法政大学法学部 |
所属政党 |
(自由民主党→) 無所属 |
親族 |
父・翁長助静(元真和志村長) 兄・翁長助裕(元沖縄県副知事・沖縄県議会議員) |
公式サイト | オナガ雄志オフィシャルWEBサイト |
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当選回数 | 1回 |
在任期間 | 2014年12月10日 - 現職 |
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当選回数 | 4回 |
在任期間 | 2000年 - 2014年10月3日 |
選挙区 | 那覇市選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1992年 - 1996年 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1985年 - 1992年 |
翁長 雄志(おなが たけし、1950年10月2日 - )は、日本の政治家。沖縄県知事(本土復帰後第7代)。
那覇市議会議員(2期)、沖縄県議会議員(2期)、沖縄県那覇市長(4期)などを歴任した。
父は元沖縄県真和志村長の翁長助静。兄は沖縄県副知事、沖縄県議会議員を務めた翁長助裕。
略歴
- 1950年(昭和25年) - 那覇市(旧真和志村)大道に翁長助静の三男として生まれる。
- 1963年(昭和38年) - 那覇市立大道小学校卒業
- 1966年(昭和41年) - 那覇市立真和志中学校(18期)卒業
- 1971年(昭和44年) - 沖縄県立那覇高等学校(22期)卒業
- 1975年(昭和50年) - 法政大学法学部法律学科卒業
- 1985年(昭和60年) - 那覇市議会議員に初当選(1期)
- 1989年(平成元年) - 那覇市議会議員に再選(2期)
- 1992年(平成4年) - 沖縄県議会議員に初当選(1期)
- 1996年(平成8年) - 沖縄県議会議員に再選(2期)
- 2000年(平成12年) - 第28代那覇市長に就任(1期)
- 2004年(平成16年) - 第29代那覇市長に就任(2期)
- 2008年(平成20年) - 第30代那覇市長に就任(3期)
- 2012年(平成24年) - 第31代那覇市長に就任(4期)
- 2014年(平成26年)
家族は妻と2女。
役職歴
活動
那覇市長時代(2000年12月~2014年10月)
那覇軍港の浦添移転推進
那覇市長時代は那覇軍港の浦添移転を推進し、那覇軍港を返還させるとともに、浦添沖を埋め立てて新しい軍港を作り移転した。移転に際して翁長は「決断に敬意を表する。今後、那覇港は県、那覇市、浦添市の三者が一体となって国際流通港湾として整備・管理することになる。振興発展を担う中核施設として整備されるように努力を重ねたい」と評価した[2]。
福州市からの名誉市民表彰
2005年、那覇市の姉妹都市である中国福建省福州市から「名誉市民」の表彰を受けた。この表彰について、翁長は、那覇市の公式ホームページで「私が名誉市民の表彰を受けたのは、上山中学校と福州市の外語学校との交流を行なうなど、市民の方々、それから歴代の市長を始め、職員が一生懸命、福州市とこれまで交流を続けていただいたことでの表彰であり、那覇市の代表ということで受け取って参りました」「今後も交流の輪をしっかり受け継ぎ広げていこうと決意を固めた授章式でした」[3]と述べており、姉妹都市としての友好関係の上で市の代表として受賞したと説明している。 尚、那覇市と福州市は1981年に友好都市締結の調印をして以来相互の市長に名誉市民の称号を贈っている[4]。
「龍柱」設置事業推進
2012年に友好都市である中国福州市との交流のシンボルにしようと「龍柱」の設置を発案。事業費に沖縄振興一括交付金の約2億6700万円を活用し、若狭地区の緑地に高さ約15メートル、幅3メートルの「龍」の形をした柱を2体設置する計画だったが、工期の延長による一括交付金の繰り越し断念などで市の負担額が膨らんだこともあり、税金の無駄遣いとの批判を受けている[5]。 また、国民の税金である一括交付金の多くが発注先の中国企業に流れることに対する批判もある[6]。
沖縄県知事選
出馬表明の経緯
2014年6月5日、一部与党議員からの沖縄県知事選挙立候補要請を受けて出馬表明した。出馬要請した与党議員は同年8月8日に除名、もしくは離党勧告に従って離党した[7]。同年8月11日、日本共産党・社会民主党・生活の党・沖縄社会大衆党・県民ネットの県政野党4会派で構成する知事選候補者選考委員会は「建白書に示された理念を堅持するぶれない知事が求められている」「沖縄うまんちゅ(民衆)のため力を尽くされる決意をお願いしたい」と要請文を読み上げ、翁長の出馬を求めた[8]。
辺野古埋め立て反対
翁長は「今や米軍基地は沖縄経済発展の阻害要因だ。政府が強行する辺野古新基地建設に断固反対する」と述べ、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への県内移設に反対する姿勢を示している。ただし、那覇市で会見した際は、移設工事を止める方法について「県民は埋め立て承認の撤回や取り消しを望んでいると思う。知事選に勝ってから、相談しながら撤回や取り消しのあり方を考えていきたい」と述べるに留まっている[9]。 市町村長会において「我々が反対しても国の方針は変えられない」「基地に反対することでより多くの振興策が多く取れる」と発言し、埋め立て反対は基地問題の解決ではなく振興策を得るための手段であることを表明したと報道されたが[10]、翁長は「沖縄振興予算が最も多かったのは名護市への移設に反対した知事時代だったという趣旨の話をした」と説明し、「話をすり替えている」と反論した[10]。
2014年10月17日に行われた青年会議所主催の討論会では、「普天間は賞味期限切れで固定化は難しい。(事故がたまたま起きていないという)偶然という砂上の楼閣に載っている。万が一事故が起これば日米同盟そのものが吹き飛ぶ」と発言した[11]。
ちなみに翁長氏はかつて自民党県連幹事長を務め、15年前の県議時代、辺野古移設推進決議案を可決させた旗振り役だった。また那覇市長であったときには辺野古移設に賛成していた[12]。
日本共産党との関係
永らく自由民主党に所属していたが、沖縄からの基地撤去を主張する日本共産党からも支持を受けている。共産党委員長の志位和夫からは「このたたかいの先頭に立つオナガさんが知事になれば、日米両政府に巨大な衝撃を与え、新しい歴史の扉を開きます。オナガさんを知事に押し上げ、沖縄の新しい歴史をつくろう」[13]と激励され、翁長も「志位委員長から激励をいただき、本当にこれまでの政治活動が間違っていなかったと感じています。一緒に行動して本当に違和感がない。なぜもっと前から一緒にならなかったのかと話すくらいです」[14]と応えた。
元那覇副市長城間幹子とともに志位と手をつないだ写真が掲載されたこともある[15]。この際の写真は志位の公式Twitterにも掲載された[16]。
建白書をめぐる議論
県知事出馬にあたり、翁長は「建白書で大同団結し、普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設断念、オスプレイ配備撤回を強く求める」[17]と説明していたが、2013年1月25日に石垣市の中山市長らとともに署名した確認書では、「(建白書は)米軍普天間基地の移設について原則、県外への移設を理想とするものの、普天間基地の早期移設と周辺住民への危険性の除去を最優先と考えており、県内移設の選択肢を否定するものではない」と表記されている[18]。八重山毎日新聞の取材に対し、中山は「オスプレイの強行配備に反対する内容の要請活動のはずだったが、要請書が建白書に変わり、なおかつ普天間の県内移設断念の文言が入っていたので署名できないと伝えた。41市町村長の署名押印をそろえたいと言われ、確認書をつくった。県内移設断念についてはオール沖縄ではなかった」と回答した[18]。
県知事選出馬にあたっての基本的な認識
- 普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設断念、オスプレイ配備撤回を強く求める。そして、あらゆる手法を駆使して、辺野古に新基地はつくらせない。
- 日本の安全保障は日本国民全体で考えるべきものである。
- 米軍基地は、沖縄経済発展の最大の阻害要因である。基地建設とリンクしたかのような経済振興策は、将来に大きな禍根を残す。
- 沖縄21世紀ビジョンの平和で自然豊かな美ら島などの真の理念を実行する。
- アジアのダイナミズムに乗って動き出した沖縄の経済をさらに発展させる。
- 大いなる可能性を秘めた沖縄の「ソフトパワー」こそ、成長のエンジンである。
- 新しい沖縄を拓き、沖縄らしい優しい社会を構築する。
- 平和的な自治体外交で、アジアや世界の人々との交流を深める[17]。
沖縄県知事
初当選
2014年11月16日に投開票された沖縄県知事選挙では、日本共産党・社会民主党・生活の党・沖縄社会大衆党・県民ネット・那覇市議会最大会派で自由民主党を除名された市議による「新風会」から支援を受けて、初当選を果たした。 また、同日に行われた翁長の出馬によって空座になった那覇市長を決める選挙も翁長の側近の城間幹子元副市長が自民・公明両党の推薦する与世田兼稔を破り初当選を果たした。
国政でのオール沖縄
2014年12月24日投開票の第47回衆議院議員総選挙では、普天間飛行場の移設に反対する野党、無所属候補の推薦を決定し、翁長を支持した野党も応じて野党共闘がなされた。沖縄1区では日本共産党の赤嶺政賢、沖縄2区では社会民主党の照屋寛徳、沖縄3区では生活の党の玉城デニー、沖縄4区では翁長と同じく自民党を離党した無所属の仲里利信を推薦した[19]。
結果全ての選挙区で現職の自民党候補を破り、翁長の推薦した候補全てが小選挙区で議席を獲得した[20]。この際自民党候補と維新の党新人の下地幹郎も比例復活し、沖縄県内の立候補者全員が当選した。[21]
デマ被害
しんぶん赤旗は、2014年沖縄県知事選挙において、対立陣営より「共産党支配のオール沖縄」などとした反共・デマ攻撃を受けたと主張している[22]。
2015年4月20日、田母神俊雄がTwitterで「翁長氏の娘は中国共産党幹部と結婚した」という主旨のツイートを投稿した。しかし、この話はネット上で広まっていたデマであることが既に指摘されており、田母神に対して批判が相次いだ[23][24]。
脚注
- ^ 時事ドットコム:知事選出馬で辞職願=翁長那覇市長
- ^ 那覇軍港受け入れ表明/浦添市長 琉球新報 2001年11月13日
- ^ 市長室web出張所 2月の市長メッセージ
- ^ 福州市との交流の歩み
- ^ 那覇市の負担4倍に 「龍柱」補正予算 市民から批判も 沖縄タイムス+プラス 2015年5月8日
- ^ 【地方紙検証】「龍柱」事業で透ける沖縄の実態とは… 抑止力論議そっちのけで対立煽るだけでよいのか?(1/3ページ) 産経新聞 2015年4月11日
- ^ 自民県連が那覇市議11人除名 翁長氏知事選擁立で 琉球新報2014年8月10日
- ^ 野党、翁長氏に要請 知事選出馬「建白書堅持を」 琉球新報2014年8月12日
- ^ 沖縄知事選:翁長氏が立候補表明「辺野古基地建設に反対」 毎日新聞2014年9月13日
- ^ a b 基地地反対で振興策多く取れる」翁長氏の発言や矛盾点、仲井真氏支持の市長証言 産経新聞2014年10月28日
- ^ 沖縄県知事選挙 クロス討論(仲井眞>翁長)
- ^ 沖縄知事選 惨敗必至の自民党が画策する「公約撤回」作戦 日刊現代 2014年8月11日
- ^ しんぶん赤旗日曜版 2014年10月26日 7面
- ^ しんぶん赤旗日曜版 2014年10月26日 6面
- ^ しんぶん赤旗日曜版 2014年10月26日 1面
- ^ 志位和夫さんはTwitterを使っています
- ^ a b 県知事選挙出馬にあたっての基本的な認識 オナガ雄志オフィシャルWEBサイト2014年10月29日
- ^ a b 「オール沖縄でない」 八重山毎日新聞2014年11月4日
- ^ 衆院選へ決意「建白書」勢力支援受ける4氏沖縄タイムス2015年1月9日閲覧
- ^ 自民、沖縄で選挙区全敗琉球新報2015年1月9日閲覧
- ^ 沖縄で生まれた野党共闘 「辺野古反対」の一点でゆるく連帯 岩波書店 世界 2015年2月号 108頁
- ^ デマ攻撃はねのけオナガ必勝を 沖縄知事選 呉屋選対本部長が檄文 しんぶん赤旗 2014年11月6日
- ^ 田母神氏 翁長知事関連ツイートし「デマ」指摘される アメーバニュース 2015年4月20日
- ^ ネットのデマはなぜ無くならないのか?「8.6秒バズーカー」「翁長知事の娘」から考えるデマと寄生の関係 Yahoo!ニュース 2015年4月24日
外部リンク
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