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諏訪忠礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
諏訪 忠礼
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 嘉永6年1月13日1853年2月20日
死没 明治11年(1878年10月10日
墓所 東京都文京区本駒込の吉祥寺
官位 従五位下、伊勢
幕府 江戸幕府
信濃国諏訪藩
氏族 諏訪氏(神人部氏)
父母 父:諏訪頼威、養父:諏訪忠誠
正室:神人部直子(諏訪忠誠の娘)
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諏訪 忠礼(すわ ただあや)は、信濃諏訪藩の第10代(最後)の藩主。

生いたち

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嘉永6年(1853年)正月13日に諏訪頼威(諏訪左源太神人部頼威、第8代藩主諏訪忠恕の三男)の次男に生まれた。慶応4年(1868年)2月8日、高島藩主で伯父に当たる忠誠の婿養嗣子となった。同年5月15日の養父の隠居により家督を継いだ[1]

明治元年(1868年)の戊辰戦争において諏訪藩は新政府軍に加わり、甲州勝沼の戦い北越戦争会津戦争に参戦した。

明治2年(1869年)の版籍奉還知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県高島県知事となった。

同年11月20日、高島県廃止と共に免官され、東京へ移った。明治11年(1878年)10月10日に若くして死去した。享年26。家督は養父の忠誠が再び相続した。

系譜

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父母

正室

出典

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  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『諏訪忠礼』 - コトバンク