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利用者:桂鷺淵/資料6

日本の藩

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概要

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日本史における「藩」について、最も一般的な解説は以下の通りである。

藩という呼称は、江戸時代には公的な制度名ではなかったためこれを用いる者は一部に限られ、元禄年間以降に散見される程度だった(新井白石藩翰譜』、林述斎成島司直編『徳川実紀』等)。明治時代に初めて公称となり、一般に広く使用されるようになった。

藩という歴史用語には曖昧さがあるため、たとえば「藩の総数」については書籍によって大きな違いが生じることもある。本節ではまず一般的な「藩」の説明を行い、その後「藩」という歴史用語の揺れについて述べる。

用語

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元々「藩」という語は、古代中国天子であるの王によってある国(同時代の華北で国とはと称せられる都市国家)に封建(既存の都市国家の統治制度の追認、もしくは親周勢力の族組織単位での軍事入植)された諸侯の支配領域を指し、江戸時代の儒学者がこれになぞらえて、徳川将軍家に服属し将軍によって領地を与えられた(と観念された)大名を「諸侯」、その領国を「藩」と呼んだことに由来する。あくまで江戸時代には「藩」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称されたことは無い。

当時の江戸幕府は、大名領は領分(りょうぶん)、大名に仕える者や大名領の支配組織は家中(かちゅう)などの呼称が用いられていた。いずれも、その前に大名の名字もしくは拠点(陣屋所在地)とする地域名を冠して呼んだ。

今日の歴史学上では、大名領およびその領地の支配組織を、藩の領主である大名のことを藩主(はんしゅ)、大名の家来のことを藩士(はんし)という事が多い。同じく現代歴史用語として、藩に対して幕府の直轄領のことを天領(てんりょう)と呼ぶ事も多い(ただし、天領も藩と同じく、明治以降の公称である)。

しかし、この藩について、当時の人々が実際に何と呼称していたかは詳しくはわかっていない[1][注 1]。当時の領地・組織は「藩」ではなく「家」を単位をするもので、幕府からの命令は藩主でなく個人(例えば長州藩の場合は「松平[注 2]大膳大夫殿」)宛に出されており、家臣も自藩、他藩でなく「当家」「他家」などの呼称で呼ばれていた[1]。藩士についても「○○藩士」とは呼ばれず、例えば「仙台藩士」であれば公的には「松平[注 2]陸奥守家来」と称された。また、封地名も「藩」よりも「」をつけて呼び現されることが多かった。例えば「仙台侯」、「尾張侯」、「姫路侯」といった具合である。

江戸時代

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藩の内側は将軍と江戸幕府の権威・権力の枠の内側で一定の自立した政治経済社会のまとまりを持ち、小さな国家のように機能した。

藩は、守護大名荘園公領を解体し、これらに所領を持ち一揆盟約で組織された惣村を権力基盤とする国人級の武士や、武士化した名主層(地侍)を被官化し、一円的領域支配を築いていったことに始まる。これは荘園の預所や公領の国衙機構といった中世的な公的秩序機構を基盤とする、室町時代以前の武士の所領支配とは異なった新しい支配の形態である。こうした社会変動を乗り越え成功した守護大名やその下で現地支配実務を担った守護代ら中間管理職的家臣らから成長した戦国大名は領域に自生した一揆的盟約共同体を直接掌握することで一円支配をさらに推し進める一方、家来である配下の武士を城下町に集めて強い統制下に置く傾向が始まる。織田信長は取り立てた武士の所領を勢力・進展とともに次々に動かし、豊臣秀吉徳川家康ら服属した戦国大名を彼らの地盤である領国から鉢植え式に新領土に移封させたので、安土桃山時代に武士と百姓間の職業的・身分的な分離が進み、関ヶ原の戦いと江戸時代初期の大大名の盛んな加増移封によって完成された。

藩士である武士を城下町に集めて軍人・官吏とし、彼らの支配のもとで城下町周辺の一円支配領域にある村に石高を登録された百姓から年貢を現物徴収して、藩と藩主の財源や藩士の給与として分配する形態が藩の典型であるが、徳川氏によって新規に取り立てられた小藩の中には支配する領地が飛び地状に拡散していて一円的な支配が難しいものもあった。また肥前鍋島家の統治に於いて藩主家一門や旧主龍造寺家一門から成る重臣層が直接統治する領地を構えた事にみられるように、西国雄藩にはしばしば戦国大名的な統治機構を温存させていた例が散見された。

明治時代

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1868年(明治元年)に明治新政府が旧幕府領を天皇直轄領(天領)としてに編成した際に、大名領は天子たる天皇の「藩」であると観念されたこともあり、「藩」は新たに大名領の公称として採用され、藩主の居所(城持ち大名の場合は居城)の所在地の地名をもって「○○藩」という名前が初めて正式の行政区分名となった[2][1]府藩県三治制)。翌1869年(明治2年)までに版籍奉還が行われて藩主は知藩事に改められ、1871年(明治4年)の廃藩置県によりさらに藩が県に置き換えられた。これによって江戸時代以来の藩制は廃止され、藩領は整理された。

なお琉球は、その実質的な支配者である薩摩藩が廃藩置県によって県となったことを受け、翌1872年(明治5年)、独立王国から日本国に帰属する琉球藩へと改められた。以後1879年(明治12年)の琉球処分まで、琉球は廃藩置県後の日本国内において唯一藩制が行われていた地域である。

現在の県は廃藩置県時の諸県を統廃合して生まれたもので、多くの地域では旧藩の境界と現在の県の境界は一致しない。

藩の呼び方(藩名)

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府藩県三治制において藩庁の所在地をもって藩名とする規則は初めからあるわけではなかった。例えば慶応4年旧暦2月11日に大中小藩の区別が制定された際の藩名表では、国持・大身国持の藩などは旧国名をもって藩名とされている。慶応4年旧暦5月15日の藩印制定の際も、明治政府に提出された藩印では旧国名を用いた藩名の藩印が多数作成されている。最終的に版籍奉還の際に藩庁の所在地をもって藩名とする規則が適用され、呼称が被る藩に関しては任知藩事時またはその直後に藩名が改称された[3]。よって加賀藩、薩摩藩などの呼称も藩名が定まる前には実際に使われた実績がある。

また、久保田藩は江戸時代の藩主の官位として「秋田侍従」があり、戊辰戦争の際も郡名由来の「秋田藩」を名乗り、「秋田藩印」とする藩印を明治政府に提出しているが、藩庁所在地を藩名とする原則が徹底されたことにより、「久保田藩」が正式な名称となった。藩としては歴史的に使われた名称である「秋田藩」と呼ばれることを願い、城下町の名称を久保田から秋田に変更した上で、藩名を久保田藩から秋田藩に改名している。

明治時代以降、歴史用語として藩名を用いる場合、何を冠するかで3通りの捉え方があり、それぞれに異なる命名法として併存している[4]。その3つとは、所領(旧令制国名義など)、大名城下町である[4]

  • 例えば「加賀藩」は、主たる所領が旧令制国名でいう「加賀国」であることに由来し、加賀地方以外にも多くの所領を持ちながら「加賀」の名を冠するもので、最も広く通用している名称であるが、これとは別に、大名・前田氏加賀前田家)によって治められたことから「前田藩」という名称も通用している。また、この藩の中核をなす城下町が金沢城下(金沢城の城下町)であったことに基いて「金沢藩」という名称も用いられている。
  • 例えば「彦根藩」は、主たる所領は旧令制国名でいう「近江国」ではあるが、近江地方は一藩が代表するには細分化されすぎており、その名を冠することはない。それよりも、北近江の地を治めるに当って居城を佐和山城から彦根山の新城(彦根城)に移して政治および地政学的刷新を図ったことが重要で、彦根に中核たる城下町が形成されたことに基いて「彦根藩」と呼ばれることとなった。なお、彦根藩を治めたのは大名・井伊氏(井伊掃部頭家)であるが、「井伊藩」とは呼ばれず、「井伊彦根藩」という名称がこれに代わる。

「藩」という歴史用語の外縁

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織豊大名の支配機構を「藩」と捉える解釈

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幕藩体制の研究者の中には豊臣政権における大名領国を「藩」もしくはその前身と捉え、藩の成立を豊臣政権もしくはその前の織田政権に遡って考察する考え方もある[5][6]。『三百藩藩主人名事典』(新人物往来社)のように豊臣政権期にあたる関ヶ原の戦い当時に存在していた大名の領域およびその支配機構に対しても「藩」を用いている文献もある。

例えば、江戸時代初期の1628年まで但馬国に存在した八木藩は、別所吉治の領国である。別所氏はもともと播磨国三木城を拠点とする戦国大名であった勢力であり、1580年に別所長治が自刃して一旦は滅亡したものの、1585年に別所重宗(重棟)が羽柴秀吉から八木城主に任命され、1万石余の知行地を与えられた。一部の文献には、1580年に自刃した別所家当主別所長治についても「藩主長治の(辞世は)『今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我が身と思えば』という一首であって一命にかえて藩民を救う切々とした訴えが胸を打つ」という用例がある(橋本哲二「新西国巡礼の寺」保育社)。

また、1922年編纂の「青森県史」では青森県の歴史を「藩政時代以前」「藩政時代」「近世時代」の三年代に分け、津軽藩政時代として「元亀天正中、津軽為信蹶起し郡中を統一して以来」とし、津軽為信が家督を継いだ永禄10年(1567年)を以って「藩政時代」の記述の初めとしている。ただしこれは津軽藩立藩(1590年)以前の史料が極めて少なかったためであると青森県史編纂委員は序文で断っており、織田信長上洛以前の戦国大名を「藩」と称することは殆ど無い。

「大名」の定義を巡る問題

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江戸時代の大名は一般に「1万石以上の所領を有する将軍直臣」と説明される[7]。ただし、幕初には「大名」と他の将軍直臣(旗本)の格式の境界は必ずしも明確ではなく、1万石以上が大名であるという基準が成立したのは寛永10年代という説がある[8]

江戸時代初頭に存在した朽木元綱(9590石)の領国(朽木藩)や、水野分長(9820石)の領国(緒川藩)は藩として扱われることがある。また、足利氏一族ということから特殊な家格を認められた喜連川氏(5000石)は、多くの書籍で「大名」として扱われ、その領国は喜連川藩として扱われる。蝦夷地の松前氏は1719年に1万石格が認められるまで無高であるが、多くの書籍ではその統治機構を松前藩として扱っている。

豊臣大名徳川家康の大身家臣

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1590年、徳川家康は関東で240万石を与えられ、江戸を居城とする豊臣大名となった。「藩」に豊臣大名を含む見地から、家康の領国を「江戸藩」とする書籍もある。

また、家康は関東に入部した際、知行割を行って家臣を領内各地に配置した(関東知行割)。たとえば酒井家次は下総国臼井城に配置されて3万石を与えられており、関東入部時に臼井藩が成立したと見なされる。また、「天正十八年三千石以上分限帳」などでは、3000石以上が別格の家臣として扱われており、3000石以上の徳川家大身家臣の領国も「藩」として扱われることがある。

  1. ^ a b c 目で見る 毛利家あれこれ 〜毛利博物館収蔵資料と歴史ばなし〜第254回 - 毛利博物館館長代理 柴原直樹(ほっぷ 2015年8月7日号 - 地域情報新聞社)
  2. ^ 例えば、毛利博物館に所蔵されている毛利敬親宛の任命書には「山口藩知事」と明記されている。
  3. ^ 森谷秀亮, 「明治初年における府藩県」駒沢史学, (14), 1-21 (1967).
  4. ^ a b 『江戸幕府崩壊論』藤野保著、2008年、塙書房
  5. ^ 『近世国家史の成立』藤野保著、2002年、吉川弘文館・『津藩』深谷克己著、2002年、吉川弘文館など
  6. ^ 『譜代大名の創出と幕藩体制』小宮山敏和著、2015年、吉川弘文館、P15より引用
  7. ^ 大名”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2023年6月11日閲覧。
  8. ^ 江戸時代、石高一万石以上を大名、一万石未満を旗本と身分分けしていたが、この基準が「一万石」である理由はなにか?”. レファレンス協同データベース. 2023年2月8日閲覧。の回答に引かれた、煎本増夫『江戸幕府と譜代藩』(雄山閣出版、1996年)の叙述


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