窪全亮
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窪 全亮(くぼ ぜんりょう、1847年9月28日(弘化4年8月19日)- 1913年5月11日[1])は、日本の教育者。明治および大正時代に、現在の東京都稲城市で活動した。号は「素堂」[1]。「稲城」の地名の命名者という説がある[2]。
来歴
[編集]1847年に長沼村(現稲城市)に生まれる[2]。若い頃江戸に出て、大沼枕山に学ぶ[1]。 1871年に郷里の長沼村に作られた東長沼郷学校「博文学舎」の教員となる[2]。翌年、学制が発布されると尋常小学校の教員に就任した[2]。
1880年(明治13年)に私塾「奚疑塾」(けいぎじゅく)を自宅に開いた[1][2]。この塾は尋常小学校卒業者を対象とし、広く生徒が集まった[2]。
1889年の市町村制施行に際して東長沼地区の5村が合併して新たな村を発足させることになり、新村長となる森清之助から新村名の案出を求められた全亮は「稲穂」「稲城」の2案を示し、そこから「稲城」が選定されたという[2]。
1913年死去(満65歳没)。
「奚疑塾」の跡地には「窪全亮先生頌徳碑」が建立されている[2]。2021年には地元の市民団体が、和算家の小俣勇造とともに顕彰紹介する冊子を作成した[3][4]。
脚注
[編集]関連文献
[編集]- 稲城市教育委員会教育部生涯学習課(編)「奚疑塾と窪全亮」『稲城市文化財調査報告書 第23集』稲城市教育委員会、2010年