「決闘」の版間の差分
Omaemona1982 (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
Omaemona1982 (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
||
106行目: | 106行目: | ||
==有名な決闘== |
==有名な決闘== |
||
{| class="wikitable" style="text-align:center |
{| class="wikitable" style="margin:0 auto; text-align:center; width:60%; font-size:70%" |
||
!colspan="2"| '''[[30人の戦い]]''' |
!colspan="2"| '''[[30人の戦い]]''' |
||
|- |
|- |
2021年8月7日 (土) 15:25時点における版
決闘(けっとう、英: duel 発音 )とは、名誉の獲得・回復、紛争の解決、恨みを晴らすなどの目的で当事者双方が同意して、あらかじめ了解し合ったルールに基づいて行う闘争のことをいう[2]。「果合(はたしあい)」と同義である[2]。
概要
一般に決闘は、戦場での対決や闘技士の戦いとは区別される。これらは戦う相手に対する憎しみや恨みが立ち合いの原因ではなく、闘争は偶発的であり、あるいは現代のスポーツと同じような競技試合だからである。対して決闘は当事者双方の名誉・利害問題の解決に重点が置かれているところにその特徴がある[3]。
501年にブルゴーニュ王グンドバートが制度化したのをきっかけに「判決のための決闘」がヨーロッパ各地に広がり、中世ヨーロッパでは長きにわたり裁判としての決闘が行われた[4]。こうした裁判が行われたのは「神は正しい者に味方する」「決闘の結果は神の審判」というキリスト教の信仰が背景にあった[2][5]。判決の決闘は10世紀から12世紀に最盛期を迎えたが、決闘の対象となりうるのは貴族や自由人に限られていた[2]。しかしやがて裁判としての正当性が疑われるようになってきて[6]、フランス・イギリスでは14世紀以降にはこの形態の決闘はほとんど姿を消す[7]。
判決のための決闘が減っていく一方、16世紀以降には個人間での名誉回復の手段として私闘の「名誉のための決闘」が増えていく。名誉のための決闘は特に上流階級の間で盛んに行われた[2][8]。
決闘のための武器は中世期から18世紀末に至るまで長らく剣が使用されたが、18世紀中頃からピストルが使用されるようになっていった(特にイギリスやアイルランド)[9]。
19世紀になると決闘のルールも各国でそれぞれ集約されてきて、特にフランスの作法が詳細に及び、他のヨーロッパ諸国はこれを模範にするようになったと考えられている[10]。決闘は19世紀半ば頃までヨーロッパ各国で盛んに行われたが、19世紀後半になると法規制が進んだことや貴族・特権階級層の没落などがあって廃れていく[11]。
アメリカでは西部開拓時代に決闘が盛んだったが[2]、西部の荒くれ者はヨーロッパにおけるような決闘の作法を遵守することは少なく、ヨーロッパにおいては決闘とは見なされない性質の物が多かった[12]。南北戦争後には法的規制が厳しくなってきて西部においても決闘は下火になっていく[13]。
日本では、戦国時代から江戸時代にかけて武士の間で行われた果たし合いが同種の物に該当するが、後年には侠客や博徒の間で流行していた[2]。現在の日本では決闘は決闘罪ニ関スル件(1889年制定)で禁止されている。2019年に東京都の高校生2名がSNSで「タイマン」を示し合わせたうえで殴り合いを行った事件について警視庁は「決闘罪ニ関スル件」違反容疑で両名を逮捕している[14]。
歴史
決闘裁判
決闘(duel)の語はラテン語の二人(duo)と戦い(bellum)から生まれた言葉である[15]。決闘は個人間の紛争を格闘によって解決したゲルマン民族の伝統が由来と考えられている[2][15]。
501年にブルゴーニュ王グンドバートは「被告が問われている罪を否定し、原告がそれに満足していないときは剣を手にしてでも真実を明らかにすると表明してよい。被告がなおも否認するならば、議論は剣によって解決することを法として認める」「すべての人は自分の証明しようとする真実は剣をもって守り、甘んじてこの裁きを受ける用意を持つべきである」として「判決のための決闘」(決闘裁判)を制度化した。この裁判方法はヨーロッパ各地に広がり、中世ヨーロッパでは長きにわたり裁判としての決闘が行われた[3]。こうした裁判が行われたのは「神は正しい者に味方する」「決闘の結果は神の審判」というキリスト教の信仰が背景にあった[2][5]。ただし封建主義時代のことなので決闘の対象となりうるのは貴族や自由人に限られていた[2]。
決闘裁判は次のような手順で行われる。たとえばある者の父親を殺したとされて告訴されている被疑者が無実を訴えて決闘をしようというとき、被疑者は無実であると宣言して片方の手袋を外して地面に叩きつける。この行為は身をもって証を立てるという意味がある。相手はそれを拾い上げる。この行為は命には命で白黒を着けるという意思の表れである。つづいて被疑者は右手を聖書に置き、左手で相手の右手を握り「聞け、我手を取りし汝、洗礼名○○○なる者よ。我洗礼名×××は△△△なる汝の父を殺害せしにあらず。またいかなる意味にてもこの罪に値せず。神よ聖者よ。ここに我、汝に対し我が身体を以て身の証を立つる者なり」と宣言する。相手も同様に宣言を行うと決闘日と武器が指定される[16]。
決闘の武器は初期の頃は1メートル強の長さの棒が使用されることが多かったが、後に身分ある者の間では槍、さらに後には剣が使用されるようになる[17]。決闘は特別に定められた場所で行われ、そこには黒布で覆われた2つの椅子、審判者たちの座席、被告が敗北した時に処刑するための絞首台が設置されている。決闘する両名は席についてまず宣誓をし、告訴側は南、被告側は北から決闘場へ入場する。決闘の結果、被告が戦闘不能な状態にまで打ち負かされた時にはただちに絞首刑が執行される。被告が決闘で死亡した場合は被告は血を以て潔白を贖ったとされる。逆に告訴側が決闘に敗れて死んだ時、あるいは夕方星が出るまでに決着がつかなかった時は被告は告訴を免れる。告訴側が降参した場合には告訴の権利は失われ、また不名誉を後々まで残すことになる[18]。
原則として被告と告訴した者当人同士で闘うが、女性、病人、60歳以上の者は免除され、後には聖職者も免除対象となった。また次第に代理が立てられることが増え、決闘は代理戦士同士で行われるようになった。代理戦士は危険な仕事で決闘に負けると右手を切り落とされる。法的に証人に当たるからだが、依頼者のために精一杯働くようにする意味もある。代理戦士が戦っている間、原告と被告は決闘が見えない場所で首に縄をかけられた状態で待機し、負けた代理戦士を立てた側はただちに絞首刑に処されることになる[19]。
イングランドには最初期には決闘はなかったと見られるが、ノルマン人による征服後にウィリアム1世によってもたらされた[20][21]。イングランドにおいては次のように運用されていた。犯罪を犯した者が明らかであるにもかかわらず、証拠が十分でないために相手が無罪になったとき、あるいはなると考えられるときに、被害者が決闘を申し込んだ。主に、証拠のない殺人など重犯罪について決闘が行われた。土地の所有権などの争いにも利用することができた。これを決闘裁判と呼ぶ。訴追する者が決闘によれない(重傷者・老人・女性)場合は神判となり、失敗は死か四肢切断を意味した。決闘の場合、決闘責任者は裁判官であった。重犯罪の共犯者が自白し告発人となった場合、自白し告発した共犯者を相手にその嫌疑を決闘で証明することに成功すれば、彼は死を免れ公民権を失い退国宣誓をすることにより命をつなぐ事が出来た[22]。
1385年、フランスで合法的な手続きに基づく最後の決闘が行われた。ジャン・ド・カルージュが、ジャック・ル・グリが覆面をして自分の妻に乱暴をはたらいたとして決闘による裁判を申し込んだ。ル・グリは無実であると主張したが決闘を受け入れた。決闘の結果、ル・グリは敗者となって死に、カルージュの主張が認められた。しかし後になり、カルージュは覆面をした強姦魔は自分自身であったと告白した。このため、決闘裁判の正当性そのものが揺らぐことになり、この結果、フランスにおいて決闘裁判は制度的に廃止された。
イングランドでは、1492年に、正式な裁判手続きに基づく最後の決闘裁判が行われた。同じ世紀の中ごろに、非常に珍しい決闘裁判が行われたという記述があることから、15世紀には裁判手続きとしての決闘裁判はほとんど行われなくなっていたことがわかる。ただし、イングランドでは決闘裁判は制度としては廃止されずに19世紀までは存在し、1818年までは正式な裁判方法の1つであった。この年、殺人罪で告訴された者が決闘による裁判を選び、約300年ぶりに決闘裁判が行われることになった。しかし、この決闘は殺害された者の遺族が受諾しなかったために成立しなかった[23]。この件をきっかけに、翌年、決闘は完全に非合法化された(なお、イギリスでは、これ以前に私闘としての決闘は禁じられており、裁判としての決闘のみが合法とされていた)。
私闘としての決闘
このように、正式な制度としての決闘裁判は15世紀までに廃れたが、15世紀末頃からフランスで個人間の私闘である「名誉のための決闘」が生まれるようになり、16世紀以降にはこうした決闘が厳格な規則を基にして発達していく[8]。1610年に書かれたジョン・セルデンの『決闘あるいは一対一の闘い』には「公言された嘘、咎められた名誉、肉体に与えられた理不尽な打撃、不当に扱われた騎士道精神にたいし、義侠の行為をもって真実、名誉、自由を守るために、判決の試合場ではなく、一対一の個人的な争いにより相手の肉体にその悪の報いを与える習慣は、フランス人、イギリス人、ブルゴーニュ人、イタリア人、ゲルマン人、及び北方諸族の間に広がっていった」とある[8]。
名誉のための決闘は特に上流階級の間で盛んに行われた[2]。農民や商人が決闘をやることはほとんどなく、身分が異なる者の間で行われることもほぼない。紳士が紳士のルールに則って行うのが決闘である[24]。自身の名誉が傷つけられた場合だけではなく、自分の愛する女性の名誉が傷つけられた場合も相手に決闘を挑むのは当然と考えられた[25]。
ヨーロッパ各国の王はたびたび決闘禁止令を出したが決闘が絶えることはなかった。たとえばフランス王アンリ4世は決闘を禁じる勅令をいくつか出しているが、ほぼ効果がなく、王の在位中の16世紀末から17世紀初頭の20年にかけて決闘による犠牲者数は4000人を下らなかったという[26]。ルイ13世時代の1627年にはブートヴィル伯フランシス・ド・モンモランシーが決闘を行ったことで処刑されているが、この件に貴族からも市民からも怒りが巻き起こり、それはアンシャンレジームを崩壊させかけるほどの勢いを示した。決闘は上流階級の文化であり、一般市民にとってはほぼ無縁の世界の話だが、上流階級が見せる「見世物」「フェアな闘い」として市民からも広く愛されていた[27]。
決闘の武器は18世紀末に至るまで長らく剣が使用され、中世期には鎧や鎖帷子を付けての決闘だったから両手で扱う重い剣が好まれたが、次第に片手で扱える軽い剣の方が機先を制するのに有利とされるようになり、16世紀後半になるとレイピアという細身の長剣での決闘が主流になり、装束も身軽に動ける物に変わっていく。フェンシングの技術が習得されるようになると技のスピードの競い合いになり、具足や受け止めるための左手の短剣も次第に使用されなくなる。17世紀末頃には長さ約30インチのフランベルジュという剣が決闘で主流の武器となった[28]。
ピストルが剣に代わる決闘の武器として使用されるようになったのは18世紀中頃からで特にイギリスやアイルランドでピストルによる決闘が流行った。イギリスでは大陸諸国のようにフェンシングが若い頃からの一般的な習慣にならなかったので、剣ほどには技術による差が出にくいピストル決闘が流行したものと考えられる[9]。19世紀に入った頃には剣術が廃れたのでフランスでもピストル決闘が主流になってくる[29]。決闘用の銃にはライフル型のものもあったといわれるが、あまり広まってはいない。12歩から15歩ぐらいの間隔で行われることが多い決闘では必ずしも有用な武器ではなかったし、一般に決闘は相手を致命的に倒すことを目的としていないので、ピストルで十分だったのだと思われる[30]。
近代の決闘は死に至ることは少ない[31]。1836年にイギリスで出版された「旅人」(A TRAVELLER)著『決闘の技術(ART OF DUELLING)』によれば「決闘で生命を危険にさらすことは事実である。しかし危険率は大方が考えているよりははるかに少ない。人が死ぬ割合は約14分の1であり、弾丸が当たる率は約6分の1である」という[32]。
決闘は19世紀半ばまで盛んに行われたが、19世紀後半になると徐々に廃れていく。この頃から決闘の法規制が強まったことがあるが、決闘の主役たる貴族や特権階級が没落しはじめたことも大きかった[11]。しかし19世紀後半にも決闘は依然として行われていた。イギリスの『タイムズ』紙は1831年から1895年8月までに805の決闘を報道している。19世紀前半に多いものの、1890年にも28回もの決闘が報道された[33]。フランスでの決闘は20世紀半ばにもあり、1958年には舞踏家セルジュ・リファールとクエバス公爵の決闘がマスコミのカメラに囲まれる中で行われている[29]。
アメリカでは西部開拓時代に決闘が盛んだった[2]。とりわけ1849年から10年間、ゴールドラッシュによって荒くれ者が集まったカルフォルニア州は決闘の中心地になった。しかし西部の決闘はヨーロッパにおける決闘のように格式に則ることは少なかった。当事者双方の同意はあることが多かったが、理由は名誉回復などより金鉱の権利争い、酒場の女争い、ギャンブルをめぐる争いなどが多く、単に退屈だからという理由で行われることもあった。介添人を出すといった決闘の作法も遵守されず、ヨーロッパにおいては決闘とは見なされない性質の物が多かった[12]。南北戦争後には法的規制が厳しくなってきて西部においても決闘は下火になっていく[13]。
日本では、戦国時代から江戸時代にかけて武士の間で行われた果たし合いが決闘に該当するが、後年には侠客や博徒の間で流行していた[2]。現在の日本では決闘は決闘罪ニ関スル件(1889年制定)で禁止されている。2019年に東京都の高校生2名がSNSで「タイマン」を示し合わせたうえで殴り合いを行った事件について警視庁は「決闘罪ニ関スル件」違反容疑で両名を逮捕している[14]。
稀有な事例としてウルグアイは1927年に決闘禁止が解除されて以来1981年まで決闘が完全に合法になっていた[34]。
軍人の決闘
軍人の決闘については別に定めのある国もあった。プロイセンでは、軍人の決闘があまりに多かったため、1843年に名誉裁判所が設置された。これは軍人同士の安易な決闘を防ぐための機関でもあったが、名誉裁判所そのものが決闘を命じた例もある。当時のプロイセンでは決闘は非合法であったが、名誉裁判所が認めたり命じたりした軍人の決闘は別扱いされ、合法とされていた。この制度は1918年、プロイセン王国がなくなるまで存在した。
政治家の決闘
オットー・フォン・ビスマルクは、ドイツ国会が軍事予算問題で紛糾したとき、反対派のルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウに決闘を申し込んだ。そのときフィルヒョウが提示した決闘の方法は、加熱済みソーセージと、見た目が同じで旋毛虫が注入された未加熱のソーセージとを用意して、めいめいに選んだ方を食べるという方法だった。フィルヒョウは旋毛虫を食べた場合にどれほど無残に死ぬかをビスマルクに説明した。ビスマルクは決闘の申し出を撤回した[35][36]。
学生の決闘
ドイツ、オーストリア、スイス、およびラトビアやフランドル地方の一部ではメンズーア(Mensur)という学生文化が存在する。これは15世紀の終りにスペインでレイピアによる決闘が慣例化したのをドイツの学生達が導入し、当初は通りで学生同士が決闘に到り死者を出すことも珍しくなかった。17世紀頃には審判と医師の立会いによる正式なものへと発展し、スポーツと決闘のいずれでもない特有の文化として定着した。これは底意のない形式的な侮辱により開始され、対戦相手のいずれかが血を見ることによりほぼ円満に終結するといったものであり、在学中に十数回ほど対戦することも珍しくなく、ドイツの伝統的な学士会 (Studentenverbindung) のなかには、メンズーアの対戦経験があることを加盟条件に課すものもある。
競技としての決闘
1908年ロンドンオリンピックでは蝋で出来た弾丸を使用する決闘が非公式競技として行われた。
規則
当初、ヨーロッパ式の決闘は剣で行うのが普通であったが、18世紀からは拳銃でも行われるようになった。武器は原則として同じ種類のものを使う(たとえば銃と剣では決闘は行えない)。また、剣で行う場合は同じ剣が2つ用意されるのが通常である。決闘専用拳銃は特に裕福な貴族のために製造された。
時代や国により、決闘の方法は細かく定められていることがある。たとえば剣による決闘の場合、2分間戦闘ののち1分休憩をどちらかが死ぬまで繰り返す、というようなルールがある場合がある。ただし、決闘のやり方は双方が合意さえすればどのような方式をとってもよい。典型的な決闘の終了条件として、以下のようなものがある。
- 最初にどちらかが傷つくまで
- どちらかがもはや決闘を続けられないほど傷つくまで
- どちらかが死ぬか、または致命傷を負うまで
珍しい例として、包丁を1本ずつ持って樽の中で闘い、しかも樽は川に流されるという方式の決闘が行われた例がある。この例は両者ともに死亡した。また19世紀のアメリカ合衆国ケンタッキー州では、コレラ菌のついたサラダを食べあうという決闘が行われかけたことがあったが、双方の介添人が直前に止めたため行われなかった。
拳銃での決闘の場合、あらかじめ決闘責任者が用意した2丁の拳銃を互いが取り、互いに数十歩背を向けて歩いてから振り向き、合図に合わせて撃ち合う。発数は1発のこともあれば3発のこともある。4発以上の発砲は野蛮なこととされ、たとえ決着が着かなかったとしても3発発射された時点で決闘の終わりが宣言された。 この場合たいてい、動作の早いものが勝者となる。決闘責任者がどちらか一方の拳銃にのみ弾を入れておき、決闘者はくじで拳銃を選ぶという偶然性が支配するルールが採用されることもある。このルールは18世紀末にアメリカ合衆国で使われるようになった(ロシアンルーレットも、このような偶然性が支配する決闘の一種といえる)。
近世以降、決闘の方式については、シャトーブリアン著『決闘法』(1835年)が規範とされることが多い。これによると、決闘を行う際には2名の立会人を立てて相手に決闘の意思を伝える。相手も2名の立会人を立てる。これは24時間以内に行われなければならない。4名の立会人が決まると、決闘を行う2名が会うことは禁じられる。これら4名は可能な限り和解の努力をするが、それができなかった場合、決闘の準備に移る。通常は最初に侮辱された方が武器を選択するが、どちらが最初に侮辱を受けたのか分からない場合、立会人4名が協議してどちらが武器を選択するか決める。立会人4名が協議し、細部のルールを決める。そして、4名の中から決闘責任者を選ぶ。決闘の準備が公正に行われたかどうか、決闘責任者が責任を負う。
女は決闘の際、代闘士を立てるのが通例であったが、本人が強く望む場合、自身が決闘を行うことも認められた。この場合、不利にならないよう、特別な条件がつけられた。11世紀末から12世紀のデンマークの決闘裁判では、女は石をつけた紐を、男は棍棒を用い、男は下半身が隠れる穴の中に入れられた。男が撃ち損なって棍棒で地面を3回叩いたとき、女が勝者となった。
数は少ないが、女同士の決闘も行われた。銃や剣など一般的な武器が使われることが多いが、フランスのモンマルトルでは、2名の女が砂を詰めたストッキングで決闘を行った例が記録されている。
伝説
1371年、モンディディエ領主オーブリ・ド・モンディディエが殺されたが、犯人が分からなかった。このとき、モンディディエの飼い犬ヴェルボーがリシャール・マケールに対して非常に強く吠えつづけた。国王シャルル5世は、犬が殺人を目撃したが自らそれを証明できないために決闘を申し込んだと判断、犬とマケールに対し決闘を命じた。マケールは棍棒で、犬は避難用の樽が与えられ、王の御前で決闘裁判が行われた。結果、犬がマケールに噛み付いて勝ち、マケールは罪を認めて死罪となった。
この故事[37]は非常に有名であるが、恐らく伝説であり、実際に行われたという確証が得られていない。
有名な決闘
30人の戦い | |
---|---|
1351年3月26日 ブルターニュ公国プロエルメル | |
勝者 ジャン・ド・ボーマノアール 以下30名のフランス軍騎士・従騎士 |
敗者 ロバート・ベンバラ † 以下30名のイングランド軍騎士・従騎士 |
ブルターニュ継承戦争中にジャン・ド・ボーマノアールらフランス側騎士30名とロバート・ベンバラらイングランド側騎士30名がプロエルメルで行った決闘。フランス側の勝利に終わるが、両陣営とも多くの死傷者を出した。この決闘は年代記者ジャン・フロワサールによって感動的に語り伝えられ[38]、「双方の戦士たちは、まるでローランやオリヴィエのように勇敢だった」と称えられている[39]。 | |
ジャルナックの決闘 | |
1547年7月10日 フランス王国サン=ジェルマン=アン=レー | |
勝者 ジャルナック男爵ギー・ド・シャボ |
敗者 シャテーニュレ卿フランソワ・ド・ヴィボンヌ † |
シャテーニュレ卿がジャルナック男爵の近親相姦をほのめかしたことについてジャルナック男爵は名誉棄損されたとしてフランス王フランソワ1世に訴え出た。国王の側近たちは決闘裁判を進言したが、剣の腕はシャテーニュレ卿の方が上と見られていたので、国王は愛人の義理の息子にあたるジャルナック男爵の身を案じてそれを退け、ジャルナック男爵をなだめて場を収めた。しかしシャテーニュレ卿の友人だったアンリ2世が国王に即位するとジャルナック男爵は決闘を命じられた。アンリ1世や貴族、市民が見物する中、2人の決闘が行われる。何度か剣を合わせた後、シャテーニュレ卿が突いて出たのを躱したジャルナック男爵は相手の右足膝裏の腱を素早く突いて転ばせ、左足の腱も斬って戦闘不能にした。ジャルナック男爵は国王に向かってこれで自分の名誉が晴らされたのではないかと問うたが、面白くない国王は何も答えなかった。そしてジャルナック男爵はシャテーニュレ卿に止めを刺した。この決闘で「ジャルナックの突き」という言葉が生まれた[40]。 | |
巌流島の決闘 | |
1612年5月13日(慶長十七年四月十三日) 山口県下関市巌流島(船島) | |
勝者 宮本武蔵 |
敗者 佐々木小次郎 † |
遅れて現れた宮本武蔵に佐々木小次郎が刀の鞘を投げ捨てて挑むも、武蔵は鞘を捨てたことについて「小次郎、敗れたり」と言い、櫓を削って作った木刀で彼を打ち殺したという『二天記』に基づく描写で有名な決闘[41][42]。一方武蔵の養子宮本伊織が小倉に立てた『武蔵顕彰碑』には2人は同時に到着し、真剣を持った小次郎を武蔵が木刀で殺害したことが記されている[43]。決闘の理由は『沼田家記』によれば、二刀流の武蔵と巌流兵法の小次郎は共に豊前小倉藩細川家で剣術指南役をしていたが、双方の弟子が優劣を争ったために師匠同士が巌流島で決闘することになったという。また同書によれば武蔵は「一対一」の約束を無視して密かに弟子たちを島内に忍ばせており[41]、仕合の後息を吹き返した小次郎を武蔵の弟子たちが一斉に打ちかかって殺害し、事情を知った小次郎の弟子たちは怒って武蔵を殺そうとしたが、武蔵は細川家家老で門司城主だった沼田延元に助けを求めて匿ってもらったことが記されている[44]。巌流島が決闘場所に選ばれたことについて吉村豊雄は小倉藩主細川家の領地か長府藩主毛利家の領地か曖昧な無人島であったから大名家による取り締まりの対象にならない地として選ばれたのではと推測する[45]。現在島には武蔵と小次郎が決闘する像がある[41]。 | |
高田馬場の決闘 | |
1694年3月6日午前11時頃(元禄七年二月十一日四ッ半) 東京都新宿区西早稲田三丁目(高田馬場) | |
勝者 中山安兵衛(後の堀部安兵衛) 菅野六郎左衛門 † |
敗者 村上庄左衛門 † 村上三郎右衛門 † 中津川祐見 † |
赤穂四十七士の一人堀部安兵衛武庸が参加した決闘として著名。伊予西条藩士菅野六郎左衛門と同藩士村上庄左衛門は口論になって高田馬場での決闘を申し合わせた[46]。菅野は叔父甥の義を結んでいた中山安兵衛(後の堀部安兵衛)、村上は弟の村上三郎左衛門や中津川祐見をそれぞれ助っ人に付けて立ち会った。安兵衛が村上三郎右衛門と中津川祐見を斬り、菅野は村上庄左衛門から眉間を斬られたが村上の両手を切り落とし、安兵衛が村上に止めを刺した。戦いの後、安兵衛は深手を負った菅野の介抱にあたったが、菅野もまもなく息を引き取った[47]。この決闘で安兵衛は有名人になり、赤穂藩主浅野家の家臣堀部弥兵衛金丸から婿入りを懇望されて堀部安兵衛となり浅野家に仕えることになる。実際に安兵衛が斬ったのは3人か4人(村上の郎党の有無)だったが、後に脚色されて高田馬場18人斬りとして語り継がれた[48]。 | |
ハミルトン=モーン決闘 | |
1712年11月15日 グレートブリテン王国ロンドンハイド・パーク | |
勝者 第4代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトン † |
敗者 第4代モーン男爵チャールズ・モーン † |
ハミルトン公は当時議会で優勢を占めていたトーリー党の有力者であり、モーン卿はそれと対立するホイッグ党の有力者で政治的対立関係にあった。また第2代マクルズフィールド伯爵チャールズ・ジェラードの土地相続をめぐって利害対立関係にあった。当時トーリー党政権だったため不利な立場に立たされていたモーン卿が「紳士としての名誉を傷つけられた」としてハミルトン公に決闘を申し込み、ハミルトン公が応じたことで剣による決闘となった。勝負はハミルトン公の剣がモーン卿の腹を貫いて倒したことで決したが、モーン卿の介添人ジョージ・マッカートニーとハミルトン公の介添人ジョン・ハミルトンも剣を抜いて争いになり、ジョン・ハミルトンに剣を叩き落されたマッカートニーは剣を拾うやハミルトン公を刺した。ハミルトン公は出血多量で死亡、敗れたモーン卿も即死していたので当事者双方が死亡する結果に終わった。その後マッカートニーは国外へ逃れ、逮捕されたジョン・ハミルトンはマッカートニーを殺人者と批判したが、ホイッグ党政権になるとマッカートニーは帰国して自分は公爵を殺していないという主張を押し通した[49]。 | |
小ピット=ティアニー決闘 | |
1798年5月27日 グレートブリテン王国ロンドンウィンブルドンプットニー・ヒース | |
小ピット(英国首相) | ジョージ・ティアニー |
小ピットは当時の英国首相でトーリー党所属。ティアニーはチャールズ・ジェームズ・フォックスの死後、ピットの外交政策のもっとも著名な反対者となったホイッグ党所属の庶民院議員だった。ピットがティアニーのことを愛国心が足りないと批判したことがきっかけで拳銃による決闘が行われることになった。どちらも負傷せず終わった[50] | |
バー=ハミルトン決闘 | |
1804年7月11日 アメリカ合衆国ニュージャージー州ウィーホーケン | |
勝者 アーロン・バー(米国副大統領) |
敗者 アレクサンダー・ハミルトン † |
バーは当時の米国副大統領であり、民主共和党所属。ハミルトンはアメリカ合衆国建国の父の一人であり、連邦党に所属しており、両者は政治的敵対関係にあった。ハミルトンの「バー氏は危険な人物なので、信用して政府の手綱を任せるべきではない」という批判についてバーは発言の撤回を求めたが、ハミルトンは「表現は政治的対立者の間では許される範囲の物」として撤回を拒否。その後も何度かやり取りがあったが、発言撤回されなかったのでバーはハミルトンに決闘を申し込み、ハミルトンは嫌がりながらもそれに応じた。勝負は一発で決まりハミルトンが撃たれて倒れ、バーは友人の用意した船に乗ってその場から逃れた。ハミルトンは2日後に死去、バーはニュージャージー州から殺人罪に問われたが捕まることはなかった[1]。 | |
ジャクソン=ディキンソン決闘 | |
1806年5月30日 アメリカ合衆国ケンタッキー州アデアビル | |
勝者 アンドリュー・ジャクソン(後の米国大統領) |
敗者 チャールズ・ディキンソン † |
後のアメリカ大統領アンドリュー・ジャクソンが行った決闘。弁護士のディキンソンがジャクソンの妻を中傷したことがきっかけで決闘となった。2人は共に拳銃の名手だった。合図があるとディキンソンが先に発砲し、ジャクソンの心臓に命中させたように見えたが、ジャクソンは倒れず「そんなはずはない」とディキンソンが叫んだところをジャクソンの撃った弾がディキンソンに致命傷を負わせディキンソンはその場に倒れて死亡。ディキンソンの弾は確かにジャクソンに命中していたが、心臓からは反れていたので致命傷ではなく、ジャクソンは気合で耐えて相手を射殺したという[51]。 | |
オコンネルの決闘 | |
1815年2月2日 イギリスアイルランドダブリン郊外 | |
勝者 ダニエル・オコンネル |
敗者 ジョン・デステール † |
アイルランド民族運動家でアイルランド人の大同団結が必要と考えるオコンネルがアイルランド協会を批判し、これに協会のジョン・デステール(John D'Esterre)が怒って決闘になった。最初に撃ったデステールの弾は外れ、次に撃ったオコンネルの弾はデステールの股を撃ち抜いた。デステールは立ち会った医師に搬送されたが、翌日に死去。良心の呵責を感じたオコンネルは決闘は二度とやらないと誓ったという[52]。 | |
ウェリントン=ウィンチルシー決闘 | |
1829年3月23日 イギリスロンドンハイド・パーク | |
初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー(英国首相) | 第10代ウィンチルシー伯爵ジョージ・フィンチ=ハットン |
ウェリントン公は当時のトーリー党政権の首相、ウィンチルシー伯はホイッグ党所属の政治家で熱烈なプロテスタントであり、両者はカトリック救済法案の是非を巡って対立し、それがこじれて決闘になった。「撃て」の声がかかると公は伯に銃口を向けたが、伯は銃口を空に向けたままだったため、公も撃つのをためらい、ここで介添人が伯の謝罪の手紙を公に渡して公が受け入れて決闘は双方無傷のまま終了した[53]。 | |
ガロアの決闘 | |
1832年5月30日 フランス王国ジャンティイ | |
勝者 ペシュー・デルヴァンヴィル |
敗者 エヴァリスト・ガロア † |
群と代数方程式の関係を示すガロア理論で知られる数学者ガロアはこの決闘で銃弾を受けて重傷を負い、翌5月31日に腹膜炎により20歳にして死去した。決闘の詳細は不明な点が多いが、大デュマの回想録によれば決闘相手はガロアと同じく「人民の友」のメンバーで共和主義者だったペシュー・デルヴァンヴィル(Pescheux d'Herbinville)だったという[54]。決闘場所はパウル・デュピュイの書いた伝記によればジャンティイのグラシエールの沼の近くだったという[55]。決闘の理由は恋愛のもつれ説、警察の陰謀説、自殺説などがあるが、当人が死去の直前に残した言葉などから恋愛説が有力である[56]。 | |
プーシキンの決闘 | |
1837年2月8日(旧暦1月27日) ロシア帝国サンクトペテルブルクチョールナヤ・レチカ | |
勝者 ジョルジュ・ダンテス |
敗者 アレクサンドル・プーシキン † |
「ロシア文学の父」と呼ばれる詩人・作家プーシキンは妻ナターリアと噂のある近衛騎兵隊将校ダンテスと決闘に及んだ。合図があった後ダンテスが先に発砲し、プーシキンに命中。駆け寄る介添人を払いのけたプーシキンは肘をついて身を起こし「待て、まだ撃つだけの力は残っている」と叫んだ。それを聞いたダンテスは腕で胸をかばう態勢でプーシキンの発砲を待った。プーシキンが発砲した弾はダンテスの腕に命中したが、胸には届かず致命傷にならなかった。プーシキンはそこで力尽きて倒れ、2日後に死去した[57]。 | |
ラッサールの決闘 | |
1864年8月28日 スイスカルージュ | |
勝者 フォン・ラコヴィッツァ伯爵 |
敗者 フェルディナント・ラッサール † |
ラッサールは全ドイツ労働者協会会長を務める社会主義者。ラコヴィッツァ伯はワラキアの貴族。ラッサールはヘレーネ・フォン・デンニゲスとの恋愛を巡るもつれから彼女の父であるバイエルン外交官ヴィルヘルム・フォン・デンニゲスに決闘を申し込んだが、デンニゲスはヘレーネの婚約者ラコヴィッツァ伯が代わりに決闘に応じると返答し、ラッサールはそれを承諾[58]。決闘は3つ数えてから撃つことになっていたが、「2(ツヴァイ)」の後「3(ドライ)」を待たずにラコヴィッツァ伯が発砲してラッサールの腹部に弾を命中させた。続いてラッサールも発砲したが当たらなかった。ラッサールは立ち会った医師に搬送されたが、3日後に死去した[59][60]。 |
脚注
注釈
出典
- ^ a b 藤野幸雄 2006, pp. 165–166.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 日本大百科全書(ニッポニカ)、精選版 日本国語大辞典『決闘』 - コトバンク
- ^ a b 藤野幸雄 2006, p. 59.
- ^ 藤野幸雄 2006, p. 58-59.
- ^ a b 藤野幸雄 2006, p. 59-60.
- ^ 加藤文元 2010, p. 265.
- ^ 藤野幸雄 2006, p. 69.
- ^ a b c 藤野幸雄 2006, p. 74.
- ^ a b 藤野幸雄 2006, pp. 16/77.
- ^ 藤野幸雄 2006, p. 35.
- ^ a b 藤野幸雄 2006, p. 78.
- ^ a b 藤野幸雄 2006, p. 178.
- ^ a b 藤野幸雄 2006, pp. 78/178.
- ^ a b “「タイマンしよう」 高1の2人、決闘の疑いで書類送検”. 朝日新聞. (2019年10月30日) 2021年8月5日閲覧。
- ^ a b 藤野幸雄 2006, p. 57.
- ^ 藤野幸雄 2006, pp. 59–61.
- ^ 藤野幸雄 2006, p. 61.
- ^ 藤野幸雄 2006, pp. 61–62.
- ^ 藤野幸雄 2006, p. 62.
- ^ F・W・メイトランド『イングランド憲法史』創文社、1981年、P.13頁。
- ^ 藤野幸雄 2006, pp. 66.
- ^ カー p. 34, 35
- ^ 穂積重遠著『法窓夜話』三八章 "決闘裁判"
- ^ 藤野幸雄 2006, p. 34.
- ^ 加藤文元 2010, p. 267.
- ^ 藤野幸雄 2006, p. 95-96.
- ^ 藤野幸雄 2006, p. 97-100.
- ^ 藤野幸雄 2006, p. 77.
- ^ a b 藤野幸雄 2006, p. 105.
- ^ 藤野幸雄 2006, p. 17.
- ^ 加藤文元 2010, p. 266.
- ^ 藤野幸雄 2006, p. 18-19.
- ^ 藤野幸雄 2006, p. 32.
- ^ David S. Parker (Summer 2001). “Law, Honor, and Impunity in Spanish America: The Debate over Dueling, 1870–1920”. Law and History Review 19 (2): 311–341. doi:10.2307/744132. JSTOR 744132.
- ^ Rudolf Virchow アメリカ国立生物工学情報センターPMC 2008年9月
- ^ このほか日本語文献での紹介として薄田泣菫『茶話』「謡曲を武器に」(大阪毎日新聞 1916年9月4日夕刊 → 青空文庫)、植松黎(編)『ポケット・ジョーク 6 ギャンブル』(角川文庫、1981年)p.180「見えない武器」がある。
- ^ ガース・ド・ラ・ビュイーニュ「狩猟の物語」(1359-1377)およびガストン・フェビュス「狩猟の書」(1387-1391)にこの挿話がある。頼順子「中世後期の戦士的領主階級と狩猟術の書」(Journal of History for the Public, Vol. 2, 2005, pp. 127-148)[1]PDF.P.7
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『三十人合戦』 - コトバンク
- ^ Jean Froissart's Chronicles Amiens ms. version.
- ^ 藤野幸雄 2006, pp. 92–93.
- ^ a b c “巌流島(下関市) 地名に残った敗者・小次郎”. 産経新聞. (2015年10月6日) 2021年8月4日閲覧。
- ^ 久保三千雄 1998, pp. 95–96.
- ^ 久保三千雄 1998, p. 92.
- ^ 加来耕三 2003, p. 211.
- ^ 「異説「巌流島」」吉村豊雄(文学部教授、熊本大学附属図書館報 2002.10)[2]
- ^ 斎藤茂 1975, pp. 687–688.
- ^ 斎藤茂 1975, pp. 687–688, 岡本和明 1999, pp. 206–207, 池波正太郎他 1999, p. 220-222
- ^ 岡本和明 1999, pp. 206–207, 池波正太郎他 1999, p. 220
- ^ 藤野幸雄 2006, pp. 108–115.
- ^ この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Tierney, George". Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
- ^ 藤野幸雄 2006, pp. 168–169.
- ^ 藤野幸雄 2006, pp. 123.
- ^ 藤野幸雄 2006, pp. 116–117.
- ^ 加藤文元 2010, p. 273.
- ^ 加藤文元 2010, p. 274.
- ^ 加藤文元 2010, p. 281-282.
- ^ 藤野幸雄 2006, pp. 150/188.
- ^ 江上照彦 1972, p. 255-256.
- ^ 江上照彦 1972, p. 261.
- ^ 藤野幸雄 2006, p. 138.
参考文献
- 江上照彦『ある革命家の華麗な生涯 フェルディナント・ラッサール』社会思想社、1972年。ASIN B000J9G1V4。
- 池波正太郎他『忠臣蔵と日本の仇討』中央公論新社〈中公新書〉、1999年(平成11年)。ISBN 978-4122033726。
- 岡本和明『忠臣蔵 闇の真相』ローカス、1999年(平成11年)。ISBN 978-4898140659。
- マーガレット・H・カー、沢田裕治(訳)「重罪私訴追のアンジュー改革(1)」『山形大学紀要・社会科学』第40巻第2号、2010年2月15日、NAID 110007572374。
- 加来耕三『「宮本武蔵」という剣客―その史実と虚構』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2003年(平成15年)。ISBN 978-4140019603。
- 加藤文元『ガロア 天才数学者の生涯』中央公論新社〈中公新書〉、2010年(平成22年)。ISBN 978-4121020857。
- 久保三千雄『宮本武蔵とは何者だったのか』新潮社〈新潮選書〉、1998年(平成10年)。ISBN 978-4106005381。
- 斎藤茂『赤穂義士実纂』赤穂義士実纂領布会、1975年(昭和50年)。
- 藤野幸雄『決闘の話』勉誠出版、2006年(平成18年)。ISBN 978-4585053620。