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里見時成

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里見 時成(さとみ ときなり、生年不明 - 延元2年/建武4年1月12日1337年2月13日))は、日本鎌倉時代から南北朝時代にかけての武士伊賀

時成は新田氏庶宗家里見氏の流れを汲み、その中でも越後新田党を形成した越後里見氏の出身。

元弘3年/正慶2年(1333年5月上野で挙兵した新田義貞の元に参陣し義貞の鎌倉攻めに従軍する。以後も義貞に従い、建武の中興後の建武2年(1335年11月足利尊氏追討軍に従軍した。

延元元年/建武3年(1336年)から延元2年/建武4年(1337年)にかけて起こった金ヶ崎の戦いでは、瓜生保義鑑坊兄弟と共に義貞の甥脇屋義治から5千の兵を授けられ、金ヶ崎城に籠る義貞の救援へ向かうが、延元2年/建武4年1月12日、この動きを察知した今川頼貞に急襲され討たれた。

敦賀市金ヶ崎町の絹掛神社に、義貞の子義顕、瓜生保、由良具滋気比氏治らと共に合祀されている。

脚注

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参考文献

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