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利用者:Omaemona1982/下書き10

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フェルディナント・ラッサール
Ferdinand Lassalle
1860年のラッサール
人物情報
生誕 1825年4月11日
プロイセンの旗 プロイセン王国ブレスラウ
死没 (1864-08-31) 1864年8月31日(39歳没)
スイスの旗 スイスカルージュ
出身校 ブレスラウ大学ベルリン大学
学問
時代 19世紀中頃
学派 国家社会主義
特筆すべき概念夜警国家」論
主要な作品 『ヘラクレイトスの哲学』『既得権の体系』『労働者綱領』
影響を受けた人物 ヘラクレイトス[1]ハイネ[2][3]ベルネ[2]ヘーゲル[4]サン=シモン[5]フーリエ[5]ルイ・ブラン[5]ワーグナー[6]
影響を与えた人物 ビスマルク幸徳秋水[7]片山潜[7]
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フェルディナント・ラッサール Ferdinand Lassalle1825年4月11日 - 1864年8月31日)は、プロイセン政治学者、社会主義者、労働運動指導者。

ドイツ社会主義労働者党の母体となる全ドイツ労働者同盟の創設者である。革命ではなく既存の国家権力を通じての穏健な社会主義改革を目指し、時のプロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクと連携した。彼のこの立場は国家社会主義と呼ばれた。

また社会政策を行わない自由主義的国家を「夜警国家」と定義して批判したことでも知られる。

概要

1825年、裕福なユダヤ人絹商人の息子としてプロイセン王国ブレスラウに生まれる。1840年からライプツィヒの商業学校に通うも商業に関心を持てず、1841年からギムナジウムに転校し、大学入学資格を取得。1843年にブレスラウ大学に入学した。

生涯

生い立ち

1825年4月11日プロイセン王国ブレスラウに裕福な改革派ユダヤ教徒の絹商人の息子として生まれる[8][9][10]

ブレスラウをはじめポーランド地方の都市にはユダヤ人が多く暮らしていた。同じプロイセン領でもライン地方のユダヤ人はかつてのフランス革命ナポレオン法典の影響で比較的自由主義的気風の中で生活していたが、ポーランドのユダヤ人は虫けら同然に扱われており、貧しいユダヤ人の多くはゲットーに押し込められていた。ラッサールはゲットー外の裕福なユダヤ人家庭の出身者だが、ユダヤ人に対する激しい差別を見て育つことになった[11][12]。1840年5月にダマスカスで大規模なユダヤ人迫害が起こった際には迫害者より立ち上がろうとしないユダヤ人の方を日記の中で強く批判している[13][14][15]

1840年5月にライプツィヒの商業学校に転校した[16][15]。しかし商業にはまるで関心を持てず、文芸や古典に惹かれていった。ゲーテシラーヴォルテールバイロンハイネベルネなどを読み耽った[15]。とくに同じユダヤ人のハイネとベルネからは民主主義共和主義革命主義の最初の影響を受けた[2]

大学で歴史を学びたいと考えるようになったラッサールは父親を説得のうえ、1841年8月に商業学校を退学し、ブレスラウのカトリック系のギムナジウムに転校した。カトリックはプロテスタント国家のプロイセンにおいては少数派だったので同じ少数派のユダヤ人を差別することはないだろうと考えて、この学校を選んだものと思われる[17]。ギムナジウムで猛勉強し、大学入学資格を取得した[18]

大学時代

若き日のラッサール。

1843年春にはブレスラウ大学に入学できた。大学では文献学、ついで哲学を学んだ[19]。特に古典とヘーゲル哲学を熱心に勉強した[18]

英仏ほどではないとしてもプロイセンの大学でも自由主義の思潮と封建主義打倒の機運が高まっていた。学生たちのそうした活動はブルシェンシャフトと呼ばれる学生団体によって行われていた。ラッサールもこうした学生団体に加わり、すぐに頭角を現してリーダー的存在となった[20]。この頃、ヘーゲル左派フォイエルバッハ准教授がプロイセン政府から「危険思想」の持ち主と看做され、大学を追放される事件があった。これに対して急進派学生はラッサールを中心に抵抗運動を展開した。この活動でラッサールは学内随一の雄弁家として名をはせるようになり、大学からも「危険分子」とされ一時謹慎処分を受けた[21]

この後の1844年春、ヘーゲル哲学を本格的に学ぶべく、ベルリン大学へと移籍した[22]。ヘーゲル研究に熱中したが、他にもサン=シモンフーリエルイ・ブラン等の社会主義者から影響を受けた[5]

ベルリン大学の卒業論文では古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの研究に取り組んだ。ヘーゲルの弁証法とヘラクレイトスの流転の素因に似たところがあるからだが、同時にヘラクレイトスは難解といわれていたため、困難を突破したがるラッサールの闘争心が刺激されたものと考えられている[23]

1845年秋から1846年1月にかけて、ヘラクレイトス研究のため、フランス・パリを訪問した[24][25][26]。パリでプルードンやハイネと会見する機会を得た。とりわけ同じユダヤ人のハイネとは意気投合した[27]。ちょうど同じころにカール・マルクスがパリから追われているが、パリでマルクスと顔を合わせることはなかったようである[28]

ハッツフェルト伯爵夫人の離婚訴訟

ハッツフェルト伯爵夫人ゾフィードイツ語版

パリからベルリンへ戻った後、ヘラクレイトスの執筆を開始しようとしたが、ハッツフェルト伯爵家ドイツ語版の伯爵夫人ゾフィードイツ語版と知り合ったことでその研究は10年近く中断されることになる[28][29]

彼女の夫であるエドムント・フォン・ハッツフェルト(Edmund von Hatzfeldt)伯爵は放蕩者なうえ、妻に様々な迫害を加えていた。そのためゾフィーは伯爵との離婚を希望していたが許してもらえずにいた。そのことをラッサールに相談したところ、彼はこれを「封建主義の横暴との闘い」と看做し、彼女に代わって伯爵と闘う決意を固めた[30][31][注釈 1]

ラッサールははじめ伯爵に決闘を申し込んだが、「バカなユダヤの小僧」と相手にしてもらえなかった[33]。結局離婚訴訟で闘うことになり、ラッサールは1846年から1854年までの長きにわたってこの訴訟に尽力することになる[34][注釈 2]

訴訟中ラッサールは伯爵の愛人が持っている伯爵が次男に与えるべき財産をその愛人に譲ろうとした文書が入った小箱を盗み出したとされて、1848年2月に窃盗罪容疑で警察に逮捕された[38][注釈 3]

1848年革命をめぐって

ラッサールが逮捕された1848年2月にフランス・パリでは革命が発生し、ルイ・フィリップ王政が打倒され、共和政が樹立された。3月には革命がプロイセンやオーストリアにも波及した[40]

これを独房の中で見たラッサールは改めて闘争心を掻き立てられた。8月11日、ケルンの法廷では熱弁をふるって自らの闘争が自由と民主主義のための封建主義との闘いであることを印象付けることに成功した。法廷外でも伯爵夫人が様々な反封建主義集会に参加して世論を盛り上げ、ラッサールの法廷での闘いをサポートした。革命の渦中であったから陪審員にもラッサールを支持する者が多く、無罪判決を勝ち取った。釈放されたラッサールは伯爵夫人やその次男とともにデュッセルドルフで暮らすようになった。ラッサールの無罪判決は革命派の勝利として大きな反響を呼び、ラッサールは一躍ライン地方で名を知られる人物となった[41][39]

ラッサールは引き続き伯爵夫人の離婚訴訟を支援しながらライン地方の民主主義派の革命活動に参加するようになる[42]。また『新ライン新聞』を発行していたマルクスエンゲルスとも接触した。5歳年上のエンゲルスは初対面からラッサールに不快感を持ったが、一方7歳年上のマルクスはユダヤ人の連体感もあってか、ラッサールに好意的であり[43]、少ない財産の中からハッツフェルト伯爵夫人の支援金を送っている[36]

ラッサールは8月29日に開催されたフライリヒラート逮捕への抗議集会で初めて大衆の前で演説を行い、以降マルクスと連携してライン地方を奔走し、革命運動を指導して回った[44]。しかし10月から11月にかけて革命は次々と失敗していき、反革命派による民主主義派への武力弾圧が本格化した。これに対抗すべく民主主義派は消極的抵抗から武力抵抗へ転換し、ラッサールもデュッセルドルフで武装抵抗を促す演説を行ったため、11月22日には官憲に逮捕された[45][46][47]

「王権に対する武装抵抗」という重罪に問われたため長期間未決拘留された。1849年5月3日にようやく陪審制の裁判にかけられたが、陪審員にも民主主義派が多かったため、無罪判決が下り、ラサールは釈放された[48][49]。これに対抗して裁判所は一事不再理の原則に反する形で「軍隊および役人に対する武装抵抗の教唆」の容疑でラサールをふたたび逮捕した。今度は職業裁判官による裁判にかけられ、7月には禁固6カ月の判決を受けた[50][51]。判決の執行は少しの間だけ延期され、一時的に釈放された[52]

この間、革命の失敗でほとんど一文無しでロンドンに亡命したマルクスから最初の金の無心を受けた。ラッサールも楽な経済状態ではなかったが、マルクスのために幾らか用立ててやり、またマルクス支援の募金活動を起こしたが、マルクスは自分の惨めな生活を世間に知られたくなかったらしく、この募金運動の件を聞いて憤慨した[50]

1850年10月から1851年4月にかけて先の判決が執行され、服役した[53]

離婚訴訟の勝訴

8年に及ぶ訴訟に疲れたハッツフェルト伯爵が和解を求めた結果、1854年に離婚訴訟に勝訴した。これにより伯爵夫人は巨額の財産を獲得し、ラッサールも伯爵夫人から年金4000ターレルを得られるようになり[注釈 4]、裕福な生活を送るようになった[55]。この年金はラッサールにとって社会主義研究に没頭する上で重要な収入源となった[56]

生活が落ち着いたラッサールは、大学の卒業論文として書き始めてそのままになっていたヘラクレイトスに関する著作の執筆を再開し、1855年から1857年にかけてこれを完成させる[57][58]

一方伯爵夫人はクリンドワースという男と親しくなっていた。この男はロシア皇帝ニコライ1世やフランス皇帝ナポレオン3世の御用だったというふれこみだが、本当の話かどうか分からない山師的人物だった。引き続きデュッセルドルフの伯爵夫人の家で暮らしていたラッサールもこのクリンドワースと親しくなり、彼から国際情勢の情報を教えてもらうようになり、それをもとに投機を行ったり、ロンドンのマルクスに情報を伝えたりするようになった[59]。またクリンドワースの娘であるアグネス・デニスストリートと情を通じるようになり、1855年には彼女との間に娘を儲けるに至った。ハッツフェルト伯爵夫人はラッサールとアグネスの関係について特に口を差し挟まなかったようである。これについてラッサールの伝記作家デビッド・フットマンは「もし伯爵夫人とラッサールの間に肉体関係があったとしても、それはすでに過去のことだった」と語っている[60]

ベルリンで成功を収める

ラッサールと伯爵夫人の関係が悪くなることはなかったが、訴訟が終わったことで以前よりは疎遠になることは避けられず、ラッサールもデュッセルドルフの伯爵夫人邸に居心地の悪さを感じるようになり、プロイセン王都ベルリンへの移住を希望するようになった。しかし革命家であるため当局からの許可はなかなか下りなかった。1855年3月にはこっそりベルリンへ移住するも警察に逮捕され、強制送還されている[61]

しかし1857年2月になって突然ベルリンへの移住許可がおりた。伯爵夫人とラッサールを切り離し、またラッサールをベルリンに置いて監視を強化しようという官憲の企図だったという。これによって同年5月にベルリン・ポツダム街に移住した[62]

出版業者フランツ・ドゥンカードイツ語版と親しくなり、『ヘラクレイトスの哲学(Die Philosophie Herakleitos Des Dunklen Von Ephesos)』を出版してもらった。この本はたちまちのうちに評判になり、ラッサールはベルリン哲学学会の会員に迎え入れられ、華々しい社交生活を開始した[63]。予想以上の大成功にラッサールは嬉しくなり、先輩にも批評してもらおうとマルクスに『ヘラクレイトス』を送った。しかし極貧生活に陥っていたマルクスはすっかり上流階級の仲間入りをしたラッサールを妬み、エンゲルスへの手紙の中で「ラッサールは労働運動を離婚訴訟に私的に利用した」「訴訟は終わったのにラッサールはいつまでも伯爵夫人から独立しようとしない」「ラッサールのベルリン行きは大紳士に成りあがり、サロンを開くためだ」と手厳しく批判している。ラッサールの『ヘラクレイトス』も読もうとしなかったという[64]

1857年9月にアグネス・デニスストリートとの間に儲けた娘が死去し、彼女との関係が疎遠になった。その後フランツ・ドゥンカー夫人リナと情を通じるようになった。彼女には崇拝者が多かったため、ラッサールはファブリスという官僚から待ち伏せされて夜襲を受けたが、ステッキを武器に撃退した[65]。この夜襲に憤慨したラッサールはファブリスに決闘を申し込むことを希望し、マルクスにもそのことを相談したが、マルクスは「決闘は特権階級の因習であり、反革命的行動」として反対した。伯爵夫人もラッサールの身を案じて反対し、結局断念した[66]

この一件でラッサールはベルリン警察に睨まれるようになり、1858年6月にはベルリン追放命令を受けた[67]。ラッサールはスイスへ逃れつつ、この頃自由主義勢力と関係を持っていた皇太弟ヴィルヘルムに助けを求めた。折しもヴィルヘルムが摂政となり、自由主義的な「新時代」内閣が発足していたこともあり、1858年10月にはベルリンへ戻ることができた[68]

マルクスとの亀裂

カール・マルクス

1859年にはマルクスの『経済学批判』をドゥンカー書店から出版できるよう取り計らった。一方でこの頃からマルクスのラッサール不信は強まっていく。

同年ラッサールは史劇『フランツ・フォン・ジッキンゲン』を書き上げ、これをベルリンの宮廷劇場に匿名で送ったが、革命的精神を謳う台詞が冗長で、またヘーゲル式議論が難解すぎるとして劇場からは採用してもらえなかった。ラッサールはこの脚本をマルクスに批評してほしがり、彼にも脚本を送ったが、当時のマルクスに舞台の脚本など読んでる暇はなく、また『経済学批判』出版が遅れていることに苛立っていた時期だったので「反動的封建階級に属する者を中心として描いたことは誤りである。主人公は全て農民一揆の農民指導者から選ばねばならない」という不評の返事を突き返された[69]

1859年4月にフランス皇帝ナポレオン3世率いるフランス帝国とサルデーニャ宰相カミッロ・カヴール率いるサルデーニャ王国が同盟してイタリア北部を支配するオーストリア帝国を相手にイタリア統一戦争を開始した。この戦争をめぐるエンゲルスの著作『ポー河とライン河』のドゥンカー書店からの出版を斡旋した後、ラッサール自身もドゥンカー書店から『イタリア戦争とプロイセンの義務、民主主義の呼び声(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens: eine Stimme aus der Demokratie)』と題したパンフレットを著した。この著作の中でラッサールはドイツとイタリアの統一の必要性とオーストリアがイタリア北部を支配していることの不当性を訴え、またナポレオン3世は利己心でのみ行動していることを指摘した。これはマルクスやエンゲルスの見解と同じであった[70]。だがその一方でラッサールは利己的な専制君主であっても民主主義的原理に媚を売ろうとするナポレオン3世の方が「反動の権化」のオーストリアよりはましだと考えており、ナポレオン3世を擁護するかのような主張もした[71][72][注釈 5]。これはナポレオン3世を「無産階級最大の敵」と定義し、ナポレオン3世に抵抗するためならばプロイセンとオーストリアの連合さえも考慮に入れるべきと主張するマルクスとは相いれない立場であり、マルクスから「私と私の同僚(エンゲルス)は貴方の意見に全く賛成できない」と拒絶の返事を送られた[74]

マルクスの態度が冷淡になっていると感じたラッサールは彼との友情を取り戻そうと弁明の手紙を送った。その中でラッサールは「私のパンフレットを額面どおり受け取らないでほしい。私の本当の気持ちはプロイセンがフランスに勝利したとしても、それはプロイセン人民に望ましい形にはならず、反革命勢力の勝利に終わるだけということだ。逆にフランスが勝利すればホーエンツォレルン家他、ドイツ支配層の没落につながり、ドイツ人民の解放と革命戦線の連合は進むだろう」と訴えたが、マルクスがこの説明に得心することはなかったようである[75]

またこの時期マルクスは、カール・フォークトドイツ語版批判運動に熱中しており、ラッサールにはその先頭に立つことを期待していたのだが、ラッサールが乗り気でないことに不満を高めていた[76][注釈 6]

加えてラッサールはこの頃、株式投機で大損しており、マルクスからの金の無心に対して渋るような態度をとったこともマルクスの不信を強めたようである。ラッサールはマルクスに事情を説明したものの、マルクスは信じようとしなかった[78]

『既得権の体系』

1860年中に大著『既得権の体系(Das System der erworbenen Rechte)』の執筆を行い、1861年に全2巻で出版した。伯爵夫人の離婚訴訟で培った法律の知識が結実した本であった。

この本の中でラッサールは「法が個人の意志的行為を媒介としてのみ個人に関わる限り、その法は遡及作用してはならない」「個人の意志活動の媒介によってのみ個人に関わる法は決して遡及作用しないという命題から、かかる自由意志的な行為の介入なしで個人に関わる法は必ず遡及作用するという命題が導かれる」という遡及作用理論を立てて古代ローマから1850年のプロイセンまでの既得権の法制度を解き明かした[79]。そして「一般に法の歴史が文化史的進化を遂げるとともに、ますます個人の所有範囲は制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」という社会主義的結論を導き出している[80][81]。これはつまり初めに人間はこの世の全部が自分の物だと思い込んでいたが、やがて限界を知るようになったということである。たとえば神仏崇拝は神仏が私有財産から離れたということ、また農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者になったことで農民が私有財産から離れたということ、ギルドの廃止や自由競争も独占権は私有財産ではないと認識されるようになったことを意味している。だからやがて今のブルジョワ的私有財産制も崩壊し、共同所有社会がやってくるという考えである[82]

しかしこの著作は難解すぎて『ヘラクレイトスの哲学』の時のような称賛は得られなかった。法学者にとっては哲学的要素が、哲学者にとっては法学的要素が多すぎた。また革命家たちにとっては思弁過剰だった。マルクスは全く読まず、エンゲルスは「自然法に対する迷信的信仰」などと批判した[83]

マルクスの帰国騒動

1861年1月に摂政ヴィルヘルム王子が正式にヴィルヘルム1世としてプロイセン国王に即位した。ヴィルヘルム1世は政治的亡命者に対して大赦を発した[84]。これを聞いたラッサールはマルクスにプロイセンへの帰国を勧めた[84][85]

マルクスも満更ではなく、4月1日に はラッサールとハッツフェルト伯爵夫人の援助でプロイセンに帰国し、ベルリンのラッサール宅に滞在した。ラッサールと伯爵夫人はマルクスが様々な社交場で一流の人士と歓談できるよう取り計らってやり、オペラハウスでは国王ヴィルヘルム1世が座っている最高席から数フィートという距離の位置のボックス席にマルクスを座らせてやった。だが反君主主義者のマルクスにはこういう貴族的歓待は不快以外の何物でもなかったらしい。マルクスがこういう生活に耐えていたのはプロイセン市民権を回復するためだったが、4月10日にはマルクスの市民権回復申請は警察長官から正式に却下された[86]。これを知るとマルクスはラッサールから40ポンド借りてロンドンへ帰っていった[87]

この一件以来マルクスはますますラッサールの「虚栄的生活」にムカムカするようになった。この頃、マルクスはラッサールが色黒なのを捉えて「(ラッサールは)モーセがユダヤ人を連れてエジプトから脱出した際に同行したニグロの子孫だろう。(略)この男のしつこさは紛れもなくニガーのそれである」と珍妙な人種観に基づく人種差別をしている[88]

政治運動への本格的参入

ラッサールの同志ローター・ブーハードイツ語版

1861年9月から12月にかけて伯爵夫人とともにスイス、イタリア旅行を行った。11月14日にはカプレラ島ジュゼッペ・ガリバルディを訪ねた[89]。ガリバルディ率いるイタリア行動党のオーストリアに対する攻撃計画に関心を持ったという[90]

帰国後のラッサールはガリバルディの影響を受けて直接的な政治運動が増えていった。学究活動や文芸活動は減り、演説の草稿書きが主となっていく[91]。この頃、政界ではブルジョワを中心とする自由主義左派政党ドイツ進歩党がプロイセン議会下院の多数派を握っていた。ラッサールは進歩党の名士とも交友関係があったものの、彼らが社会政策に関心を持っていないことは明らかだった。結局進歩党に批判的な1848年革命の革命家たち、ローター・ブーハードイツ語版フランツ・ツィーグラードイツ語版ヨハン・ロードベルトゥスなどと連携を深めていった[92]。とりわけブハーとは親しくなり、彼と会合を重ね、社会主義の大衆運動の形成について語りあった[93]。だが1862年代のラッサールにはまだブルジョワ自由主義の封建勢力との戦いをサポートする意思があった[94]

ラッサールは1862年春のプロイセン下院解散総選挙の際に2つの演説を行った。一つはベルリンにおいて自由主義派の地域団体に向けて行った憲法に関する講演だった。この演説の中でラッサールは「ブルジョワはもはや意志なく支配される群衆たることを望まない。むしろ彼らは自ら支配し、王侯を自分の道具にすることを望んでいる。そのために彼らは一国の諸制度や統治原則を一つの紙に記載しようとする」「しかしより大きいはずのブルジョワの権力は組織されていなかったため、より小さいが組織されている権力、つまり王が軍において所有している権力に対抗できない」「国王は事実上の力関係を握っている限り、リベラルな成文憲法を喜んで制定できた。王は『現実の憲法』が重力の法則と同じ必然性で『成文の憲法』をなし崩しにできると確信していた。」「憲法問題は法の問題ではなく力の問題だ。一国の現実の憲法は、その国に存在する現実の、事実上の力関係の中にしか存在しない。成文の憲法が価値と持続力を発揮するのは、それが社会の中にある現在の力関係の正確な表現である場合のみである」と語り、自由主義ブルジョワに1848年の失敗を繰り返さないよう教訓を与えた[95]

ついで4月12日にオラニエンブルクで機械製造工たちを前に「現代という歴史的時代と労働者階級の理念との特殊な関連」と題した演説を行った(この演説が後に『労働者綱領』という小冊子にまとめられたものだった)。この演説でラッサールはまず、資本主義が封建主義に取って代わり、さらに第四身分(無産階級)が登場してくる歴史的経緯を語った。ここの叙述は『共産党宣言』に依拠しているが、剽窃ではなく独自に考え抜かれている[96]。さらに国家とは論理的な全体としての諸個人の統一であるのに、ブルジョワの思い描く自由主義的国家は個人の財産権しか保護しない「夜警国家」であり、一方労働者階級の階級全体の改善を図ろうという原理の方が国家の支配原理となるのにふさわしいと説いた[97]。そしてその支配原理を実現する手段は普通選挙直接選挙であるとした[98]


宰相ビスマルクとの接近

「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルク

1862年


マルクスとラッサール

フリードリヒ・アルベルト・ランゲはマルクスの『資本論』とラッサールの『既得権の体系』を比較し、「この二つの著作の共通点は他のどの著作でも達成されていないような、思索的な要素と実証的な資料との相互浸透が見られる事である。しかし両者は次の点で異なる。ラサールは思索の根本に関しては自分の師匠(ヘーゲル)に対して、より自由、かつ生まれながらの哲学者としてより独立的にふるまいながら、他方彼の著作の法律上の素材は、稀に見る才能をもってであるが、ともかくこの仕事の目的に合わせて作りかえられている。これに反してマルクスは、経済学上の内容は驚嘆すべき専門的知識の材料を稀に見る自由さで使いこなすことから自然に出てきていながら、他方思索の形式は哲学上の模範(ヘーゲル)に密着しており、苦労して対象に取り組んでいるものの、著作のかなり多くの部分において著作の効果を損なっている」と述べている[99]



日本における評価

幸徳秋水にとってラッサールは憧れの人であり、明治37年(1904年)にはラッサールの伝記を著している。その著作の中で秋水は「想ふに日本今日の時勢は、当時の独逸と極めて相似て居るのである。(略)今日の日本は第二のラッサールを呼ぶの必要が有るのではないか」と書いている。また吉田松陰とラッサールの類似性を主張し、「若し松陰をして当時の独逸に生まれしめば、矢張ラッサールと同一の事業を為したかも知れぬ」と述べている。他方で二人の違いとして「ラッサールは一面において華奢風流の才子であった、松陰は何処までも木強の田舎漢であった、前者が戯曲を作るの間に、後者は孔孟の道徳を講じ、前者が評花品柳の楽しみに耽るの間に、後者は常に父母兄弟姉妹の温情に泣て居た」と書いている[100][101]

コミンテルン片山潜も一時期ラッサールの国家社会主義に深く傾倒し、ラッサールを指して「前の総理大臣ビスマルク侯に尊重せられし人なり。然り、彼は曹てビスマルクに独乙一統の経営策を与え、又た進んでビスマルクをして後日社会主義の労働者制度を執らしめたる偉人物」と評した[102]

小泉信三河合栄次郎は反マルクス主義の立場からマルクスの対立者であるラッサールに深い関心を寄せ、彼に関する評伝を残した[7]

参考文献

脚注

注釈

  1. ^ 伯爵夫人とラッサールの肉体関係の有無については定かではない。当時伯爵夫人は40歳、ラッサールは20歳であり、年齢差があるが、伯爵夫人は美人で知られていた。ラッサール自身は後年に「ハッツフェルト伯爵夫人の弁護を引き受けるにあたって浮いた気持など微塵もなかった」「自分を駆りたてた動機は騎士道精神である」と語っている[28]。一方で後年にヘレーネ・フォン・デンニゲスが「伯爵夫人はその頃魅力的だったのでしょうし、貴方は若かった。恋に落ちて何かあったのね。でも今はあの方もすっかりお年寄り。なのに貴方はまだ若いのですから、今はただのお友達というところでしょう」と述べたのに対して、ラッサールは「まあ大体君の言うとおりだよ」と答えたことがあるという[32]
  2. ^ これについて猪木正道は「学者にとって決定的なのは大学卒業後の数年間であるが、ラッサールはその期間を空費とまでは言わないものの、脇道にそれてしまった」として惜しんでいる[35]。またマルクスは後年にラッサールのハッツフェルト伯爵夫人離婚訴訟への熱の入れようを「ラッサールは本当に偉大な人間はこんな下らないことにも10年の時を費やすのだと言わんばかりに、見境もなく私的陰謀の渦中にあったのだから、自分こそは世界を自分の意思どおりにできると思っていたに違いない」と批判している。またエンゲルスは「我々がこんな事件でラッサールとグルになっていると思われぬよう『新ライン新聞』は意図的にこの事件を報道しなかった」と述べているが、これはエンゲルスの嘘であり、『新ライン新聞』は小箱窃盗事件の訴訟を事細かに報道していた[36]フランツ・メーリングは「訴訟を始めた当時のラッサールには1848年に革命が起こるとは知りえなかったし、またプロイセン封建主義の腐敗ぶりが酷過ぎたために裁判が長期化したのであり、ラッサールを責めるのは不当」と弁護している[37]
  3. ^ フランツ・メーリングはマルクスの伝記の中でラッサールの小箱窃盗事件はでっちあげられた罪状としている[39]
  4. ^ この金額は当時のプロイセンの大臣の俸給の半分に匹敵する[54]
  5. ^ ラッサールは「ナポレオン3世の野心を過大評価すべきではない。彼は世間で言われているほど盤石ではない。ライン川を獲得するためにフランスがドイツに侵攻するなどということはありえず、ナポレオン3世が狙っているのはせいぜいフランス的なサヴォイの併合である。ナポレオン3世は国内では反動を支持し、国外では自由主義を支持するという矛盾した行動をとっているがゆえに早晩イタリア問題の収拾に失敗するだろう。プロイセンがフランスを攻撃すればフランスは皇帝のもとに団結するだろう。一方オーストリアを攻撃すればドイツ統一への絶好のチャンスが開ける。だが今のプロイセンにそのようなことを実行できる大人物はいないので結局今回の戦争では中立の立場を取った方が良い。もしフランスが南ヨーロッパの地図を塗り替えるような真似をするならば、プロイセンは北方のシュレースヴィヒ公国ホルシュタイン公国を併合すべきである」という趣旨の主張を行った[73][74]
  6. ^ カール・フォークトはスイスの大学で教授をしていた左翼学者だが、イタリア統一戦争に際しては「プロイセンは中立の立場を取るべき」と主張した。このことでマルクスやヴィルヘルム・リープクネヒトは「フォークトはナポレオン3世から金をもらっている」という批判を行った。フォークトはマルクスたちを名誉棄損で訴え、勝訴したが、それだけでは我慢ならず、「マルクスは強請で金を稼いでいる男である」と批判し返した。異常にプライドが高いマルクスはこれに激昂し、ラッサールなど友人たちに総動員をかけてフォークトとの全面闘争を開始した。しかしこの頃のラッサールはベルリン社交界で確固たる立場を築く文士・学者になっていたから、こういう喧嘩に全精力を注ぐようなことをしたくなかった[77]

出典

  1. ^ ブランデス(1923) p.14
  2. ^ a b c 江上(1972) p.18
  3. ^ ブランデス(1923) p.31
  4. ^ 江上(1972) p.35
  5. ^ a b c d 江上(1972) p.39
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関連項目