「奥村易英」の版間の差分
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'''奥村 易英'''(おくむら やすひで)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[戦国武将|武将]]。[[前田氏|前田家]]の家臣、[[加賀藩]]年寄。[[加賀八家]]奥村分家初代当主。発給文書で確認される実名は'''可郷'''(慶長期)<ref>白山万句奉納の[[奥村栄頼|奥村孝行]](栄頼)、[[横山長知]]、[[横山康玄]]主催の連歌会に名前が見える。</ref>→'''栄郷'''(元和期)→'''易英'''(寛永期)。 |
'''奥村 易英'''(おくむら やすひで)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[戦国武将|武将]]。[[前田氏|前田家]]の家臣、[[加賀藩]]年寄。[[加賀八家]][[奥村氏|奥村分家]]初代当主。発給文書で確認される実名は'''可郷'''(慶長期)<ref>白山万句奉納の[[奥村栄頼|奥村孝行]](栄頼)、[[横山長知]]、[[横山康玄]]主催の連歌会に名前が見える。</ref>→'''栄郷'''(元和期)→'''易英'''(寛永期)。 |
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== 生涯 == |
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*『加賀藩史稿』 |
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2023年1月9日 (月) 18:16時点における最新版
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 元亀2年(1571年) |
死没 | 寛永20年12月21日(1644年1月30日) |
改名 | 又十郎→可郷→栄郷→易英 |
別名 | 又十郎、主殿、備後守、因幡守、栄卿 |
戒名 | 放光院傑心自英居士[1] |
墓所 | 野田山墓地 |
主君 | 前田利家→利長→利常→光高 |
藩 | 加賀国加賀藩士 |
氏族 | 奥村氏 |
父母 | 父:奥村永福 |
兄弟 | 栄明、易英、栄頼 |
妻 | 横山長隆の女 |
子 | 和忠、易貞、篠原監物重好室、多賀秀識室、正富(養子、多賀秀識の次男) |
奥村 易英(おくむら やすひで)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。前田家の家臣、加賀藩年寄。加賀八家奥村分家初代当主。発給文書で確認される実名は可郷(慶長期)[2]→栄郷(元和期)→易英(寛永期)。
生涯
[編集]元亀2年(1571年)、前田氏家家臣・奥村永福の子として誕生。
天正12年(1584年)、佐々成政に末森城を攻められた際に父や兄と共に城を守る(末森城の戦い)。その後、1000石の知行を賜り世子、前田利常に仕える。天正18年(1590年)、豊臣氏の小田原征伐に出陣し八王子城攻めで戦功を立てる。また、慶長5年(1600年)、大聖寺城攻めで戦功を立て2000石加増される。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に従軍して真田丸の戦闘に参加し、4500石を加増される。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では父・永福と共に金沢城の留守居を務めた。元和2年(1616年)に加賀藩家老となり、前田利次や前田利治誕生の際には蟇目役を務めた。また父の死後、遺領3300石を相続している。
寛永20年(1643年)10月光高の江戸出仕の際に、前田貞里と共に金沢城代に任命された(再任)[3]が、同年12月21日に死去、享年73。
家督は嫡男・和忠が先立って死去したため、奥村庸礼が嫡孫承祖した。また外孫の正富も養子となり1000石を賜り、分家して馬廻組となった。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『金沢城代と横山家文書の研究』「金沢城史料叢書5」石川県教育委員会文化財課金沢城研究調査室編集、2007年
- 『野田山加賀八家墓所調査報告書』「金沢市文化財紀要280」金沢市、2012年
- 『加賀藩史稿』