「ビール、もう一杯もらっていいですか」...写真週刊誌記者が目にした、伝説のストリッパー一条が午前八時から酒をあおる「衝撃の姿」

1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。

「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

『踊る菩薩』連載第108回

「不本意ながら股を開くことになった...」お寺でストリッパーが講演会!?一条さゆりが語った壮絶な半生』より続く

一条への取材

出家の道を断たれた一条はしばらく、西成区・花園交差点近くのアパートや簡易宿泊所で暮らしていた。当時の彼女をインタビューしたライターに佐村多賀雄がいる。50(昭和25)年に大阪・難波で生まれ、大阪芸術大学を卒業し、奈良新聞で約10年間、主に遊軍記者をやった。その後、フリーとなり、写真週刊誌『FRIDAY』で原稿を書いてきた。

佐村は暴動の取材で何度も釜ケ崎を訪れていた。一条がここに暮らしていると知り、インタビューしてみたいと思った。

94年春、南海電鉄新今宮駅周辺で探して回ると、通りがかりの男性が「あの屋台で飲んでるはずやわ」と教えてくれた。訪ねてみると、確かにガード下に彼女の姿があった。長袖シャツにニットのカーディガンを羽織り、髪には白いものが目立っていた。まだ、昼過ぎである。あごの下から胸元にかけ、やけどの痕が痛々しい。

佐村は横に座ると、「一条さんですね」と声を掛けた。当時を思い出しながら、佐村はこう語る。

「写真週刊誌であることを伝えても、驚いたり、嫌がったりということはなかったように思います。マスコミの取材は慣れているなと思った記憶がありますから」

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佐村は生ビールを注文し、一条とジョッキを合わせて乾杯した。ジョッキを持ち上げながら彼女は言った。

「死んでも生きてもこれだけが頼りです。私にもしものことがあったら、ビールを(墓に)かけてほしいくらい」