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Wikipedia:井戸端/subj/ただの言葉狩りを看過すべきか

ただの言葉狩りを、看過すべきか。

[編集]

利用者:愛犬家という人の編集で、気になったのですが、「愛煙家」を「喫煙者」に、置き換える編集を、行っています。 このような編集の中には、著名人の人物記事で、自身を愛煙家と表現している場合でも、同じように機械的な置き換えを行い、記事の性質を曲げていることもあるようです。この人のWikipedia:コメント依頼/愛犬家での発言によれば、「賛美を目的とした造語であって百科事典的ではありません」という理由付けがあるようですが、「愛煙家」という言葉は、広辞苑などの辞書にもある、きちんとした言葉です。明らかに、間違った認識に基いて、言葉狩りをしています。 「喫煙者」は煙草を吸う習慣があるだけの人ですが、「愛煙者」は煙草を吸うことが好きな人です。明らかに含む意味の違う言葉への、機械的な置き換えは、記事の内容を壊す行為に、ほかなりません。こういった言葉狩りのような編集は、看過すべきでは無いように思うのですが、ウイキペディアでは、そういった言葉狩りのような編集を、禁止する決まりは無いのでしょうか。—以上の署名の無いコメントは、59.86.8.140会話/whois)さんが[2007年12月22日 (土) 02:41 (UTC)]に投稿したものです。[返信]

「愛好」という表現は「賛美」を目的とはしていませんね。大好きだという事の説明であると思います。百科事典的記述の表現は充分満たしていると思います。もしだめだというなら「愛犬家」という表現もNGです。「犬を飼っている」あたりに置き換えないとw無論、賛美を目的とした表現の変更は是正するべきだと思います。この愛犬家さんという人は嫌煙しているが故の愛煙という表現を嫌っているだけじゃないですかね。百科事典的記述というのを自らの都合の良いように考えている感じですね。--海☆eoxyl 2007年12月22日 (土) 06:36 (UTC)[返信]
「決まり」を作るならまず「言葉狩りのような編集」が明確に定義されなければなりません。そんなことが簡単にできるわけがないですし、またするべきでもないと考えます。「愛好という用語は適切でない」と主張する行為自体は批判される筋合いのものではなく、その主張の内容が妥当かどうかとは次元が違います。言葉狩りという指摘には、異論を問答無用にスポイルしてしまう危険性があり、逆説的ですがそれ自体が「言葉狩り」的ともいえるのではないでしょうか。結局のところ、「決まり」などに頼るのではなく、これまで皆さんがそうしてきたように、個別の記事のノートで妥当性を議論して合意を形成していくしかないのではないでしょうか。Kojidoi 2007年12月22日 (土) 09:06 (UTC)[返信]
個別の記事のノートよりは、Wikipedia:避けたい言葉Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)のノートの方が良いかな。仮に「愛煙家」が百科事典的でない表現ならば、そこで決めておくべきだし、議論の痕跡を残す意味でも個別の記事よりは良さそう。ま、そんな主張が将来にも現れる可能性は低いと思いたいが。--Dark Eyes 2007年12月22日 (土) 12:53 (UTC)[返信]
ほぼすべての喫煙者はタバコが好きで吸っているはずの「愛煙家」でしょう。タバコ嫌いな喫煙者というのは無視できるくらい稀なケースなのではないでしょうか。そういう点では「喫煙者」も「愛煙家」も同じ意味の言葉であり、「言葉狩り」とするのは言いすぎではないかと思いました。まあ、この単語のみを編集し続けるというのは、サーバーへの負担とか別の問題があるのですが。--Bellcricket 2007年12月23日 (日) 05:39 (UTC)[返信]
「愛妻家」を「妻帯者」に変える必要は無いのと同様じゃないかと。タバコが好きな著名人で、それを公言しているならば「愛煙家」という表現は適切な表現だと思います。ただ、喫煙者≠愛煙家だと思います。なんとなく吸う人もいますからね。自分なんかは、年に数本吸うか吸わないかなので喫煙者であれど愛煙家ではない認識です。このように思うので、喫煙者への置き換えは不適切だと思います。逆にタバコを吸う著名人であれど、「タバコが好きである」という事を公言した事が無い(検証可能性)場合は除去されるべきでしょう。--海☆eoxyl 2007年12月23日 (日) 06:23 (UTC)[返信]
「言葉狩り」ではありませんよ。実際のところ私が編集する以前は、既に禁煙している人や、禁煙を試みている喫煙者まで「愛煙家」という書き振りになっていましたから、内面的なことも確認の仕様も無いでしょうから、無難なところで「喫煙者」という書き振りに修正しただけのことです。
例えば、妻が居るという事実だけでは、その人が「愛妻家」であるかどうかなんて確認できませんね。
単に妻が居るというだけで「愛妻家」だと言うのなら、離婚寸前でも、DV夫でも、家庭内別居でも、全部「愛妻家」に含まれてしまう。
しかし、これでは明らかにおかしいでしょう。
それと同じことですよ。単に犬を飼っていれば「愛犬家」という訳ではないのと同じ。
むしろ、内容的に言えば「喫煙者」で差し支えないものについて、殊更に「愛煙家」と記述したがる事の方が、何か百科事典的でない意図を感じるのですが如何でしょうか。
実際「愛煙家」という言葉は、一時期流行した「愛妻家」「愛犬家」(何れも対象は生きている)という言葉を真似た造語で、キャッチコピーとして広められたという説を聞いたことがあるぐらいですからね。
百科事典を編集するならば、使用する文言が適切であるかどうかをよく考えて欲しいと思います。愛犬家 2008年1月3日 (木) 13:18 (UTC)[返信]
すでに似たような意見が出ているようですが、その人が個人で「喫煙は趣味」「タバコ大好き」などと愛好度を表明している場合は「愛煙家」であり、特に何も言っていない場合は単なる「喫煙者」なのですが、そもそも喫煙しているかしていないかという点は個人のプライバシーなのでNGである可能性ももちろんありますね。--shikine 2008年1月4日 (金) 17:02 (UTC)[返信]
本人が表明するとなると出版物やホームページ等ですが、編集時にプロフィールを確認した際には掲載されていないケースが多かったですね。
しかし、小谷野敦のように禁煙外来に通ったエピソードを著書に書いている場合もあるので、そういった公表された事実があるものまで、一律にプライバシーとして扱うべきではないと思います。
また、タバコは依存性があるので、その人が「喫煙は趣味」「タバコ大好き」と表明している場合でも、過去に禁煙を試みているなど、実のところは「辞めたくても辞められない」という人達もいるので、これを見分けるのは極めて困難と言わざるを得ないし、そのような人まで「愛煙家」と表現するのは問題があるでしょう。
そのことを踏まえると、本人から表明されているような場合であっても、そこから確認できるのは「喫煙者」という事実だけであり、その人が「愛煙家」かどうかというのは将に内面的な話であって検証可能性も無いし、内面的な話は個人のプライバシーの範疇であるので、端的に事実を示す「喫煙者」との表現が適切であると思います。愛犬家 2008年1月4日 (金) 23:57 (UTC)[返信]
愛犬家さんのここ井戸端サブページでの発言とWikipedia:コメント依頼/愛犬家での「賛美を目的とした造語であるからダメ」という主張は矛盾しているんですよね。1月4日までの発言のようなバランス感覚であれば、適正な編集を行われるのではないかと思われますが、、59.86.8.140会話/whois)さんが[2007年12月22日 (土) 02:41 (UTC)]さんの言われるような恣意的な編集を行っている事も読み取れます。言葉狩りにならないように、吟味をした上で編集をされるよう私個人は願います。--海☆eoxyl 2008年1月11日 (金) 14:34 (UTC)[返信]
見解の相違とは思いますが、私には特に矛盾しているようには思えません。
実際、こちらでも『実際「愛煙家」という言葉は、一時期流行した「愛妻家」「愛犬家」(何れも対象は生きている)という言葉を真似た造語で、キャッチコピーとして広められたという説を聞いたことがあるぐらいですからね。』と書いていますからね。
先にも述べたように、内容的に言えば「喫煙者」で差し支えないものについて、殊更に「愛煙家」と記述したがる理由についてもよくご考慮頂きたいものです。
タバコは依存性があるので、その人が「喫煙は趣味」「タバコ大好き」と表明している場合でも、過去に禁煙を試みているなど、実のところは「辞めたくても辞められない」、「惰性で続けている」という人達がいる訳で、このことを踏まえれば「喫煙者」との表記が適切ということになります。
にも拘らず、自ら好き好んで愛好しているような表現振りに執拗に拘ること自体、何か百科事典的ではない、賛美する意図が含まれているとは思われませんか?
例えば「辞めたいけど依存症なので酒を飲んでいる」という人がいるのに、「酒を飲む人間は皆、酒が好きで飲んでいる」と決め付けているのと同じで、依存性のあるものについて、自らの意図で行っているかのように強調することは、暗に依存性の問題を糊塗することで、その対象を賛美してしまう効果があるものと思います。こういうものは、中立的観点から考えれば、「喫煙者」という事実のみ記載すべきであると存じますが如何でしょうかね。愛犬家 2008年1月11日 (金) 16:29 (UTC)[返信]

「喫煙者」と表記するか「愛煙家」と表記するかは同じ問題を含んでいると思いますね。本人が

  • 「タバコをやめたいが喫煙は続けている」
  • 「タバコが好きである」

と公言しているかどうかが確認できるかどうか。人間というのはそんなに一貫性がある人も少ないですから、この矛盾する二項を話す人もいるかもしれません。そうなってくれば「かつては愛煙家であったが、現在は辞めたがっている」のような表記にするのが適当だと思います。それを加味せずに「喫煙者」と置き換えてしまうのは不適切だと思いますし、使う文節を間違えるとおかしな表記になります。

  • 「喫煙者である為、新幹線での禁煙がつらいと愚痴をこぼしていた」
  • 「彼は自らを愛煙家であるとメディアで標榜しており、テレビの前でもタバコを吸う事がある」

これら性質の違う文章をそれぞれ逆に置き換えると、不自然な文章になってしまうんじゃないでしょうか。そもそも用途が違うと思うんですよ。端的に「喫煙をする人である」と説明をする表現が適切であったり、「タバコが好きである」と説明をする表現が適切であったりすると思います。百科事典としては、シンプルかつ適切な文章の表記が望まれると思います。そう考えたとき、「愛煙家」という表現をなんでもかんでも置き換えてしまうのは不適切だと思います。

「愛煙家(タバコ好き)と標榜した事が無い人をこれまでの公言から愛煙家と決め付けるのはよくない」との事ですが、逆に言えば「愛煙家だと標榜した事が無いと決め付ける」ような事も愛犬家さんの意見からは見れるんですよね。それが問題なんだと思います。

愛煙家という言葉自体の成り立ちについてもですが、それもあくまで説に過ぎませんし、世の中に定着した時点で「愛犬家」「愛妻家」のような表現と同義になりえるものだと思います。仮に賛美を目的とした造語だったのが確実だとしても。形式名詞という言語の分類は、「本来の意味が薄れ、名詞として使われるようになった言語」となるように、本来の意味・目的が必要なのではなく、現在どのような意味で使われているかが重要だと思います。これは、言語学者でも明確に定義するような事はできざる問題だと思うので、慎重な運用が求められます。

少なくとも「愛煙家という表現は賛美を目的とした造語だから百官辞典的ではない」という考え方には反対です。このサブページ他などでの関連意見にも同様なものが散見されるように感じます。文章に応じた適切な編集をするべきだと自分は思います。繰り返しになりますが、吟味が必要であり時にはノートに意見を書いて合意形成などを経るべできあり、独断で表現を置き換えてしまうのは現状危険だと思います。--海☆eoxyl 2008年1月11日 (金) 23:17 (UTC)[返信]

少々誤解があるようですが、私が問題視しているのは、
「愛煙家(タバコ好き)と標榜した事が無い人をこれまでの公言から愛煙家と決め付けるのはよくない」
ということではありませんよ。私が述べているのは
「タバコのように依存性のあるものは、言動だけでは標榜しているかどうかについて検証可能性がないから、事実のみを書くべきだ」ということなのです。
具体的に整理して説明させて頂きますが、
「喫煙者」という表記であれば「タバコを吸っている人」或いは「喫煙習慣のある人」という事実を示しているので、何の問題もありません。
仮にその人が「タバコが好きだ」と公言していたとしても、「喫煙者」である事実には変わりありませんからね。
「喫煙者」と表記しても「愛煙家だと標榜した事が無いと決め付ける」ことにはならないでしょう。
(「妻帯者」と表記しても「愛妻家だと標榜した事が無いと決め付ける」ことにならないのと同じです。)
しかし、「愛煙家」という表記の場合はどうか。
その人が「タバコが好きだ」と公言していない場合は論外ですね。
また、タバコは依存性があるので、その人が「タバコ大好き」と表明している場合でも、過去に禁煙を試みているなど、実のところは「辞めたくても辞められない」という人達もいるので、これを見分けるのは極めて困難と言わざるを得ないし、医学的な話をすれば、喫煙習慣というのは病気と捉えられている訳で、仮にその人が「タバコ大好き」と表明していても、それは依存症における否認言動である可能性が高い訳です。
なので仮にそのように公言していたとしても「愛煙家」との表現には検証可能性が無いということなのです。
それと59.86.8.140氏は、私が何でもかんでも置き換えているようなことを言っていますが、本当の意味で「名詞」と言えるもの、例えば著作物の題名を置き換えたりはしていませんよ。愛犬家 2008年1月12日 (土) 03:19 (UTC)[返信]

事実のみを書く原則に則るなら、愛妻家・愛犬家もまた検証可能性を満たすとはいい難いと思います。メディアでの愛~~という報道に反するような別な報道も無くは無いと思いますしね。事実に則って書くならば妻帯者・犬飼いでいいはずなんですよ。それを何故愛~~と表現するというと、語彙であり、いわゆる言葉の妙とでも呼ぶものだからだと思います。それをこと愛煙家に限って違うものだという考え方(そういう事ですよね?)はバランスを欠いているように思いますね。例として「否認行動の可能性」を言われていますが、そこまで踏み込んでしまうときりがないし、前述の愛~~にも同様の事が言えてしまう可能性が当然あるんじゃないでしょうか。 そう考えると、愛~という表現は一切使えない事になります。(具体例を示したいところですが、もはや屁理屈の領域に双方転がりこんでしまうのでとりあえず避けます)

「愛煙家は、賛美を目的とした表現であり百科事典的ではない」という意見は、あくまでも愛犬家さんがそう思われるだけの考えであり、それを理由に表記を変更するのは慎重な判断が必要というのが落としどころでしょうか。今回は答えていただいてないのでわからないですが、この考え方には反対します。

表記についての自分の見解ですが、

  • タバコが好きだと標榜している・最近は辞めたくなったが辞められないと標榜 

同時にこの条件が満たされるならば、 「かつて愛煙家であったが、最近は嫌いになり辞めたがっている」 でいいはずです。今は嫌いだから愛煙家ではないとはいえないと思います。

  • タバコを吸うという事が知られている・最近は辞めたいと標榜

この条件であるなら、 「~~は喫煙をする人間だが最近ではタバコを辞めたがっている」 でいいはずです。

前も書きましたが、

「~~は愛煙家である事を各メディアで話している」これは適切な説明ですが、

「~~は喫煙者である事を各メディアで話している」

これでは、ただタバコを吸うだけの人間でありタバコを好きだと標榜している人間の説明にならないんですよ。だから、適切な表現とはいえないと思います。むろん、 「喫煙者である。タバコ好きな事をよく各メディアで話している」と表現してもいいんですが、日本語には色々な表現がありますから、簡潔に美しい文章を求める(と思われる)ウィキではよりよい表現を選ぶべきだと思います。

愛犬家さんはなんでもかんでも言葉狩りをしているわけではないという事を自身で言われてますので、それを信じたいと思いますが、この場での色々な方の意見、ご自身のノートでの意見もよく読まれた上で参考にしてほしいと思います。--海☆eoxyl 2008年1月12日 (土) 04:54 (UTC)[返信]

そもそもの話ですが、犬や妻は依存症にはなりませんから、医学的に「病気」とされている「喫煙」とは一律に同じ扱いは出来ないと思いますよ。
まあ、自称愛妻家とか、自称愛犬家というだけでは検証可能性が無いという点だけは同じですけどね。
これらは、例えば、その人が妻や犬を溺愛しているという事実が公に公表されていて、虐待等の指摘がないことが確認できれば、検証可能性があるものと考えられます。
しかし、酒とかタバコの場合は依存性のある物品、それも消耗品なので、溺愛というよりは耽溺であって、これは依存症の:典型的な症状でもあるので、果たしてこれを愛していると言えるかというと、必ずしもそうではないだろうという話になるでしょう。
少々酷い言い方になるかもしれませんが、依存症という要素を含めて考えれば、その人が「タバコが大好きだ」と公言していたとしても、「愛煙家」と書くべきか、「ニコチン依存症患者」と書くべきか、判別は極めて困難ということになる。こういう状況で、何かの観点を推進するような表現を避けるとするならば?
必然的に「喫煙者」と表現する他に選択はないと思いますけどね。
それとこれは余談に近いですが「~~は愛煙家である事を各メディアで話している」との表現は適切ではありませんよ。
もしそういった事実があって書くならば「~~は○○(具体的なメディア名:複数の場合は「等」で括る)において自らを愛煙家であると述べている」です。
この場合、その人の発言が事実であれば、その人が「愛煙家」であるか「喫煙者」であるかなんて話は関係ありませんから、「○○は◆◆で自らを△△と述べている」という事実だけ書けば言い訳です。
残念ながら、貴方の書き方では「自称しているから愛煙家なんだろう」という推測に基づく書き振りになってしまいます。
(各メディアという表現も実は不十分であって、何処のメディアで発言したかも明確にすべき話なんですよ。ウィキペディアの方針に則れば、曖昧な表記は避けるべきとされていますし、そうした出典があるのなら明記できる筈ですから。)
それとこちらは余談ですけど
私は「なんでもかんでも言葉狩りをしているわけではない」とは言っていません。
私は「何でもかんでも置き換えているわけではない」と言っているのです。
この違いが何か御解りでしょうか?
私は自らの編集について「言葉狩りではない」としています。
意図的に誤られたのではないとは思っていますが、Umi eoxyさんの書き方では、恰も編集の一部を言葉狩りと認めているかのような、事実と異なる書き振りになっています。
誤解や推測によって事実を歪めてしまうのは適切ではないので、気を付けて頂いた方がよろしいかと思います。愛犬家 2008年1月13日 (日) 00:53 (UTC)[返信]

>依存症を理由に愛煙家と愛妻家などの表現を区別するという考え方。

自分はこれを区別するべきではないと思います。理由は前の書き込みの通り。自分は、「タバコ好き」をそのまま「愛煙家」と置き換えてもよいと思います。定義の真髄に拘りません(きりがないですね)。愛犬家は依存しないという事ですが、「精神的な依存」「固執」などの状況は充分ありえると思いますよ。世間的な迷惑の度合いは違うでしょうが。科学的な意味での依存と、一般論的な意味での依存。ことさら科学的な意味での依存を区別理由にするのは道理に合わないように思います。

なので、

  • かつて愛煙家であったが、現在では嫌いになった
  • かつてタバコ好きであったが、現在では嫌いになった

これらは表現として同意であると思います。賛美を主目的としているわけではありません、語彙なだけです。愛犬家、愛煙家でも同様といえます。

「耽溺である」、「矛盾するような事象が発見できない」のような定義はあくまでも愛犬家さんご自身による語義に拘った結果の定義であり、コンセンサスとは言い難いと思いますね。

>愛煙家と呼ぶべきかニコチン中毒患者と呼ぶべきか。自分は、同居が可能な表現だと思います。どちらにも共通する項目があり、必ずしも矛盾する表現とは言い難いからです。おそらく愛犬家さんと自分で、語義へのこだわりの度合いや認識が違うから意見が合わないのでしょうが。愛犬家さんの意見によると、同居できないという事のように思えますが、できないとする理由が自分にはわからないですね。

>検証可能性の問題これは悪魔の証明もからんで来るので、どこか落としどころを見つける必要があります。事実のみに沿って書くのは勿論大事ですが、それをあまりルールに拘りすぎて、肝心の記事の意味を捻じ曲げてしまったり、意味を違えてしまうのは好ましいとは思えません。間違い、誤認を防ぐ為に表現を変更するのはわからなくは無いですが、必ずしもそれで記事が良い方向になるとは言えないと思います。変更する事によって新たな間違い、誤認を生む危険性もあります。無論、適正な方向に表現を変更したりするのは悪くは無いですが、愛犬家さんのおそらく考えておられるだろう編集方針で書かれるのは、適切ではないと思います。

とりあえずまとめてみるんですが

  1. 愛煙家は賛美を目的とした表現なので百科事典的ではない
  2. 科学的依存を理由に他の愛~~表現とは区別して考える
  3. 愛煙家という表現と同時にタバコ嫌い(嫌煙家)という表現は同居できない
  4. 喫煙者と置き換える事で検証可能性の問題を回避する

というところだと思うんですが、これらについて反対します(上記項目はあくまでもまとめ文なので便宜的な表現ですので、余り深く意味に拘らなくて大丈夫です)。

>予断に近い~~適切ではありませんよ。

あくまでも例文ですので、そっくりどこかの項目に載せるような事ではないので多少不適切に見えたかもしれません。そういう事です、

>私は「なんでもかんでも言葉狩りをしているわけではない」とは言っていません。

失礼しました。書き違えです。意図的なものではないです。

なかなか見解が一致しませんね。まあ人によって物事の考え方は区々ですから仕方ありませんけどね。
さて、愛妻家と、愛煙家という表現では「ニコチン依存」という因子があるので、一律に扱うべきではないとの見解を既に述べさせて頂いていますが、この問題は、要するに検証可能性の問題なのです。
妻帯者が「妻を愛している」と公言したとします。
これだけでは自称愛妻家なので検証可能性はありませんが、これに妻を愛していると判断できるような、例えば、自発的に家事を分担しているだとか、結婚記念日に拘っていて一緒に旅行に行くなどしているとか、そういう自律的な行動について公表されている事実があって、他人から見ても仲睦まじい夫婦であることが判るものであるならば、これは「妻に対する愛情を表したものだ」と判断し、その人を「愛妻家」と記述することが出来る訳です。
しかし、喫煙の場合は、科学的に依存性のあるもので、医学的には「病気」と定義されている訳です。
少し嫌な喩えですが、麻薬のような薬物なんかもこれに該当するでしょう。
薬物依存の患者が「覚せい剤を愛している」と公言していても、誰もこれを自律的なものとは捉えませんし、「覚せい剤に対する愛情だ」とは判断しませんね。
多くの人は、これを薬物依存による他律的な言動と捉えて「ああ、この人は依存症なんだ」と捉える。
まあこんなところでしょうか。
また、仮にそう捉えなかったとしても、公言しているだけでは自称に過ぎないということになります。
(この場合、発言の事実が確認できるのならば「~~は○○において覚せい剤を愛していると述べた」と表記するのは有りですけどね。)
では、こういった依存性がある物品で、使えば無くなってしまうものについて、他に「好き」とか「愛している」と客観的に判断できるような要素があるものなのかということになります。
医学的な依存症に陥っている人の場合、言動に限らず、依存対象となる物品に縛られた行動をとります。
これは愛情など感情による自律的な「固執」とは異なって、薬物によって引き起こされる身体的依存という他律的な病気の症状であるため、必ずしも「好きだから吸っている」とは言えないものです。
無論、中には「好きだから」という自律的なものからそう言っている人もある程度は含まれているのでしょうけど、それと依存症による他律的なものを判別する術はありません。
この要素を含めて考えると「愛煙家である」とか「愛煙家であった」といった記述には検証可能性は無いと判断せざるを得ないという結論に至ります。
確かに私は語義を重視していますが、それは何故かと言えば、語義を軽視して誤った表現を用いてしまうと、その表現が本来の意味から離れ、何かを賛美したり、卑下したりすることに繋がるので、厳格に取り扱う必要があるからです。
特に喫煙関連ではいろいろと対立も多いので、その辺りは重視せざるを得ないと思うのですが如何でしょうかね。愛犬家 2008年1月14日 (月) 03:48 (UTC)[返信]

検証可能性の問題であるという考え自体が自分にはわかんないんですよね。愛犬家さんの意見だと、ご自身も言われる通り、愛妻家も検証可能性を満たさない事になります。であるので、それを理由にするのは無理があるように思います。後、検証可能性と「自律的・他律的(病気の側面を持っているか)」は繋がらないんじゃないでしょうか。自律的・他律的も見解によって双方容易に真逆になりえます。(詳細は省略) 愛~~と称する表現に、自律的要素も他律的要素もどちらも側面として持ち合せています。愛妻にも他律的事象はありえますし、喫煙にも自律的事象はあります。どちらもに言える問題じゃないでしょうか?自律・他律がが理由という事が自分に理解できないのはそういう事なんです。

愛妻家においても内面を予測する事は困難です。しかし、一般的な観点として愛~~と表記する事ができる事はこれまでも双方で話してきました。一種の推測判断であり、妥協と呼ぶこともできますが(加えて言うなら語彙)、通常コモンセンスでありそういうような考え方はしません。愛煙家においても同様の事が呼べるんじゃないでしょうか?

科学的な理由をもとに、「呼べない」と言われているんでしょうが、「精神的な依存」「固執」も専門の研究によって存在が明らかにされている分野です。喫煙による「依存」や「他律的行動を引き起こす」ような事も研究により明らかになっている状況だと思いますが、ことさら後者の事実のみをピックアップして変更を加える必要性を感じません。

愛犬家さんも語義に拘るのはわかるのですが、だからこそ記事の不正確性や誤解を生みかねないような表現の変更は慎重に考えていく必要があるのではないかと思います。愛煙家←→喫煙者・愛犬家←→犬好き と変えてしまうのは言われている通り「賛美や卑下」に繋がる可能性を相互に持っています。いるからこそ変えて良い表現・変えてはならない表現があるんじゃないでしょうか?

  • 「喫煙者」という表現に置き換えれば検証可能性の問題を回避できる

といったような考え方を書かれていましたが、これこそが賛美や卑下を生み出す可能性を持っているのでは。

まとめますが、 愛犬家さんは「愛~~という表現は、科学的な理由をもとに非等価である」と一連の文章から述べられていると思いますが、自分はその逆で「愛~~という表現は科学・道理を含めた上でのコモンセンスとして等価な表現である」と言っているわけです。

ところで、以前の書き込みの1~4の項目についてはどうでしょうか?--海☆eoxyl 2008年1月15日 (火) 15:21 (UTC)[返信]

そもそも愛煙家と愛妻家という二つの言葉は類似していても、異なる言葉である訳ですから、それぞれが内包する異なる要素を無視して一律化できるものではないですよ。なので類似性は参照するにしても、異なる要素の存在を認めて、検証可能性に基づき個別判断すべきということになります。
自称しているならば、自称している事実を。
その評価が事実と判断するに足る根拠があるのならば、それを事実として記載すべきであって、自称だけを以て断定形で記述すべきではないですよ。
具体的に言えば、愛妻家や愛犬家という表現は、言動だけではなく、行動、即ち愛情表現の事実を確認することで、検証可能性を満たす余地があるのですが、喫煙には病気(依存症)という要素があるものだから、行動についても依存に由来すると判断できてしまう。だから愛煙家という表現は検証可能性を満たせない訳です。
端的に言えば「△△が○○を愛している」と断言するには、△△が自律的に○○を愛しているとの感情を持ち、そのように行動していると断定できるだけの客観的事実が必要です。
例えば、演劇の科白のように、俳優が「自分は○○を愛してる」と連呼していたとしても、それは台本に書いてあるだけで、その俳優が本当に○○を愛しているかどうかなんて判りはしない。
その人が○○を愛してるかどうかは、その人の言動や行動が、果たして自律的なものであるのかどうなのかという点が重要な判断要素となります。
その対象が妻や犬の場合、病的な依存性がある訳ではありませんから、周囲の評価等で本人の言動と行動との整合性が確認できれば、容易に検証可能性を満たすことが出来ます。
例えば、自称愛妻家でも、周囲の評価等から自発的に家事を手伝っている等のエピソードが確認できれば愛妻家ですが、他律的に家事を手伝わされているエピソードしか確認できなければ恐妻家となる。
でもそれらが全く確認できなければ?
愛妻家と断定できるだけの証拠は無いので、自称愛妻家と書くか、妻帯者と書くほか無い訳です。
しかし、愛煙家という場合には、言動や行動を確認できても、大前提として医学的に病気であるとの評価があるものだから、それが愛している証拠なのか、依存症という病の証拠なのかは判別できない。そうなると「喫煙者」と書くか、公言している事実が確認できる場合であれば「自らを愛煙家と称している」といった表現にならざるを得ない。
そもそものところ、愛煙家という言葉は定義も曖昧で、愛妻家や愛犬家ほど明確に示されていません。
英語圏では、本人が喫煙にどのような感情を持っていようと、タバコを吸っている人はスモーカー(喫煙者)であるし、和英辞典で愛煙家という言葉を英訳するとヘビースモーカーになる訳ですが、これでは単に沢山吸ってるだけの喫煙者になる。単に沢山吸えば愛煙家というのならば、むしろ愛煙家などという曖昧な表現はやめて、ヘビースモーカーと書いておいた方が余程判りやすい訳です。
卑下と仰るが、喫煙者とは文字通り「煙(煙草)を喫する(吸う)者」であって、何か賛美したり、卑下するものではありません。
むしろ喫煙の事実だけを以て「愛煙家だ」と、検証可能性も無いままに、編集者の主観に照らして定義の曖昧な評価を与えてしまうことの方が問題があると思いますよ。
そのうえで1~4の回答ですが
1.単なる依存症を愛好しているかのように、飾り立てた表現をしてしまうのは「賛美」であり、百科事典的では無いと思います。
喫煙の事実しか確認できず、自律的に愛しているとの証明が極めて困難であることを考慮すれば、検証可能性を満たせない訳ですから、「喫煙者」との表現を用いるのが適切でしょう。
2.他律的では本人の感情(愛している)と断定することは出来ません。科学的根拠は検証可能性を考慮する上で重要な要素です。
3.現在進行形で並存することは無いものと思いますが、過去形の場合も検証可能性が重要な要素となるでしょうね。
4.検証可能性が満たせないのならば、確認できる事実のみを記載すべきです。
といったところでしょうか。愛犬家 2008年1月17日 (木) 12:25 (UTC)[返信]

自律性、他律性を理由に愛煙家と愛妻家を異なる表現であるとする考え方に反対ですね。繰り返しになりますが、双方自律・他律の性質をもっているから、異なる表現であるという前提がそもそも成り立ちません。

>自称しているなら自称している事実を。

「好きである」と自称しているならそれが事実でしょう。まだお答え頂いてないのですが、どうして「かつて愛煙家だった。現在は嫌いになった(嫌煙家になった)」といったような同居表現はできないのでしょうか。

>愛煙家は検証可能性を満たせない

繰り返しになりますが、それは愛妻家でも同様です。演劇の台詞で例えれられていますが、それはそのまま愛妻家。愛犬家でも同様の事が言えてしまうので、愛煙家だけが検証可能性を満たせないわけではないですよね。科学的な理由を元に検証可能性を満たしていないというのが理由になっていないんです。

愛犬家さんの、愛妻家などの解釈は妥協や根拠をもとにした推測やコモンセンスにもとづく文章表現だと思います。前の書き込みで自分が愛煙家について述べた解釈とほぼ同様であるかと思います。

>愛煙家は他の愛~~などに比べて定義が曖昧

それは愛犬家さんの主観によるものでしかないと思いますね。

>自らを愛煙家と称しているといった表現にならざるを得ない。

自分はそれはそれでいいんじゃないかと思いますよ。反証があるなら反証も載せるべきだと思いますし。例えばそう称しているにも関わらず言葉を変えられてしまうのは問題であるという事です。(愛犬家さんが実際にそういった編集を行われているかどうかはこの場は関係ありません。誤解なきよう念のため)

>卑下と仰るが~~

ちょっと違います。「賛美または卑下につながるおそれのある編集は気をつけるべき」という事です。

>1-1.喫煙者と表現することに問題は無い

これも以前述べましたが、使われる用途が異なるので不用意に置き換えると正確性を損なうという事です。

>1-2.主観に照らして愛煙家と書く

客観的に見て愛煙家と表現する事は可能だと思います。愛妻家を愛妻家と表現するのは客観的な尺度によって表現できる語彙の一種ですね。愛煙家もまた同様です。

>2の回答 単なる依存症を愛好しているかのように、飾り立てた表現をしてしまうのは「賛美」であり、百科事典的では無い。

依存を主体においてくる前提がそもそもおかしいと思います。喫煙は喫煙でしかなく、愛煙と表現しただけで「賛美」と感じるという前提がそもそもどうかなと。中立的な考え方ではないと思います。

>3.の回答 他律的では本人の感情(愛している)と断定することは出来ません。科学的根拠は検証可能性を考慮する上で重要な要素です。

おそらくこれがキモです。愛妻家を判断するのにコモンセンスが用いられているのに、愛煙家を判断するのに科学的根拠が用いられているのがバランスを欠いている正体ではないでしょうか。愛妻家を科学(心理学・生物学)で考えるならば、愛妻家という考え方自体が否定される説も充分にあります。しかし、コモンセンスとしてそれは表記しないはずです。科学は重要な判断材料ですが常に優位性を持つものではないはずです。中立性を考えるならば、科学的根拠だけを理由に他方で多用される言葉をうかつに変更しては、おかしいんじゃないでしょうか。愛煙家という表現は一般性を持ちえていますし、コモンセンスを失ってもいないと思います。それにも関わらず、科学的根拠を用いて言葉を変えてしまったりするのは道理にあいませんし、科学の本質からもはずれてしまいます。(愛煙家という表現は検証可能性を満たしていないという考え方を愛犬家さん以外から聞いた事が無い)

これまでを丸めて言うと、

>4.検証可能性が満たせないなら書かない 

というのは、この場合における思考としては科学的ではないというところです。--海☆eoxyl 2008年1月17日 (木) 13:57 (UTC)[返信]

「愛煙家」(?)というのは、あたかも嗜癖に動かされない自らの希望で愛して吸っているような不思議な言葉です。しかし、ニコチン嗜癖行動である喫煙は、愛妻とは根本的に異なるものです。「喫煙者」では、どの記事のどこで不都合ですか?--Mega stride 2008年1月19日 (土) 09:15 (UTC)[返信]
風邪で体調を崩していたので返答が遅くなり申し訳ありません。
論争のある事柄について、客観的な根拠も無くコモンセンスとか、常識といった言葉を軽はずみに使うべきでは無いと思いますよ。
現状では、海☆eoxylさんの仰るコモンセンスとは、海☆eoxylさんの主観に照らしたものでしかありませんからね。
どうも趣旨がよくご理解頂けていないようなので、判り易く再度述べますが、
自称では「愛○家である」、「愛○家」、とするだけの根拠にはなりません。
自称している事実があるだけならば「○氏は△において自らを愛◆家と述べた。」と出来る程度でしょう。
例えば、Aさんが「私は愛妻家です」と言ったとしますね。
ここで判るのは、Aさんが愛妻家を自称したという事実だけです。
DV夫でも愛妻家と自称することが出来てしまいますから、結局のところ自称しているというだけでは、本当にその人が愛妻家なのか判りませんし、断言するだけの証拠とはなり得ない。
なので、百科事典でAさんについて「愛妻家」と断言したいのではれば、もっと証拠が要るでしょう。
では、その証拠とは何か?
以前にも例示しましたが、仮に「Aさん家事を手伝っている」といった事実が証拠として確認出来たとしましょうか。
そうすると、次に家事を手伝っている理由は何なのかという動機を検証しなければならない。
妻が口煩いので嫌々手伝っている、つまりは他律的に行動しているのならば、その人は「愛妻家」ではなくて、「恐妻家」と評価されるのが妥当ですからね。
なので、Aさんを「愛妻家」と断言するには、Aさんが自律的に家事を手伝っているという証拠を示して、検証可能性を満たす必要がある。
その上で「愛煙家」という表現を検証してみましょうか。
先ずは自称ではダメというのは愛妻家と同じで、単に本人が言っているというだけでは十分な証拠とは言えません。
なので、その人の行動などから、その人に「愛○家」という評価を下せるだけの客観的な証拠を探す必要があります。
しかし、喫煙の場合は、妻や犬とは違って「医学的にはニコチン依存症という病である」との客観的な評価があります。
ある意味これは科学的な常識であり、コモンセンスである訳です。
そうすると、仮に他にどんな評価があったとしても、必ずニコチン依存症に拠るものとの評価と並存する形になります。
これでは、その人が「愛煙家」なのか「ニコチン依存症の患者」なのか、評価は一定しませんね。
唯一、一定しているのは、その人がタバコを吸っているという事実だけです。
これを何か非中立的な観点を推進しないよう評価するとしたら?
答えは、必然的に「喫煙者」との、事実のみを記載することになるでしょう。
つまりはそういうことなのですよ。愛犬家 2008年1月19日 (土) 11:19 (UTC)[返信]

Mega strideさん、不都合な点(不正確な表現)をまねくおそれがある事を過去の書き込みで数箇所書いてあると思うので、そちらをとりあえずお読みください。

自称では愛○家と書けない

それは愛犬家さんも言われるとおり「愛○家を自称する」でもいいんじゃないかと自分も思ってますね。これを例えば「喫煙者」「妻帯者」と書き換えたらそれはおかしいという事ですね。ただし、愛犬家さんの言われるような判断を含めたうえなら、書けますよね。

>コモンセンスと軽々しく書くのは。。

基本的に避けていましたが、これまでの説明を丸めて簡略的に説明する場合に必要かと思われたので、使用しているまでです。先んじて多用をしている事が避けられるべきであって、多く説明を加えた上でその内容を丸めて表現したい場合に使うのは順番として適切かと思います。ですが、気に入られないのであれば避けます。

「愛犬家さんは世間一般の道理を用いて愛妻家という表現ができると言っているのに、こと愛煙家を表記する際に科学を突然持ち出して否定するのは編集方針としてバランスがとれていない」

といった事ですね。でも、こう書くと説明として不正確な面が出てきますが。。(何行あっても説明が足りなくなる)

>現状では、海☆eoxylさんの仰るコモンセンスとは、海☆eoxylさんの主観に照らしたものでしかありませんからね。

自分だけのではなくて、愛犬家さんの意見の中にも出てくるものも含めた考え方としてコモンセンスを用いています。けしてこちら側だけにそれがあるというような事ではありません。愛犬家さんを含めて客観的な根拠に基いて語っているんですよ。

>愛○家と表記するには客観的な評価が必要

それは当然です。どの程度必要か? 何に優先順位を置くかが議論されるところです。

>しかし、喫煙の場合は、妻や犬とは違って「医学的にはニコチン依存症という病である」との客観的な評価があります。

愛妻家にも、愛犬家にも「精神的な依存」「固執」といった客観的な評価があります。必ずしも本人が好きかどうかはわかりません。では愛○家と評価できないのかというとそんな事は無く、愛犬家さんも言われる通りの判断に基き、表記ができます。

愛煙家は客観的な評価の一種として病気であるということです。愛妻家にも客観的な評価の一種として、上記のようなものがあったりします。喫煙者が病気であるというのは一種の評価なだけであり、全体を評価せらるるものではありません。 仮に、全体的な評価として世間に定着していて、是正しようという動きがあるなら変遷していく可能性がありますが(痴呆症→認知症なんかがいい例ですね)、現時点では愛犬家さんが言われているだけしか存じ上げません。仮になんらかの著名人がそれを語っているとしても、少なくとも広く知られているような話ではないと思いますね。(この場合は愛煙家を喫煙者に変えようとする動きの事になりますね)

端的に言えば、愛犬家さんの新説に基いて言葉を変更しようとするのはいかがなものかという話でもありますね。

>科学的な常識=コモンセンスである

自分としては科学的な常識+世間一般の論理・道理=コモンセンスです。 愛犬家さんの意見だと、愛妻家という表現自体ができなくなりますが、ご自身もそれは望んでいないと思います。

という事で再び要点を並べてみます。

  1. .「愛煙家」という表現と「タバコ嫌い」という表現は同居できると思います。(タバコ好きなどの表現と同義であり、語彙である)
  2. .「愛妻家」と「愛煙家」で編集表記方針が変わるのはバランスを欠いていると思います。愛妻家を表記する際にできる判断が、何故愛煙家ではできないんでしょうか?
  3. .愛煙家(喫煙者)は病気であるという一種の評価に過ぎないものが、全体の評価に変わってしまっている。愛妻家表記においての評価方法と愛煙家で異なっているのがおかしいと思いますね。
  4. 科学的評価は一種の評価であり、他の一般的な論理、道理、情勢と照らし合わせて表記を行うのが通常だと思います(状況にもよりますが)。
  5. .愛妻家において検証可能性を満たす手順・判断を書かれていますが、(繰り返しになりますが)愛煙家でも同様に行えます。逆に、検証可能性を満たせない論理もやはり双方導きだす事ができます。科学的根拠に基いた理由において愛煙家は検証可能性が満たせないとする論理が成立していないと思いますし、大本の「検証可能性を満たせるか、満たせないと」いう論理自体が成立していないと思うんですよね。

--海☆eoxyl 2008年1月19日 (土) 13:32 (UTC)[返信]

愛犬家さんに確認です。全部2択です。ひとまず現段階では、理由は答えていただかなくてもいいです。まずは、どの部分が引っかかっているかを確認したいだけですので。

  1. .(上でちらっと話に挙がっているお酒を例に)お酒に依存性があることをご存知だと思いますが、「酒好き」と記されている人物の記載は、愛犬家さんの考えではOKでしょうか?NGでしょうか?
  2. .「酒好き」と「タバコ好き」(どちらも依存性がある)は、Wikipediaへの記載の可否という観点で同レベルとお考えでしょうか?
  3. .「タバコ好き」と「愛煙家」は、同義とお考えでしょうか?

海☆eoxylさん、もし横槍になってしまったならすみません。--NISYAN 2008年1月19日 (土) 14:54 (UTC)[返信]

続き(長いので分割しました)

[編集]
ニコチン依存症の場合
喫煙習慣のある人は、1日の喫煙本数に喫煙年数を乗じた数が200以上という条件などは、殆ど例外なく満たしてしまいますので、これを踏まえると、喫煙習慣のある人には「ニコチン依存症の患者」という評価が存在することになります。[1]
また、以前に和英辞典の話をしましたが、「愛煙家」は英訳すると「ヘビースモーカー」なので、喫煙本数が200以下の人を「愛煙家」とするのは無理があります。
アルコール依存症の場合
アルコール依存症[2]の診断基準をご覧頂くと判りますが、アルコールの場合は、単に酒を飲んでいるだけでは「アルコール依存症の患者」という評価には当て嵌まりません。なので、その人に「アルコール依存症」と評価された事実があるかどうかを確認する必要があるでしょうね。
その人が「酒が好きだ」と公言している証拠があって、尚且つ「アルコール依存症」との評価されるような事実が無ければ、「酒好き」と書いても差し支えないように思います。
妻の場合
一般的に「妻依存症」という評価は聞いたことがありませんが、もしや依存性人格障害のことを仰っているのでしょうか。
その場合、もし仮にその人が依存性人格障害[3]の診断基準に当て嵌まるのならば、「愛妻家」と書くべきではないでしょうね。
但し、依存性人格障害の診断基準は一般的に言われる「愛妻家」の定義とは殆ど被るところがありませんから、先にお示ししているような「愛妻家」と評価できるだけの根拠があればよいと思いますよ。
犬の場合
そもそものところ「犬依存症」という評価は聞いたことがありません。
もしそういった病があって、そういった評価が行われる診断基準等が示されているのならば、具体的に明示願います。
愛犬家 2008年1月20日 (日) 05:21 (UTC)[返信]
愛犬家さん、私は「理由は答えていただかなくてもいい」と書きました。私の質問に対して「1.OK」らしき回答とその理由が書かれているように思いますが、私は「1.OK」の回答をいただいたという理解が正しいか自信がないし、「2.未回答」「3.未回答」のようにも見えます。こんな風に回答が理由の中に埋もれてしまうから、敢えて「理由は答えていただかなくてもいい」と書いたんです。改めて、それぞれの2択の質問3点に答えていただけますでしょうか?--NISYAN 2008年1月20日 (日) 07:28 (UTC)[返信]
詭弁術に「誤った二分法」とか「二者択一誤導尋問」というのがあるのをご存知ですか?
曖昧な前提条件を示して、二択で答えろというのは、典型的な揚げ足取りや言葉遊びの類であって、まともな対話姿勢ではありませんので、答える義務はありません。
今回は回答差し上げますが、こういうことを繰り返すならば今後は無視する他ありませんので、十分ご留意頂いた方がよろしいでしょう。
1.前述のとおりその人にアルコール依存症という客観的評価があるのならばNG、そうでなければOK。
2.類似事象であり、同一事象ではありませんから、必ずしも同レベルとは言い難いでしょう。
3.既に「愛煙家」の定義が曖昧であることを指摘済み。「タバコ好き=愛煙家」は類義
愛犬家 2008年1月20日 (日) 08:19 (UTC)[返信]
回答ありがとうございます。どのあたりを中心に話をすればよいのかを確認したかっただけで、尋問と言われるとちょっと心外なんですけど。
回答内容から考えて根本からいくのがよさそうなので、話が戻ることになるかもしれませんが教えてください。「愛煙家」ではなく「愛煙家と呼ばれている(+信頼のおける二次情報源による出典)」(愛煙家の定義なんてどうでもよく、愛煙家という言葉を賞賛的なつもりで呼んでいるかどうかもどうでもよく、本人が自称愛煙家と呼んでいるわけでもないのでニコチン依存症云々はどうでもよく、単に記事の対象者を愛煙家と呼んでいる他者が多いという前提だけで)でも記載が不適切と考えているのでしょうか?もし不適切と考えているなら、そこが判りませんので教えてください。--NISYAN 2008年1月20日 (日) 09:17 (UTC) <small>部分を加筆--NISYAN 2008年1月20日 (日) 09:21 (UTC)[返信]
既に答えていると思いますが、そういう出典が示せる場合であれば「○○は△△のことを愛煙家と呼んでいる」と書くことは差し支えないでしょう。
私が問題視しているのは出典の無いものや、「愛煙家。」「愛煙家である。」「愛煙家であった。」といった断定形の記述です。
記事の対象者を「愛煙家」と見なす観点があるのならば、同時に「ニコチン依存症の患者」と見なす観点もある訳ですからね。
両者の観点が並存している以上、どちらの観点も推進しないまま断定形で書けるとすれば「喫煙者」という事実だけということになる訳です。愛犬家 2008年1月20日 (日) 10:05 (UTC)[返信]
であれば、まず行うべきは「要出典」を貼ることだったのではないかと。「愛煙家。」と断定形で記述してあるにしても、Wikipediaに書いてある以上、記述者の主観に基づく記述と推定するのではなく、一般的にそう呼ばれていることを断定形で記述してしまったと推定するのが適切かなと。もっとも、その要出典は一般的に知られている事柄であれば不要とは思いますし、愛煙家と呼ばれることの出典が必要というなら喫煙者であることの出典も必要(両者は出典を要するレベルとしては同程度)と私は考えます。
次に、「記事の対象者を『愛煙家』と見なす観点があるのならば、同時に『ニコチン依存症の患者』と見なす観点もある」かどうかは判りません。そうだろうと私も推定はしますが、それをWikipediaへ記載するのは独自研究であり、出典元に記載されている「愛煙家と呼ばれている」以上のこと(あるいは、愛犬家さんの考えでは、出典元の記述以下のことかもしれません)は記載できないかと。もちろん「ニコチン依存症患者であることが(愛煙家と同じ、あるいは他の)二次情報源に(人物個別に)記されている」のなら(次に書く内容に抵触しなければ)記載可能です。でもそれは「愛煙家」と「ニコチン依存症患者」を併記できるというだけの話かと思います。
あと「ニコチン依存症患者」を含む薬物形の依存症は、人物の否定的記述にあたると私は考えています。なので、とくに在命人物について言えば、「ニコチン依存症患者」という否定的記述を記載するには信頼のできる二次情報源の出典記述が必要(WP:LIVINGの「出典無き批判は除去」の項に該当、これに抵触する場合はrvしても3RR対象外として扱われる)と考えています。「ニコチン依存症患者」と推定して「愛煙家」を「喫煙者」に書き換えているなら、(明文化されていないとは思いますが)同じ理由で不適切と私は考えます。
もう一つ、人物の記述(とくに否定的記述)には「それを記述することが、記事読者がその人物を知る上で有益である場合」に限られる(同じくWP:LIVING)という観点もあります。例えば、「摂食障害が原因で、体力的な衰えから音楽活動を続けられなくなり、バンドメンバーを脱退」のような場合は記述可能でしょうが、「ニコチン依存症患者」であることを記すことでその人物の理解に役立つ理由がないなら、記載不可と考えます。この理由でも「ニコチン依存症患者」と推定して「愛煙家」を「喫煙者」に書き換えているなら、同様に不適切と私は考えます。--NISYAN 2008年1月20日 (日) 11:11 (UTC)[返信]
そもそも私は「喫煙者」と置き換えただけで、「ニコチン依存症患者」と置き換えている訳ではありませんよ。
続きの冒頭で出典[4]を示しているとおり、1日の喫煙本数に喫煙年数を乗じた数が200以上の場合はニコチン依存症との評価もある訳ですから、これは独自研究ではありません。
※これらの参照して頂いてよろしいかと思います。[5][6]
また、「愛煙家である」等の断定形の記述は、その人物に対する編集者の個人的な評価・意見の表明であり「要出典」以前の問題です。
医学的には、1日の喫煙本数に喫煙年数を乗じた数が200以上の場合は「ニコチン依存症で喫煙している」との評価があるのですから、Mega strideさんからも指摘があるように、それを「あたかも嗜癖に動かされない自らの希望で愛して吸っているような言葉」である「愛煙家」と断定形で記述することは、中立的な観点においても問題がありますし、自律的に「愛して吸っているのか」という点について検証可能性を満たしません。
従って、事実に即した「喫煙者」との表現に置き換えているだけのことです。
ご不満であれば、ご自分で然るべき出典を明示して「○○は△△のことを愛煙家と呼んでいる」と編集されればよろしいのではありませんか。愛犬家 2008年1月20日 (日) 12:36 (UTC)[返信]
結局、愛煙家を喫煙者と置き換えた根拠はなんでしたっけ?「自称愛煙家でも、ニコチン依存によって他律的に愛煙状態になっているか判断できないから」という理由じゃありませんでしたっけ?で、そういう可能性を問うには「ニコチン依存である」と推定する必要があると思うのですが、その推定をWikipediaへの反映するのは出典なしではNG、と言っているつもりですし、そのためにニコチン依存(患者という表記は書きすぎました)という話を書きました。
ニコチン依存の客観的評価を示すのは構いませんが、それを人物記事に反映するには、ニコチン依存が否定的記述に適合するという理由から、人物個別に「ニコチン依存というであることの出典(ニコチン依存の定義は書いてありますが、その基準にその人物が適合することを示す出典がありません。1日の喫煙本数と喫煙年数が判れば出典足り得ます)」「その反映が読者にとって記事の人物理解に有益であること」が必要だというのが私の考えです。
検証可能性は「愛煙家と呼ばれていることが確認できる」「自称愛煙家であることを二次情報源が取り上げている」ことの検証が取れればよいだけだと思います。なぜその背景を分析する必要があるのでしょうか?分析結果の反映をWikipediaでは独自研究と呼んでいると、私は理解しているのですが、その理解が間違っているのでしょうか?
私はどちらかといえば嫌煙家ですから、愛煙家と呼ばれていることに対する出典足り得るもの(インタビュー記事とかになりそうですが)には普段から興味を持って見ているわけではありません。私が出典を明示しないのはそれだけの理由です。ただ、感覚的に「愛煙家」を「喫煙者」に変更する理由(読者にとって有益になると考えている理由)が判らないので質問しているだけです。--NISYAN 2008年1月20日 (日) 13:39 (UTC)[返信]
ウィキペディアは百科事典なので、読者にとって有益なのは「検証可能性を満たした正確な記述」のみです。
記事において編集者の個人的な評価・意見の表明をすべき場所ではありません。
前述のとおり検証可能性を満たせないことを無視して、あたかも嗜癖に動かされない自らの希望で愛して吸っているような表現で断定形に記述することは、編集者の個人的な評価・意見の表明に該当するので、検証可能性のある「喫煙者」との記述をしたまでのことです。愛犬家 2008年1月21日 (月) 10:43 (UTC)[返信]

ところで、「愛煙家」との表記の問題点は既に指摘していますが、「喫煙者」という記述に何か問題がありますか?見解を伺いたいものです。愛犬家 2008年1月20日 (日) 12:48 (UTC)[返信]

最初から「喫煙者」と記されているのなら問題ないでしょう。初期執筆者が「愛煙家」と記しているのを敢えて「喫煙者」に置き換えている理由が判らないという点が、ここでの問題だと思っています。「愛煙家喫煙者」としての表記の問題点、というより、その問題に対する対応方法(なぜ要出典じゃないの?という点)が理解できません。少なくとも「愛煙家」と書いた人がいるわけですから、「愛煙家じゃない喫煙者」と「愛煙家」を一律で「喫煙者」になって変えてしまったら、「愛煙家であることの出典」を書こうにも「愛煙家じゃない喫煙者なのに、愛煙家であることの出典を探してしまう」というミスを犯しやすくなるじゃないですか。それなのになぜ要出典じゃなく置き換えという(将来的な人的コストがより高いと推定される)方法を選んだのかが判りません。--NISYAN 2008年1月20日 (日) 13:39 (UTC) 一部訂正--NISYAN 2008年1月20日 (日) 15:17 (UTC)[返信]
前述のとおり、その人物に対し「愛煙家」や「ニコチン依存症」と断定するような記述では、前者の該当条件に当て嵌まる場合、後者の該当条件にも当て嵌まってしまうので、「この人は自らの希望で愛して吸っているのだ」と断定する記述では検証可能性を満たしません
また、どちらか断定できないにも拘らず、片方の観点のみ断定的な記述を行うのでは、何れかの観点のみを推進するのは中立的な観点に反することになるので、要出典以前の問題です。
従って、検証可能性を有する事実であり、どちらの観点も推進しない「喫煙者」との記述を行っているだけのことです。愛犬家 2008年1月21日 (月) 10:43 (UTC)[返信]
愛犬家さんが「愛煙家だと断定する表記は検証可能性を満たしていない」というのは理解しているつもりです。私は「愛煙家と書いた人は、本当は愛煙家と呼ばれているなどの表記を使うべきところを愛煙家と断定的に書いてしまっただけで、本当は断定するつもりはなかったのではないか?と推定するのが、善意に取るということだと思いますし、善意にとった場合、まずは要出展なりノートへの記述で記述の真意を確認するのが適切ではないか?そういった行動なしにいきなり「喫煙者」に変えるのは、善意に取るという方針に照らし合わせると適切ではないのでは?」と言っているつもりです。--NISYAN 2008年1月21日 (月) 17:55 (UTC)[返信]
海☆eoxylさんへ。「喫煙者」では、どの記事のどこで不都合ですか?とお聞きして、「不都合な点(不正確な表現)をまねくおそれがある事を過去の書き込みで数箇所書いてあると思う」との返答を頂きました。しかし、どの記事で問題か、を指摘された箇所はないようです。具体的に指摘されないと、議論が進みません。私たちは、Wikipediaの記事について議論しているわけですから。--Mega stride 2008年1月20日 (日) 14:47 (UTC)[返信]
あくまで推測ですが。過去の愛犬家さんの履歴を見て、人物記事の変更内容を見ていました。一例では、桃井かおりさんについていろいろ調べる限り、好んで喫煙しているという情報や愛煙家と呼ばれている情報が多数見つかります。愛煙家と呼んでいるであろう二次情報源足り得るものもありそうな感じですが、ぱっと見見つからなかったので、愛煙家への変更も、出典の記載もしていません。で、そういう記事を愛犬家さんは要出典にすることなく即座に喫煙者に変更しています。そういうのの積み重ねで、この井戸端に話が挙がっているんだろうと思います。どう不都合かは「愛煙家と呼ばれることが多いのにわざわざ喫煙者と記述するのは、読者がその人物を理解する妨げになる」です。まあ、これは私がこう思うというだけであって、海☆eoxylさんも同意見かどうかは判りませんが。いくつも例を挙げる必要ありませんよね。詳しくない複数の人物の情報を、投稿履歴と照らしながら調べるのはかなり労力のいる作業なので。--NISYAN 2008年1月20日 (日) 15:17 (UTC) 呼称追加--NISYAN 2008年1月20日 (日) 16:48 (UTC)[返信]
補足。いや全否定しているわけじゃないんですよ。新妻さと子さんの記述削除のような、非公開情報(というより隠している(らしい)情報)を、要出典つけずに積極的に除去するような編集は極めてOKだと思っています。--NISYAN 2008年1月20日 (日) 16:59 (UTC)[返信]
桃井かおり氏は、ニコチンの身体依存性に影響を受けず、全く自分の意思で喫煙している。そういう情報はありましたか? そうでなければ、ただのニコチン依存症なので、「喫煙者」のほうが、より人物を理解できる記述になると思いますが、いかがでしょうか。--Mega stride 2008年1月20日 (日) 15:38 (UTC)[返信]
一応念のために書いておきますが、ここで話をするべきことは、個別記事に対してではなく、もっと総括的な話、「愛煙家の表記が不適切か」「不適切なら、過去のあるいは将来発生するものに対してどう修正すべきか」だと思います。なので、上の話は桃井かおりさんの記事単体のことではなく、「好んで喫煙しているという情報や愛煙家と呼ばれている情報が多数見つかる」ケースの「愛煙家」と書かれた記事にどう取り組むか、というつもりで読んでいただきたいです。
で、私は「愛煙家と呼ばれている」(他称愛煙家)などの表記が、より人物を理解できる記述だと思います。で、他者の評価を記述するにあたって、記事対象者の依存症の有無は無関係と考えています。
あるいは「自称愛煙家」も、人物理解にはありだと思います。自らの発言なりプロフィール情報なりから自称愛煙家であることの確認が取れれば記載は可能であると思います。その出典に対し、「ニコチンの身体依存性に影響を受けているかどうか」の分析を行い、それをWikipediaに反映することは独自研究にあたる(「発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈など」に相当)と思っています。
で、「愛煙家」を「自称愛煙家」「他称愛煙家」「自他ともに認める愛煙家」に変更する必要性はあまり感じません。--NISYAN 2008年1月20日 (日) 16:48 (UTC) 独自研究の説明を追加 --NISYAN 2008年1月20日 (日) 17:07 (UTC)[返信]
そもそものところ、私は「○○が△△において◆◆氏を愛煙家と呼んだ」との記述を「喫煙者」と置き換えた訳ではありませんよ。
前述のとおり、その人物に対し「愛煙家」や「ニコチン依存症」と断定するような記述では、前者の該当条件に当て嵌まる場合、後者の該当条件にも当て嵌まってしまうので、「この人は自らの希望で愛して吸っているのだ」と断定する記述では検証可能性を満たしませんし、どちらか断定できないにも拘らず一方の観点のみを断定的に記述するのでは、中立的な観点に反することになるので、これは要出典以前の問題である訳です。
また、私はその人が喫煙者であるという情報を得たので「喫煙者」と書いている訳です。
その人について「○○が△△において◆◆氏を愛煙家と呼んだ」との出典を得ている訳ではないのですから、「○○が△△において◆◆氏を愛煙家と呼んだ」と記述しなくても、何の問題も無いでしょう。
もしそれが不満と仰るのならば、検証可能性を満たせる出典を明示した上で「○○が△△において◆◆氏を愛煙家と呼んだ」と、貴方自身が編集なさればよいのではありませんか?
なお、桃井かおり氏の編集については、公式サイト等のある程度は信頼のおけるプロフィール等を参考にしていますが、仰るような記述は特段見当たらないのですが、何を根拠に仰っているのでしょうか?
本人のホームページには喫煙している姿のイラストがあるので、おそらく喫煙しているのだろうなというのは判りますし、他にも喫煙者である旨の情報はあるので「喫煙者」との記述は問題ないものと思いますが、「愛煙家である」と断定するような記述は前述のとおりNGだと思いますよ。愛犬家 2008年1月21日 (月) 10:43 (UTC)[返信]
ニコチン依存症かどうかは無関係という話はしているつもりです。「自称愛煙家」というのは「本人が愛煙家であるということを公言している」こととその出典足りえるものがあるだけで記述可能と思っています。それに対して「ニコチン依存症だから自立的好きではない」という分析を行い、その分析に基づいて出典元の記述を変えて記載する、あるいはその分析に基づいて出典元の情報の使用可否を決めるのは独自研究にあたる(発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈など」に相当)と思いますよ、と言っています。それらの行為が独自研究とはならない理由を示していただければ歩み寄れそうです。一応独自研究の「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」の項も確認したほうがいいかもしれません。
「一般に愛煙家と呼ばれている」ようなケースで、「愛煙家と呼ばれていることを記載しない」のは、逆に中立的観点に反する(恣意的に愛煙家と呼ばれていることを隠すことになる)と思います。過去に既に「喫煙者」に変えられたものを積極的に変更するつもりは私はないですし、そんなことをする理由もないです。ただ、今後も同様に「愛煙家」を「喫煙者」にむやみに変えてほしくないという話です。で、その理由は前回書いたことの表現が変わっただけになりますが、愛煙家と断定形で書いた執筆者の真意を確認せずに変えるのは善意に取るの方針に照らし合わせて適切ではないのではという話です。例えば「一般に愛煙家と呼ばれている」ということを書きたかったのを「愛煙家」と断定的に書いてしまったのかもしれません。で、「一般に愛煙家と呼ばれている」という表記は出典付ならOKというのが愛犬家さんの見解だと思っています。だから「愛煙家」と書いた人にその真意を聞いてみるのが適切ではないでしょうか?で、真意が「一般に愛煙家と呼ばれている」であれば要出典が適切な対処ではないでしょうか、ということを言っているつもりです。
桃井かおりさんの件は、例示で出てきただけですので、それ以上個別のことを突っ込むのなら、それは桃井かおりさんのノートで話し合えばいいと思っています。ここではもっと総括的なことを話するのが適切と思います。私は「愛犬家さんが、愛煙家という表記を見つけられなかったからといって、即座に喫煙者に書き換えるというスタンスではなく、『見落としかもしれない、初期執筆者が知っているだろうから初期執筆者(なり他の知っている人)に確認しよう』というスタンスを取ってほしい(善意に取るに照らし合わせて)」と言っているのです。個別に桃井かおりさんのことについて言えば、(出典とはできないものの、検索結果に多数、桃井かおりさんを愛煙家と呼んでいるものは見つかるが)出典とできそうなものはぱっと見見つからないと既に書いたはずです。初期執筆者に確認すれば、すぐに見つかるものなのかもしれません。
私のスタンスを改めて書いておきますが「既に喫煙者に書き換わっているものを積極的に愛煙家に変えるつもりはない。だから、初期執筆者に問い合わせるつもりもない。でも、偶然出典足り得るものを見つけたら書き換えるかもしれない」「愛犬家さんは今後も愛煙家を喫煙者に書き換えようとしているのだろうと、私は思っているわけですが、その際、即座に書き換える前に愛煙家と書いた執筆者の真意を確認するのが適切では?」「愛煙家という断定表記を問題にする人がいるなら、愛煙家と呼ばれているなどの表記に変更するのが望ましいと考える。ただ、その変更で記事の質は(多少)高まるだろうが、人的コストと照らし合わせれば敢えて積極的に変えるほどのことでもない。納得しない人がいる状況なら納得してもらうためにまあ書き換えてもいいのでは、という程度」「愛煙家を一律で喫煙者と置き換えるのは、愛煙でない喫煙者と愛煙家との区別ができなくなる(出典探しにより労力がかかるようになる)ので反対」です。
で、一ヶ月経ってもお互い歩み寄りはなさそうですし、ごく少数(今アクティブに話をしている人は、海☆eoxylさんを含めても四人)で話をしていてもきりがないので、もう少し話をして合意に辿り着けない場合は、コメント依頼(合意形成のためのコメント)を出して、もっと多くの人の意見を参考に、合意形成に結び付けたいと思いますが、異論はありますでしょうか?--NISYAN 2008年1月21日 (月) 17:55 (UTC)[返信]

続き2つ目

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なんだか、既に言い掛かりの域になってきているのではありませんか?
「誤った二分法」や「二者択一誤導尋問」の件もあるし。
そもそも私は検証可能性を満たさない「愛煙家」との断定形での記述を、検証可能性のある「喫煙者」と編集したのであって、「ニコチン依存症患者」と編集した訳ではありませんよ。
NISYANさん自身も「喫煙者」と置き換えるのではなく「○○が△△において◆◆氏を愛煙家と呼んだ」と書くべきと主張しているのですから、「愛煙家」と断定形で記述することは検証可能性を満たさず、中立的な観点からも問題があることは既に合意済みと思います。
そもそもニコチン依存症で吸っているのか、自らの希望で愛して吸っているのか確認できないものを、「この人は自らの希望で愛して吸っているのだ」と断定するような書き方をすることの方が問題なのですからね。
また、私は「一般に愛煙家と呼ばれている」との記述には合意していません。評価について書くのならば、誰が何処で述べたのかは書くべきです。ある人の評価が一般なのかどうかについて、編集者が恣意的に判断すべきではないでしょう。
元々「愛煙家」と断定する記述については出典が付されておらず、前述のとおり不適切であったので、調べた際に事実確認できている「喫煙者」と記述しただけのこと、「初期執筆者に問い合わせろ」とか「『○○が△△において◆◆氏を愛煙家と呼んだ』と書ける出典を探せ」といった義務の無い過度な負担を強いられる筋合いはありませんよ。
NISYANさんが、初期執筆者に問い合わせるべきだとか、「○○が△△において◆◆氏を愛煙家と呼んだ」と書くべきだと思うのなら、NISYANさん自身が初期執筆者に問い合せるなりして、然るべき出典を付した上で編集すればよろしいことです。
また「愛煙家を一律で喫煙者と置き換えるのは、愛煙でない喫煙者と愛煙家との区別ができなくなるので反対」とのことですが、ニコチン依存症によって喫煙しているのか、自らの希望で愛して吸っているのか区別が付かない人を、愛煙家と記述してしまうのでは、どちらにしろ区別はできなくなってしまいます。なので貴方の反対している理由には意味がありません。
本当に合意形成を望まれているのならば、頑なに認めないと強弁するよりも、検証可能性を満たすかどうかで判断すべきでしょう。
私が編集する以前の表記は「愛煙家」と断定形で書かれており、私はそれを自らが確認できた事実に基づいて「喫煙者」と編集した。
既に何度も述べているとおり「愛煙家」と断定する記述は検証可能性を満たさないが、「喫煙者」との記述は検証可能性を満たす。
喫煙している事実はあるのだから、私はそれを善意にとって「喫煙者」と書いた。
事実は単にそれだけのことです。愛犬家 2008年1月22日 (火) 12:54 (UTC)[返信]

もちろんここでは、個別記事に対してではなく、総括的な話をすべきです。つまり、複数の記事において問題となっていることを総括的に扱うことです。「喫煙者」では、どの記事のどこで不都合ですか?とお聞きしましたが、どの記事でどう問題かは、ひとつも指摘がないようです。つまり、ここではWikipedia記事から離れた不毛な問題提起がなされています。 表記は単純に「喫煙者」で問題ないでしょう。問題があるなら、複数の具体例とともにご指摘ください。なお、「ニコチン依存症だから自立的好きではない」とは、分析ではなく依存症の説明です。自立的好きなら依存症ではないですので(参考:依存症#異常な執着)。--Mega stride 2008年1月22日 (火) 14:33 (UTC)[返信]

「言い掛かり」と言われるのは悲しいですが、私の説明力不足という点については謝ります。私の考えをまとめます。
  • 「愛煙家」は「自称愛煙家」と「他称愛煙家」(とその複合)に分かれると思います。表現方法はいろいろあるでしょうが、「自称愛煙家」と「他称愛煙家」のいずれであるかが読者に理解しやすくなるという理由で「愛煙家」よりは適切な表現だとは思います。
  • 「自称愛煙家」について、「本人が公言してる(インタビュー記事、ブログ等)」「プロフィール等に記載されている」があればWikipediaに記載可能だと思います。「ニコチン依存症によって喫煙しているのか、自らの希望で愛して吸っているのか区別が付かない」場合においても記載可能と考えています。理由は「出典足り得るものにそう書かれているから」としか言えませんが、後で追加説明します。今回の「愛煙家」がこちらに該当するのであれば、問題点は「出典がなかったこと」だと思います。
  • 「他称愛煙家」について、「インタビューのときなどで、愛煙家と紹介された(本人も否定しない)」「愛煙家として知られるといった呼称がつけられた出版物がある」「一般的に愛煙家と呼ばれている、と記した紹介記事等がある」などがあればWikipediaに記載可能だと思います。その場合に「ニコチン依存症によって喫煙しているのか、自らの希望で愛して吸っているのか区別が付かない」といったことは記載可否に影響を与えないと考えています。理由は「他者評価を書くのに本人の状態は無関係」と考えているからです。今回の「愛煙家」がこちらに該当するのであれば、問題点は「出典がなかったこと」だと思います。
  • 前述のように「自称愛煙家」「他称愛煙家」どちらの場合であっても、問題点は「出典がなかったこと」だと思っています。で、出典をつければその出典を確認することで「自称愛煙家」であるのか「他称愛煙家」であるのかは容易に確認可能であると思うので、敢えて「愛煙家」を「自称愛煙家」「他称愛煙家」に変更するメリットは少ないと考えています。
  • 「出典が足りない」ことに対して、即座にその表現を取り消す(実際は置き換える)のではなく、要出典をつけるのが適切であると思います。それは「単に出典がない」ことが問題であれば「出典がつけられる形にする」ことが記事の最適の状態であり、「喫煙者」に変更してしまったら最適の状態にしづらくなる(愛煙家じゃない喫煙者と見分けが付けづらくなる)と思うからです。後、関連項目としてWikipedia:中立的な観点#偏った意見を削除して良いかを挙げておきます。
  • 過去に「喫煙者」に変更されてしまったものを積極的に「愛煙家」に変えるつもりはありません。今後「愛煙家」という表現に出会った場合のことを対象としています。
以上が現時点での私の考えのまとめです。
で、後で追加説明すると言った点について。愛犬家さんの「頑なに認めないと強弁するよりも、検証可能性を満たすかどうかで判断すべきでしょう」があったので、理解していただける文章になっているか自信がありませんが、私の考えを書いておきます。「ニコチン依存症によって喫煙しているのか、自らの希望で愛して吸っているのか区別が付かない」ことをもって検証可能でないと、愛犬家さんは言っています。「愛煙家」であればそうかもしれませんが、「自称愛煙家」を検証できる題材は「本人が愛煙家であることを公言していることを示す情報」(一例、他の例は前述)が出典として示されていれば事足りると思うのです。それとも、「その人物がニコチン依存症によって喫煙している」可能性を示唆する出典でもありますでしょうか?念のため言っておくと、異なる出典(「ニコチン依存症の客観的定義という情報」と「ある人物がニコチン依存症の客観的定義に照らし合わせるに使用できる客観的情報」など)を合成して「『その人物がニコチン依存症によって喫煙している』可能性を示唆する出典」と代用することは、少し前に書きましたがやってはいけないようです。
後、「人物が喫煙を好んでいる」に対する検証可能性と「人物が愛煙家を自称していること」(自らを愛煙家と呼んでいること)に対する検証可能性の違いというのを考えた場合、前者は「依存症かもしれないから好んでいるというのに対して嫌疑がある」という考えが出てくることもある意味理解できます(もっとも私は検証可能性は変化していないと考えます)が、後者は「依存症かもしれない」という観点で検証可能性に問題があるとは思えない(「本当にその人物が愛煙家かどうかはさておき、その人物が自らを愛煙家と呼んでいること」を示す記述ですから、本当にその人物が愛煙家かどうかは無関係、だから)です。Wikipedia:独自研究は載せないを読む限り、私はそう読み取っています。
愛犬家さんのところに書いてある内容について。
  • 「NISYANさん自身も『喫煙者』と置き換えるのではなく『○○が△△において◆◆氏を愛煙家と呼んだ』と書くべきと主張」とは、もはやそんなことは思っていません。出典をつければ「愛煙家」でも充分、ただ「自称愛煙家」「他称愛煙家」にこだわる執筆者がいるなら、それが区別できる表記に変えるのはありかも、程度にしか思っていませんし、「中立的な観点からも問題があることは既に合意済み」ではありません。
  • 私は「初期執筆者に問い合わせろ」と命令口調で言ったつもりはありませんが、言い方のとらえかたはさておき、過度な負担でしょうか?「即座に削除(削除して他の言葉に置き換え)」の代わりに「要出典を貼って、ノートに一定期間経ったら削除する旨書いて、一定期間後に削除」といったように、私ならWikipedia:中立的な観点#偏った意見を削除して良いかのように進めると思います。
  • 私は「『○○が△△において◆◆氏を愛煙家と呼んだ』と書ける出典を探せ」と言ったつもりはないです。「(愛煙家と書かれているのが不適切と愛犬家さんが判断した時点で、その記述が適切か不適切かを確認するために、愛煙家と書かれたものをある程度は探しているんでしょうから)自身で探して見つからないから、ノートで他者に聞く(なり他者が加筆することを願って要出典を貼る)、他者もそんなものは知らないと言うなら、除去でもやむなしでしょう」という流れを書いたつもりですけど、読み違えてしまうような記述になっていたのなら謝ります。
Mega strideさん、私は「愛犬家さんが過去に『愛煙家』を『喫煙者』に変更する際のプロセス」と、「同じプロセスで今後、他の記事を変更されてしまうことによる問題点(と私が思っているもの)と改善策」について書いていますので、Wikipedia記事から離れた不毛な問題提起とは考えていません。過去の「喫煙者」(現状の記事ではなく、過去の記事変更時のこと)については私が例示しました。現在の「喫煙者」のことであれば例示はされていないようですが、私は問題としていませんから、他のかた(海☆eoxylさんとか)に聞いてください。もっとも海☆eoxylさんはマシントラブルのようですから、私なら復帰まで待ちますが、そこはMega strideさんが決めることなので私は何も言いません。
それから、歩み寄りの場所を探そうとしても「二者択一誤導尋問」と捉えられるとか、「『自称愛煙家と他称愛煙家とが区別できるような記述に変える』ことで合意できるのかと思った」と書いたように歩み寄りのつもりですがどうも歩み寄りとは思われていないようですので、今回書いたまとめへの回答を見て、歩み寄る場所がどうしても見出せなかったらコメント依頼(合意形成のためのコメント)を出します。--NISYAN 2008年1月23日 (水) 00:42 (UTC)[返信]

マシントラブルから復帰しました。ちょっと議論が進みすぎているので、ある程度の点だけ話していければと思います。急に抜けてしまってすみません。

Mega strideさん >具体例を示して NISYANさんが言われている通り、具体的な記事の話ではないです。議論当初から自分はそういう話をしてました。編集された記事自体を他の方が問題にした事があったかもしれませんが、現状議論の主題はそういう事ではないと思います。

愛犬家さん >犬依存症 >妻依存症 は聞いた事がない。

「精神的な依存」「固執」は、通常そのような呼び方はしません。「犬がいなければ私は死んでしまう」とか、「犬には目がない」、「妻がいなければ私は生きられない」などは非常にポピュラーな話です。この程度はかわいいもので、社会性を損なったり、偏執的に拘ったりするような状況もまた聞かない話ではないと思いますが。その可能性を考えてしまうと愛~~なんて表現はもはや何も書けなくなります。しかし、一般論として、物の道理として(愛犬家さんが語った道理に自分も結構賛成なんですよ)、愛~~と書くでしょう。ことさら、愛煙家という表現だけが特性を持っているわけではないと思いますね。(自律・他律という観点は双方にあるので判断基準になりえない事はすでに書きました)

>歩み寄りの点

愛煙家という表現事態は変える必要はないが、場合により「自らを愛煙家と称している」あたりにおちつかせる。文脈的に愛煙家より喫煙者が適切と思われる場合は置き換える≒検証可能性を理由に置き換える

こんなところじゃないでしょうか? 語彙として表現をよりよいものにする事と、特定の方向を推進するような編集を行う事は違うと思いますね。--海☆eoxyl 2008年1月23日 (水) 11:43 (UTC)[返信]

続き3つ目

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そもそも公言だけでは自称なので、断定形で書くべきではないと説明した筈ですよ。
重要なのは検証可能性のある事実を書くことなのですからね。
その上でお答えしておきます。
「犬がいなければ私は死んでしまう」…この発言だけでは、犬を溺愛していると自称しているだけですね。後は愛犬家であるとの他人の評価があって、それを否定するような評価等が見当たらなければ愛犬家と書いても差し支えないのではありませんか。
「犬に目がない」…思わず「2つありますよ」と答えたくなってしまいました。冗談はさておき、通常はそのような表現は用いないでしょう。愛犬家は犬を食べる人という意味ではありませんからね。
「妻がいなければ私は生きられない」…この発言だけでは、妻を溺愛していると自称しているだけですね。後は愛妻家であるとの他人の評価があって、それを否定するような評価等が見当たらなければ愛妻家と書いても差し支えないのではありませんか。
何れにしても、これらは医学的にも、広く一般的にも病気(ニコチン依存症)との評価がある喫煙とは異なります。[7]
先ずは簡単に置き換えてみましょうか。
「タバコがなければ私は死んでしまう」…この発言だけでは、タバコに耽溺していると自称しているだけですね。後は愛煙家であるとの他人の評価があって、それを否定するような評価等が見当たらなければ愛煙家と書いても差し支えないのではありませんか。
「タバコがなければ私は生きられない」…この発言だけでは、タバコに耽溺していると自称しているだけですね。後は愛煙家であるとの他人の評価があって、それを否定するような評価等が見当たらなければ愛煙家と書いても差し支えないのではありませんか。
となります。
さて、ここで問題発生です。
タバコの場合、ニコチン依存症で吸っているのだという医学的な評価があって、その評価は広く一般に知られているものです。
仮にその人に自らの希望で愛して吸っているという「愛煙家」との評価があったとしても、喫煙という行為自体にその評価を否定するニコチン依存症で吸っているとの評価がある訳で、その人が自らの希望で愛して吸っているのか、ニコチン依存症で吸っているのか、評価は特定できないことになる。
また、評価が特定できないにも拘らず、断定的に書くというのであれば、それは独自研究であり、検証可能性を満たさず、どちらかの評価のみを書くのだとすれば、それは特定の観点を推進することになるので、中立的な観点に照らして問題がある訳です。
となれば、導き出される結論は、
1.出典を示した上で両方の評価が存在する事実を書く
2.特定できない評価は書かず、検証可能な事実のみを書く
の何れかを選択することになる訳です。
要するに事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け、だが意見は書くなということなんですけどね。
しかし、前者のような書き方は、編集する上で手間が掛かる割に文章が冗長になるばかりでデメリットの方が大きい、だから少なくとも検証可能性を満たせる後者を選択して編集している訳です。
それと歩み寄りと仰るが、初期執筆者に問い合せるべきだとか、「○○が△△において◆◆氏を愛煙家と呼んだ」と書くべきだと思うのならば、ご自身で初期執筆者に問い合せるなりして、然るべき出典を付した上で編集すればよろしいでしょうと既に申し上げている訳ですから、十分に歩み寄っているではないですか。
これ以上、貴方達は何を望むというのですか?
なお、「愛煙家」と断定する表現は「自らの希望で愛して吸っている」との観点を推進し、喫煙を二コチン依存症としている科学的な評価を否定することになるので中立的な観点に照らして問題がありますが、「喫煙者」との表現は「自らの希望で愛して吸っている」との観点、「ニコチン依存症で吸っている」とする観点の何れも推進しないものであり、殊更に「愛煙家」との表現を残す必要性は無いということを申し添えておきます。愛犬家 2008年1月24日 (木) 14:11 (UTC)[返信]
時間がないので一点に集中して話を。そもそも、既に愛犬家さんが「愛煙家」を「喫煙者」に置き換えてしまった過去の編集記事そのものについて私は言及しておらず、海☆eoxylさんも「具体的な記事の話ではないです」と、それぞれ直前に記述しているわけですが、愛煙家さんは「ご自身で初期執筆者に問い合せるなりして、然るべき出典を付した上で編集すればよろしいでしょう」と、愛犬家さんによって過去に「喫煙者」に変更された記事を対象としている(と私は理解しています)回答をいただいています。私や海☆eoxylさんが何を問題としているか、その説明が愛煙家さんに適切には届いていないようです。私の部分については、多分私の説明力不足なんでしょう。その一点だけ見ても、合意に向かうのは程遠いと考えています。というわけで、後ほどコメント依頼(合意形成のためのコメント)を出そうと思います。--NISYAN 2008年1月24日 (木) 15:28 (UTC)[返信]
コメント依頼出しました。で、一点に集中して話を。「そもそも公言だけでは自称なので、断定形で書くべきではないと説明した筈」が全然判りません。「私は大の煙草好き」と書かれたインタビュー記事等を出典Aとして「大の煙草好きと公言している」(多分「自称愛煙家」の記述の一例だと私は思っています)をWikipediaに記述可能だと思うのです。これが愛犬家さんとしてもOKなら、表現だけの問題だと思います。(もっとも要出典にせずに即座に置き換えるという件についての話は残りますが。)もし愛犬家さんがこの表記でも記述不可という立場であり、その根拠に、別の「ニコチン依存」に関する出典Bを持ち出してきて、出典Aと出典Bの情報を合成してそれを根拠としているのなら、それは「Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成に該当するのでWikipedia的にはやってはいけないことだ」と私は理解している、と既に書いたつもりです。その理解が正しくないと指摘および説明していただければ私も納得できると思うのです。--NISYAN 2008年1月24日 (木) 19:11 (UTC) 「自称愛煙家」の例として適切なものとするため下線部を追記。--NISYAN 2008年1月25日 (金) 03:37 (UTC)[返信]
愛煙家、喫煙者や嫌煙(嫌煙者)、愛妻家~~ これらは既に世間に定着した言葉だと思います。Wikipedia:中立的な観点において、表現に対し「事実を書け意見は書くな」と書かれていると思いますね。単語自体に意見を求めるようには書かれていないと思います。愛犬家さんは、表現であると感じているかもしれませんが、自分は単語(語彙)に過ぎないとしか考えていません。単語に意見を求めていては、愛妻、愛犬、全て「意見は書くな」の観点から書けなくなります。--海☆eoxyl 2008年1月25日 (金) 13:26 (UTC)[返信]
単語と仰るが、それは評価・意見をでしょう。
例えば、酒を飲んでいないと手が震えるという人が、私は酒が好きですと言っても、本当に酒が好きで言っているのか、アルコール依存症の症状としての言動なのか、判別ができないのではありませんか。
そういう人を例えば酒を愛している人とか飲酒愛好家であるなどと断定的に評価して果たしてよいものなのでしょうかね。
酒を飲んでいないと手が震えるというのは、アルコール依存症の診断基準に引っかかるということが、広く一般に知られています。
もし、そういった事実があるにも関わらず、自らの意思で酒を愛して飲んでいるかのような記述をするのであれば、それはその人がアルコール依存症ではないという意見・評価を推進するものであって、中立的観点に照らして問題があるものと思います。
タバコの場合、ニコチン依存症の診断基準に照らせば喫煙習慣のある人は全てニコチン依存症の診断基準を満たしてしまう訳で、その人に喫煙習慣があるという事実が確認されれば自ずとそういった評価は付いて回ることになります。
そういった事実があるにも関わらず、本人の発言を以て、自らの意思でタバコを愛して吸っているかのような記述をするのであれば、それはその人に喫煙習慣があってもニコチン依存症ではないとする意見・評価を推進するものであって、中立的観点に照らして問題があるものと思います。
また、出典となる事実があれば「○さんは▲において□氏を愛煙家と評した。」とか「□氏は▲において自らを愛煙家と称した。」との記述は事実なので、そういった書き振りであれば私も賛成ですし、可能であると思います。しかし、「愛煙家である。」と断定的に書かれた人物について、必ずそういった出典があるとは限りません。
私としても、単に機械的に置き換えている訳でもなく、検証可能性を満たすよう公式サイト等をある程度は調べた上で編集しているのであり、検証可能性を満たさない断定的な記述を修正するにあたっては「事実」を書けばよいのであって、公式サイト等で確認できない、事実として存在しないかもしれない「愛煙家との評価」を延々と探し続けることを求めるべきではないと考えます。
何れにしても「愛煙家」とか「ニコチン依存症患者」というのはその人に対する評価・意見であり、事実を書くのであれば、「喫煙者」との事実を書くか、或いは出典に基づいて「誰が何処でそのように評価した」という書き振りで書くべきであり、「愛煙家である」といった評価を断定するような記述は、その編集を行った方の個人的な評価・意見表明ということになると存じます。愛犬家 2008年1月26日 (土) 04:01 (UTC)[返信]

表現には特定の方向を推進するような能力があります。しかし、単語自体には評価・意見を内在しているだけであり中立性を書いたり特定推進の能力はありません。また極めて主観に左右されやすい問題であり、単語にコンセンサスを求めても求められるものではありません。愛妻家にも100%のコンセンサスがありませんし、愛煙家も然りです。現に、愛煙家という表現について感じる意識にここに書き込む人だけでも多くのズレがあります。これはどうにかできる問題ではないし、他者が強制できるものでもないと思います。単語自体に評価・意見を求める事自体がおかしいと思いますね。愛○家という単語を用いる事がなんらおかしくない事と世間に認知されているのだから、愛妻家、愛煙家とした単語を使う事になんらおかしなものは無いと思いますね。

「○○は愛煙家として知られ、多くのメディアで語っている」

タバコが好きであるという方向を示しているだけです。

「○○は喫煙者達から定評のある「名誉ある愛煙家」として知られ、多くのメディアで語っている」

こういう感じになって初めて 方向を推進している事になるんじゃないでしょうか?

方向を示すのは単なる事実の説明であり、そこに先入観をもって意見を印象する事は中立性を欠いた判断かとおもいます。--海☆eoxyl 2008年1月26日 (土) 05:29 (UTC)[返信]

コメント依頼

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「続き3つ目」に入ってすぐのことですが、「コメント依頼」にある「議論が起こっているページにこれまでの議論内容の要約を示してください」との手順に従い、要約を記載するために、コメント依頼用のアンカーを付けるために節を新設しました。以下、各派の記述は私が理解しているところの論点ですから、間違えている場合はご自身の該当部分について訂正(あくまで要約となるような短い文章で)をお願いします。--NISYAN 2008年1月24日 (木) 18:47 (UTC)[返信]

大まかな経緯

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「愛煙家を喫煙者と機械的に置き換えているのを何とかできないか」との問題提起から始まっており、「機械的に」という点が適切な表現かどうかについては触れませんが、「愛煙家を喫煙者に変更するのは適切」とする派(喫煙者記述賛成派)と、「愛煙家を喫煙者に変更するのは不適切」とする派(喫煙者記述反対派)との間で意見が分かれています。当初「過去に喫煙者との記述に変更された各記事自体を問題としている人」がいたかもしれませんが、現状、喫煙者記述反対派の人が問題としているのは、「将来の執筆で愛煙家と書かれた記述を喫煙者に変更すること」に対して反対を唱えています。--NISYAN 2008年1月24日 (木) 18:47 (UTC)[返信]

喫煙者記述反対派

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  • 「愛煙家」という表現は「自称愛煙家」「他称愛煙家」のいずれかであるが、どちらの場合も出典が不足していることが問題であって、出典さえあれば(喫煙者記述賛成派の「ニコチン依存」関連の影響を受けることなく)「検証可能性」を満たす。(NISYANの意見)
  • 出典がないことが問題となっている記述について、要出典なしにいきなり別な意味合いの記述に書き換えるのは望ましくない。要出典から行うのが適切ではないだろうか?(NISYANの意見)
  • 「愛煙家」を「喫煙者」に変更することで、「愛煙家+その出典」という記述がふさわしい人物なのか、愛煙家でない喫煙者なので単に「喫煙者」とするのがふさわしい人物(愛煙家であることを示す出典を積極的に探す必要がない人物)なのかを、以降の執筆者が容易に判断できなくなる点についても問題と考える。(NISYANの意見)
  • 「愛煙家」「愛犬家」「愛妻家」などにおいて、自律・他律という観点はいずれにもあるものであり、「愛煙家」だけを特段「他律」と見なして「検証可能性に問題」と見るのは望ましくない。(海☆eoxylさんの意見)
  • 「自称愛煙家」や「他称愛煙家」を意味する別の表記(例えば「自らを愛煙家と称している」など)に変更することには否定していない。(海☆eoxylさんおよびNISYANの意見)
  • 「喫煙者」と「愛煙者」は文脈の用途用途で使い分けて行く事が適切であり、一律に置き換えるのは望ましくない。語彙として利用できるものであり、「○○は『愛煙者』であったが後に『タバコ嫌い』となった」といったようなそれぞれの排他的利用が可能(海☆eoxylの意見)(NISYAN賛同)
  • 既に定着している言語に対し検証可能性を理由に置き換えようとするのは現時点では新説であり独自研究の疑いがある。置き換えるには世間一般における一定のプロセス(痴呆症→認知症への置き換えのプロセスのような)を経た上で初めてウィキペディア上においても検討に上る問題である。(海☆eoxylの意見)

喫煙者記述賛成派

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  • 「愛煙家」という記述は「ニコチン依存で吸っているのか自らの希望で吸っているのか」を判断できず、検証可能性の立場から望ましくない。(愛犬家さんの意見)
  • 「依存性のあるものについて、自らの意図で行っているかのように強調することは、暗に依存性の問題を糊塗することで、その対象を賛美してしまう効果がある」という理由から、「愛煙家」という記述は中立的観点から望ましくない。(愛犬家さんの意見)
  • 不適切な記述(ここでは「愛煙家」)は除去されるべきであり、当初「愛煙家」と書いた人への真意や出典の問合せをせずとも削除、適切な表現(ここでは「喫煙者」)に変更してよい。「喫煙者」に置き換えた記事を「愛煙家」に変えたい人は、初期執筆者に問合せるなり出典を探して出典付きで変えればよい。(愛犬家さんの意見)

補足:Mega strideさんの立場や意見はよく判らなかったので載せていません。Mega strideさん、適宜変更してください。

コメント

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コメントはこれ以降にお願い致します。--NISYAN 2008年1月24日 (木) 18:47 (UTC)[返信]

  • コメント依頼から来ました。「愛煙家と喫煙者のどちらが適切か」という点では、「喫煙者」のほうが望ましいと考えます。理由としては、「愛煙家」にはたばこに対する一定の評価が含まれる用語であり、中立的観点の立場から「喫煙者」のほうがより適切ではないかと考えるからです。これは言葉狩りとは異なる問題だと認識していますし、言葉狩りの是非についてはコメントを避けさせてください。--Tamago915 2008年1月25日 (金) 04:06 (UTC)[返信]
  • コメント依頼から来ました。まず、不特定の人たちに対する使用では、喫煙者が妥当でしょう。ただ特定個人に対して使用する場合には、その人が喫煙や煙草を、どのように認識しているかが重要になります。個人的な拘りを持っていて、かつ検証可能な形で「愛煙家」を自認している場合には、愛煙家と表現するのが妥当です。当人が特定の意味や感情を込めて使っている言葉を、編集者が勝手に別の意味の言葉に置き換えることは事実の歪曲に等しく、慎まなければなりません。逆に検証が出来ないのであれば、愛煙家のような特定の感情が含まれる言葉は、中立性の観点から慎むべき。あと機械的に言葉を置き換えるのは、正確性を損なう恐れがあるので、原則として好ましいとは思えない。--カイの迷宮 2008年1月25日 (金) 04:49 (UTC)[返信]
  • コメント依頼で出ていたので見たのですが…なんかナンセンスというか、言を弄して実の無い応酬である印象を受けます。結論としてはカイの迷宮さんらも述べられている通り、その各々の記事で実がどうかというのを個別に判じて語の意味が実情に違わないようにするだけで済むはずのものですね。それを汎化させここまで引っ張ること自体、コミュニティを疲弊させるだけの無意味な応酬ではないかと思います。価値観を含む語を所定の価値観を指し示すために用いることまで否定していては、言葉をもって事物を説明せしめることなど永久に出来ますまい。--夜飛/ 2008年1月25日 (金) 10:09 (UTC)[返信]
  • 夜飛さんの言われるところに近しいものを自分も思うところがあります(自分も散々応酬をしておきながらこんな事を言うのはなんですが・・・)。自分としては、検証可能性を満たす満たさないがこのような事の判断において果たして正しいのかというところです。誤解を恐れずに言うならば、言語の取り扱いに必要以上に拘りすぎていては、何も表現できなくなる(適切な表現ができなくなる)という事ですね。--海☆eoxyl 2008年1月25日 (金) 13:26 (UTC)[返信]
  • 夜飛さん、応酬については申し訳ありません。簡潔に表現する文章力のない私がでしゃばりすぎ/必要以上に人を巻き込みすぎました。--NISYAN 2008年1月25日 (金) 17:41 (UTC)[返信]
    • 「誰が駒鳥殺したか」を追求しても詮無いので、応酬を誰が始めたかや誰が続けたかに関しては批判する気はありません。言葉に辞書にある以上の過剰な重み付け(印象や他の概念を付与すること)を行った時点で、迷い道に誘った咎をその各々に問うこともできるかもしれませんが、果たしてそういう語の解釈に付け足されたイメージというかクオリア的な何かを問題視したところで、その付与自体が当事者が内因する構造に基くだけに、当人がその問題に気付かないとどうにもしようがないように思います。精々、余りにあんまりなケースに関しては放逐してしまう事くらいで…--夜飛/ 2008年1月26日 (土) 03:34 (UTC)[返信]
  • ようは「喫煙者」と「愛煙家」を類義語と見るか否かで合意ができないでいると理解しました。類義であるとみる立場からすればこの案件は「言葉狩り」なのでしょうが、「愛煙家」に主観的評価のニュアンスが入っていると見るという立場からすれば適切な編集行為だというわけですね。さて、愛煙家という言葉の認識には個人差があるようですが、喫煙者という言葉の定義の明確さを疑うものは恐らくいないと思います。ゆえに、「喫煙者」を選択するのが原則的には無難で好ましいと思います。「愛煙家」を使うのが好ましいケースは「本人が自らを愛煙家だとしている出典が提示しうる」かつ「記述対象の人物にとってタバコを愛好しているという事実が特記に値する」の両条件が満たされる場合に限られると思います。この観点から私としては基本的に愛犬家氏の編集を支持したいと思いますし、言葉狩りという認識は妥当ではないと思います。
    以下は蛇足です。このような編集についていちいちノートで合意を取れというのもアンバランスに思えます。こんな枝葉末節の記述にまでいちいち議論を経てとかやっていては編集なんか事実上できませんよ。ここは黙って編集という対応で充分です。 Kojidoi 2008年1月26日 (土) 07:07 (UTC)[返信]
  • 一つ教えてください。愛犬家さんのように「ニコチン依存」を論点に挙げている場合は別ですが、「中立的観点の立場」を挙げているTamago915さんや、「主観的評価のニュアンスの有無」を挙げているKojidoiさんは、平岡理恵さん、中窪裕也さん、佐藤秀司さんなどの記事中の「嫌煙家」の記述についてどう思われるか、お教えいただけますでしょうか?「ニコチン依存」のような論点を挙げない限り、愛煙家と反対の立場にあるだけで状況は同じと、私は思っています。もっとも、その記述は読者がその人物を理解するのに有益だと思うのでその記述を除去するのは不適切、とも私は思っています。--NISYAN 2008年1月26日 (土) 10:04 (UTC)[返信]
    • いずれも、削除されても文句の言えない記述であると考えます。当該人物の理解を深めるために必要とも思えませんし、あまり根拠も明確でありません(話がそれますが、「まじめな人物である」などという記述も見られますが同様にあまり感心できる記述ではありません)。こういう例はほかにもいろいろあるし、私もどこかでうっかり書いてしまっているかもしれません。しかし、それらはとりあえずお目こぼしされているだけの話であると考えるべきです。なんでもかんでも知っていることは全部書いてやろうみたいな編集者も少なくない現在、この原則を確認しておくことは重要です。ただし、最初はそうでも、これらが呼び水となって、よりキチンとした記述を書こうという編集者が現れるかもしれませんから、削除ではなく要出展タグとか加筆依頼とかで対応するというのはアリだとは思います。しかし、ここで問題にされている案件にそれだけの将来性が見込めるかは強く疑問に思います。Kojidoi 2008年1月26日 (土) 11:06 (UTC)[返信]
    • それと、愛煙家や嫌煙家についての見解がどうあれ、ここでは喫煙者という適切な言葉があるのだから、誤解や混乱を招きにくいこちらの用語に統一しようというのは非常に実際的で理にかなった編集姿勢です。愛煙家という言葉に主観や個人的評価が入っているとかいないとかぐだぐだ議論する必要はないわけです。あなた方はいったい何をどう「合意」したいのか? ただ負けたくないだけの議論ならwikipediaには要りません。その辺のことも考えていただきたいものです。Kojidoi 2008年1月26日 (土) 11:06 (UTC)[返信]
    • ここではまず「愛煙家」か「喫煙者」か、という点に絞って議論すべきだと思います。私はこの2語はほぼ同じ概念を指していると考えていますが、この部分から意識のずれがあるのでしょうか。「嫌煙家」(これは「非喫煙者」を意識していますね)を持ち出したということは、愛煙家と喫煙者は異なる概念と考えているようにも思えます。--Tamago915 2008年1月26日 (土) 11:15 (UTC)[返信]
      • まさに「意識のズレ」が存在し、それがこの議論を平行線にしています。ここでこれらの言葉をどう認識するべきかを話し合うことは無意味です。重要なのはそのような「ズレ」が厳然として存在するという事実です。このズレはこの議論に参加している編集者間だけではなく、当然に読者の間にも存在するでしょう。この一点のみから、「愛煙家」という言葉は少なくとも「喫煙者」という言葉よりは適格性において劣ると結論付けられます。問題は読者にどう捉えられるかであって、編集者の間で無理やりな「合意」を作ってみても何の意味もありません。Kojidoi 2008年1月26日 (土) 13:34 (UTC)[返信]
        • 話題から外れたことを申し訳ありません。私と異なる意見の、KojidoiさんやTamago915さんの考えをもっと知りたかったからではあるのですが、この場、このタイミング、この例題で聞くのは不適切だったと思います。コメント依頼出しながらこんなこと書くのは無責任と思いますが、先に記したように冷静に考えられない状況のようですので、少し発言を控えます。指名されれば会話に入りますが、少しばかりお時間下さい。--NISYAN 2008年1月26日 (土) 18:29 (UTC)[返信]
  • もはや愛~~という表現一切に適格性が無くなってしまう感じがしますね。大元の議論として「表記にバリエーションがあるのは百科事典の表記として適切かどうか」といった話になってくるのかも。--海☆eoxyl 2008年1月26日 (土) 14:35 (UTC)[返信]
    • ふと…その論調で行くと「どっちも家事に邁進するから愛妻家恐妻家は同一視すべきだ」になっちゃいそうな(漏電中)語義は彼是(主観交じりに?)理屈付けなんぞせずに、国語辞典にある通りに解釈すれば良いんじゃないっすかね…というか、それ以外に語の解釈はありえないような。--夜飛/ 2008年1月26日 (土) 14:46 (UTC)[返信]
      • 妻を愛して自律的に家事に邁進しているという出典があるのならば「愛妻家」、妻を恐れて他律的に家事に邁進しているとの出典があるのならば「恐妻家」、「愛煙家」と「ニコチン依存症」の場合とは違って必ずしも条件が被りませんから判別はできますよ。愛犬家 2008年1月26日 (土) 15:56 (UTC)[返信]
        • いやいや、話をあえて混ぜっ返すと、妻に恐怖支配(一種のマインドコントロール?)を被っていてその妻の不利益になりえることを口に出来ない場合は、対外的に愛妻家と恐妻家の区別が出来んのですよ(※あくまでも思考実験的ジョークの範疇です)。というか、そういう「ニコチン依存症なんだから喫煙者の言質は妥当性を持たない」という願望交じりの愉快な価値観は抜きに考えたほうがいいんじゃないですかね、愛犬家さんは…--夜飛/ 2008年1月26日 (土) 22:53 (UTC)[返信]
          • 私は本人の言動のみが証拠だと述べている訳ではありませんので、仮に妻に恐怖支配を受けていて何も言えない人であった場合でも、その人に対する外部評価で判別が付くと思いますけどね。それと私は「ニコチン依存症なんだから喫煙者の言質は妥当性を持たない」とは思っていませんよ。例えば、愛妻家と自称していても、他人から見たらDV夫だったなんて話はよくある訳で、自称のみでは断定まではできない。それと同じで、ニコチン依存症との外部評価がある喫煙習慣のある人達について「本人が愛煙家を自称しているのだから愛煙家だ」なんて強弁されても信じられないし、他に愛煙家との外部評価があったとしても、どちらの評価が正しいかを編集者が判断してよい話ではないでしょうと言っているだけのことです。愛犬家 2008年1月27日 (日) 08:08 (UTC)[返信]
          • せっかくコメント依頼から仕切りなおしになったのに、また同じパターンを繰り返すつもりでしょうか。論点を混乱させる混ぜっ返しは止めましょうよ。Kojidoi 2008年1月27日 (日) 13:32 (UTC)[返信]

というかこれ以上何の議論を続ける必要があるのでしょうか。すでに出るべき話は出尽くしているように思います。

  • 用語の妥当性に関して言えば、愛煙家という言葉は客観性に疑義がある(愛煙家=タバコが好きな人(広辞苑)であって、人の内面をあらわす用語であり、その表現を使うことはどうしても主観が入ることになるだろう)。しかし、喫煙者という言葉にはそういう問題はないようである。百科事典の記事たるもの、余計な誤解をできるだけ招かないような明確な論旨をもった文章で構成すべきなのであり、ゆえに、より優れた表現への修正として「愛煙家」をより優れた「喫煙者」という用語に置換することは批判される筋合いのない編集行為である。
  • 編集のプロセスに関して言えば、前述の通り問題のない編集行為である。そして編集行為は普通は「いきなり勝手に」行うものである。しかるに、いちいち合意を取れとかノートで議論しろとか言うのは殆ど言い掛かりに近い。
  • そもそも、喫煙者でも嫌煙者でも愛煙家でも良いが、わざわざ記事に書くべき内容なのか? 人物の理解を深めるとか言うが、将棋指しがタバコをすっている(あるいは好んでいる)という事実が提示されたからといって、だから何?と思ってしまう私の感覚はおかしいのか? 他の人物評を含め、殆どの記事において節ごとバッサリ削除しても良いほどだと私は思う。百歩譲ってもこんな長々しい議論が必要な重要ポイントであるとは思えない。

結論。もういい加減止めたら?Kojidoi 2008年1月27日 (日) 13:32 (UTC)[返信]

  • 百科事典だからこそ、他の専門の辞典よりも様々な情報を多岐に渡り、取り扱います。世の辞典と呼ばれるものは編集方針により、あえて統一した表現・単語で表記する場合もあれば、製作者の人格性が現れてくるような表記だったりと、必ずしもこうでないといけないといったものは無いです(百科事典的である、ないという考え方自体に矛盾がある)。これはもはや別の問題ですが、ひとつの事象を日本語の様々ある表現で彩る(無論その方がより適切だから)のが望まれるのか、例え不正確でも一定の表現に固定して便宜を図った方が良いのかという事になりそう。前者には「読み物・参考資料」としての印象があり、後者は「字引・学術書」の類の印象を受けます(あくまでも自分が)。自分としてはやはり前者が百科事典だと思いますし、少なくとも中庸辺りが適切だと思いますね。--海☆eoxyl 2008年1月27日 (日) 14:36 (UTC)[返信]
    • 百科事典的という表現が受け入れがたいなら、wikiedia的と言い換えましょうか? wikipediaが「製作者の人格性」を重んじているなどという話は聞いたことありませんね。wikipediaのスタンスはWikipedia:完璧な記事あるいは Wikipedia:表記ガイドあたりを読めばわかると思いますが、「世の事典」とやらがどうあれ、wikipediaの目指すものは海☆eoxylさんが志向するものとはちがうようですね。
    • そんなことより、もうひとつ言いたいことがあります。対立意見の要約が、「例え不正確でも一定の表現に固定して便宜を図った方が」ですか! 愛犬家氏は正確性に拘っているからこそかかる編集をしているのでしょう。これをドサクサ紛れに捻じ曲げ、もっともらしい二者択一にして我田引水を図るとは何事でしょうか。言語道断のふざけた態度だと思います。猛省を求む。125.0.128.222 2008年1月27日 (日) 15:14 (UTC)[返信]
    • セッションが時間切れになっていることに気がつきませんでした。上の記事を書いたのは私です。Kojidoi 2008年1月27日 (日) 15:16 (UTC)[返信]
    • 辞典はどんな形にもなりうる事の説明なだけですよ。表記ガイドや完璧な記事、他の項目を見て入ても今後どのような形にウィキペディアがなりうるかは議論の段階にあり、固定せらるるものではありませんという事を言っているだけなんですよ。Wikipedia:ルールすべてを無視しなさいのように、編集について「ルールは受け入れる必要はあるが、その是非について議論できる余地を含んでいる」事も考え方として存在しています。(愛犬家さんと違う観点で)正確性に自分も拘るからこそ、不適切な表記は避けるべきだと自分は思います。(二者択一と思われたかもしれませんが、「あくまでも自分が」と書いているのでそれを汲み取って欲しかったな)--海☆eoxyl 2008年1月27日 (日) 22:15 (UTC)[返信]
      • 「あくまでも自分が」拘りたいならそれはご自由にといったところですが、それならばやはり議論する意味はありません。それぞれ自分の信ずるように勝手にやればいいという結論で終わりですね。Kojidoi 2008年1月28日 (月) 15:20 (UTC)[返信]
  • まる一日休ませていただきました。申し訳ありません。用語の妥当性についてですが、Wikipediaに書く以上、「愛煙家」にしろ「喫煙者」にしろ、執筆者の主観ではなく、何らかの文献やメディア等に記されていたことを記すことが求められます。ですので「愛煙家。」と断定形で書いてあったとしてもそれは「いくつかのメディアで愛煙家と公言している」(自称愛煙家)や「愛煙家と紹介されている」(他称愛煙家)などのことを書きたいのだと推定するのが適切と考えています。「愛煙家」という言葉自体は人の内面を表しますし、「執筆者の主観で愛煙家と記すこと」には主観が混じるのは当然だろうと思いますが、前記の自称愛煙家や他称愛煙家に挙げられる表現でも客観性に懐疑があるというのであれば、そこが理解できないので教えていただきたいです。(前記の自称愛煙家や他称愛煙家に挙げられる表現への変更は、海☆eoxylさんも私も否定していません。)
  • 例えば、愛煙家さんの「『本人が愛煙家を自称しているのだから愛煙家だ』なんて強弁されても信じられない」の一文からは、「その人物が愛煙家であるか」に注目しているようですが、Wikipediaへの執筆にとって重要なのは「その人物が愛煙家であるとするメディア類の存在」であって、「その人物が愛煙家であるか」ではないと思います。「その人物が愛煙家であるか」という観点での正確性を突き詰めれば「喫煙者」なのでしょうが、そこを突き詰めるのはちょっと違うのではないかと。(だから「その人物が愛煙家であるとするメディア類の存在」に対する正確性として要出典を挙げています)
  • 編集のプロセスについて、編集に疑問を持つ人がいれば対話で解決するべきというのがWikipediaの方針だったと思います。異なる意見の人がいること自体は当然のことですので、私が逆の立場にいれば言い掛かりだとは多分思わない(異なる意見の人が疑問を投げかけてきているだけだと思う)でしょう、私なら。言い掛かりと呼ぶ理由が何なのか理解できないので教えていただきたいです。--NISYAN 2008年1月27日 (日) 23:46 (UTC)[返信]
    • なんかばらばらにレスをつけたのがダメだということなので投稿し直します。
      「いくつかのメディアで愛煙家と公言している」というスタンスの記述には愛犬家氏も異議を唱えていないと思いましたが、私の記憶違いですか? そこは論点ではないと思いますが?
      自称しているのだから云々に関しては、確かに愛犬家氏も余計な枝葉に話を突っ込ませすぎでした。そんなことをいちいち敷衍しなくても編集の根拠は充分に説明できたわけですから。とはいえ、これはプレゼンテーションの問題で、結論は動かないでしょうね。
      対話は結構ですが、必須条件でもないノートでの議論等を強要する姿勢がおかしいと申し上げています。Kojidoi 2008年1月28日 (月) 15:20 (UTC)[返信]
  • 議論、対話は何も必ず白黒つけないといけないようなもんでもないですから、色々な観点からの対話があってもいいかと。その内容が色々な人の目に触れて、考えるひとつの機会になればそれでいいんじゃないかと。ウィキペディアというサイトを好み、寄稿する人々の参考意見になればいいんじゃないかと。--海☆eoxyl 2008年1月28日 (月) 22:34 (UTC)[返信]
      • ときどき愛犬家さんが「その人物が愛煙家であるか」に注目しているように見えたので。客観的にそこが論点じゃないと思っている人が多いという確認がとれればそれでいいです。で、考え直すとKojidoiさんの「バッサリ削除」には賛成なんです。なんというか、「喫煙者」では「好きなのか嫌いだが止められないのか判らないが喫煙習慣がある」というだけのことしか書いてないわけですが、特筆すべき情報とは思えず、削除するのがより適切な気がします。うまく伝わるかどうか判りませんが、「毎朝パン食」程度の情報書いても仕方ないというか。愛犬家さんが「愛煙家」を「喫煙者」に変えるのではなく削除(他の執筆者が疑いようのない削除理由、例えば出典がないためとでも要約欄に書いて)していればもう少し違ったんじゃないかと思います。「愛煙家」へのこだわりとか「バッサリ削除」は判るのですが、「喫煙者」はこだわるというのは「特筆すべき記述か」という観点では疑問です。一旦バッサリ消して、単なる「愛煙家」じゃなく、煙草に関する何らかの特筆すべきエピソード(愛煙家と呼ばれる人にはそういうインタビュー記事の一つくらいはあるはず)付きで「愛煙家」であることを執筆するのが双方納得できる形なのかなと思うようになりました。(もっとも既に愛煙家という記述があるなら、それに加筆するほうがよりコストが掛からない方法じゃないかとも思いますが)--NISYAN 2008年1月29日 (火) 01:24 (UTC) 下線部を追記--NISYAN 2008年1月29日 (火) 01:39 (UTC)[返信]
  • コメント依頼に書こうと思ったのだが、あちらはどういう節構造になっているのかよく分からなかったので、こちらに。ただ単にタバコを吸っている(それ以上の意味が無い)という人に対して「愛煙家」という言葉が使われているのであれば、それは「喫煙者」に変えるのは妥当性がある。しかし、特筆すべき程にタバコ好きである人に対し「愛煙家」と書かれているところを、ただ単に「喫煙者」と変えるのは、改悪にしかならない。「愛煙家」に変わる「特筆すべき程にタバコ好きな喫煙者」を意味する言葉を生み出せないならば、botの如く「愛煙家」を「喫煙者」に変えるのは止めていただきたい。愛犬家氏のこの編集をみて唖然としてしまった。--ラッキースター・キッド ◆Luck.w.AEQ 2008年2月11日 (月) 01:29 (UTC)[返信]
禁煙を推奨されている部隊で隠れて吸っているというだけならば、「特筆すべき程にニコチン依存症に罹患している人」しか見えませんけどね。編集前に一応確認してみましたが、著作者から「愛煙家」との評価が明確に示されている訳でもありませんし、そういった公式な評価が無い以上、「愛煙家」との主観的評価は避け、喫煙者と記述することが妥当です。愛犬家 2008年2月11日 (月) 01:51 (UTC)[返信]
確かにラッキースター・キッド ◆Luck.w.AEQ氏の指摘した編集は、文章を壊してしまっている。こういった文章自体を損なう編集は、「言葉狩り」といわれても仕方ない。自身で読んで、違和感は無いのですか?--カイの迷宮 2008年2月11日 (月) 02:21 (UTC)[返信]
感覚の違いかもしれませんが、違和感はありませんよ。タバコを吸っていることから考えても「喫煙者」であることは事実でしょう。むしろ著作者などが公式に「愛煙家」との評価を与えている訳でもないのに、編集者が「愛煙家」との評価を下してしまうことに違和感を覚えます。
いずれにしてもラッキースター・キッドさんも「喫煙者」との記述を外し、「愛煙家」との評価も書かない編集をされておりますし、本件に関してはエピソードのみで「喫煙者」とも「愛煙家」とも書かないとの合意が得られたものと思いますが如何でしょうかね。編集者の役割は事実を書くことであって、自らの評価を下すことではありませんので。愛犬家 2008年2月11日 (月) 02:33 (UTC)[返信]
「合意」という名の下に一律編集するのではなく、個別に判断せよ。我らはbotではなく人間なのだから。--ラッキースター・キッド ◆Luck.w.AEQ 2008年2月11日 (月) 02:39 (UTC)[返信]
勿論個別に判断していますよ。私としても出典を探した上で編集者の主観的評価と判断できるものを編集しているだけですからね。無論botでもありません。しかし、ウィキペディアの方針に従って中立的な態度で編集に臨むように努めると、結果的に機械的に見えてしまうのかもしれませんね。愛犬家 2008年2月11日 (月) 02:55 (UTC)[返信]
感覚の違いで済む問題だろうか?ウィキペディアは、日本語の文章で読者に説明することが求められている場所。愛犬家氏の編集のように、単に「愛煙家」を「喫煙者」に置き換えて違和感がないってのは、日本語の文章を書く上で大きな問題を抱えていると感じる。--カイの迷宮 2008年2月11日 (月) 08:35 (UTC)[返信]
既に再三説明していることなので、過去のやり取りをお読み下さい。
本件の場合、著作者が公式に「愛煙家」との評価を与えている訳ではないのですから、編集者が個人的な主観に基づいて登場人物に「愛煙家」との評価を下すのでは説明文としても適切ではありません。
また、本件は「喫煙者」との表現でも十分に意味は伝わるし、文章は壊れていない。敢えて自明である「喫煙者」との事実も書かず「愛煙家」との評価を下さず、エピソードのみ記述するといった現在の記述でも、やはり十分に意味は伝わる訳です。(だからこそ、私は現在のラッキースターキッドさんの編集結果を尊重している訳ですが。)
それを明確な根拠もないまま、執拗に「愛煙家」との主観的評価を下すことに拘るのであれば、それは特定の観点を推進しようという姿勢であるし、ウィキペディアの公式な方針にも反するものと思いますが如何でしょうかね。愛犬家 2008年2月11日 (月) 09:13 (UTC)[返信]
勘違いも甚だしい。「愛煙家」を「喫煙者」に変更することを問題視しているのではない。単純な置き換えにより、文章に支障をきたす編集手段を問題にしている。自身の編集に責任を持つのなら、きちんとした文章に変えてるのは必須です。意味の異なる「愛煙家」から「喫煙者」への変更って観点が、すっかり抜け落ちている。コメント依頼から最初にきた時に私が書いた「機械的に言葉を置き換えるのは、正確性を損なう恐れがある」って意味をまったく無視する編集を見て、悲しいですね。--カイの迷宮 2008年2月11日 (月) 11:28 (UTC)[返信]
勘違いとか、悲しいと仰られましても、先程も申し上げたとおり、当方も「喫煙者」との記述が文章として適切だと判断して編集しているのですから、単純な置き換えではないですよ。
また、描写として「愛煙家」との表現を用いず、「喫煙者」との記述も自明だからいらない、エピソードだけ書きましょうという話であれば、それはそれで納得できるので、ラッキースターキッドさんの編集に合意している訳です。
大体、部隊から禁止されてなお隠れてタバコを吸っているなんて話は、禁止というルールも守れない程に耽溺しているという表現であって、むしろニコチン依存症の人物描写なのではありませんか。
それともカイの迷宮さんは「ルールを守らず、隠れて喫煙するのが愛煙家だ」とでも仰るのでしょうか?
文章に支障を来たし正確性を損なっているのは「喫煙者」との記述ではなく、むしろ「愛煙家」との記述であると存じます。愛犬家 2008年2月11日 (月) 11:59 (UTC)[返信]
こと愛犬家氏の編集行為に関しては[8]辺りを見るだけでも噴飯物(たしかMSX2版メタルギアではマニュアルだかゲーム内の説明で既に「ラッキーストライクを愛用」とかいう言及が成されていた)なんだけど、それらに関しては愛犬家氏個人の問題であり(小生が提起した)Wikipedia:コメント依頼/愛犬家でやったほうがいいと思います。もっとも、愛犬家氏の発言は反論のための反論で、その各々が場所によって食い違いを感じさせる(いまさら膨大な量になるので過去の発言をチェックして何処がと具体的に示すのも「やってらんない」けど)ために氏自身がそういう指摘に対して耳を傾けるかどうかは疑わしいと思っていますが…2007年12月10日前後の氏の編集は、大体4分に1記事の割合で「愛煙家」と記事中にある記述を「喫煙者」に置換しており、この4分の間にそれら記事の妥当性を資料を当たったとも考えにくいにもかかわらず、それを持って言葉狩りだと批判されると「言葉狩りでは在りません」と主張するようなお人ですし。
で、元々このトピック自体が「こういった言葉狩りのような編集は、看過すべきでは無いように思うのですが、ウイキペディアでは、そういった言葉狩りのような編集を、禁止する決まりは無いのでしょうか。」という「言葉狩りのような編集行為にどう対応すべきか」という疑問提起である以上は、「愛煙家/喫煙者」置換編集だけに限定させるべきではないように感じます。--夜飛/ 2008年2月11日 (月) 12:05 (UTC)[返信]
タバコにおいて事実と異なる編集をされていた方に、個人の問題等と言われたくはありませんが、貴方の仰っている12月頃の編集の殆どは、以前からボチボチと調べていたものをまとめて反映しただけのことです。受動喫煙において疑似科学論文に基づく編集が強行されていた事もありましたし、文章として不自然なところで「愛煙家」「愛煙している」なんて記述が無闇やたらと使われていましたから、ずっと疑問に思って調べていましたからね。愛犬家 2008年2月11日 (月) 12:34 (UTC)[返信]
「ボチボチと調べていたものをまとめて反映した」割には、記述の増減が余りに少ない(調べる過程で記事に出来そうな情報も拾えたでしょうに)のは何故でしょうねえ…置換だけを目的として「ボチボチ調べ」てたなら記事の増加がなくても納得ですが、その場合は記事を増強しようという視点ではなく、言葉狩りのために論拠を拾っていただけになっちゃいますので、氏の主張は明らかに自己矛盾を起こすわけで。まあ、その場の議論と全く関係ない相手の非と考える事柄を並べて自分への批判を逸らそうとするような人には、事実よりもどう言い繕えるかが問題かも知れませんけどね(漏電中)。--夜飛/ 2008年2月11日 (月) 13:59 (UTC)[返信]

長く議論が続いているようですが、愛煙家喫煙者と変えて「文章に支障をきたす」「意味をまったく無視する編集」と主張される方(カイの迷宮さん)は、どうやって「愛煙家であって依存症ではない」ことを検証するのでしょうか?愛犬家氏のこの編集の例で言えば、いかにも単なるニコチン中毒症状ですが?検証できなければ、喫煙者とするのが正確でしょう。--Mega stride 2008年2月11日 (月) 15:56 (UTC)[返信]

いい加減に人の書き込みをきちんと読んでくれ。”「愛煙家」を「喫煙者」に変更することを問題視しているのではない。単純な置き換えにより、文章に支障をきたす編集手段を問題にしている。”と書いているのが理解できないのでしょうか。これに対して”「愛煙家であって依存症ではない」ことを検証”って発想がどうやれば出てくるのか、まったく理解不能です。意図的に論点をすり替えているのですか?「愛煙家」を「喫煙者」に変えるのであれば、単純に言葉を置き換えるのではなく、きちんと文章の意味が通じるように編集してくれと書いている。「愛煙家」と「喫煙者」では、意味が異なるってことを理解していますか?--カイの迷宮 2008年2月12日 (火) 08:28 (UTC)[返信]
Mega strideさんへ。フィクションの人物で設定上に喫煙行為を愛好していることが明示されているキャラクターに於いて、それを「喫煙依存」と評するのは独自研究の非中立的な視点だと思いますけど(架空のキャラクターは生物ではないため仮説を立てることは出来ても医学的に調べようがない)。というか、言葉の解釈に関しては辞書にある意味を第一義とし、それを他の用法で用いるのに注釈もなく記述することは、個人の価値観を反映させる小説やエッセイではありかもしれませんが、百科事典では事物を説明する上では、辞書にある以外の余計な意味を付与していては、説明なんて到底できっこありませんので、避けたほうが宜しいでしょう。--夜飛/ 2008年2月12日 (火) 09:21 (UTC)[返信]
本件の場合「部隊から禁止されていても、なお隠れて吸ってしまう」といったルールも守れない登場人物の描写について「愛煙家の描写」と捉えるか、「ニコチン依存症の描写」と捉えるか、というのが論点でしょう。
事前に調べた限り、著者がこの登場人物について明確に「愛煙家」との評価を下している訳ではありません。
こういった場合は、編集者の勝手な評価を書くべきではなく、現在の記述のようにエピソードのみ記述するか、描写として異論の差し挟み様の無い事実である「喫煙者」と記述することが適切でしょう。
「タバコを吸っている」という描写から読み取れるのは「喫煙者」ということだけですし、「部隊から禁止されていても、なお隠れて吸ってしまう」という描写から読み取れるのは、精々のところ「ルールを守れない人」とか「隠れてルールを破る人」、「耽溺している人」ぐらいのものです。愛犬家 2008年2月12日 (火) 13:36 (UTC)[返信]
だったら、「部隊から禁止されていても、なお隠れて吸ってしまう」とだけ書けば良い筈です。「喫煙者」って言葉は文章的に不要。愛犬家氏の実際の編集を見ていると、「喫煙者」という言葉に異様に執着し、それが周囲との無用な摩擦を引き起こした挙句に、記事自体を損ねているように見える。何がここまで議論を不毛なものにしているか、少しは考えて欲しい。更に指摘するなら、「部隊から禁止」はされていない。あくまで「禁煙が推奨」されているに過ぎない。こういった点からも、事実を歪めて持論を正当化する傾向が垣間見える。--カイの迷宮 2008年2月12日 (火) 13:48 (UTC)[返信]
何度も述べていますが、本件については「喫煙者」と書いても、書かなくても、どちらでも問題ないと言っています。
また「書かなければいいじゃないか」と仰るのならば、私もエピソードのみの記述で合意して現在の記述になっている訳で、話は終わっている筈です。貴方はそもそも何に文句を言っていたのですか?
結局のところ、当事者間で解決済みの編集について、カイの迷宮さんが訳の判らないことを言って不毛な議論を蒸し返していただけだということなのではありませんか。
それと推奨であっても「禁煙」(要するに喫煙の禁止)を言われて、隠れて吸っている訳ですから、こういう描写では何れにしても「愛煙家」とは言い難い訳ですよ。枝葉末節について揚げ足取りのような真似までして、「喫煙者」と書いて特段の問題がある訳でもなし、問題のある箇所を直したことに対して執拗に文句を付けてくる。これでは言い掛かりとしか言い様がありませんよ。他人に自分の主張をよく読めという前に、少しは他人の述べていることをよく読まれては如何ですか?愛犬家 2008年2月12日 (火) 14:42 (UTC)[返信]

では、「不毛な議論」は終わりにしましょう。当該編集部分では、「部隊から禁止されていても、なお隠れて吸ってしまう」で合意、ということでよろしいですか?--Mega stride 2008年2月12日 (火) 14:57 (UTC)[返信]

最初にそう書いた愛犬家氏が出典を提示するのなら、賛成しますよ。--カイの迷宮 2008年2月12日 (火) 15:33 (UTC)[返信]
(追記)出典が必要なのは「部隊から禁止」の部分ですから、間違えないように。--カイの迷宮 2008年2月12日 (火) 15:39 (UTC)[返信]

合意提案

[編集]

(いつも通り簡潔に書きます)では、他人の記述を引用せず、私から本文に即して改めて合意提案をします。当該編集部分では、「部隊では赤川によって禁煙が推奨されているが、それでも隠れて煙草を吸う。」で合意、ということでよろしいですか?--Mega stride 2008年2月12日 (火) 15:53 (UTC)[返信]

反対の方は、ただ反対というだけでなく、修正文を提案してください。--Mega stride 2008年2月12日 (火) 15:55 (UTC)[返信]

(コメント)特に拘るつもりもありませんので、もとより合意です。愛犬家 2008年2月12日 (火) 16:00 (UTC)[返信]

(コメント)Mega strideさんの提案行為に敬意を表します。全く、サーバー資源を無駄にしているだけで何の実りのない馬鹿馬鹿しい議論だと思います。Kojidoi 2008年2月12日 (火) 18:56 (UTC)[返信]

待たれよ。何故この場においてダブルブリッドの記事の編集方針について合意する必要があるのだ。これはノート:ダブルブリッド等で話し合うべきで、ただの言葉狩りを看過すべきか話し合っているこの井戸端という場は、明らかに場所違いだ。
そもそも、愛犬家氏が議論を切り出すならまだ話は分かるが(とはいえ場所違いなのは変わらない)、何故Mega stride氏が議論を切り出したのか、まるで意味が分からない。
はっきり言うが、この場において「合意」などしても、無意味無益だ。Mega strideさんの提案行為には苦言を呈さざるを得ない。--ラッキースター・キッド ◆Luck.w.AEQ 2008年2月13日 (水) 01:16 (UTC)[返信]
既に言葉狩りとはいえないと結論が出、いわゆる言葉狩りに相当する編集は行うつもりはないと愛犬家氏も言っており、あなた方の蒸し返しのほうがよほど無意味無益ですよ。当の昔に論点は消滅している。Kojidoi 2008年2月13日 (水) 10:43 (UTC)[返信]

(コメント)まさか、この場で個別記事の合意提案が出るとは思わなかった。当然、記事のノートで提案されるものと思って、その点は注釈をつけなかったが。。。。絶句。--カイの迷宮 2008年2月13日 (水) 03:13 (UTC)[返信]

(コメント:合意形成は無意味)例示された所定記事のありようのみを論じていないにもかかわらず、再三にわたって問題を例示された記事のみの問題に矮小化させ、各々の記述がどうとかと応酬を繰り返したのが本トピックが無駄に伸びた原因。話を例示された事象に限定させて矮小化を試み交ぜ返している側には自重を願いたい。っていうか、こんなところで該当記事に扱われた事物に詳しくない者が何を持って合意形成しようというのか。単に「何が正しいか判じがたいから反対意見のコメントが付かないこと」をもって「否定されなかった」という結果を既成事実として、自分好みの編集で済ませたいだけなんじゃないかと思う次第。知らない事物を扱った記事の記述の言葉尻を捕まえてそれががどうとか論じるくらいなら、問題となった編集を差し戻して「その編集はなかったこと」にして、対象事物に詳しい人にのみ記事を書かせていったほうが、よっぽど記事発展のためには適切かと存じます。--夜飛/ 2008年2月13日 (水) 11:44 (UTC)[返信]

(コメント:合意形成は無意味に賛成)上記に賛成/反対意見のまとめがあるわけですが、どうもそれは双方生かされず同様の意見がループしてるように思います。特に自分が気になったのは、愛煙家という表現は検証可能性が無いからだめだ という「新説」についてです。多くの人間が賛成したり、変えようという大きなムーブメントが起こっていない限り(多くの人がそれを知りえる状態にならない限り)不用意に言葉遣いについて制限をかけたり変更してはならないんではないでしょうか。双方の考えは折衝状態にあり、ここで仮に合意形成しても、それが世間の実情に合致するかどうかはわかりません。愛煙家という表現を変更しようとするのは正直いって公平じゃないと思いますね。--海☆eoxyl 2008年2月23日 (土) 09:17 (UTC)[返信]