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姉小路公宣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
姉小路公宣
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代前期
生誕 養和元年(1181年
死没 嘉禄元年5月27日1225年7月4日
改名 公信(初名)→公宣
別名 姉小路大納言
官位 正二位権大納言
主君 後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇
氏族 姉小路家(閑院流)
父母 父:三条実房、母:藤原経宗の娘
兄弟 三条公房公宣正親町三条公氏三条公俊、公兼、覚実、公円、覚教、公恵、公深、公豪、公誉、徳大寺公継室、女御代
藤原兼光の娘
実世実文実尚
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姉小路 公宣(あねがこうじ/あねこうじ きんのぶ)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿左大臣三条実房の次男。官位正二位権大納言姉小路に住み姉小路大納言と号す。姉小路家(閑院流)の祖。

経歴

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養和元年(1181年)、誕生。初名は公信

元暦2年(1185年従五位下叙爵文治6年(1190年)従五位上に叙され、建久2年(1191年侍従に任ぜられた。建久5年(1194年正五位下に進み、翌建久6年(1195年美濃権介を兼任する。建久7年(1196年)には右近衛少将に任じた。

建久8年(1197年従四位下に叙される。建久9年(1198年皇后宮権亮、建久10年(1199年美濃介を兼ねる。正治2年(1200年)従四位上・左中弁、さらに建仁2年(1202年正四位下蔵人頭に叙任され、翌建仁3年(1203年信濃権守を兼ねた。

元久元年(1204年従三位に叙され公卿に列す。右近衛中将・美作権守を経て、承元2年(1208年正三位参議に叙任。承元5年(1211年)には従二位権中納言に叙任され、建保3年(1215年)正二位に叙された。建保6年(1218年中納言に進み、承久2年(1220年中宮大夫に任ぜられた。承久3年(1221年)権大納言に昇り、貞応2年(1223年三条有子の立后に伴って中宮大夫を兼ねるが、嘉禄元年(1225年)5月25日より病となり、同27日に父に先立ち45歳で薨去した。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 元暦2年(1185年)正月6日:従五位下に叙爵(皇后宮臨時御給)。
  • 文治6年(1190年)正月27日:従五位上に叙す(朝覲行幸殷富門院御給)。
  • 建久2年(1191年)2月1日:侍従に任ず。
  • 建久5年(1194年)10月23日:正五位下に叙す(上西門院承安三年御給)。
  • 建久6年(1195年)2月2日[1]:美濃権介を兼ぬ。
  • 建久7年(1196年)正月28日:右近衛少将に任ず。
  • 建久8年(1197年)正月:従四位下に叙す(殷富門院御給)。少將如元。2月6日[2]:禁色を聴す。
  • 建久9年(1198年)正月:新帝昇殿。3月5日:皇后宮権亮を兼ぬ。
  • 建久10年(1199年)3月29日[3]:美濃介を兼ぬ。
  • 正治2年(1200年)正月5日:従四位上に叙す(皇后宮御給)。4月15日:東宮昇殿を聴す。10月26日:左中弁に転ず。
  • 建仁2年(1202年)正月5日:正四位下に叙す。10月20日:蔵人頭に補す。
  • 建仁3年(1203年)正月13日:信濃権守を兼ぬ。
  • 元久元年(1204年)4月12日:従三位に叙す。
  • 元久2年(1205年)3月2日:右近衛中将に遷る。
  • 建永2年(1207年)正月13日:美作権守を兼ぬ。
  • 承元2年(1208年)正月5日:正三位に叙す(中宮大夫藤原朝臣東大寺供養行事賞)。7月9日:参議に任ず。中將に任ず。
  • 承元5年(1211年)正月18日:権中納言に任ず。7月28日:従二位に叙す。
  • 建保3年(1215年)4月5日[4]:正二位に叙す。
  • 建保6年(1218年)10月9日:中納言に転ず。
  • 承久2年(1220年)正月27日[5]:中宮大夫に任ず。
  • 承久3年(1221年)10月10日:権大納言に任ず。10月18日:中宮大夫を兼ぬ。
  • 承久4年(1222年)3月25日:大夫を止む。
  • 貞応2年(1223年)2月25日:中宮大夫を兼ぬ(立后)。
  • 嘉禄元年(1225年)5月27日:薨ず。享年45。

系譜

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脚注

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  1. ^ または正月2日。
  2. ^ または5日。
  3. ^ または2月23日。
  4. ^ または4月11日。
  5. ^ または26日。