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大橋智干

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大橋 智干
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 山口県
生年月日 (1921-06-25) 1921年6月25日
没年月日 没年不明
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1940年
初出場 1940年5月24日
最終出場 1940年7月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

大橋 智干(おおはし ともひさ、1921年6月25日 - 没年不明[1])は、山口県出身のプロ野球選手捕手)。

経歴

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下関市立下関商業学校(現・下関商業高等学校)在学中は、甲子園に4度出場(春2回〈1938年1939年〉、夏2回〈1938年1939年〉)。そのうち1939年夏の大会では、正捕手としてチームの準優勝に貢献した[2]。当時のチームメイトに、長富政武(のち大洋)、諏訪裕良(のちに高野裕良に改名。巨人金星・大映→大洋)がいた[2]

1940年3月15日に巨人に入団[3]。しかし正捕手の吉原正喜や第2捕手の楠安夫の壁は厚く、僅か5試合の出場に留まり、同年末に現役引退した。引退後の消息は不明。

内海五十雄の後を継いで、巨人軍の背番号26を付けた選手である[4]。また出場機会はほとんど無かったが、沢村栄治ヴィクトル・スタルヒンの間に座ってミーティングに参加している写真が現存している[5]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1940 巨人 5 3 3 0 1 0 0 0 1 1 1 -- 0 0 0 -- 0 2 -- .333 .333 .333 .666
通算:1年 5 3 3 0 1 0 0 0 1 1 1 -- 0 0 0 -- 0 2 -- .333 .333 .333 .666

背番号

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  • 26 (1940年)

脚注

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  1. ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、111ページ
  2. ^ a b 1939年夏(熱球の記憶 プロに進んだ甲子園球児達)
  3. ^ 東京巨人軍登録選手(1940年)野球回廊のHP
  4. ^ 背番号変遷(20番台)|読売巨人軍公式サイト - 東京読売巨人軍。
  5. ^ 沢村栄治の集合写真(沢村栄治記念館)※「昭和15年 ミーティングにて 前列左から4人目」という写真である。

関連項目

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外部リンク

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