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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

石破新総裁「日米地位協定見直し」必ず実現を~沖縄の自己決定権は最優先の課題

 自民党の新総裁に9月27日、石破茂・元幹事長が選出されました。候補9人が乱立する中で1回目の投票でトップになったのは高市早苗・経済安全保障担当相でした。閣僚でありながら靖国神社に参拝し、首相就任後の参拝も否定しないなど、ある意味、右派色の強さは安倍晋三元首相を上回るほどで、安倍元首相支持層からも強い待望論がありました。決選投票での逆転は、衆院解散・総選挙を控えた自民党の国会議員たちの中に、これ以上、党の“右ブレ”観が増すのは避けたいとの思惑が少なくなかったことを示しているように感じます。
 “一強”を誇った安倍政権、それを継承した菅政権、岸田政権と、自民党には多様性がなくなり、日本社会にも民主主義の後退の危機感が強まっていました。石破総裁によって、自民党が「安倍政治以前」に戻って行くことが期待できるなら、そのこと自体は悪いことではないだろうと思います。

 石破総裁、そして近く発足する石破政権には様々な政治課題、政策課題が指摘されています。ないがしろにすることは許されない、何があっても取り組まなければならないのは、日米地位協定の見直しです。このブログの以前の記事で紹介しました。総裁選の期間中の9月17日、基地の過剰な集中で過酷な負担を強いられている沖縄の地で石破総裁が口にした「公約」です。改定を何としても実現させなければなりません。

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 日本政府と沖縄県が対立したまま、工事が強行されている辺野古の新基地建設も、いったん工事を止めて、改めて沖縄県と協議を持つべきです。沖縄の過重な基地負担は、他の地域では例がないほど一方的に、強圧的に押し付けられています。人権を保障し差別を許さない観点や、国と自治体の対等の原則の観点を踏まえるなら、沖縄の過重な負担の解消は、最優先に取り組まなければならない課題です。沖縄に必要なのは、地域の人たちが、地域の未来を自ら決めることができる「自己決定権」です。
 
 沖縄の地元紙の沖縄タイムスと琉球新報はともに28日付の社説で、石破総裁に対し地位協定改定と基地負担の軽減、軍拡路線の修正を求めています。一部を書きとめておきます。
 両紙とも、石破総裁が党幹事長当時の2013年、沖縄県選出の党所属の国会議員に、米軍普天間飛行場の県外移設の主張を取り下げさせたことにも触れています。新総裁、新政権に対する沖縄からの視線は厳しいと知るべきです。

【沖縄タイムス】
▽「自民新総裁に石破氏 地位協定の改定進めよ」

 米軍の法的な特権を認める日米地位協定は、事件・事故が起きても日本側が全面的に捜査や調査できないなど、不平等さの元凶となっている。県が長年、改定を要求しているが、政府は運用改善でかわしてきた。 石破氏には言葉通り、約束を確実に実現してほしい。
 「米軍基地を自衛隊と共同管理する」考えも示している。
 県内では事件や事故、環境汚染などが起こるたび、米軍基地に立ち入りできないことが問題になってきた。基地の共同管理が、国内法適用など、こうした問題の解決につながるのか。慎重に見極めたい。
 石破氏といえば県民には忘れられない光景がある。
 幹事長だった2013年、米軍普天間飛行場の県外移設を訴えていた自民党の県関係国会議員5人と会談し「辺野古容認」に方針転換させた。うなだれる議員を横に座らせ会見する姿は「平成の琉球処分」と呼ばれ、批判を浴びた。
 演説会で石破氏は「十分に沖縄の理解を得て決めたかというと必ずしもそうではなかった」と振り返った。
 県民投票で7割が反対した新基地建設を進めるなど政府はこれまで県民の民意をないがしろにしてきた。
 地位協定改定や共同管理が実現すれば沖縄の基地対応では大きな変化になる。県と対話しながら丁寧に進めてもらいたい。
 県民が求めているのは目に見える形での負担軽減だ。

▽琉球新報「自民新総裁に石破氏 県要望に沿う協定改定を」 ※同紙サイトで全文が読めます
 https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-3501571.html

 総裁選後の会見で地位協定改定を求める党県連など沖縄の声を「等閑視すべきだとは思っていない」と述べ、強い姿勢で臨む考えを示した。
 これを口約束で終わらせてはならない。沖縄県は米軍に特権的な地位を与える協定の改定を要望し続けている。県の要望に沿い、改定実現に向けて具体的に行動することが求められる。対米交渉にも果敢に挑んでもらいたい。
 持論である「アジア版北大西洋条約機構(NATO)」創設を政策に掲げた。しかし、このような施策が東アジアに無用な緊張を生むことにならないか。
 沖縄から石破氏に注文したいのは軍備増強ではなく、対話による平和と安定の構築である。「台湾有事」を念頭に、岸田政権下で急速に進んだ宮古、八重山地区の自衛隊配備は中国をいたずらに刺激するだけでなく、地域住民の新たな基地負担となっている。このような軍備増強路線を修正してもらいたい。
 辺野古新基地建設で沖縄の民意を押しつぶすような強硬姿勢も改めるべきだ。
 2013年11月、党幹事長だった石破氏は自民県選出・出身国会議員5氏の普天間県外移設公約を撤回させ、辺野古移設容認の発表に同席させた。石破氏と、その横でうなだれて座る5氏の姿は「平成の琉球処分」とも例えられた。その時の自民党や石破氏の高圧的な態度を県民は今も忘れてはいない。

 全国紙5紙(朝日、毎日、読売、日経、産経)の28日付の社説も、そろって石破新総裁がテーマでした。総裁選の分析や新総裁、新政権の課題などです。このうち、地位協定の見直しの公約に触れたのは毎日新聞だけです。
 読売新聞は、米国内に自衛隊の訓練基地をつくるとの石破総裁の提案に触れていますが、日米の同盟関係を不安定にしてはならないとの主張が主眼です。産経新聞は、安倍元首相以降の外交安全保障政策を継承し発展させるよう求め、アジア版NATO構想よりも台湾有事の抑止を優先すべきだと主張しています。
 記録として、各紙の社説を一覧にまとめました。

 

不祥事続きの海自にさらに負荷の悪循環~護衛艦の台湾海峡通過への危惧

 海上自衛隊の護衛艦「さざなみ」が9月25日、台湾海峡を通過したと報じられました。最初に報じたのは読売新聞のようです。
※「海自護衛艦『さざなみ』が台湾海峡を初通過、岸田首相が派遣指示…軍事的威圧強める中国をけん制」=9月26日05:00
 https://www.yomiuri.co.jp/politics/20240925-OYT1T50170/

 海上自衛隊の護衛艦「さざなみ」が25日、自衛隊発足以来、初めて台湾海峡を通過したことがわかった。中国は8月の情報収集機による日本領空侵犯などで軍事的な威圧を強めており、それらの対抗措置として中国をけん制する狙いがある。岸田首相が政府内で検討を進めた結果、護衛艦の派遣を指示した。

 読売新聞は解説記事も掲載しています。見出しは「日本の安全保障環境に危機感」。前半は以下の通りです。

 海上自衛隊の護衛艦が台湾海峡の通過に初めて踏み切ったのは、日本の主権を脅かす中国軍の活動に対し、 毅然とした態度を示すためだ。
 中国の 習近平国家主席は2027年までに台湾侵攻の準備を整えるように命じているとされ、中国軍の最近の活発な動きはその一環とみる向きもある。
 日本政府は軍事的緊張を高めるべきではないとして、海自艦艇の台湾海峡通過に慎重な立場を取ってきたが、岸田首相は日本の安全保障環境に危機感を強め、そうした姿勢では平和を守れないと決断したようだ。

 日本政府の軍拡方針などを読売新聞は社論として支持しています。中国に対して、軍事面で強硬姿勢に転換したことについても、同紙としては当然と言えば当然なのでしょうが、好意的なトーンです。

 わたしは危うさを感じます。中国との軍事的緊張を高めてしまって、今の自衛隊がその緊張に適切に対応できるのか疑問です。読売新聞は触れていませんが、「護衛艦」と「中国」という二つのキーワードを巡っては、7月に護衛艦「すずつき」が中国領海に入り込む出来事がありました。艦長が正確な位置を認識していなかったこと、事実上更迭されたことが、共同通信の報道で明らかになったばかりです。このニュースのことは、このブログの一つ前の記事で紹介しました。

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 特定秘密の違法な運用や、訓練中のヘリ同士の衝突事故など、海上自衛隊ではさまざまなレベルで不祥事が頻発しています。任務や運用が能力の限界を超え、組織が疲弊していることを疑った方がいい状況です。「すずつき」の件は、適材適所の人員配置がままならなくなっていることを示している可能性があります。
 護衛艦の台湾海峡通過に中国は反発を強めており、対抗措置に出て来ることは容易に予想されます。その対応のために、海上自衛隊にますます負荷がかかる悪循環に陥ります。緊張が高まる一方ということになれば、偶発的なアクシデントを引き起こしてしまう危険も高まります。そんな状況では、組織の立て直しもままなりません。精神力で乗り切れ、とでも言うのでしょうか。
 岸田文雄首相は裏金問題では何らリーダーシップを示すこともなく、優柔不断さだけが目立ちました。それなのに、あと1週間もすれば首相を退任するというこのタイミングで、何をいきり立って、護衛艦の台湾海峡通過を命じたのでしょうか。政治の都合で、自衛隊をいいように振り回しているようにも思えます。
 読売以外の新聞各紙がどのようなスタンスを示すのか、注視したいと思います。ナショナリズムを揺さぶってしまう問題で、メディアが向く方向が一つにまとまってしまうのは危ういです。歴史の教訓です。

[写真]護衛艦「さざなみ」(出典:海上自衛隊HP)

軍拡の中で自衛隊に何が起きているのか~中国領海航行の護衛艦、正確な位置を艦長把握せず

 海上自衛隊を巡って共同通信が配信したニュースを見て驚きました。
 ことし7月4日、中国東部浙江省の沖合を航行していた護衛艦「すずつき」が一時、中国の領海内に入ったという出来事がありました。当時、中国軍の訓練の監視任務に当たっていました。中国側から退去勧告を受けて、領海の外に出たと報じられています。共同通信の報道によると、その領海航行について日本政府は中国に、「すずつき」の艦長が自艦の正確な位置を把握していなかったと伝えたとのことです。

※「中国領海への誤侵入、艦長更迭 海自艦、位置把握せず」(共同通信)
=2024年9月23日05時14分

 【北京共同】海上自衛隊の護衛艦「すずつき」が7月に中国領海を一時航行したことについて、艦長が正確な位置を把握せず誤って領海侵入したと日本政府が中国側に伝達したことが22日分かった。海自は重大なミスがあったとして艦長を事実上更迭した。乗員の処分も検討している。複数の日中外交筋が明らかにした。海自の能力が疑問視される事態で、日本の安全保障にとって大きな不安要因だ。

www.47news.jp

 正確な位置を把握していないとは、自衛官でなくても、船乗りとして資質や能力、適性を疑わざるを得ない事態です。現に海自は艦長を事実上更迭したとのことです。艦長として艦全体を掌握することができない、そのような人材が武装した軍用艦の艦長の職に就いていたことは、海自が深刻な人材不足の状況にあることを疑うべきではないかと感じます。
 今年7月、防衛省が大規模な不祥事処分を発表したことに対して、何が本質だったか、このブログでも触れました。海自の護衛艦で特定秘密の違法運用が続いていました。個々人の規律(気の緩み)の問題を超えて、組織を想定通りに機能させることができない構造のとの構造的な問題です。自艦を掌握できない艦長の存在は、根は同じです。できもしないことをあれこれ自衛隊にやらせようとしているのではないか-。そう疑った方がいい状況であるように感じます。

 海自は「すずつき」の中国領海航行の調査結果を公表しない、とも共同通信は伝えています。危うさを感じます。

news-worker.hatenablog.com

 海自では今年4月、哨戒ヘリ2機が伊豆諸島の鳥島東方海域で衝突し、乗員8人が死亡する事故が起きました。乗員の見張りが不十分だったとの調査結果を海自は公表しています。共同通信が新聞用に配信している長文のサイド記事によると、防衛省内では、海自でミスが相次いでいることに対し、訓練の熟練度を高める取り組みが不可欠だとの意見が高まっているとのことです。しかし、問題は訓練の不足なのでしょうか。訓練を強化して何とかなると本気で思っているのだとしたら、旧日本軍の精神主義の再来になることを危惧します。
 現在の日本政府の軍拡と自衛隊の現状をどうとらえるか。マスメディアの報道の視点も問われると感じます。

[写真]護衛艦「すずつき」(出典:海上自衛隊HP)

【追記】2024年9月24日21時15分

 海事に詳しい方からご指摘をいただきました。船橋当直者がプロであろうが素人であろうが、今の船には、全地球測位システム(GPS)、電子海図(ECDIS)、船舶自動識別装置(AIS)などがあり、自動車のカーナビより正確な位置情報が自動的に表示されているとのことです。
 護衛艦でこうした設備が通常どのように運用されているか、はっきりした知識はないのですが、民間で活用されている技術の水準を見ても、基準排水量5100トン、乗員約200人の軍用艦の艦長が、自分がどこを航行しているのか分からなかったとすれば、極めて異常な事態です。艦内でいったい何が起きていたのか。よほどのことがあったのか。だから公表を控えるというのでしょうか。
 大規模な軍拡が進んでいる中で、自衛隊が身の丈に合わない任務を負っていることの歪みが表面化した可能性がある、と受け止めた方がいいように思います。軍拡でいくら最新の兵器をそろえても、今の自衛隊は運用する態勢が追いつかないのではないでしょうか。

 

石破元幹事長「日米地位協定見直す」発言のニュースバリュー ※追記:本土メディアに役割と責任

 自民党総裁選で9月17日、「おやっ」と思うニュースがありました。那覇市で開かれた候補者9人の演説会で、石破茂元幹事長が、日米地位協定の見直しに着手することを表明しました。
 共同通信の速報がネット上に流れたのは午後4時半ごろ。見出しは「日米地位協定の見直しに着手すると石破氏」でした。その後、詳しい内容を盛り込んだ記事が配信されています。

※「石破氏『日米地位協定見直す』 高市、小泉氏は産業振興」=2024年9月17日(同内容の記事がヤフーニュースでは16時59分にアップロードされています)
 https://nordot.app/1208684210481397955?c=39550187727945729

 自民党総裁選の9候補が17日、那覇市内で演説会に臨んだ。石破茂元幹事長(67)は米軍の法的な特権を認めた日米地位協定について「見直しに着手する」と表明した。「基地は自衛隊と(米軍の)共同管理だ。日本の責任も重くなるが、主権国家としての責任を果たさなければならない」と述べた。
(中略)
 石破氏は2004年の沖縄国際大(宜野湾市)に米軍ヘリコプターが墜落した事故に触れ「沖縄の警察は(現場に)入れず、機体の残骸は米軍が回収していった」と説明。「どれほど難しいかは承知しているが、運用の改善だけで事が済むとは思わない」と指摘した。

 日米地位協定とは、日米安全保障条約に基づき、日本に駐留する米軍と米軍人らの法的地位を定めた取り決めです。協定が定める日米の地位は対等ではなく、米軍機の墜落事故では、墜落現場が米軍施設外であっても、日本の捜査機関は独自に捜査や検証ができません。石破元幹事長が触れた沖縄国際大のヘリ墜落事故は代表例です。日本の警察が米兵の逮捕状を取っても、起訴前に身柄を引き渡すかどうかの決定権は米国にあります。1960年の締結以降、一度も改定されておらず、米軍や米軍人による事件事故をめぐって、しばしば是正が必要と指摘されてきましたが、運用面の見直しにとどまっています。
 その地位協定について、防衛大臣や党幹事長の経験を持つ自民党の政治家が「見直し」を言明しました。同党のいわゆる有力政治家では初めてです。しかも、発言の場所は在日米軍の専用施設の7割が集中する沖縄。石破元幹事長は今回の総裁選では有力候補であると伝えられています。速報を知って、「これは大きなニュースかもしれない」と思いました。
 ただちに見直しに至るかは別としても、米軍に有利な内容の地位協定が、沖縄の基地負担を量的な側面だけでなく、質的にもより過酷なものにしていることに、日本本土に住む人たちの目が向き、真剣な社会的議論が始まる契機になるかもしれない、とも感じました。仮に石破元幹事長が総裁になり、首相となれば、この発言は重みを増します。
 一方で、こうも考えています。沖縄の過酷な基地負担の軽減、さらには解消のためには、基地そのものを減らし、なくすことが第一義的に必要です。沖縄県と日本政府の対立が続く辺野古の新基地建設は即座に工事を中断し、あらためて沖縄県と話し合いのテーブルに着くべきです。早期の普天間飛行場閉鎖に向けて、日本政府の責任で米国と協議することも必要です。そうしたことを欠いたまま、ただ地位協定の見直しだけをやる、ということなら、沖縄の過剰な基地負担の固定化にしかならないのではないか、と。
 そもそも石破氏が総裁になったとしても、地位協定の見直しがただちに自民党の選挙公約になるとは限りません。それでも、曲がりなりにも自民党の一角から「地位協定見直し」の声が公然と上がったことに、何らか積極的な意味を見出したいとの気持ちがあります。しかし消極評価として、沖縄での演説会だったのに、総裁候補が9人もいながら、地位協定見直しに踏み込んだのはわずか1人だった、と受け止めた方がいいのかもしれません。沖縄の基地負担の解消、軽減のために、自民党に何かを期待するのは無理なのかもしれない、とも思います。

 全国紙5紙(朝日、毎日、読売、日経、産経)が、石破元幹事長の発言をどう扱ったか、デジタルでの扱いをまとめました。産経新聞は通信社並みに当日夕方に速報。他紙はおおむね17日夜ないし18日未明には記事をアップし、見出しに石破元幹事長の発言を取っています。その中で、朝日新聞は丸1日おいた特集記事の中で触れただけなのが目を引きました。発言の当日は、まったくニュースバリューを認めていなかったということのようです。

 自民党総裁選の沖縄での演説会に対して、沖縄タイムス、琉球新報はそれぞれ社説で厳しく論評しています。一部を書きとめておきます。

【沖縄タイムス】
9月18日付社説「自民総裁選 沖縄演説会 負担軽減ほぼゼロ回答」

 自民党総裁選の地方演説会が那覇市でも開かれた。複数の候補者が県民所得の向上や子どもの貧困解消を訴えた一方、米兵による事件事故や米軍普天間飛行場の閉鎖・返還など基地問題解決に向けての具体策への言及はほとんどなかった。
 総裁選は過去最多の9人が立候補。事実上、次期首相を決める選挙でもある。それにもかかわらず県内で開催された演説会で基地負担の軽減について語られなかったことは非常に残念だ。
 (中略)
 石破茂元幹事長は辺野古新基地建設について「十分に沖縄の理解を得て決めたかというと必ずしもそうではなかった」との認識を示した。
 加えて石破氏は、日米地位協定改定について「見直しに着手する」と初めて踏み込んだ。「米軍基地を自衛隊と共同管理する」とも主張した。
 小泉進次郎元環境相、河野太郎デジタル相、加藤勝信元官房長官、高市早苗経済安全保障担当相、小林鷹之前経済安保相は、基地負担の軽減について全く触れなかった。

【琉球新報】
9月19日付社説「自民党総裁選演説会 及第点はあげられない」

 9氏に聞きたい。米軍基地の存在が沖縄振興の障害になっている事実をどれほど直視しているのだろうか。1972年の施政権返還後も残された広大な米軍基地が県経済発展の足かせとなっている。それは自民党支持者も含む県民多数の共通認識である。
 大規模な基地返還を含む負担軽減が進まない限り、沖縄振興策も効果を持ち得ない。具体的な基地負担軽減策を示さない限り、首相を目指す9氏の沖縄施策に及第点を与えることはできない。演説会の開催意義も問われよう。
 (中略)
 外相の上川陽子氏は「基地関係者の性犯罪、性暴力は二度と起こさせないという厳しい姿勢で交渉に臨む」と述べ、地位協定の問題に取り組む考えを示した。明確に地位協定見直しに踏み込んだのは元党幹事長の石破茂氏だけであった。本来ならば9氏全員が地位協定改定を目指すべきである。それが主権国家のあるべき姿ではないか。

■追記■ 2024年9月23日10時
 日米地位協定を巡って、ブロック紙である東京新聞の記事が目にとまりました。自民党総裁選の候補者9人と、立憲民主党代表選の候補者4人に行った政策アンケートの中で、日米地位協定の見直しをするかどうかを尋ねた結果です。
※「日米地位協定の見直し交渉 自民は『する』候補ゼロ、立民はおおむね賛成 基地集中の沖縄は『抜本改定を』」=2024年9月23日6:00
 https://www.tokyo-np.co.jp/article/355937

www.tokyo-np.co.jp

 記事によると、自民党で「しない」との姿勢を明確にしたのは、小林鷹之前経済安全保障担当相、林芳正官房長官、小泉進次郎元環境相、河野太郎デジタル相の4人です。石破茂元幹事長はこのアンケートでは「改定の検討に着手する」との回答だったことが紹介されています。
 総裁候補が9人もいながら、地位協定を見直すとしたのは石破元幹事長だけ。あとの8人のうち4人は「しない」と言明する。これが自民党の実像です。右派層の支持が高い高市早苗経済安保相は「改定自体が政治問題化することは避ける必要がある」との回答だったのことで、自国内の訴えより米国の意向を優先する、というスタンスだと受け止めました。

 結局、自民党総裁選では地位協定見直しは主要なテーマになっていないと感じざるを得ません。ただし、防衛相経験者でもある石破元幹事長の見直し発言は、あたかも存在しなかったかのように扱われてはならないと思います。だれが自民党総裁、さらには次の首相になろうとも、地位協定見直しを政治課題としてうやむやにさせてはいけません。大きな役割と責任を負っているのは、日本本土のマスメディア、中でも東京で政治取材を展開している全国紙や放送局の政治報道です。

自由主義者の戦没学生、上原良司の「所感」のこと

 大学の非常勤講師として、文章の書き方(文書作法)を大学生に教えるようになって3年です。この夏はその延長というか、課外活動というか、学生有志の勉強会でも指導しました。学生の1人は終戦の日に靖国神社の資料館「遊就館」を訪ねた経験を作文に書きました。戦死者の遺書を読み、何万人もの戦死の、その一つ一つの生に物語があったことを認識したこと、戦争の悲劇を繰り返してはいけないと感じたことをつづっていました。そして自問自答でした。「戦争をしてはいけない」。子どものころからそう教わってきたが、その先を考えたことはあっただろうか、と。戦死者は美しく描かれる、だが一面から見た物語だけでなく、多方面から事実を学び、未来のために行動するのが、今を生きる自分たちの責任だと結んでいました。
 この作文を読んで思い出した文章があります。慶応大経済学部から学徒出陣で陸軍士官となり、1945年5月11日、特攻隊として沖縄の米軍機動部隊に航空機で突入して戦死した上原良司が残した「所感」です。岩波文庫の「新版 きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記」の最初に収録されています。

 上原は両親あての「遺書」も残しており、同じく「きけ わだつみのこえ」に収録されています。「所感」はそれとは別に、出撃前夜に書かれました。
 大学生活では、イタリアでムッソリーニのファシズムに反対した歴史哲学者ベネデット・クローチェに熱中していたとされます。「所感」ではそのクローチェに触れながら、「自由の勝利は明白な事」「権力主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実」として、イタリア、ドイツの敗北を挙げ、以下のように記しています。

 真理の普遍さは今、現実によって証明されつつ、過去において歴史が示したごとく、未来永久に自由の偉大さを証明して行くと思われます。自己の信念の正しかった事、この事はあるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。

 特攻隊のパイロットは一器械に過ぎない、との友人の言葉を紹介しながらつづられた以下の言葉は、まさに「遺言」です。

 一器械である吾人は何もいう権利もありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです。

そして、結び近くによく知られた一節があります。

 明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。

 自由にものを言うことができなかったあの当時に、最後まで理性と知性と合理的思考を失わず、自分の思うところを率直につづった内容に、今も読むたびに胸が詰まり、涙を抑えられません。

 生還を期すことができない特攻は、生みの親とされる海軍の大西瀧治郎中将自身が「統率の外道」と呼んでいました。そこまで追い込まれたのなら、一日も早く停戦と講和に進むべきでした。そうならずに戦争が続き、戦場では前途有為の若者たちの命が奪われ、やがて日本中の都市が空襲で灰燼に帰し、沖縄の地上戦や広島、長崎の原爆投下で、おびただしい住民の命が失われました。日本はアジア全域で加害者の立場でした。それに加えて、視点を変えれば、戦争による自国民への加害もあったのだと感じます。
 靖国神社は戦死者を神格化しています。それによって「自国民への加害」はあいまいになってしまうように感じます。上原良司は、自身がその中に加えられることを受け入れたでしょうか。「願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです」との最後の言葉に対して、今を生きる私たちは、どうやれば応えていけるでしょうか。

 作文の勉強会の学生たちに「きけ わだつみのこえ」を紹介しました。約80年前、自分たちと同じ年頃の若者たちが、自分の力ではどうしようもできずに生を奪われました。その戦没学生たちが残した言葉を、まずは知ってほしいと思います。

※参考過去記事

news-worker.hatenablog.com

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「賊軍」が置かれた苛烈な立場を今に伝える「碧血碑」~靖国「差別の源流」が可視化された函館の史跡

 この夏の休暇は北海道・函館を訪ねました。幕末から明治初頭にかけての内戦の戊辰戦争で、最後の戦いがあった土地です。戊辰戦争では、旧幕府軍の戦死者は遺体の収容や埋葬が禁じられるなど、死んでなお「賊軍」として苛烈な差別を受けた事例がありました。以前の記事では、静岡県・清水港の「壮士墓」のことを紹介しました。函館でも旧幕府軍の戦死者に対し、同じような差別があったことを知りました。朽ちるままになっていた遺体を、見かねた地元民が禁を犯して埋葬。この点も清水と同じです。旧幕府軍の榎本武揚、大鳥圭介らが出獄後の明治8年、函館山のふもとに慰霊のために「碧血碑(へきけつひ、へっけつひ)」が建てられました。
 一方の新政府軍の戦死者は、丁重な扱いだったようです。やはり函館山のふもとに位置する函館護国神社には「旧官修墳墓」、新政府軍の戦死者の墓地があります。神社の由緒によると、戦争終結4日後の明治2年5月21日には、戦死者を祀る招魂祭が行われました。同年9月には現在地に「招魂社」が創建され、現在の函館護国神社に至っています。碧血碑と函館護国神社を訪ねるのが、今回の函館旅行の主な目的でした。

 最初に函館護国神社に向かいました。海外からの観光客も目立つ函館山ロープウェイの乗り場から南に歩いて2、3分。石段を少し上り、鳥居をくぐれば、緑豊かで広々とした境内です。一角に「招魂場」と刻まれた石碑がありました。戊辰戦争の官軍総督清水谷公考の揮毫とも伝わるそうです。
 新政府軍戦死者の墓地は、社務所の奥にありました。59基の墓碑が整然と並んでいます。個人墓の墓碑銘からは弘前藩、大野藩、備後福山藩などの藩士の名前が読み取れました。江戸時代まで、軍事はもっぱら武士が担っていました。戊辰戦争も、庶民が加わった長州藩の奇兵隊の例はありましたが、武士同士の戦いでした。新政府軍とは言っても、新政府に恭順した各藩の連合軍の性格だったのでしょう。各藩の藩士にとって、自藩の領地を一歩出れば異国。まして当時「蝦夷地」と呼ばれていた北海道は、想像の範囲を超えた異郷だったはずです。どのような思いで、この地に来て戦い、そして生を閉じる間際に何を思ったのか。そんなことを考えました。

 函館護国神社を出て、函館山の山麓に沿って道なりに歩いていき、途中、函館八幡神社に寄りながら、30分ほどで碧血碑に着きました。
 森の中の道を少し上ると、開けた広場のような場所に出ました。ひっそりと碑が立っていました。今ではどの観光ガイドでも、短いながらも紹介されています。決して知られていない場所ではないはずですが、ほかに訪れている人はいませんでした。
 函館市の公式観光サイト「はこぶら」は、以下のように紹介しています。

 戊辰戦争最後の戦地となった箱館(現在の函館)。終戦後、新政府軍は旧幕府軍戦死者の埋葬を許しませんでしたが、それに異を唱えたのが侠客の柳川熊吉でした。熊吉は実行寺住職の日隆らの協力を得て、打ち首を覚悟しながらも、町中に放置されている遺体を回収します。結果的に処刑を免れた熊吉は、函館山の山麓に土地を購入し、実行寺などに収めていた遺体を改葬。7回忌にあたる1875(明治8)年には、旧幕府軍の中心メンバーであった大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、碑を建てたのです。用いられている石は伊豆産で、霊岸島(現在の東京都中央区)で刻まれた後、海運されてきました。熊吉が88歳の米寿を迎えた1913(大正2)年、有志らによって彼の功績をたたえる碑が、碧血碑のそばに建立されます。

※「碧血碑」 https://www.hakobura.jp/spots/566

 「碧血」とは、「義に殉じた武士の血は三年たつと碧色になる」との中国の故事からの命名とのことです。同サイトは「さまざまな人の思いが詰まった石碑」と紹介しています。
 碑の裏手に回ってみました。詳しい由緒はなく、「明治辰巳實有此事 立石山上㕥表厥志」とだけ刻まれています。「明治辰巳、実に此の事有り、石を山上に立てて以て厥(そ)の志を表す」と読み、「明治2年、此の事は実際にありました。山上に石を建ててその気持ちを表します」との意味とのことです(ウイキペディア「碧血碑」より)。
 碑の建立は函館戦争終結からまだ6年でした。戦争を「此の事」と、死者への哀悼の意を「その気持ち」としか表現できなかったことに、「賊軍」が置かれた立場の苛烈さを読み取れるように思います。

 函館にこもった旧幕府軍を代表する榎本武揚は、幕府海軍の指揮官でした。江戸開城後に、艦隊を率いて江戸を脱出。最終的に蝦夷地に向かい、ここに生活の糧を失った旧幕臣らを移住させ、ロシアの南下に対する警備につかせることを画策していたとされます。榎本らは仮政府樹立を宣言しましたが、新政府は容認せず武力で制圧しました。
 260年余りの徳川幕藩体制を覆し、新政府の威光を日本国内の隅々にまで行き渡らせるためには、抵抗する勢力は徹底的に押しつぶし、抹殺する必要があると考えていたのでしょう。そうでなければ自らの正統性が問われる、との強迫観念があったのかもしれません。「賊軍」という呼称も、清水や函館の戦死者への苛烈な仕打ちも、その裏返しだったと考えれば分からなくもない。碧血碑の前に立ってみて、そんなことを思いました。

 函館で訪ねた新政府軍戦死者の墓と碧血碑のことを考えていて、「勝てば官軍」という言葉が頭に浮かびました。「負ければ賊軍」と続きます。勝ってしまえば何とでもなる、正義は後からついてくる、という意味で使われます。決して褒められたものではない、とのニュアンスを込めて使われる場合も少なくありません。
 終結から150年以上もたった今、わたしたちにとって戊辰戦争は「官軍」「賊軍」の勝ち負けにこだわるようなものではないと思います。清水の「壮士墓」を紹介したこのブログの以前の記事にも書いたことですが、歴史に謙虚に向き合うなら、戊辰戦争の戦死者は新政府軍であれ旧幕府軍であれ、日本が近代国家の道を歩む過程で非業の死を遂げたという意味では何ら変わりがないと感じます。その中で、賊軍の死者に対する新政府軍の苛烈な仕打ちに対して、死ねばみな同じ、とばかりに死者を弔った人たちが市井にいたことに、ほっとする思いがします。

 函館の戦争の終結は明治2年5月。東京で靖国神社の前身である東京招魂社が創建されたのは同年6月(靖国神社の由緒による)です。前述のように、函館ではこれに先立つ5月21日に、官軍総督清水谷公孝が発企し、市内大森浜で祭壇を設けて招魂祭を執行しました。靖国神社の源流に函館の戦争は深いかかわりがあります。
 靖国神社には戊辰戦争の新政府軍戦死者は祀られていても、「賊軍」の旧幕府軍の戦死者は祀られていません。明治維新の元勲の西郷隆盛も、西南戦争で賊軍だったために、やはり対象外です。同胞でありながら、厳然とした差別があります。賊軍にもそれぞれの「義」がありましたが、ここでは一顧だにされていません。靖国神社をめぐっては、第二次大戦の戦死者を「英霊」として祀っている側面ばかりが強調されます。そうした風潮に疑問を感じる中で、新政府軍戦死者の墓と、旧幕府軍戦死者の碧血碑と、差別の源流を目にすることができた函館訪問でした。

報道の評価

 新聞記者の仕事には「抜いた、抜かれた」の競争が付き物と言われてきました。確かに、複数の新聞社、通信社やテレビ局の記者たちは、同じ持ち場、例えば警察なら警察担当の記者の間で日々、取材にしのぎを削っています。他社を出し抜く独自のニュースを書けば、所属している組織の中で褒められ、大きなニュースを抜かれれば怒られます。独自ダネを多く出せば、組織の中での評価は高まります。
 若いころは、この競争に疑問を感じていました。「○○事件で○○を逮捕へ」は、事件を担当する記者にとっては、もっとも分かりやすい独自ダネの一つです。勝ち負けが明白です。しかし、時間がたてば、それも多くの場合は半日ほどで容疑者は逮捕され、当局から発表があります。いずれ分かることを、せいぜい半日から1日早く報じることにどれだけの意味があるのか、と思っていた時期がありました。
 しかし、発表の前に捜査の動きをつかむには、相応の情報源をふだんから持っていなければなりません。そして、取材対象の組織の深いところに情報源を持っていることで、その組織が表に出したくない情報にもアクセスできる可能性は高まります。組織的に隠蔽された不祥事はその典型例です。組織がひた隠しにしている不祥事のことを知っているのは、それに関与した内部関係者です。
 そうしたことに気付いた時に、「公権力の監視」の意味が少し分かるような気がしました。それからは、どんなささやかなニュースであっても、他に先駆けて報じる独自ダネには相応の意義があり、その意義に見合った評価がされればいい、と考えるようになりました。その報道がなければ、永遠に日の目を見ることがなかったようなこと、そして、社会がいい方向へ変わっていくきっかけになるような報道なら、最大限の評価がされていいと思います。
 問題だと思うのは、その報道の意義に見合わない評価がされるケースです。記者クラブをベースにした仕事では、日々の「抜いた、抜かれた」の評価は、同じ記者クラブの同業他メディアとの比較です。その限りでは、他社を出し抜いたという意味で「独自ダネ」であり「特ダネ」です。しかし、記者クラブの中での競争とは、言ってみればランナーが新聞やテレビに限定された狭いサーキットです。社会に目を転じれば、サーキットの外でもさまざまな情報が発信され、流通しています。その視野を欠いた評価は、新聞、テレビの「内輪」だけのことに過ぎません。
 インターネットが登場する以前、社会の情報流通は新聞とテレビが中心でした。とりわけ新聞の影響力は大きく、新聞が書かなければ社会にとって「ないも同然」でした。「内輪」の評価軸はそのまま社会全体に通用したかもしれません。それが内輪のことかどうかを意識すること自体が必要なかったでしょう。しかし、今は違います。新聞が書いていない情報も社会の人たちは知っています。良し悪しは別にして、新聞やテレビ以外にも、さまざまな情報が一元的にフラットに流通しています。そういう社会になっているのに、内輪でしか通用しない評価をそのまま社会全体で通じる評価のように扱うなら、そこに「情報の受け手」は意識されていないことになります。そんなことが続くなら、新聞やテレビの組織ジャーナリズムへの信頼を損なうことになりかねません。危惧しています。

※参考過去記事
 新聞が書いていない情報も社会の人たちは知っている、その情報を新聞が書いていない、ということも含めて-。このことをずっと考えてきました。以下は、このブログの過去記事です。15年前も前のことなので、読みづらいかもしれませんが、一読いただければうれしいです。

news-worker.hatenablog.com

 

【追記】2024年9月7日12時20分

「新聞協会賞、新聞技術賞、新聞経営賞受賞作」

https://www.pressnet.or.jp/about/commendation/kyoukai/works.html

 

広瀬めぐみ元参院議員の在宅起訴への疑問~やはり検察がおかしい

 関与した自民党の政治家の大半を不問に付した派閥パーティー券裏金事件の捜査など、最近の検察の政治に対する姿勢や距離の置き方に疑問を感じていることは、このブログでこれまでも書いてきました。深刻だと思うのは、民意の中に検察に対する不信が高まっているのに、当の検察では、トップの検事総長を始め、組織に危機感が共有されているようには感じられないことです。
 ※参考過去記事 

news-worker.hatenablog.com

 政治との関係でまた一つ、「おかしいのではないか」と感じざるをえない事例が加わりました。自民党を離党し議員辞職した広瀬めぐみ元参院議員の詐欺事件の捜査です。
※共同通信「広瀬めぐみ元参院議員を在宅起訴 秘書給与350万円詐取罪」=2024年8月30日

www.47news.jp

 東京地検特捜部は30日、公設第2秘書の給与など計約350万円を国からだまし取ったとして、詐欺の罪で広瀬めぐみ元参院議員(58)=自民離党、岩手選挙区=を在宅起訴した。15日に議員辞職していた。
 (中略)
 第2秘書を巡っては、今年3月の「週刊新潮」で勤務実態がないとする疑惑が報じられた。広瀬被告は事務所のホームページで、リモートワークでの支援者リスト作成など勤務実態はあったと主張していた。

 詐欺は微罪ではありません。被害額が350万円にも上っていれば、容疑者は関係先の家宅捜索と同時に逮捕されるのが通例です。まして広瀬元議員は弁護士です。だまし取った金は国庫から支出されています。悪質さや情状の悪さは類を見ない、とみることもできます。週刊誌の報道で疑惑が浮上した当初は、正当性を主張してもいました。捜査の実務から言えば、当の秘書ら関係者との口裏合わせを疑っていい状況でした。それなのに逮捕せずに在宅のまま捜査を終えたことは、与党政治家であるがための特別扱いに映るのも無理はなく、社会一般の理解が得られるかは疑問だと感じます。
 経緯を振り返ると、東京地検特捜部が広瀬元議員の事務所や自宅などを一斉に家宅捜索したのは7月30日でした。同日中に自民党を離党しますが、その後も本人が記者会見などで直接説明する機会はないまま、8月中旬になって「議員を辞職」「容疑を認める方針」との報道が一斉に流れました。8月15日に辞職願を参院議長に提出。その後のコメントで、秘書からの資金提供を認め「軽率だった」としていました。
 検察にしてみれば、本人が容疑を認め、議員を辞職したことで腐敗は正した、ということなのかもしれません。しかし、だから逮捕しなくてもいいということであれば、容疑を認めるだけでは不十分で、議員を辞職しないのであれば逮捕する、といった逮捕権の行使も可能になってしまいかねません。
 広瀬元議員の関係先の一斉捜索に踏み切った時点で、特捜部は一定の証拠を得て立件方針を固めていたはずです。家宅捜索と同時に逮捕していれば、疑念は招かったはずです。家宅捜索から広瀬元議員の辞職までの約2週間、特捜部と広瀬元議員側との間でどんなやりとりがあったのか。仮に、家宅捜索で揺さぶりをかけ、その後の相手の態度次第で逮捕するかどうかを決めるようであれば、検察の恣意的な逮捕権の運用と言わざるを得ないのではないか。検察が国会議員の生殺与奪を握ることにもなりかねません。
 以上は憶測が過ぎるかもしれません。しかし検察からは、在宅のまま捜査を終えたことに対して、何ら説明がありません。一方でSNS上では、検察はこの事件でも自民党の政治家を特別扱いするのか、との不信の声を目にします。
 新聞、放送のマスメディアでも、「なぜ逮捕しないのか?」と検察にストレートに切り込んだ報道は見当たりません(見落としの可能性はあるかもしれません)。仮に、逮捕しなかった理由が与党国会議員への特別扱いではなく、「罪証隠滅や逃亡の恐れがない」ということなら、社会の日常的な個々の事件捜査でも、その原則があまねく徹底されるべきではないのか、との次の論点が浮上します。
 デジタル社会の進展とSNSの普及で、民意は容易に可視化されるようになっています。そこに表れている疑問や不信に応える報道がなければ、いくらマスメディアがデジタル展開に取り組んでも、信頼にはつながらないのではないか。そんなことも危惧しています。

 全国紙各紙がデジタル版で、広瀬元議員への捜査が在宅のまま推移したことについてどのように報じているか、わたしが目にした範囲ですが、以下に書きとめておきます。
■朝日新聞
「広瀬前参院議員、在宅起訴へ 秘書給与詐取の罪 東京地検」=8月30日16:30

 広瀬氏の公設第1秘書は、特捜部の任意聴取に「議員の指示で、公設第2秘書として妻の名義を貸した」と供述。広瀬氏も任意聴取で、勤務実態のない秘書の給与を受け取ったと認めたという。
 特捜部はこうした経緯や、広瀬氏の議員会館の事務所(東京・永田町)などを7月に家宅捜索した結果をふまえ、広瀬氏を在宅のまま起訴する方針を固めたとみられる。

■毎日新聞
「広瀬めぐみ元議員を在宅起訴へ 秘書給与詐取疑いで東京地検特捜部」=8月30日11:33

 広瀬元議員は起訴前の特捜部からの任意聴取に対し、「勤務実態のない秘書の給与をだまし取った」と認めていたとされ、特捜部は逮捕をせず、任意で捜査を進めていた。

「広瀬めぐみ元議員、支給の全額を国庫に返納 『改めておわび』」=8月30日19:57

 広瀬元議員は任意の事情聴取で起訴内容を認めており、特捜部は逮捕せずに在宅のまま起訴したとみられる。

■読売新聞
「広瀬めぐみ・前参院議員を詐欺罪で在宅起訴、秘書給与など350万円を詐取…『支給額は利息を付けて全額返納した』」=8月30日22:14

 特捜部は、弁護士でもある広瀬容疑者が一連の秘書給与詐取を主導したとみており、 隠蔽いんぺい 工作を図っていたことも踏まえ、公判で刑事責任を追及すべきだと判断したとみられる。
※「在宅」についての言及は見当たらず

■産経新聞
「<速報>広瀬めぐみ元参院議員、詐欺罪で在宅起訴 東京地検特捜部」=8月30日15:50

特捜部は、広瀬氏が秘書給与の受領を認めていることなどから、罪証隠滅の恐れなどがなく、逮捕の必要性が高くないと判断したもようだ。

メモ:桐島聡「最期は本名で」の真意~東京新聞の報道から

 8月29日付の東京新聞朝刊に、興味深い記事が掲載されていました。1974年8月の三菱重工爆破事件など、74年から75年にかけて起きたいわゆる「連続企業爆破事件」を引き起こした「東アジア反日武装戦線」のうち「抗日パルチザン義勇軍 さそり」を名乗ったグループのメンバーで、服役中の黒川芳正(76歳)との手紙のやり取りです。同紙のサイトで読むことができます。
 ▽「桐島聡容疑者『どうしよう。こんなことになるなんて』 連続企業爆破事件の仲間に見せた動揺 逃げ続けた理由は…」=2024年8月29日
 https://www.tokyo-np.co.jp/article/350426
※紙面掲載後に届いた手紙の内容も反映させているため、紙面掲載の記事とは異なるようです。

 黒川受刑囚と同じく「さそり」に所属して指名手配され、約半世紀にわたる逃亡の末に今年1月、名乗り出た桐島聡に触れています。桐島聡のことは、このブログの以前の記事で触れました。名乗り出た時には末期がんで、直後に死亡しました。警視庁の捜査員に対し「最期は本名で迎えたい」と話していたとのことです。この一言が気になっていました。以前のブログ記事では以下のように書きました。「大道寺夫婦」とは、三菱重工爆破事件などを引き起こした大道寺将司、あや子夫婦のことです。

 「最期は本名で」とは、自分は最後まで逃げ切ってみせた、ということを歴史に残したかったのか。そうではなくて、何らか過去を総括したかったのかもしれない、とも思います。爆弾事件に至った思いや心情などを残しておきたい、ということだったのか。大道寺夫婦の軌跡は「狼煙を見よ」という優れた作品によって後世に残ります。犯罪は犯罪として、「桐島聡」が何かを語り残せば、それも歴史の記録になっていたはずです。いずれにせよ、もはや「最期は本名で」の真意は想像するしかありません。

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 この「最期は本名で」と口にした桐島聡について、東京新聞の記事は黒川受刑者の見方を、以下のように一問一答で紹介しています。

 爆弾の設置役だった桐島は当時、負傷者が出たとの報道に接し「まいったな、どうしよう。こんなことになるなんて」と話していた。ショックを受けて動揺し、自責の念にかられていたようだ。私の「(活動を)続けよう」との説得を受け容れつつも、その時の表情や雰囲気で「心底からは納得していないな」と感じた。
 だから桐島は被害者への贖罪(しょくざい)として、服役以上に過酷な、死ぬ日までの逃亡生活を選んだのではないか。桐島にも日雇い労働の経験があったこと、人当たりの良さと、自制心の強さがそれを成功させたと思う。
 —最後に名乗り出た理由をどう考える
 贖罪行為としての逃避行の終了通知であり、自身の存在を歴史に残すためだったのではないか。桐島が名乗り出たことは驚きで、自分も改めて当時の行為を深く思索し、書き残そうとしている。もし当時、非暴力の手段で戦争という究極の暴力をなくせる方法が分かっていれば、あの(事件という)選択には至っていなかった。

 「自身の存在を歴史に残すためだったのではないか」との見方を示していることを興味深く感じました。「もし当時、非暴力の手段で戦争という究極の暴力をなくせる方法が分かっていれば、あの選択には至っていなかった」との述懐も、歴史の記録にとどめておいていいと思います。

「賊軍」戦死者の扱いを伝える清水「壮士墓」~自衛隊員の靖国集団参拝に懸念 ※追記 防衛相の参拝が招く深刻な事態

 8月15日は終戦の日です。この日の象徴としてマスメディアでも例年報道される場所の一つに、東京・九段の靖国神社があります。
 源流は1869年に創建された東京招魂社です。幕末の倒幕派の志士、戊辰戦争での新政府軍の戦死者を祀りました。比較的よく知られていることだと思いますが、「賊軍」である旧幕府軍や奥羽越列藩同盟軍の戦死者は対象外です。明治維新に功があった西郷隆盛も、西南戦争の賊軍であり祀られていません。新政府軍の戦死者は栄誉を受けたのに対し、賊軍の戦死者には賊軍としての差別的な扱いがありました。
 一つの例として、静岡市清水区に「壮士墓(そうしはか)」という史跡があります。5年前に訪ねたことがあります。
 江戸幕府が米国に派遣したことで知られる「咸臨丸」という艦船があります。戊辰戦争では幕府軍艦隊に属して、江戸から奥羽越列藩同盟の支援に向かいましたが、暴風雨に遭い伊豆半島の下田に漂着。次いで清水港に入りました。修理が遅れたために新政府軍艦隊に追いつかれ、乗組員の多くは戦死または捕虜となりました(以上、ウイキペディア「戊辰戦争」による)。
 現地の案内板の説明によると、新政府軍は、切り殺して海に投げ込んだ幕府軍側乗組員の遺体について「触れる者は同じ逆賊とみなす」として収容を許しませんでした。遺体が腐乱するのを見かねた地元の博徒の親分、「清水の次郎長」(山本長五郎)が、処罰を覚悟で収容し、埋葬したとのことです。その墓が今も大切に保存されています。次郎長の行いに感激した旧幕臣の山岡鉄舟が「壮士墓」を揮毫して次郎長に与えたとのことです。

【写真3枚】清水の「壮士墓」(2019年4月撮影)

 約150年の時間を経た今日、歴史に謙虚に向き合うなら、戊辰戦争の戦死者は新政府軍であれ賊軍であれ、日本が近代国家の道を歩む過程で非業の死を遂げたという意味では何ら変わりがないと感じます。賊軍の死者に対する新政府軍の苛烈な仕打ちに対して、死ねばみな同じ、とばかりに死者を弔った人たちがいたこと、軍国主義の時代も墓が守られ続けてきたことを、壮士墓を訪ねて知りました。

【写真】菩提寺の梅蔭寺にある清水の次郎長の銅像(2019年4月撮影)

 第2次世界大戦が日本の敗戦で終わって79年がたちました。来年、2025年は昭和100年に当たります。昭和の最初の20年間、日本は戦争に明け暮れたといってもいい時期でした。戦後は曲がりなりにも直接、戦争をせずにきました。しかし、安倍晋三政権以後の10年ほどの間に、自衛隊と米軍の一体化を目指す動きが強まり、世論を二分しながら、集団的自衛権の行使の一部解禁や特定秘密保護法制の創設などが進められました。岸田文雄政権の軍拡で軍事費も大幅に増え、かつての「GNP比1%」の歯止めは名実ともになくなっています。自衛隊は装備、運用面ともに他国の軍隊と並ぶ軍事組織に変容しつつあります。憲法改正を待たずとも、自衛隊が日本の領土、領海、領空外で他国の軍を相手に直接の戦闘に入る、つまり日本が事実上、戦争をすることが可能な状況になりつつあることを危惧します。
 もう一つ、気になるのは、こうした動きと軌を一にするように、自衛隊の中に旧軍との精神的な連続性があることを示すような事例が相次いで表面化していることです。象徴的なのは幹部自衛官らによる靖国神社への集団参拝です。さすがに公用車での参拝は処分対象になりましたが、制服姿での参拝は不問でした。自衛官服装規則によって、常時制服着用が原則とされていることが理由のようです。
 敗戦まで、日本の陸海軍は天皇が統帥しました。靖国神社は陸海軍が共同で管理する軍国主義の象徴的な施設であり、戦死者は「英霊」として神格化されました。現在の靖国神社は、A級戦犯14人を「昭和の殉難者」として合祀しています。付属施設の遊就館の展示でも、日中戦争を「支那事変」、太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼んでいるように、敗戦以前の歴史観、価値観が色濃く反映されています。首相や閣僚、国会議員らの参拝が、政教分離の観点からしばしば社会的論議を呼ぶように、今日では靖国神社の存在自体が政治色を帯びるようになっているとも感じます。

※参考過去記事

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 自衛官であっても、思想・良心の自由や信教の自由は憲法によって保障されています。勤務時間外に、私服姿で一人静かに訪ねるのなら、個人の自由の範囲内かもしれません。しかし、はた目にも自衛官と分かる制服姿での集団参拝は、組織の中に旧軍回帰のような志向、旧軍への思慕の念が広がりかねない危うさを感じます。精神面でのことなので、明確に可視化や数値化ができるわけではありません。それだけに注意も必要だと感じます。

【写真】靖国神社(2021年8月撮影)
 戦後の80年の同じ時間を敗戦の1945年からさかのぼると、1865年の幕末になります。列強4カ国の連合艦隊が長州を攻撃し、薩長戦争があり、幕府は第2次長州征伐へと、日本は混乱に陥っていました。近代日本の始まりである1868年の明治維新は、同時に戊辰戦争という大規模な内戦を伴っていました。1877年の西南戦争まで内戦、内乱が続き、その後外征戦争へと進みます。その中で、国家に命を捧げた戦死者は英雄であり、「軍神」になりました。
 いまの民主主義の社会で、自衛隊は旧軍とは一線を画し、文民統制のもとに置かれているはずです。その中で戦前の軍国主義への思慕のようなものがあるのだとしたら、戦死者の神格化がどういうものだったのか、現代の社会で広く知られることにも意味があるように思います。例えば清水の「壮士墓」は、「英霊」の神格化の本質を、「賊軍」「逆賊」として差別された側から今も照射していると感じます。
 「昭和100年」をどのように報じるにしても、一つのテーマとしてマスメディアは英霊の神格化を取り上げていいと思います。神格化には当時の新聞報道も大きくかかわりました。新聞が自らの歴史を振り返ることにもなります。

 6年前に西南戦争の激戦地、熊本県の田原坂を訪ねる機会がありました。現地には政府軍、薩摩軍それぞれの戦死者名を記した慰霊碑がありました。双方をわけ隔てしない、そうした感覚は今日、極めて自然に感じました。

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【追記】2024年8月15日22時50分
 8月15日、岸田文雄内閣の閣僚3人が、靖国神社に参拝しました。木原稔防衛相、高市早苗経済安全保障担当相、新藤義孝経済再生担当相です。
 ※共同通信「防衛相ら3閣僚が靖国参拝 終戦の日、中韓反発も」=2024年8月15日
 https://www.47news.jp/11343417.html

 終戦の日に閣僚の参拝が確認されたのは5年連続。現職防衛相の参拝確認は2021年8月の岸信夫氏以来となった。靖国神社には極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯が合祀されており、中国、韓国の反発が予想される。
(中略)
 林芳正官房長官は記者会見で、閣僚の参拝に関し「いずれも私人の立場だと理解している。どの国であれ、国のために命をささげた方々に尊崇の念を表するのは当然だ」と語った。中韓両国と関係強化の方針は変わりないとした。

 私人での参拝というなら、平日の白昼、堂々と公務を離れたということになります。「私人として」とは、例えば公務員なら休暇を取って、傍目には公務員と分からない形態や服装で、ということでなければならないはずです。閣僚ともあろう立場で「私人」を理由に、「公人」でははばかられる行為を正当化するには無理があります。
 3人の中でも、木原防衛相の参拝は特に問題が大きいと言わざるを得ません。
 自衛隊員の制服姿での集団参拝では、上官の誘いで参加する自衛官もいる可能性があります。本心では疑念があっても、階級社会の自衛隊では誘いを断りにくいはずです。そこに加えての防衛相の参拝が、その風潮を強めることを危惧します。休暇を取っての自主的な参拝のはずが、事実上、上官の命令による部隊参拝の性格を帯びることになりかねません。防衛相として、そうしたことにまで考えを巡らせていたのか。極めて軽率な行為だと感じます。
 日本の外交、安全保障政策の上からも、韓国の反発も軽視できないはずです。韓国が反発するから参拝がいけない、ということではなく、反発が予想されるのにわざわざ参拝して、安全保障の上で緊密な連携が必要なはずの韓国との関係に悪影響を及ぼすことが、閣僚の判断として適切なのか、ということです。右派政治家として支持層にアピールしたいのだろうと思いますが、そうした内向きの事情を優先させるのもまた極めて軽率だと思います。
 折しも岸田首相は8月14日、次の自民党総裁選へは立候補しないことを表明。岸田内閣は求心力を失いました。加えて防衛相がこれでは、不祥事が続発している防衛省・自衛隊の綱紀粛正など絶望的です。深刻な事態だと思います。