陶器藩
陶器藩(とうきはん)は、和泉国大鳥郡陶器北村[1](北村[2]。現在の大阪府堺市中区陶器北付近)を居所として、江戸時代前期に存在した藩。外様大名の小出家が1万石を治めたが、4代約90年で無嗣により改易された。
歴史
[編集]前史
[編集]豊臣秀吉の叔父・小出秀政
[編集]藩主家の小出家は豊臣系大名である。小出秀政は豊臣秀吉とは同郷(尾張中村)の出身とされ[3]、秀吉の母・大政所の妹(栄松院)を妻としていた[4]。このため、秀吉には義理の叔父にあたる。秀政は秀吉の側近にあり[注釈 2]、役方を務めていた[8]。
『寛政重修諸家譜』によれば、小出秀政は天正13年(1585年)に和泉国岸和田城主になったとあるが[9]、のち文禄3年(1594年)に加増を受けた際の秀政の本領は4000石であり[10]、天正13年(1585年)時点では大名ではなく城代・城番もしくは代官であったとみられ、岸和田城に付随する秀吉の蔵入地の代官ではなかったかとされている[10]。
天正15年(1587年)には秀政の嫡男・小出吉政に和泉国内で6000石が与えられた[11]。
小出家と岸和田領
[編集]陶器藩小出家関連系図 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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文禄3年(1594年)6月5日付の朱印状で、秀政は和泉国日根郡・南郡内に6000石を加増され、合計1万石になった[12]。同日付で長男・吉政が播磨国龍野2万1520石に加増の上で移されており、基本的には吉政の旧領が秀政に与えられたものである[12]。文禄4年(1595年)8月3日、吉政は但馬出石で5万3200石(『寛政譜』は6万石とする[9])の領主となり、同日に秀政にも2万石(和泉国大鳥郡・日根郡のうち[1])が加増されて合計3万石となった[12]。この際に陶器村も秀政の知行地となった[13]。秀政には岸和田城主として3万石の軍役を負担する、番方としての役割が期待されるようになったことになる[13]。また、秀政の次男・小出秀家も豊臣秀吉に仕え、和泉国大鳥郡内で1000石を領していた[14][15]。
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が没すると、引き続き豊臣秀頼に仕えて重要な役割を務めたと見られる[16][注釈 3]。関ケ原の合戦の際には[注釈 4]秀政の次男・秀家は東軍に従い、本戦の後は父の城である岸和田城を守備して、長宗我部盛親を石津浦で激戦のすえ破った[14][15]。秀家は戦功によって河内国錦部郡内で1000石を加増された上(合計2000石を知行)、大坂にあった一族の罪も許されたという[14][15]。秀家は慶長8年(1603年)3月に没し、その養子となっていた実弟の
なお、秀政は関ケ原の合戦後、片桐且元ともに秀頼の側近あるいは名代として機能することになる[18]。慶長9年(1604年)3月22日、小出秀政は没した[19]。『寛政譜』では秀政が家康に臣従したことを記すが、福田千鶴はこの記述は江戸時代の歴史認識であり、小出秀政は徳川家康に仕えたことはないであろうとする[20]。『寛政譜』によれば、秀政の死後、長男の小出吉政が遺領を継ぎ、岸和田城に移って3万石を領した[9]。吉政の旧領である6万石と出石城は、吉政の長男・
秀政の死後、小出家は徳川家への接近を見せ[21]、『当代記』によれば慶長13年(1608年)時点で小出吉政・吉英(吉政長男)・吉親(吉政二男)・三尹(吉政弟)は徳川家康に進物を贈り、あるいは「江戸詰」を務めるなどしており、「大坂衆」(秀頼家臣)としては見なされなくなっている[21]。ただし大坂との関係も断ち切ってはいなかった[22]。
慶長18年(1613年)2月28日、小出吉政は大坂で死去した[19]。吉政の長男である吉英が岸和田城を継いで5万石を領した[9]。また出石城は吉政二男の小出吉親が継いで[9]、従来の知行地2000石と合わせて2万9700石を領した[23][24]。
立藩から廃藩まで
[編集]慶長8年(1603年)3月に小出秀家が没し、その養子となっていた実弟の小出三尹が遺領である和泉国大鳥郡内2000石を継いだ[14]。その後(『角川日本地名大辞典』では、吉英が秀政の遺領を相続した慶長9年(1604年)のこととする)、小出吉英の領地から1万石が分与され、さきの2000石は収公された[14]。1万石の領地は、和泉国大鳥郡、河内国錦部郡、摂津国西成郡、但馬国気多郡・美含郡の4国5郡内に分散していた[14]。三尹は陶器の北村に陣屋を置き[1]、陶器藩が成立したと見なされる[25]。
三尹は大修恵山高倉寺を再建するなど領内を整備した。
2代藩主有宗(有棟)は、正保元年(1644年)から正保3年(1646年)にかけて新田開発を行い、開発した土地を福田村と名づけている。
福田村の村高は約827石にのぼったが[26]、これは陶器荘の表高約2931石の3割近くに相当する大きなものであった。
その後、慶安2年(1649年)、寛文3年(1663年)、延宝4年(1676年)、天和2年(1682年)、貞享5年(1687年)に渡って、藩主は、公卿の江戸や日光参向時における院使の饗応役を務めている。
3代藩主有重の跡を継いだ4代藩主重興は、病となり死に臨んだ元禄9年(1696年)4月2日に弟の重昌を養子にしたが、重昌も病になり、重興の忌が明けた元禄9年(1696年)5月28日に出仕できず、6月12日に遺領1万石を賜る旨の奉書到来するも、翌13日病甚だしく登城できず、16歳にて死去した。
重昌が御目見を果たせず17歳未満で死去したことにより、元禄9年(1696年)8月12日、陶器藩は無嗣子を理由に収公となった。これにより、陶器荘は幕府代官支配地となる[1]。
後史
[編集]宝永2年(1705年)、西の丸側衆を務める大身旗本・小出
領地
[編集]寛文4年(1664年)時点の領地
[編集]寛文4年(1664年)の寛文印知時点の領地は以下の通り[1]
陶器
[編集]陶器陣屋は西高野街道に近い景勝地を占め、庭園も有していた[1]。林羅山の詩十首「陶器十景」にその当時の風光明媚な地域の様子が詠われている[1]。所領は農産物・海産物に恵まれ豊かであったとされる[1]。
歴代藩主
[編集]- 小出家
外様 1万石
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 寺沢光世は「側近六人衆」の一人に秀政を含めた[5]。「側近六人衆」は石川光重・伊藤秀盛・小出秀政・寺沢広政・蒔田久勝・一牛斎能勝[6]。ただし、「側近六人衆」という固定的な枠組みがあったかや、そこに秀政を含むことの妥当性については議論がある[7]。
- ^ 『藩翰譜』では秀吉の遺命によって片桐且元と小出秀政が秀頼の傅役になったとするが、福田千鶴はこれを『豊内記』にもとづいた誤りとする[17]。
- ^ 『藩翰譜』によれば、秀政は関ヶ原の合戦時には病気のため岸和田城に籠っていたとするが、福田千鶴はこれも誤伝とする[17]。
- ^ 三尹の四男で別家を立てた小出
尹明 の養子[27]。 - ^ 有仍は1100石の家を継ぎ、元禄2年(1689年)に徳川綱豊(甲府藩)の附家老になった際に3000石を与えられた(旧領1100石は長男の尹倫に与えられた)。その後甲府藩附家老在任中に2000石を加増、徳川家宣とともに江戸城に入り幕臣に復帰したのち、宝永2年(1705年)1月に相模国内で3000石を加増され(合計8000石)、同時に旧領5000石の領知替えが行われた。ただし同年4月に致仕し、翌閏4月に相模国内3000石を返上した[27]。
- ^ 『寛政譜』では、有仍の家は長男尹倫の早世により後継者を失い絶家になったという扱いである。二男尹従は別個に徳川家に出仕しており、別家を立てた扱いとなっている[29]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h “近世編>第二章>第一節>二>2>和泉陶器藩小出氏”. 富田林市史 第二巻(ADEAC所収). 2024年7月25日閲覧。
- ^ “北村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年7月25日閲覧。
- ^ 福田千鶴 2024, pp. 5–6.
- ^ 福田千鶴 2024, pp. 2–3.
- ^ 福田千鶴 2024, p. 2.
- ^ 福田千鶴 2024, pp. 15–16.
- ^ 福田千鶴 2024, pp. 26, 32.
- ^ 福田千鶴 2024, p. 18.
- ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻第九百二十五「小出」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.865。
- ^ a b 福田千鶴 2024, p. 17.
- ^ 福田千鶴 2024, pp. 17–18.
- ^ a b c 福田千鶴 2024, p. 27.
- ^ a b 福田千鶴 2024, p. 29.
- ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻第九百二十八「小出」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.879。
- ^ a b c 福田千鶴 2024, p. 4.
- ^ 福田千鶴 2024, p. 33.
- ^ a b 福田千鶴 2024, p. 37.
- ^ 福田千鶴 2024, p. 41.
- ^ a b 福田千鶴 2024, p. 44.
- ^ 福田千鶴 2024, p. 43.
- ^ a b 福田千鶴 2024, p. 5.
- ^ 福田千鶴 2024, p. 45, 文末注10.
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第九百二十七「小出」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.872。
- ^ 福田千鶴 2024, pp. 3–4.
- ^ “陶器藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年7月25日閲覧。
- ^ 貞享検地による
- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第九百二十九「小出」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.885。
- ^ a b c d “近世編>第二章>第一節>二>2>旗本小出氏”. 富田林市史 第二巻(ADEAC所収). 2024年7月25日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第九百二十九「小出」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.886。
- ^ “田園村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年7月25日閲覧。
参考文献
[編集]- 「和泉国大鳥郡上神谷豊田村小谷家文書目録解題」『史料館所蔵史料目録』第36巻、国文学資料館、1982年 。
- 福田千鶴「小出秀政に関する基礎的研究」『九州文化史研究所紀要』第66号、九州大学附属図書館付設記録資料館九州文化史資料部門、2024年。doi:10.15017/6787706。